shin-1さんの日記

○功名が辻

 今日からお隣の高知県高知市では、NHK大河ドラマ「功名が辻」にあやかって博覧会が開かれていることがテレビのニュースで流れていました。今年の大河ドラマは司馬遼太郎の原作だけに中々面白く、山内一豊とその妻千代の波乱に飛んだ生涯が描かれています。高知といえば坂本龍馬に代表される明治維新の志士たちを生んだお国柄だけあって、あちらこちらにやたらと銅像や生家などがあり、これらを使った物語やまちづくりには事欠きません。今度の大河ドラマによって一豊の妻千代が加わりその熱はオーバーヒート気味のようです。

 しかしこれは小説家が後の世に書いたあくまでもノンフィクションの世界であり、千代があれほど美人だったかどうかも疑問なのです。ドラマを見ていつも思うのですが何故にあんな美人ばかしを登場させるのだろうかと・・・。それは視聴率を上げるためにいたし方のないことかも知れませんが、もう少し普通の世界を描いてもいいのではないかと思うことさえあります。

 戦国時代の醍醐味は手柄と出世です。大将の首の一つもとれば大きな手柄となり出世は間違いなしです。時々取った首の実検分が行われるシーンがありますが、さらしに包んだ血の滲む首は思わず目を背けたくなる光景です。でも何故かその首なし死体はどうなっかまでは放送には出てこないのです。

 大阪夏の陣で徳川方は豊臣方の首を2万人も取ったといわれています。取った首は首検分されますが、これは宗教の弔いの儀式でもあったようで、首は身分によって作法が定められ軍師が管轄していました。

首検分の後の死体や名もなき雑兵の遺体はそのまま放置され野に朽ちるのを待つだけでした。日本では死者を「葬る」といいますが、語源は「放る(ハブル)」、「棄る(ハブル)」ではないかといわれています。

 遺体の放り方はそのままかゴザに巻いて放置、大きな穴を掘って遺体を捨ててそのままにする。川や沼に沈めるなどいずれも手厚く葬ることはしなかったようです。

 戦場となった場所にはその後の人が供養のため石を置いたり塚を立てたりしたようですが、時々工事現場からそんな戦の後が見つかるのも当然のことといえましょう。

 ドラマは時として格好よい場所だけを誇張して表現します。「小説家見てきたような嘘を書き」かもしれません。信長や秀吉や家康といった時代の英雄のわがままな戦にどれ程の名もなき人が死んだであろうと思う時、ドラマの華やかな一面だけでは語れない隠されたもう一つのドラマにも心を移して欲しいと思うのです。

  「高知では 大河ドラマに 名を借りて 地域おこしに 熱を入れ過ぎ」

  「鬼の首 いや大将の 首を取る それ程しないと 功名上がらず」

  「俺の妻 千代より上だ 褒めてみた 褒め殺しだと かえって冷めた」

  「高知県 銅像好きな お国柄 えーとあそこに あそこにもある」

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shin-1さんの日記

○私の名前と顔を覚えていた認知症のおばあちゃん

 昨日親戚の叔父が入所しているわが家の近くの特別養護老人ホームへ見舞いに出かけました。老人ホームといえば薄暗いなんて想像しますが、今のホームは明るい色調で窓から明かりが入り明るさそのものです。入所している人も過去を忘れている以外はみんな元気で日々の暮らしを営んでいます。

 「若松の進ちゃんじゃあないの」。いきなり見覚えのある顔が声を掛けてくれました。「はいそうですが」と答えて手をとりあって昔のことをお話しました。過去を忘れているなんて失礼なことを申しましたが、何人かの認知症の方でも何故か私の顔と名前を覚えていたのです。近所にいたヘルパーさんも驚いた様子で「へえー、おばあちゃん、進ちゃんを知っているの」「そりゃ知ってるがな、昔お世話になったもの」。「ところで進ちゃん、あーちゃんは元気かな」。名前が出て一瞬戸惑いました。あーちゃんとは私の母アキ子の愛称なのです。「おばあちゃん。あーちゃんは5年前に亡くなりました」「ほうそれは知らなんだ。香典を送らずに」。まあこんな具合に普通の会話が出来るのです。

 見舞いが終わって帰ろうとすると、私の服をつかんでもう少し話をしてくれとせがむのです。おばあちゃんの話を要約すると「私はボケていないのに嫁は『ばあちゃんはボケたボケた』言うてここここに入れられた。ここに入ってもう3年になるというのに見舞いにも面会にも中々来てくれない。寂しい」そうです。

 所用があるので「また来るきんな」と言っておいとまをしました。ふと私は高齢化社会への不安を感じました。確かに昔と違って長男夫婦が家で高齢者を介護する時代は終わり、こうした立派な施設で老いを迎えれることだけが幸せな人生だとは思えないのです。いつの時代も、幾ら時代が進展しても子供の親に対する敬愛の念は変わることはない、極論すれば変えてはならない倫理のようなものだと思うのです。施設に入ることは仕方がないことです。でも施設へ入れることが即立派な親孝行だとは思えないのです。施設に入れても親の顔を見にくることぐらいは出来ると思うのです。

 私はこのおばあちゃんと口約束をしました。覚えているか忘れるかそれも分りません。でも認知症と言われながらも私の顔を覚え、私の母親の名前「あーちゃん」まで覚えているのですから、約束どおり近々おばあちゃんの顔を見に特別養護老人ホームへ面会に行きたいと思ってます。おばあちゃんお元気でね。

