shin-1さんの日記

○お百姓さんの嘆き

 日陰に入ると冷たく感じるのですが、戸外へ出るとさすがに日差しが強く今日は大層汗をかきました。というのも明日からツリーハウスの仕事が始まるので周辺の草を買って欲しいと大工で仲間の日浅棟梁から電話が架かってきました。今日は午前中親戚の初孫初節句に招かれていたので、午後から思い切って人間牧場へ行って草刈を行いました。初節句に出席するためにカジュアルとはいいながらまあまあな服装をしていたものですから、水平線の家に置いてある仕事着を探したのですが残念ながら見つからず、少し厚めの服を着たものですからガンガン汗が出て大変難儀をしました。それでも最近はポンコツで廃品間近な草刈機がここにきてえらい調子がいいので仕事がはかどりました。小さいタンクながら混合油を入れるとかなりの時間持ちますが、こちらの体が持たなくなってきます。それでも胸元まで伸びた草をしっかりと刈りました。特にコンクリート舗装している道路沿いは丹念に刈り付け、見違えるようにきれいになりました。

 今年は数日前野いちごの白い花が満開でしたが、もう大豆ほどの青い実をつけているので、収穫を味わうために残して草を刈りました。また去年までやたらと生えていたいちぢく風の雑木はすっかり姿を消していて、草の力に押さえ込まれた感じがしました。つわぶきや山フキもできるだけ残して刈ったので、何だか虎刈りのような格好になってしまいました。明日は草刈機の三枚刃がかなりちびてきたので、思い切って新しいのを買いたいと思っています。ついでに混合油も購入しなければなりません。

 先日草を引いたり削ったりしたじゃがいも畑のジャガイモの芽も順調に伸びて雨の前にふった肥料が少しずつ効いてきたような感じがして頼もしい限りです。

 草を刈っていると直ぐ下のお百姓さんが家を見せてくれと上がってきました。丁度きりだったので休憩がてら水平線の家の木陰に二人が座って世間話に花が咲きました。彼は私より2級下ですが、数年前に脳腫瘍を患い、一時はかなり苦労をしていましたが、今はすっかり回復し好きなお酒も飲めるようになったとか、それでも病気が病気だけにかなり心配しているようでした。彼の話では農業もかなり厳しいそうで、油の高騰で双美町でも0パーセントくらいの栽培面積が減ったそうです。この集落も高齢化したこと、少子化で子どもがいなくなったこと、農業者年金を止めて一時金を貰う人が多くなったこと、この集落の将来も農業もこのままでは潰れること、死んだ親父さんの代は戦争という悲劇はあったが晩年は後継者もいて一番幸せだったかもしれないなど、積もる話をしました。

 お百姓さんが帰ったので再び草刈を始め、夕方5時半になったのでエンジンを止め今日の作業を終えました。お百姓さんの不透明なそして不安な話が頭から離れないまま下山しましたが、私たちの年代は高校を卒業するとみんな家業の農業を継いで一生懸命働きづめに働いてきました。ふと立ち止まったとき「俺は何のために生まれてきたのだろう」と思う話は見につまされましたし。、今度その話を肴に酒でも飲みながら話そうというと、「必ず呼んでくれ」といって別れた彼は、晩酌のビールを飲みながら今日は何を考えて床に就いたのでしょう。俺も12時が来るのでそろそろ寝るとするか。

  「太陽を 相手に仕事 楽しかろ 聞くとあんたが 羨ましいと」

  「三日前 刈った草丈 十センチ 俺は近頃 少し縮んだ」

  「イノシシが 来るかも知れない 芋畑 そろそろ悔しい 準備をせねば」

  「立小便 海に向かって 気持ちよく 下でおばさん 上を見たよな」


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shin-1さんの日記

○走る広告塔

 都会に行けばビルというビルの屋上には必ずといってよい程大きな広告塔があり、電車の窓から何気なくその広告塔を見るの面白いものです。広告塔は時代の最先端と言われるようにロゴや会社名を端的に分りやすく表現しています。多分一瞬のインパクトとその残像が勝負だからでしょう。ひと頃会社のロゴマークが流行った時代がありましたがそれも終息し、今も様々な商品名が生まれては消えています。

