○年老いた兄弟
お彼岸になるとわが家では決まったようにお墓参りに身内の人がやって来ます。そのついでにわが家に立ち寄って談笑するのです。12人兄弟の長男である親父の基へも兄弟姉妹が集まり昔話に花を咲かせるのですが、親父にとってはこのことがたまらない喜びのようです。今日親父の直ぐ下の弟が夫婦連れで息子嫁の運転する車に乗ってやって来ました。この叔父もご多分に漏れず最近衰えが目立ち、話すのもやっとという感じで、昔話に涙をする場面の見受けられます。
親父が弟夫婦を見てポツリと言いました。「お前はええのう。こうして二人で長生きしとるのじゃから。わしは今何一つ不自由はないが昼間など嫁も息子も働きに出てわし一人じゃあ。畑に出て草でも相手にせんと話し相手がおらん。嫁が死んでからは毎日が寂しいものよ。お前も嫁を大事にしてやれよ」としみじみです。そういえば私は定年退職しても家にはいないし、妻も昼間は働きに出ていて早寝早起きの親父の生活リズムと歯車が合わないため会話がないなあと思いました。
人間が人間であるゆえんは会話です。人間は人の間と書くように会話がないと孤独が病気を引き起こしたりします。耳の遠くなった親父とは耳が遠いので会話は面倒くさくてこちらが先に勘を働かせ適当にあしらい会話になっていないのです。母がなくなって6年、親父の孤独を考えるともっと側にいて話を聞き、話をさせねばと思うのですが、こちらも忙しくてついつい疎遠になりがちで、深く反省しています。
日に日に成長する孫の姿に比べ、日に日に衰えつつある親父の姿を見ながら、25年後の姿を連想しました。私も好む好まざるとにかかわらず25年後には生きていたら確実に今の親父の姿になるのです。その時わが娘や息子たちがどんな気持ちで私と接するんでしょうか。幸い私の娘や息子は優しいからと思うのは大間違い、今から自立の道を考えておかなければならないでしょう。
親父の「夫婦で長生き」という言葉もこれからの生き方にとって大事なキーワードです。人間は自分で命を絶たない限り夫婦一緒に死ぬことは絶対と言っていいほどありません。ですから少しでも長く夫婦が元気で暮らしたいものです。特に働くこと以外何もできない私の場合は余計その意識を強く持つのです。
最近親父の居間に沢山の写真が飾られるようになりました。家族の写真とともに生前の母の写真が何枚かあります。長男に頼んで大写しにしたそうですが、これらの回顧はまさに自分の生きた証を確認する姿のような気がします。人は悲しいかな誰でも歳をとります。歳をとることは楽しいことと思いなさいと人には容易く話しますが、いざ自分のこととなると話は別だと、小さくなりつつある父の背中を見て思いました。
「彼岸来る 兄弟来るが あの世来る そう言う父の 口癖増えて」
「自転車で 未だに医者へ 通う父 危ない止めろ 言っても聞かず」
「おはようと 言うて返るは 『何』とだけ 再び顔見て 同じ言葉を」
「子作りの うまいばあちゃん 十二人 産みも産んだり 大したものよ」