shin-1さんの日記

○年老いた兄弟

 お彼岸になるとわが家では決まったようにお墓参りに身内の人がやって来ます。そのついでにわが家に立ち寄って談笑するのです。12人兄弟の長男である親父の基へも兄弟姉妹が集まり昔話に花を咲かせるのですが、親父にとってはこのことがたまらない喜びのようです。今日親父の直ぐ下の弟が夫婦連れで息子嫁の運転する車に乗ってやって来ました。この叔父もご多分に漏れず最近衰えが目立ち、話すのもやっとという感じで、昔話に涙をする場面の見受けられます。

 親父が弟夫婦を見てポツリと言いました。「お前はええのう。こうして二人で長生きしとるのじゃから。わしは今何一つ不自由はないが昼間など嫁も息子も働きに出てわし一人じゃあ。畑に出て草でも相手にせんと話し相手がおらん。嫁が死んでからは毎日が寂しいものよ。お前も嫁を大事にしてやれよ」としみじみです。そういえば私は定年退職しても家にはいないし、妻も昼間は働きに出ていて早寝早起きの親父の生活リズムと歯車が合わないため会話がないなあと思いました。

 人間が人間であるゆえんは会話です。人間は人の間と書くように会話がないと孤独が病気を引き起こしたりします。耳の遠くなった親父とは耳が遠いので会話は面倒くさくてこちらが先に勘を働かせ適当にあしらい会話になっていないのです。母がなくなって6年、親父の孤独を考えるともっと側にいて話を聞き、話をさせねばと思うのですが、こちらも忙しくてついつい疎遠になりがちで、深く反省しています。

 日に日に成長する孫の姿に比べ、日に日に衰えつつある親父の姿を見ながら、25年後の姿を連想しました。私も好む好まざるとにかかわらず25年後には生きていたら確実に今の親父の姿になるのです。その時わが娘や息子たちがどんな気持ちで私と接するんでしょうか。幸い私の娘や息子は優しいからと思うのは大間違い、今から自立の道を考えておかなければならないでしょう。

 親父の「夫婦で長生き」という言葉もこれからの生き方にとって大事なキーワードです。人間は自分で命を絶たない限り夫婦一緒に死ぬことは絶対と言っていいほどありません。ですから少しでも長く夫婦が元気で暮らしたいものです。特に働くこと以外何もできない私の場合は余計その意識を強く持つのです。

 最近親父の居間に沢山の写真が飾られるようになりました。家族の写真とともに生前の母の写真が何枚かあります。長男に頼んで大写しにしたそうですが、これらの回顧はまさに自分の生きた証を確認する姿のような気がします。人は悲しいかな誰でも歳をとります。歳をとることは楽しいことと思いなさいと人には容易く話しますが、いざ自分のこととなると話は別だと、小さくなりつつある父の背中を見て思いました。

  「彼岸来る 兄弟来るが あの世来る そう言う父の 口癖増えて」

  「自転車で 未だに医者へ 通う父 危ない止めろ 言っても聞かず」

  「おはようと 言うて返るは 『何』とだけ 再び顔見て 同じ言葉を」

  「子作りの うまいばあちゃん 十二人 産みも産んだり 大したものよ」 

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shin-1さんの日記

○商品開発

物の豊かさを実感するように、どのお店を覗いても様々な商品が所狭しと並べられています。たった一つのテーマなのにこんなにも種類があるのかと思うほど種類が多く、選択するこちらの方が迷ってしまいます。でもそんな中から売れ筋として消費者に認知されロングセラーになるものはごく小数で、その殆どは売れることもなく廃棄されるのですから厳しいと言わざるを得ません。

 私も現職時は公務員でありながら食べ物を加工する商品開発に携わった苦い経験があります。どんなに自信を持って作ったものでも、売れないとただの製品で商品ではありません。製品を商品にするには食材の品質と食材を加工する技術が必要で、これが本物であるということが最低条件となります。もしこの段階で品質を落としいい加減な技術だと門前払いが落ちでしょう。次にこの製品をどのように美しくしかも目を引くようにするのか、パッケージやラッピングといったお化粧が必要です。品質や技術それに容器への先行投資は売れなかったらどぶ川に捨てるようなものですから、余程売れる自信がないと勇気のいる決断です。