  「認知症 言われながらも わが名前 覚えて声かけ 嬉しい出会い」

  「また来るね 言葉約束 交わしたり 近々覗くと 心に決めて」

  「親孝行 何をすること 分らない 今の世の中 大分狂って」

  「俺だって 間もなく来るよ このホーム 小さな幸せ 見つかるかもね」

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shin-1さんの日記

○四国八十八ヵ所参り

 四国には有名な八十八ヵ所のお寺参りがあります。10数年前私たち夫婦もお寺参りをしようと納経帳を買い求め札所参りを始めました。別に宗教心が芽生えた訳でもなく、何の目的がある訳でもないただ何となく始めたためでしょうか、10数年が経つというのに未だに完結していないのです。昨晩テレビを見ていてお遍路さんの話題になり妻がしんみり言うのです。「私たちのお寺参りはどうなっとるん」です。はい正直に申せばまだ三分の一は残っているのです。私のようないい加減な気持ちと違い妻は既に両親を亡くしているので、その供養もあったのでしょうが、地図にまだお参りしていないお寺の番号をちゃんと記録しているのです。それによれば香川と徳島に集中しているので遠出になるとは思うのですが、思い切って残りのお参りを明日にでも再会しようという相談がまとまりました。心配なのは親父の夕食づくりですが、明日の朝早く起きて作っておき、春休みの息子に頼んで出かけることになりました。

 四国八十八ヵ所は全工程1400キロともいわれる長い長い道のりです。お寺を探すのも食事をするのも容易でなく、いつも結果的に妻と言い争いになり何のためのお寺参りかわからないことも過去には何度かありました。そのため妻はカーナビを4年前に購入してお参りに備えたのですが、結果的には私の忙しさにかまけてナビ装備後は一度もお参りしていなかったのです。

 明日はあいにく雨の天気予報のようですが、早起きしてまだ決めていない香川か徳島を決め、二人でおまいりしたいと思っています。そして出来れば今年中に決願して高野山へお礼参りに行きたいと妻はもうその気になって準備を始めています。私たちより遅く始めた姉夫婦はもう3順目のお参りに余念がなく、妻は私と義兄を比較して熱心さが足らないと散々言われました。はいその通りです。

 私は四国八十八ヵ所世界遺産化の会のメンバーでもあります。だのに自分のこととなるとこういう手合いです。本当は歩き遍路をやりたいのですが妻が私の体を気遣って許してくれませんから、せめて妻と弘法大師と同行3人の行脚でもやりましょうか。

  「十年が 経つのに未だ 回れない 妻に諭され お寺参りに」

  「春来ると 伊予路に鈴の 響きあり スゲ傘杖の いでたち歩く」

  「お経さえ ロクに読めない 二人だが スタンプラリーの 如く印押し」

  「今頃は 桜咲く寺 あるだろな 秋の紅葉の 寺を思いて」

   

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shin-1さんの日記

○ラジオ体操

 私の書斎の片隅に、嫁いだ娘が学生の頃愛用していたミニコンポが置いてあります。私は毎朝起きると直ぐにコンポのスイッチとパソコンのスイッチを同時に入れて、パソコンを打ちながらこのコンポを聞いています。このコンポは私が東京へ出張で行った時、秋葉原の電気店の店頭で「特価・現品限り」と書いた張り紙を見て買い求め、娘にプレゼントしたものです。当時娘は大変喜んでホッペにキッスまでしてくれました。娘は毎日毎日このコンポでテープやCDを聞いていました。ところが結婚が決まり自分の持ち物を整理して家を出る時、あっさり「このコンポお父さんにあげる」というのです。自分の一番大切なものがコンポから一人の男性に変わった瞬間でした。以来私は息子の手を借りてこのコンポを書斎の隅に置き、配線接続をして利用しているという訳です。

 私の知識は毎日軽やかに流れるNHKのラジオから、吹く風のようにごく自然に耳に入ってきます。つまりこちらの放送局のサイクルを963ヘルツに合わせたままなので、スイッチさえ入れればNHKのニュースが聞けるようにセットされているのです。

 昨日の朝久しぶりに「ラジオ体操」を聞きました。普通は朝の忙しさでラジオ体操が流れても意識しなかったのですが、昨日は仕事が一段落したこともあってラジオ体操を行いました。ラジオ体操には第一、第二があるのですが、第二は余りやらないものですから忘れてしまってトンチンカンでした。しかし驚いたことにラジオ体操には第三があったことをあなたは知っているでしょうか。

 ラジオ体操は子どもの頃から学校や町民運動会などで毎年毎年繰り返し行われてきましたが、その殆どは第一が殆どでした。ラジオ体操は昭和2年から逓信省簡易保険局がアメリカを真似て国民の健康のために始めました。関係者の努力で次第に広まり人気番組となったので昭和7年に第二が、そして昭和14年には第三の放送も始まったようです。その後戦争の影響もあって中止されましたが昭和26年に再び新しい第一・第二放送も始まり、昭和31年からは曲だけでなくラジオ体操の歌まで放送されるようになり今日に至っています。でも第三は結局作られなかったようです。

 今朝も軽やかにラジオ体操の歌が聞こえる時間になりました。あの歌を聞くと何となく「さあ今日も頑張ろう」という気分になります。今朝も昨日に続いてラジオ体操をやりたいと思います。

  「古くても 新鮮感じる ラジオの音 いちにいさんしい 体動かし」

  「第一は 体が覚え 第二など 頭だけしか 動作ちぐはぐ」

  「投資など しない私にゃ 無関係 株価為替の 値段放送」

  「この天気 雨が降るかも 知れないと 本当に雨が 驚く的中」

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