 最近「走る広告塔」なる広告手法が注目を集めています。地方都市の松山市でさえバスの側面や後方に絵柄が飛び出るような写真がプリントされて、「何故こんなに見えるのだろう」と一瞬通り過ぎるバスの行方をを目で追ったりすることがあります。一昨日も飛行好きの孫を幼稚園へ連れて行く途中、バスの側面に飛行機の写真をプリントしたバスが横を平行して走っており「おじいちゃん飛行機、飛行機と興奮気味に騒ぐのです。それからが大変です。やれ窓を開けろとか、もう少しゆっくり走ってとか注文が相次ぎました。そして「おじいちゃん飛行機が何でバスと一緒に走っているの」と質問します。「何で」といわれるから「あれは飛行機に乗ってくださいとバスに飛行機の写真を貼って宣伝しているのよ」というと納得してくれましたが、バスも本当にカラフルになりました。あの宣伝効果は広告費に比べてどのくらいと試算しているのでしょうか。

 あのお堅いJRでさえ、車体の側面にアンパンマンの絵柄を書いた特急が四国を駆け抜けています。あのアンパンマンは漫画家やなせたかしさんの原作で、高知県香北町にはアンパンマンミュージアムまであります。子どもを人質にとれば親は必ずついてくる商法は大きな成果を挙げているようですが、そのことに気をよくしてパンや巻き寿司にもアンパンマンが登場しています。世の中には漫画の世界で正義の味方が多いのですが、一際特異な存在がアンパンマンです。子どもが好きそうなパンやケーキをモチーフにしたキャラクターが次々に登場し、見たいより食べたい雰囲気です。孫が朝パンを食べていると「おじいちゃん、アンパンマンの体の中は何か知ってる」と唐突に言うのです。私は「つぶあん」といったら「何で」と聞き返されました。丁度食べていたパンがつぶあんだったからです。孫曰く「おじいちゃん、アンパンマンの体の中にはジャムが入っているの。だってジャムは赤いでしょう」です。孫はジャムの赤色と体の血の赤色をダブらせたのでしょう。私の一本負け、座布団を2枚取られました。

 原作者のやなせたかしさんは「つぶあんではありますが、偶然にできたものなので、成分や詳しい内容は作ったジャムおじさんでないと知りません」そうです。過去にはカレーあん、クリームあん、栗きんとんあんに変身したこともあるそうです。最近ではパンの生地も小麦粉ばかりでなくアンパンマンの変身ぶりは、テレビで見ている孫の方が随分詳しいようです。

 私も実は「走る広告塔」ならぬ「動く広告塔」の異名を頂いています。日本全国を動き回り自分の町や夕日を売りまくってきました。私の持論は「どんな立派な看板を街の入り口に造っても来ない人には見えないし分らない」です。それなら看板をしょって動いちゃえが私のモットーでした。今私の周りには残念ながらそんな活気ある公務員は残念ながら見るべきもありません。

  「広告が 走る動くの 現代は 人間だって 立派な広告」

  「飛行機は 空を飛ぶもの 孫何故と これもヒントだ 人が犬噛む」

  「アンパンマン 書いた列車が 走るけど 無造作つなぐ 味も素っ気も」

  「広告の 費用効果は いかばかり 結局儲けは 誰の懐」


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shin-1さんの日記

○激安・特価・そして半額

 今朝の新聞折込にお酒の広告が2枚入っていました。一枚はかつて隣の町だった隣の市、もう一枚は隣の市だった同じ市のものです。「えっ、隣の町だった隣の市だって?」。はいそうです。長浜町は隣の町でしたが今は隣の大洲市なのです。また「隣の市だった同じ市」とは伊予市のことなのです。わが町を基点に考えれば一年前まで大洲市はかなり遠い、行くのに40分もかかる街でした。勿論大洲市の中心市街地へ行くのには今も昔も変わらないのですが、大洲市という入り口の看板はわが町の隣、すなわち大洲と合併した旧長浜町に建って隣町になったのです。一方わが双海町は今やこれまた合併によって伊予市の市内になったのです。そのためチラシ広告の世界でも異変が起こり私の住んでいる田舎町でも商圏が拡大したような錯覚に陥ったのか、伊予市と大洲市のチラシが連日のように入るようになってきました。