ここから始まるマーケティングはまさに奥の深い、それでいて重要な「売る」ことへの挑戦なのです。

 私はこれまでズブの素人といわれる漁協のおばさんと一緒にじゃこ天の商品化に取り組みました。結果的には5500万円のヒット商品に育てる事に成功しましたが、本物と真心だけでラッピングやパッケージといったお化粧を省きましたし、マーケティングもシーサイド公園に来ないと食べれないという差別化によって行列のできるお店を作り上げました。しかしこの場合マーケティングで難しかったのはどのようにしてお客に食べさせるかという難題でした。私はふと今の若者がハンバーグを食べる姿を思い浮かべました。これまでの常識は「歩きながら食べたらお行儀が悪い」でしたが、「じゃこ天を串に刺し歩き名が食べる」という非常識を考えこれを若者の食文化、ファッションに変えたのです。不思議なもので今まで売れなかったじゃこ天が売れ始めたのです。おばさんの作る本物と、おばさんの方言丸出しの真心に私の常識を非常識に変えた歩きながら食べるをプラスし、しかもここだけしか買えないという差別化が夕日で集客した人々に定着していったのです。私は夕焼けソフトクリーム、夕日の望遠鏡、夕日日コーヒーなど常識では考えられないアイディアで商品開発を行いそれなりの成果を収めることができました。

 昨日風呂屋で、味噌屋の若い社長さんに会いました。ギノー味噌といって地元では有名な会社の2代目社長さんです。この会社は創業者の先代が苦労して育てた会社ですが、先代が出版した本によるとまるで世界の松下電器をを作られた松下幸之助さんを髣髴するような厳しい苦労をさえたようです。その頃の田舎では私の家がそうであったようにどの家も味噌は祖母から母へ、母から嫁へと伝承されて各家庭で作られていました。先代には先見的な読みがありました。「やがて味噌のような手間暇かけるものは各家庭では作らなくなる」と。その読みは的中しギノー味噌は今の隆盛を見る事になったのです。でも普通はここまで、底から先は甘やかされて育った2代目が身代を潰すのです。でもギノー味噌は優秀なやる気のある若い経営者に引き継がれ、味噌を使った郷土料理「さつま汁」を世に出しヒットしました。昔お湯をかけたらできる味噌汁を永谷園が出した時、世の中はアッと驚きました。パンとコーヒーが主流の若い世代は、味噌汁を飲みたくてもだしをとって味噌をこす面倒な味噌汁など作らない風潮を逆手にとって大流行したのです。

 風呂屋での出会いはお互い裸だったのですが、先日生協での私の講演会で顔を合わせていたこともあって、多いに盛り上がりました。若い社長から聞いた話ですが、新商品の県コンクールで25の応募の中からギノーが出品した「鯛めし」が堂々のグランプリに輝いたと言うのです。私は面白いビッグチャンスだといいました。私だったらコンクールグランプリの冠をつけて売り出します。ただし売り出すだけでは芸がありません。集客のある場所で新製品の普及宣伝を目的とした「ギノーエプロンクッキング教室」を県内10箇所で主婦を対象に開きます。その時はさつま汁も一緒にします。さつま汁も鯛めしもどのようにすれば上手くできるかが売れるカギなのです。その様子をアンケートして次は、「ギノークッキングコンテスト」を仕掛けます。味噌を使った料理を応募してもらうのです。優秀な作品のレシピはインターネットで流すのです。ギノーがバーチャルの世界でも話題になること間違いなしです。

 おっと、これは私のブログなのに、忘れてギノーのブログのようになってしまいました。この話はなかった事にしてください。

 追伸 私は風呂屋で面白い話と感動の光景を目にしました。面白い話し、それは自分の5人の子供を広田村へ山村留学させている話しでした。私は無人島へ4人の子どもを連れて行きました。同じような思いです。感動の光景、それは足腰の弱った先代の手を引いて風呂好きな先代を風呂に入れている2代目社長の優しさでした。

  「先代が 苦心の会社 引き継いで 隆盛保つ これぞうるわし」

  「ギノー(技能)にて 作りし商品 ヒットする 何がミソ(味噌)だろ 時代先読み」

  「じゃこ天も 元はと言えば 非常識 数年すれば これが常識」

  「鯛めしを 喰いたいけれど 作れない そんな疑問に 価値ある挑戦」

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shin-1さんの日記

○異動内示

 春は異動の季節です。そろそろあちこちから異動の便りが届き始めました。異動に縁がなくなった自由人の私としては、新聞に出ている異動内示の細かい文字を目を細めて見る程度ですが、異動内示を知らされた当の本人は今頃どんな気持ちだろうと思うと、何かしら複雑な気持ちになります。現役の頃の私は余り異動に縁のない人間でした。最初の教育委員会は13年も異動なしでした。その後産業課で4年、企画調整室で9年、地域振興課で9年、教育長として2年といずれも長い勤務で異動は35年間で4回しか経験しませんでした。しかもその異動は役場内ですから一階が2階になった程度で、トラックに積んでの大移動など経験したことはありません。しかし異動の度に短かれば短く長ければ長い心情で内示の中に自分の姿を追っていたように思います。

 異動は一部の人がその人の顕在能力を見て適当にやるのが正直なところです。私も企画調整室で人事異動の内示作りに関わったことがありますが、その人の能力の適材適所よりも勤務年数の方が優先され、1人を動かせば3人が動くといった適当な語呂合わせなのです。でもそんな語呂合わせの異動内示でもその人にとっては一生を決める一大事ですから、栄転や左遷と思う気持ちは良く分るのです。

 昨日息子から異動の内示が出たと電話連絡がありました。息子は採用試験に合格し研修のために半年間学校に入っていました。この3月24日に卒業し晴れて新任地に赴くのですが、自分の希望が受け入れられたらしく弾んだ声で「明日荷物の移動をするからトラックを用意して」というのです。単身赴任でしかも官舎暮らしですからそんなに荷物もないのですが、今日は昨晩遅く帰った息子の引越しを手伝います。

 相前後して馬路村の木下君から異動内示の電話がありました。総務課から異動して住民課のような所で村民の健康問題に取り組む部署だそうです。お酒に酔って電話してきた電話の声で彼の心情は読み取れました。村づくりに情熱を燃やしてきた彼の仕事は意思半ばで終わりそうです。異動先は高知県で一番村民一人当りの医療費が多いので、その仕事を任せられるというのですが、先々の不安や私たちとの距離が遠のくのではと心配する心の動揺は声に現れていました。「あなたは村長に雇われているのではない。村民に雇われているのだ。そのことを忘れないように」と彼を励ましました。

 夕方私の携帯電話に着信表示、電話をかけてみると大野事務局長からフロンティアメンバーの異動内示の情報でした。佐賀山さんが武道館から今治の土地開発のような所へ異動らしいのです。彼の職場は指定管理者制度の導入によって県職員が撤退するためのやむを得ぬ異動でしょうが、今日は彼に連絡を入れたいと思っています。

 こうして行く人来る人、去る人それぞれに人生の人間模様を描きながら今年も異動の春は穏やかに過ぎてゆくのです。

  「内示出た 弾んだ声と 沈む声 人の運命 誰が決めるか」

  「息子から 任地決まった 知らせ来る 今日は車で 引越し手伝い」

  「支所縮小 機構改革 するという さらに寂れる 役場界隈」

  「お粗末な 話で内示 遅れ気味 得意な顔で 上から下へ」

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shin-1さんの日記

○中毒症状

 私の知っている人に三つのタイプの中毒症状をした人がいます。一つのタイプはお酒の中毒です。その人は毎日家で晩酌と称して練習しているためかとにかく酒が大好きで、酒がないとこの世の中は始まらないと常々口に出すほどで、日本酒、ビール、焼酎とアルコールだったら何でもこなすのです。この人は数年前酒が原因か分りませんが胃を半分ほど切りました。病院に見舞いに行った時はさすがにがっくりし、もう酒は止めたなんて殊勝なことを嫁さんや私に言っていましたが、その後病気が回復するとそのことを忘れたかのように酒を飲み始め、今では以前にもましてお酒を飲んでいるのです。酒を止めた私に向かって、「酒が飲めないなら死んだ方がまし」なんて豪語し、昨晩も酔って私に電話をかけてそんな話をしました。