 今朝のお酒の広告を見て目に付いたのは「激安・特価・半額」という文字でした。特に一枚はチラシの周りを「激安・特価・半額」という文字ばかりで囲って、酒の好きな人への関心を引かせています。例えばビールですが、ビールには定価なるものがあるはずなのですが、価格破壊が起こってまるで二重価格があるかのようです。かつてナショナル電化製品の二重価格が問題になったように、これは問題にすべき事柄のような気もしますが、何故にこのようなことが起こるのでしょう。「ネタ明かしは簡単で当店では『現金仕入れ』だから他の店より安くなるのです」と店長は胸を張るのですが、今のようにアルミ缶を見ただけでは普通のビールも発泡酒も見分けがつき難い私たち世代にはそのからくりはさっぱり分らないのです。

 私は車に乗れますので安い店を探そうと思えば消費者の権利ですから幾らでも探せます。しかし車にも乗れないお年寄りにとってお酒は地元の酒屋以外の選択の余地は殆どないのです。チラシを見ながら、「地元の酒屋は何でこんなに高いのか」と疑わざるを得ないのです。困っているのは地元の酒屋さんです。近隣に安売りのリカーショップなどが出来て、今では注文配達までしてくれるというのですから、客足は自然に遠のきます。もっときついのは「お前とこの店は田舎なのに何でそんなに高いんぞ」と言われることです。「何で」と言った人は「田舎は安い。都会は高い」という根強い認識のずれがあるのです。お酒を飲まない私にすれば、そんな言い争いは「他岸の火事」に等しいのですが、それでも田舎の店の苦しさを思うと何とかならないものかと心配をするのです。

 原価が幾らなのか分らないし明かそうともせずに「激安・特価・半額」といわれても「安い」と判断するほど世の中は甘くはありません。でも「激安・特価・半額」の言葉の魔術にひっかかる消費者が多いことも事実でしょう。「誇大広告」ともとれるこの商戦、果たして成功するのでしょうか。チラシの新聞折込には一枚○○円の折込代が要るのです。まさか折込代まで「激安・特価・半額」ではないでしょうね。

  「激安や 特価半額 ちらリズム そんなに高けりゃ 飲む量減せば」

  「このビール 何でそんなに 安いのか 広告商品 本当にビール?」

  「飲む人に 聞いたが味は 分らない だったら安い 発泡お勧め」

  「酒飲みの 人の名前に 安がつく そういう人も 昔あったか」


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○嬉しかったり落ち込んだり

 今日は久しぶりに息子が休みなので、昨夜のうちに相談して人間牧場へ行く相談をしていました。それというのも五右衛門風呂の大工工事が全て終わったので大工さんから仕切り書が届き、その資金をわが家の大蔵大臣に親子二人で無心する企てもあったのです。息子は早朝7時過ぎにやって来ました。妻は数日前から帯状疱疹が出て寝付かれぬ日々を過ごしているので、資金調達のお願いには適さない日だと思ったのですが、何とあっさり陥落しました。ただし「もう鼻血も出ない」なんて厳しい言葉を付け加えられましたが、私と息子はしてやったりのニンマリでとてもいい一日となりました。

 人間牧場へ行く大工さんの軽四トラックには何やら古めかしいボイラーが積まれています。「ああこれが息子の話していた水道屋さんがいらなくなったからあげると言っていたボイラーか」と納得し、大工さんがその水道屋さんに連絡したところ、急遽ボイラーを据え付けるというのです。ボイラーやタンクを所定の場所に降ろし、後から来た水道屋さんはせっせと二人で工事に取り掛かりました。昼飯を持っていかなかった私たちは昼抜き、水道屋さんは昼飯休憩を挟み3時過ぎにやっと工事の目鼻がつきました。その間私たちは草を買ったり古い瓦を埋めたりと忙しく働きました。

 給水点検、温水点検を私と息子は目を凝らすように見ていました。何せ人の家庭で要らなくなったゴミですから、水が入りお湯になって出るかどうかとても心配でした。でもどうです。しっかりと熱い熱いお湯が出てきました。「やったー」と水道屋さんも私と息子も大喜び、まるで温泉を掘り当てたような心境で、「今日は何てラッキーな一日なんだろう」と思ったものでした。さら湯で風呂釜を洗い、風呂釜の周りを息子は丹念に雑巾掛けまでして、ご覧のように立派な風呂場となりました。