 二つ目のタイプはタバコの中毒です。その人は陸蒸気と言われるほどのヘビースモーカーで一日に3箱もタバコを吸っています。最近禁煙運動が社会に認知され、学校や職場や乗り物の中ではタバコを吸う人が肩身が狭い感じがしますが、彼は常々「わしはタバコを吸って税金を納めているのにたばこを飲んではいけないとはけしからん」と豪語していますし、「タバコを止めれないのはおかしい。わしはもう7回以上止めた」とまるで落語を聞いているような話をしています。タバコが「百害あって一利なし」ということも知っているのでしょうが、先日肺がん検診でひっかかり、精密検査を受けたのですが異常なしと分って再びモクモクの煙です。

 三つ目のタイプはパチンコの中毒症状です。彼は暇さえあればパチンコへ出かけています。そのためパチンコについてはかなりの薀蓄を持っており、どの台が良く出るとかパチンコの玉が一個○円するとか、幾ら儲けたとか、何故か取られた話はせずに、夢のようなことばかりをいっています。先日もフィーバーして15万円取ったと得意顔でした。「そんなに取ったのならたまにはおごって」と言ったのですが、「つぎ込んだ元手が戻ったらな」と軽くいなされました。

 酒やタバコのように直接からだの健康に結びつく中毒は、自分の体だけでなく家族の大黒柱という責任も負っているのですから、厳に慎むべきでしょうが、パチンコは別に体が悪くなるわけではありません。しかしパチンコにはお金がついて回ります。ゆえに度が過ぎると家族の人間関係まで崩しますから、これも要注意でしょう。

 結局いずれの中毒症状も自分の心の弱さが原因としかいいようがありません。3人それぞれの奥さんから「若松さんあなたは酒もタバコもパチンコもやらないから尊敬する」と褒められています。また「若松さん、うちの主人に止めるよう言ってください」ともねだられます。その都度私は奥さんに言ってやります、「あんたが言って止めないのに、私が言って止めるはずがない」と・・・・・。しかし大事になる前に止めて欲しいものです。

  「酒たばこ パチンコなどに 手を染めて 止めれぬあんた 子どもが見てる」

  「中毒を 断ち切り生きる 方法は 死ぬしかないと 言ったが止めず」

  「俺偉い あれほど好きな 酒止めた 妻が褒めるは ただのこれだけ」

  「酒止めて 金が貯まると 思ったが 下戸に建つ蔵 ないと人言う」

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shin-1さんの日記

○春に3日の日和なし

 このところ、春の兆しが一段と増してきました。「春に3日の日和なし」といいますが、本当にそうだと思います。3日前には雪が降って背後の牛の峰山には白い積雪が見られました。そうかと思うと今日は一転して穏やかな日和です。私たちはストーブを焚いたり下着を一枚重ねたりして気温の変化に対応できるのですが、88歳になった親父にはこの温度変化は何とも体温調節が難しいらしく、戸外に出れないいらいらもつのってまるで亀のように首をすぼめて春の来るのをじっと待っています。

 今朝は長男が早朝5時にわが家へやって来ました。昨晩電話が入り人間牧場の五右衛門風呂の屋根葺きが気になるらしく、私が早立ちで今治に行くというので私を誘い人間牧場まで行きました。早朝の人間牧場はまだ外も暗く、懐中電灯を持っての山登りとなりました。人間牧場に着いて全部の電灯を点けるとその光で五右衛門風呂の別棟が浮かび上がりました。昨日の大工さんと左官さんの合同屋根吹きで見事に青竹の屋根が完成していました。妻は私の退職のこともあって「できるだけ金を賭けないように」と息子に言うのですが、設計士のプライドが許さないのかどんどん前へ進めて行きます。でも暗闇の中にぽっかりと浮かんだ風呂場の青竹葺きの屋根を見て私も息子もすっかり感激しました。

 この後風呂場の下の土留めのためにブロックをつき、外壁に水平線の家と同じ防腐剤を塗ると第二期工事は一応の完成となります。長い一年間の第一期・第二期工事でしたがこれで一応の目鼻がついたことになります。もう一つ、人間牧場に隣接する梅林を譲ってもらうよう依頼していたら、地主さんから譲ってもよい旨の快諾をいただきました。後は値踏みでどういった折り合いをつけるかだけです。正直嬉しいです。