 「今日は風呂には入れるぞ」、息子も私もタオルまで用意しようとしたその瞬間、急にお湯がストップしました。はい喜びはここまで、これをぬか喜びというのでしょうか。それから水源地となるタンクまでの往復や、天井裏に置いたタンクを4人が行ったり来たり大騒動です。結局は水が来ない原因も分らぬまま日没ゲームセット再試合となるところでしたが、何がどうなったのかその内水がくるようになりましたが、結果は明日までお預け、入浴の楽しみも明日となってしまいました。「あーしんど」でした。

 それにしても、水道屋さんからいただいたボイラー一式は、ほっておくとゴミになる運命でした。点検のため中を開けていましたが、内部は新品のような綺麗さでした。このボイラーに命を吹き込んだだけでも環境問題を考える人間牧場としては意味のある出来事なのです。通産省がリサイクル品の販売について法律を作ったところリサイクル業者から猛反対が起こり規制が緩和されたそうですが、世の中にはこのようにまだまだ使えるものがいっぱいあります。経費節減という目的と資源リサイクルを同時に解決した息子の努力に大きな拍手を送りたいと思います。

  「紐緩め 金の工面を した妻に 思わず親子 ハイタッチする」

  「お湯が出た その後止まる 顔の色 まるで百面 青くなったり」

  「このボイラー 不燃物行く 運命を 俺の息子が 命再び」

  「また明日 水の出具合 不安なり 港見ながら 早くお風呂に」

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○広報配布

 自治会長の仕事に広報の配布があります。合併する前は広報を配布する組長さん宛に役場から配達されて組長さんが配っていましたが、合併するとどっちが行政の効率がよいかという判断だけで、自治会長が組長さんのところへ配布する仕事が舞い込んできました。私の自治会は300戸もの大所帯ですから組長も27人います。その27人の組長宅を毎月訪問して広報の重い束を配布して回るのです。この大変更には私も相当役所へ抵抗しました。市役所担当者の返事は悲しいかな「伊予市でもやっているからという横並びと行政効率、それに自治会長にはそれなりの手当を出している」の一点張りで、結局は昨日重い広報の束が我が家の玄関にデンと置かれたのです。私がした質問「広報配布の手当は返上するからその費用で広報配布は市役所で」には何の返答もなく、結局はなし崩しなのです。私は車の運転が出来るからあの重い広報を配布することは可能です。でも「次に自治会長になる人がもし車に乗れなかったら自治会長の受け手がない」との反論にも耳を傾けてくれませんでした。私は車の運転が出来るからあの重い広報を配布することは可能です。でも「次に自治会長になる人がもし車に乗れなかったら自治会長の受け手がない」との反論にも耳を傾けてくれませんでした。私は仕方がないので昨夜、単車を引っ張り出して手入れをし、これから一年間単車で配布する事に決めました。単車だと路地や坂道は楽だと判断しました。

 早朝6時、単車の後ろに黄色いみかんのキャリーをくくりつけ、中に広報を積もうとしましたが、重いのと量が多いので一回に積むことが出来ず二回に分けて積み込み、一度帰って町中の組長さんのお宅を回って配り終わりました。どのくらい時間がかかるのか腕時計で計ってみると、優に1時間ほどかかりました。組長さんのお宅の郵便ポストへ投函するだけの単純作業でもこれ程かかるのですからこれから一年大変です。

 途中早起きの組長さんに2~3人お会いしました。「まあお珍しい。朝早くから何事ですか」「はい広報の配布を今月から区長がするよう市役所から依頼がありまして」「まあそれは大変ですね。ご苦労様です。区長という仕事も大変ですね。区長という仕事も暇じゃあないとできませんなあ」なんて会話があちこちで交わされました。「おいおい、私は暇かよ」と言い返したい心境でしたがぐっと堪えて配布を終えました。

 合併してからこの一年、一時が万事このように行政から押しつけられ、「金がない。行政改革です。あそこもやっているから」の一点張りで民意は無視され続けてきました。多分今後もそうなるだろうと思いますが、これが合併の時に住民に約束した「参画と協働のまちづくり」であったり、「サービスは高く、負担は低く」という公約の実行なのでしょうか。

 今年も区長会が先日ありました。新しい区長さんの中には役場出身者何人もいますが、殆どの人は私と同じ不満を持っていても、かつての同僚や後輩をいじめるけっかになるからと、余り口に出して反論はしません。むしろ沈黙は金なんて態度すら感じます。そのくせ私が発言すると会が終わって「よう言うてくれた。私もそう思っていた」などと相槌を打たれるのです。これまた「おいおい」の世界です。社会はめまぐるしく動いているのに行政のやることはまるで別世界。説明責任など果たしてはいないのです。何とかならないものでしょうか。

  「あの町も やってることだ 君もやれ 言わんばかりに 仕事押し付け」

  「広報が わが玄関に どっさりと 届きため息 俺は知らぬぞ」

  「単車にて わが町内を グルグルと 回って配布 伊予市広報」

  「暇だから 出来るのですね 区長さん 言われてドキリ 確かに俺暇」

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○大型連休スタートを前に

 毎年この頃になると大型連休が話題になります。明日から5月7日までの7日間はゴールデンウィークと呼ぶに相応しい休日です。サラリーマンだった頃でも、まちづくりを担当していたため何かとイベントを計画したり集客施設にとってこの時期はかき入れ時だったこともあって、殆ど休日らしい休日はありませんでした。それでも家族のことを考えて一日程度の休みをどう使おうかと思案したものでした。今その煩雑にして責任の重かった職責から開放されてしまうと、これまた何処へ行くあてもなく只今何の計画も持っていないというのが正直なところです。薄くなった財布の中身を懐にしながら、私にはよくよく休みとは縁のない人間なんだとしみじみ思う今日この頃です。今年は5月1日と2日を休めば9連休の所もあるそうで、この日数だと海外旅行も決して夢ではないのです。

 長男夫婦は長男の嫁が日曜日以外は仕事なので連休とは無縁のようです。娘夫婦は例によって大阪の実家に孫を連れて里帰り、末っ子は警察官なので勤務、次男は相変わらず貧乏な看護学生ゆえ趣味の演劇練習ぐらいでお茶を濁すようです。さて私たち夫婦は久しぶりにのんびりと思っていたのですが、弟の家の孫初節句、昨年亡くなった叔母の一周忌法要、町内会の催しと相変わらずの雑事に追われ、加えて妻がこの一週間ほど帯状疱疹とかで痛みがひどく風呂も止められるほどの難病に顔をゆがめながら休むこともなく勤めていたので、この連休は骨休みしなければならず、散々な連休のようです。加えて親父が今朝布団を上げていてぎっくり腰になり、杖をつかねば歩けないような雲行きです。まあ救いは私が比較的元気なので、少し畑いじりや家の周りの掃除でもしようと心に決めています。

 昨日やっと二本の原稿書きが終わってメールで送ってホッとしたなと思ったら、今日も二本の原稿依頼がメールで舞い込みました。連休中は講演活動もストップなので原稿執筆快諾のメールを送ってしまいました。いずれも2000字足らずのショートな原稿ですから連休中に書き上げて送れるものと鷹を食っていますが、このところブログに少し傾注し過ぎる感があるので、連休中は一日2本ぐらいでブログの原稿も留めたいと思っています。連休をワクワクした気持ちで迎える人が多い世の中で、連休無縁の私にとって連休は何だか遠い世界のように感じられます。

 今日電話が数本入って連休中に人間牧場へお邪魔したいという人が何人かいました。その人を人間牧場に案内すると、ゴールデンウィークどころかブラックデーウィークになりかねないとはある人の忠告でした。せめて忠告どおりゴールデンウィークくらいは自分の自由時間に使いたいとも思いました。

  「今年また 無縁ウィーク やって来た 煩わしくて 何処か逃げたい」

  「妻親父 床に伏せがち ひっそりと いやゆっくりと 骨を休める」

  「この季節 わが家の庭も ツツジ咲く 近所の人が 愛でに集まる」

  「連休も こうも続くと 骨疲れ 折角貯めた 財布が空に」  

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shin-1さんの日記

○出発進行

 何気なく列車に乗って何気なく長閑な田園地帯や急な山谷を走る。毎日繰り返される列車の安全な運行も、福知山線のような惨事が起こると国を挙げて鉄道会社へのブーイングが湧き起こります。惨事は忘れた頃にやってくるといいますが、先日は福知山線事故の丁度一年目に今度は山手線でレールがゆがんで列車が止まりました。幸い大惨事には至りませんでしたが、利用者に大きな影響が出ました。狭いといいながら北は北海道から南は九州まで、これだけ列車が朝から晩まで走っていると、事故がないのが不思議なくらい日本の列車は安全なのです。その安全を確保するために日夜を問わず鉄路を守っている人のことを思うと感謝しないわけにはゆきません。