 さあ春植えの準備もしなければなりませんが、この季節は自治会長を努める私にとっても決算や来年度の事業計画など忙しい日々が続きそうです。何とか乗り切れそうなこの一年は未知の分野だっただけに向こうが見えず苦労しましたが、残された任期を来年度こそは自信を持ってやりたいものです。

 そうだ、春の彼岸が近づきました。親父に任せてすっかりご無沙汰しているお墓の掃除やお墓参りもしなければなりません。シキビの木を切ってきて供えることだって長男で墓守の責任がある私の仕事として、親父からそろそろバトンタッチしようと思うこの頃です。

  「朝晩は 冷えるが昼間 温かく やっと春来て 親父冬越す」

  「墓守は 親父の仕事 思ってた いよいよ俺の 出番近づく」

  「暗闇に 浮かぶ五右衛門 風呂の屋根 青竹葺いて いやはや立派」

  「さあ次は 新たな仕事 待ち構え 俺も何だか 若さみなぎり」

 

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shin-1さんの日記

○県境の町は愛媛で一番東京に近い町

 いつも思うのですが、愛媛県内の過疎地に行くと決まったように「こんな僻地まで来ていただき恐縮です」とあいさつされます。確かに愛媛県は東西に細長い県ですので県庁所在地からだと、いくら高速道路が整備されているからといっても愛南町の旧一本松だと3時間もかかるし、伊方町の旧三崎町でも2時間、また橋が架かからなかったしまなみ海道沿いの島々へは、更に更に時間を要します。ですから自分たちの住んでいる所を僻地だと思っているのだと思います。しかしそれは心の負い目であって、もっと自信を持って自分たちの町に生きなければならないのではないかと思うのです。

 今日はしまなみ海道を通って今治市の旧上浦町の高齢者フェスティバルの記念講演に招かれ、朝立ちで出かけました。しまなみ海道沿線はもう春の装いで吹く風に磯の香が漂い、日本一のつり橋を渡って行きました。少し時間があったので旧吉海町のバラ公園に立ち寄ってみました。シーズンオフということもあって公園周辺に人影は殆どなく、バラ公園の管理をしている女性が数人黙々と作業をしていました。バラの芽は芽吹きはじめており、女性の方に聞くとこの公園内には6500本ものバラがあるそうですが、毎日こうした丹精があるからこそ5月の美しい花があるのだと、むしろ花を見たより感激しました。今年のゴールデンウィーク後には、しまなみ海道もいよいよ全通するとのこと、尾道への所要時間は20分も短縮されて便利になるそうなのですが、吉海のバラ公園にとって全通は通過する町になるだけに手放しでは喜べないのではないかと心を痛めました。

 旧上浦町には広島県瀬戸田町、いやもう尾道市と合併をしたので旧瀬戸田町と言うべきでしょうが、愛媛と広島を結ぶ立派な橋が架かり、その袂に道の駅があります。この道の駅の創業時には随分と深いかかわりを持ちました。当時の産業課長だった吉田さんと計って色々と知恵を出しました。当時は開通景気も重なって凄い人でしたが、今は往時ほどの勢いはなくひっそりした雰囲気でした。

 今日の集会は文化勲章受章者の村上三島記念館でありました。嬉しい事にかつて県議会の重鎮であった先田先生が面会に来ていただきました。在職中、一介の役場職員だった私に何かと目と声ををかけてもらった大恩の人ですが、わざわざのお運びに恐縮してしまいました。また良く酒を飲みよく夢を語った富士見園社長の鶴岡元議員さんも楽屋へ面会に来られ、嬉しい出会いでした。