 数日前久しぶりにわが町を通る予讃線海岸周りの列車に乗りました。最近は赤字路線で本数も少なく乗客もまばらで、私はこの線に乗ると決まったように海岸が見える海側の席に座るのですが、箱型打席でなく列車に沿って配置された長椅子列車の場合は列車の内側に向かって座らなければならないので、身をよじるようにして車窓の景色を眺めるのです。つつじの季節になりましたが、もうそろそろ高野川駅のつつじも見ごろかなと思ったり、長い上灘川に架かる鉄橋の上を走る時はわが家が一望できるので身を乗り出すようにして車窓に目をやるのです。この風景もわが家から見ると、まるでマッチ箱のような一両だけの列車がまるでおもちゃのように走っているのです。

 ところで、上灘駅を出る時運転手さんが、指差確認し「出発進行」と大きな声で言うので運転席を見ると、前方の信号が青なのに中々発車しません。一分近くたってやっと汽笛を鳴らして出発しました。「出発進行」とは実は「発車」の意味ではないのです。「出発進行」とは乗務員に定められた「指差喚呼」と呼ばれるもので、信号や標識の確認を確実におこなうため、信号や標識を指差しながら声に出してはっきり意識することを促しているのです。日ごろ当たり前のように行われている業務もふとした気の緩みで大惨事につながりかねないための自己戒めなのです。

 その指差喚呼のときに発する言葉を喚呼用語といい、「出発進行」もその一つで出発信号機が今進行をを示していると言っているのです。ですから「出発進行」と言っても列車が出発するとは限らず、列車は時計によって出発時間通りに発車するのです。ちなみに発車の時の掛け声は「出発」だそうです。

 孫が私の車に乗るとシートベルトを締めると必ず「出発進行。発車オーライ」という掛け声をかけます。知ってか知らずでか、一度大きくなったらこのことを話してやりたいものです。

  「見習いの 運転手さん 大声で 出発進行 指差しながら」

  「天災も 人災までも 忘れごろ 必ず来るから 肝に銘じて」

  「海見える 夕日が見える 席座る これが私の グリーン席です」

  「汽車を見て 暮らしていてて 汽車に乗り 汽車から見ると 違った趣き」

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shin-1さんの日記

○みんな忙しそう

 昔交通安全の標語に「狭い日本そんなに急いでどこへゆく」という名標語がありました。この標語のように今の日本人は急ぎ過ぎの感は否めない事実のようです。誰に会っても「忙しい」とか「せわしい」いう言葉が口から出ない人はないくらいです。結果は目に見えない幻影に惑わされてうつ病になったりする心の悩みを訴える人も多いようです。「早くも」という言葉が枕言葉になるような話題をマスコミが捉えるものですから、冬に夏の水着商戦が始まったり、クリスマスなんてものは10月ごろからジングルベルを鳴らし、年賀状だって11月に売り出して人々をあおっています。

 昨日「早くも」ハウスみかん取り入れの話題がテレビで放映されていました。みかんといえば秋の季題なのにハウスみかんの話題は春も終わらないのにもう初夏なのです。わが家ではまだ晩生のみかん類があるのにわざわざ高い重油を使って自然でない不自然なハウスみかんを作っているのです。

 昨日「早くも」松山市のあるデパートの屋上でビヤガーデンがオープンしたそうです。映像に映った人は皆寒そうな姿で飲んでいました。ビールは夏の季語、春も終わらないのにもう初夏なのです。ビールは屋外で汗をかくと上手いというのが自然ですが寒い補のビールは不自然です。

 昨日「早くも」うちわ製造が追い込みという話題が放映されていました。うちわは夏の季語なのにあろうことか夏の甲子園用だというのです。まだ出場校も決まってもいないというのに自然でなく不自然です。

 年中スイカ・トマト・キューリが店頭に並び、八百屋の主人が半袖でも着れば真冬でも間違いなく夏の写真が撮れるのですから世の中は一体どうなっているのでしょう。

 私たちは忙しさの余りではなく、忙しそうな気配を理由に立ち止まることをためらってきました。また立ち止まって失った落し物を拾おうともせずに暮らしている事に気付いていないのです。結構忙しいけれど忙しい気持ちを持たなくても済むような社会にいる私は、そのような生き方をすべきだと幾ら回りの人に言っても無視され、一向に悔い改めようとしないばかりか、むしろ私の言葉を「ご隠居さんの戯言」としてしか聞いてくれないのです。

 今晩今治市波方町の生涯学習総合開講式に講演を依頼され出かけました。ご多分に漏れずここでも合併の後遺症が色濃く残り、あれほど活気のあった海運の町もまるで火が消えたような感じがしました。旧友が支所長にになっていましたが彼は後一年で退職とか、成人病になってこれから歩くのだと散歩着で私に会いに着てくれました。ポツリ「輝いて生きてるあんたが羨ましい」と言ってくれました。「心豊かに生きる」と題した90分の講演は、聞き上手と話し上手で盛会のうちに終わりましたが、生涯学習で幾ら学んでもそのことを生かさなければ意味はありません。むしろこれからの生涯学習は「学んだことをどう生かすか」が重要なのです。今日のがぅ集のキーワードは立ち止まって考え大きな音のしない落し物に気づいて欲し飼ったのです。

 案内しても今日の集会に来なかった殆どの旧町民は私が講演をしている時間に一体何処で何をして過ごしているのでしょうか。気がかりです。

  「集会に 集まる人には 言うことなし 来ない人たち 学びもせずに」

  「幸せは 歩いてこない 取りに行く 学びがそれの 手助けします」 

  「10円は 落とせばちゃりん 音がする 一万円札 太い音(落)せず」

  「何故急ぐ スイカは夏に 食えばいい 高い金まで 出さず堪能」


 

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shin1さんの日記

○ローマ字と日本語

 パソコンを打ちながらしみじみと思うのは、かつて始めてワープロを買った頃の思い出です。当時はワープロも今のパソコンぐらい高価な代物でした。それでも新しいもの好きな人が役場にいて、これ程便利なものはないと自信を持って勧めるものですから思い切ってデスクトップのワープロ「書院」というのを15万円もかけて買ったのを覚えています。まあ15万円出しても一生使えるのなら安い投資だと思ったものです。そのお金は子育て真っ最中で四苦八苦の妻には言えず、どうしたものかと悩んでいました。ところがワープロを買うと決意した頃県庁と知人からそれぞれ別個に懸賞論文への応募依頼がありました。「一つは総理府(今の総務庁)が国の海外派遣経験者に、海外派遣事業が始まって30年を機に記念論文の募集をしているが、締め切りがあと5日になるのに愛媛県からは誰も応募がない」というのです。「海外派遣事業への影響もあるから是非あなただけでも応募してください」との県庁からの電話でした。県の海外派遣経験者の団体代表を務めた経験のある私だけに断ることも出来ず、結局は締め切り5日前だというのに安請け合いで引き受けてしまいました。その日から真新しいワープロを前に日本語入力を試みるのですが、まるでピアノを両手で弾くときのようにバラバラで、一字一字拾いながら5000字程度の文章を打ちました。論文が出来上がったのは締め切り前日で、消印有効を利用して東京へ送ったのです。

 数日して私の原稿が最終審査まで残っている旨の電話が入るようになり、私のプロフィールなどの補足調査や写真の送付、それに表彰式への出席が可能かどうかなど微細な打ち合わせがありました。結局私の原稿は総務庁長官賞という大臣賞を受賞したのです。表彰式は昭和64年、つまり昭和の最後の年の新春1月14日に赤坂プリンスホテルで行われ、皇太子殿下も出席されるとのことでした。ところが急に昭和天皇が崩御されたものですから、表彰式は簡素化され天皇も大臣も出席しないことになって、それでも政府の偉い役人から大臣表彰を受けたのです。実はその副賞が10万円と海外旅行でした。

 もう一つはレク仲間から頼まれた日本レクリエーション協会発足30周年の記念論文募集への応募です。これも仲間から「締め切りまで時間がないが、愛媛県からの応募が少ないので頼む」との以来でした。相次いだ以来に賞金など忘れて軽い気持ちの応募でしたが、私の書いた原稿は福岡で開かれた大会で最優秀賞を射止め5万円の賞金をゲットしました。あいにくスケジュールが込んで表彰式への出席は適いませんでしたが賞状と賞金が送られてきました。