 会場は約500人の熱気でムンムンでした。お年寄りのパワーは凄いと思いました。しかし残念な事にどの役員さんからも「こんな僻地まで」と謙遜でしょうが言葉が出ました。私は「ここは僻地ではありません。松山より東京に近いので、松山の方が僻地ですね」と笑って反論しました。私は思うのです。旧上浦町のような穏やかな地域で人生の終わりを迎えれることの幸せを・・・・・。皆さんもそう思いませんか。私は自分の地域が僻地だとは一遍も思ったことはありません。今は人間牧場も作り、むしろ田舎を見せびらかせて暮らしています。水は美味い。空気は美味い。食べ物も美味い。人を気遣う最高のコミュニケーションがある。こんな天国のような所で生きれることは最高の贅沢なのです。自分の暮らしの素晴らしさは外に出ないと中々分らないものです。私の90分の話はその事に大半を費やしましたが、さて心の扉は開いたかどうか・・・。

  「こんなとこ 僻地僻地と 言うけれど 何処が僻地か 東京近いぞ」

  「幸せな 日々の暮らしが あるとても この上何を 求めたがるか」

  「ハーモニカ 吹けばいきなり 歌いだす 体感音楽 心に染みて」

  「花束を 講演お礼に 渡されて すっかり揚がり 時計忘れた」  

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shin-1さんの日記

○ワープロに再び命

 妻の勤めている医院ではパソコンが使われていますが、妻は何故かマニュアル通りの使い方しかできないので、パソコンの使い方を知りません。ですから文章も打てないのです。今年からこの医院もさらにパソコンを充実するそうで、練習するように先生からお話があったとのことでした。早速キーボードの特訓をしたいと、もう2年間も使っていないワープロ書院を持ち出して電池を交換し打ち始めました。「私のパソコンで練習したら」と言ったのですが、私の大切な情報を滅茶苦茶にしては大変と、昨夜ワープロで練習を始めました。私が自分の書斎で仕事をいていると「お父さん」「お父さん」と隣の部屋から声がするのです。「お前のお父さんではない」とその都度部屋を移動するのですが、最後はうるさくなって険悪なムードになりました。

 人間の記憶なんて当てにならぬもので、あれほど使っていたワープロも2年間もブランクがあると「さてどうだったか」と思うほど、操作を忘れているのです。操作をしながら思い出すのですがこれが中々思い出せないほど私の頭は退化の一途を辿っております。

 ワープロを打ちながらふと思いました。ワープロに打ち込んだハガキ通信は果たしてどうなっているのだろうと・・・・・。そうです。私はこのワープロ書院で確かに一年365日のつれづれをハガキ通信として世に送り出しました。ですからどこかにあのフロッピーが残っているはずなのです。今のように別仕立てのプリンターがある訳ではないのでプリントするには感熱紙かプリンターリボンが必要です。そんなものも処分してなくなっているので、早い機会に印刷し、何冊かの手作り本を作っておきたいと思いました。

 そんなこともあって古いワープロのフロッピーを書棚の置くから探し当て画面に出してみると確かに記録は残っていました。嬉しくなりましたが印字できず今回は見るだけとなってしまいました。でもワープロも偉いです。2年間も書斎の隅で埃にかぶって見向きもされなかったのに、ちゃんとご主人様のことを記憶しているのですから。もう電子ゴミと思っていたワープロに再び命を吹き込み、もうひと働きしてもらいたいと、丁寧に妻は掃除をしてくれました。人間の、いや私のエゴがここにも見え隠れしました。

  「部屋の隅 埃を被って 出番なく やがて消えゆく 俺と同じか」

  「ワープロの 感熱・リボン 探したが 何処にあるやら 行き方知らず」

  「早いうち ハガキ通信 一冊の 本にしたいと 願っています」

  「この歳で いえいえパソコン 歳でなく 頭と体で 誰でもできる」  

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shin-1さんの日記

○みかんが美味しい季節です

 わが家のあちこちを探して見ますとみかんのオフシーズンなのに沢山のかんきつ類に囲まれて暮らしていることが分ります。まずレモン、コーヒーの飲めない私はもっぱらレモンを少し厚めに切ってレモンティ、しかも少し見栄えは悪いが無農薬なので安心して飲めます。先日も御荘牡蠣が届きましたので酒蒸にしてレモンを垂らしました。もうたまりませんで、次男などは牡蠣を7個もお代わりしました。(私は正直な話余り好きではないのですが、料理の腕前がよい妻の手前美味しいと言って食べます。私たちのところでは「カブス」という酢を取るのがありますが、これは鍋物には最高です。名前からしてカ・ブス」と女性の顔(おっと失礼)を連想しますが、なかなかどおして水炊きにはこれと唐辛子がないといけません。レモンもカブスもわが家の菜園の隅にちゃんと植えられています。