 ワープロで、しかも日本語入力で書いた原稿の賞金総額しめて15万円、結局はこの賞金だけで当時高嶺の花だったワープロを手中に収めたのです。そんな曰く因縁のあるワープロも数年でゴミ置き場へ去って今は思い出と当時書いた印字原稿、それに表彰状とそれを知らせる新聞記事のみが手元に残っています。

 日本語入力はいつの間にかローマ字入力に、ワープロもパソコンに変わって今に至っていますが、パソコンで打つと若松進一のスペルは「wakamatusiniti」でも「wakamatsusinichi」でも同じ日本のに変換されます。私は一字でも少ない方が早いので前者で打っていますが、昨年パスポートの申請時に大失態をやらかしました。ローマ字の名前スペルは後者なのです。癖とは怖いもので未だにその癖は抜けません。

 毎日打ってるパソコンはローマ字で日本人ながら日本語でないというのもおかしな話です。

  「日本人 だのにどうして ローマ字で パソコン打つのか 未だ分らず」

  「パスポート ついつい癖で 間違って 指摘慌てて 書き換えました」

  「指先で たどたどしくも 打った文 十五万円 賞金ゲット」

  「もしもだよ パソコンのない 時代なら 俺はどんな 仕事してたか」

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○月並みな人並み

 私たち日本人は「月並みな言葉ですが」とか、「人並みに幸せになりたい」などと、月並みとか人並みとかいう言葉を日常の会話の中で何気なく使っています。月並みとは「平凡なこと、陳腐なこと」で、人並みとは「一般の人と同様な程度、世間並みな状況」をいいます。日本人の殆どはそうした横並び意識、いわば中流意識を持っているといわれています。そうした言葉を思いつくままに考えてみました。

 人並みに五体満足で生まれて良かった。人並みな暮らしがしたい。あの人は人並みはずれた特技を持っている。人並みな結婚をし人並みに子どもを育て人並みな人生を送りたい。月並みな話ですが人並みな生き方をしたいものです。

 こんな言葉を聞くと月並みや人並みとは一体どの程度の事を指すのだろうと、自分の暮らしの程度を考えながら、手の届きうる自分より一ランク上の人の存在を考えてしまいます。人間は悲しいかな自分の努力のなさを棚に上げて人が努力によって勝ち得た幸せをねたんだり羨ましく思ったりするものなのです。しかし忘れてならないのは、自分ではどうすることも出来ない月並み以下や人並み以下の立場に置かれている人が存在することなのです。

 私は仕事柄、そうした逆境に置かれ今なお人並みや月並みを求める群集から冷たい視線や仕打ちを受けている多くの人々に出会ってきました。ハンセン病やサリドマイド児など大きな社会問題になってきた人々は勿論のこと、原爆によって体に異常がある人などの不安な日々の暮らしは、まさに息を潜めて生きる苦しみであるに違いありません。

 「上見て暮らすな下見て暮らせ」なんて言葉を人生の戒めとして親から子へと受け継いできた生き方にも問題があるようです。かつて私はシーサイド公園の砂浜やミニ水族館の早朝清掃を12年間もやり続けました。ある朝子ども連れのお母さんが、清掃でドロドロになった私を指差し、「あんたも勉強せんとあのおじさんのように掃除をせんといけんよ」と子どもに言ってる姿を思い出しながら、月並みや人並みの怖さを思うのです。

 人間は悲しいかな一人では生きてゆけません。必ず人間という他人と生きて行くのですが、人と比較して自分の人生を決めるのではなく自分が人に生かされて生きてることを考えて生きなければならないのです。今日車の中で国会中継をカーラジオで聞きました。小泉首相が「人の憂いに涙し人の喜びに舞う」という言葉を引用して答弁していました。いい言葉ですがいかんせん今の世の中は強者の理論が多く、弱者への配慮はまだまだ足りません。

 不足と感じても何不自由なく暮らしている私たちが月並みや人並みを求めるのではなく、月並みや人並みが与えられていない人たちにこそ月並みや人並みを差し上げる心を持ったら、世の中はもっといい世の中になると思うのです。

  「月並みや 人並み求める 人ばかり 月並み人並み 誰にあるのか」

  「おいちゃんは 汚れた仕事 好きでする あんな人に なれよと親も」

  「あと僅か 残り少ない 人生を 生きてる証 人のお役に」

  「これ以上 何を欲しがる なあお前 妻と二人で 相槌打ちつ」



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