 昨日妻が金柑を貰ってきてシロップ煮を作っていました。マーマレードやユズの皮などの保存食品に加え何故か酢橘も冷蔵庫の隅に残っています。このように料理や食べ物に彩を沿えてくれるのもかんきつ類なのです。(わが家の金柑の木は椿さんで買って植えたのですが、何故かご主人様に似て野良木で未だにろくな実を成らせてくれません)。

 雑柑類が美味しい季節になりました。つい最近は流行り廃りが激しくセトカだのハルミだのよう覚えませんが、ネーブル、ポンカン、八朔、伊予蜜柑など家の中にゴロゴロしていて、やはりみかん所なのでしょうか近所の人が何かにつけて届けてくれるのです。晩生(おくて)と称するみかんも今は最高に美味しいです。そして極めつけは三崎町(現伊方町)の塩崎さんが毎年この頃になると届けてくれる清見タンゴールです。切って食卓に出すのですがこれが果汁が乗って美味しいですね。先日の飲み会で手土産として貰いましたが、孫に送ったためもうなくなりそうです。

 一昨日地元の方にお願いして伊予蜜柑10キロ入りを10箱、全国の知人友人に出荷しました。早速お礼の電話やはがきが届いていますが、粉雪舞い散る北海道へも2箱送りました。夏に夕張メロン、秋にはジャガイモを送ってもらった返礼です。

 妻も子どももみかん類が好きで、のべつまくなく食べているので、みかんの頃になると手が黄疸のように黄色くなっています。お陰さまで少し太っていますが、これはみかんのせいではありません。食べ方が問題なのです。「朝フル」の話をしてやりますが、一向に乗ってきません。大河内さんや清水さんの話をいつかの機会に聞かせたいと思っています。

 わが家の菜園で冬を過ごしたものに甘夏があります。今年は寒さで随分実が落ちましたが、それでも越冬し甘みを蓄えて出番を待っています。摘み取ると腐るので、わが家では初夏の頃までこのまま置いて食用やおすそ分け用にします。木のためには早く取った方がよいのでしょうが、まあ大目に見てください。

 こうしてみると、わが家の暮らしにとってかんきつ類は大きな役割を担っていることに気がつきます。これだけでも一冊の本ができるくらいですね。

  「今朝みかん 昼伊予蜜柑 夜清見 明日はネーブル 夏夏みかん」

  「金柑を 煮詰めて作る 喉薬 風邪気味父に お粥とともに」

  「不思議だな 高接ぎすれば 違う実が 同じ木だのに 何故になるのか」

  「今の子は 蜜柑を食べぬと ぼやく人 作っているのに 喰わないのだから」

 

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shin-1さんの日記

○Eメールで毎日が楽しいです

 私はパソコンが大の苦手です。ですから今までパソコン通信などは使わずもっぱらハガキ通信が主流でした。ですから最近になって仲間内の会合ではパソコンの話題になると、私は蚊帳の外的な孤独を感じていました。これは不味いと思ってみても、パソコンへの投資能力やパソコンの知識を持ち合わせていなかったので、ジレンマの日々が続いていたのです。職場のパソコンを使ってあれやこれやと文章を書いたり、仕事に必要なメールのやり取りぐらいだったのですが、仕事を辞めてからはその道も断たれてしまったため、このまま逃げたら駄目だと思うようになり、思い切ってパソコンに挑戦しました。息子と共謀して無線電話回線を引いて、とりあえずインターネットができる体制までは持っていったのですが、これがまた右往左往の連続で、息子に面倒くさがられながらもどうにかインターネットで連絡が取れるようになり、娘婿の協力でホームページやEメールアドレスも用意され、さらに昨年9月からはブログの書き込みもできるようになり、苦手克服と相成りました。しかしまだブログに写真を取り込んだり編集をする技術は伴ってないので、それが只今の悩みの種なのです。

 先日清水さんの紹介でいーネットのメーリングリストに名前を連ねることを許可されましたので、30人くらいのメール友ができ、傍観的ながら皆さんのメールを読んだりメールのやり取りをしているのです。たまたままちづくりサロンがあって多くのメル友が参加していましたので、最近では話題も共有できるようになり、パソコンを開けるのが毎日楽しみです。「パソコンは相手が見えないから誹謗中傷的な勝手なことを書くもの」という先入観は払拭され、こちらの意見も書き込んでいます。最近は2.3日家を空けているとメールが溜ってその処理に時間がかかる程です。

 私のパソコンにはこうしたメル友の他に業務用とでも言おうか、仕事のやり取りの情報も沢山入ってきます。今日も名古屋から原稿の校正のための原稿が添付されていたことを見過ごし、締め切りが過ぎたブーイングが電話でありました。メールは余程的確に処理しないと見忘れや処理忘れ、添付開き忘れが多く、まだまだ私のパソコン能力は幼稚園程度なのです。

 自分の自由時間の中でパソコンの前に座る時間も次第に多くなりました。今は指定でも毎日一時間はパソコンの前に座っていますし、仕事の能率も随分上がったような気がしています。何はともあれパソコンが苦手や苦痛であった一年前のスランプからは完全に脱皮したことをご報告します。「偉いぞ進ちゃん」なーんて言葉が返ってきそうです。

  「逃げてたら 追いかけられる そう思い パソコンマスター 今は楽しく」

  「メル友の 顔も知らぬに メール打つ 知ったかぶりが いいではないか」

  「スラッシュや ドットコロンと 言われても 言葉通じぬ あんたは古い」

  「メル届き 八十歳とは 驚いた 飛んでるばーちゃん きっと長生き」

  

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shin-1さんの日記

○石の上にも3年

 愛媛大学の非常勤講師をお引き受けして今年で丸三年を終えました。長いようでも短いようでもありましたが、今日幾つかの提出書類を大学に持っていって一応の区切りをつけました。最初はドギマギした大学の仕事もどうにか飲み込めて今は少しゆとりが出てきた感じです。非常勤講師は毎年契約更新ですから成果が出なかったり失敗すると声はかかりません。先日担当の先生からメールで来年もとのお誘いがあり、今日偶然にも大学から非常勤講師就任の承諾依頼書が送られて来ました。今晩妻と相談して決めたいと思いますが、断る理由もないので、大学生が卒業するのが4年だと思って引き受けたいと思っています。さて妻はどう言うでしょうか。学生の皆さんに「学びの感想」というレポートを書いて提出してもらいましたが、この一年前期30時間、後期30時間、計60時間の受講感想は概ね良好で、特にフィールドワークで県内市町を調査のために訪れたことは印象に残っているようです。

 私自身も若い学生との交流で随分学ばせてもらいました。今の若者がどんな意識を持ちどんな行動をとるのか興味があり研究もしたかったので積極的に学生と情報交換をしました。また学生が考えるまちづくりについては「えひめ地域政策研究センター」の機関紙「舞たうん」に、二回連続でその成果を掲載してもらいましたし、研究員の皆さんと学生の話し合いの場も持てました。

 私のゼミには今年は26人の学生が参加し「地域振興とまちづくり」というテーマで様々な切り口から講義を試みましたが、一年間の学習を経て学生が提出した「私の感がえる地域振興とまちづくり」には、A4i一枚の短い文章ながら踏み込んだ意見が随所に見られました。

 大学は最早先生から講義を受けるだけの時代は終わったように思います。講義は勿論大切ですが、私たちのような社会人の経験から生まれた論理を聞いたり見たりしながら主体的にどう学習ができるか、そして願わくば大学と社会の間の大きな壁を取っ払って、いかに社会貢献できるかが試されているようにも感じました。学生たちには「たのくるしい」という私が作った造語を最初に贈りましたが、はて楽しくも苦しくもあったでしょうか。 さてさて来年はどんな教え方をしようか、思案中です。

  「大学へ 三年通って 教えたり 知識増えたと 感謝レポート」

  「たのくるし そんな造語の 学び終え また新しき 学生たちと」

  「優良可 顔と名前と レポートで 点数つける 首をひねりて」

  「春始め 冬終わりの 授業する 学生衣 春から冬へ」   

 

 

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