shin-1さんの日記

○二つの研修会

 今日は忙しい一日でした。まず午前7時半に家を出て、新田青雲中等教育学校へ向かいました。国道を通って衣山の道を通ったため、途中にあるかつて私がお世話になった龍華堂という印刷屋さんに、ちょいと立ち寄り社長ご夫妻のご機嫌を伺いました。私が町工場にも似たこの店に出入りしていた頃はもう30年も前でしたから、ご主人や奥さんも今はかなり高齢化して難聴のようでしたが、大変喜んでいただき旧交を温めました。講演の予定もあるからと早々においとまし、目と鼻の先にある学校を目指しました。

 新田高校の敷地内にある青雲中等教育学校は中高一貫教育の6年制の学校です。県下に先駆けて作った学校なので教育理念もしっかりしていて、親友野本千寿子さんの紹介を受けて先日石丸校長先生がわざわざわが家まで足を運ばれ、講演の依頼と同時に学校の概要について説明をして帰られたのです。日頃ご厚誼をいただいている野本さんの頼みを断ることも出来ず、今日の講演となったのです。

 「インスパイアリングレクチャー」と題した今日の講演会は生徒全員が講堂に集まっていました。「インスパイアリングレクチャー」とは、元気をもらい、刺激をもらい、生きがいをみつけるためのヒントを得る講座だそうで、毎月一回私のような外部の講師を招いて色々な経験や携わっている仕事について、あるいは人生観や生き方について話しを聞いているようです。そのためでしょうか、聞く態度もしっかりしていて、私の話にも熱心に耳を傾けてくれました。

 私は僅か50分の短い時間なので、青春時代に手に入れたい四つの道具や、水産高校の実習船愛媛丸に乗船した時経験した、大時化の海での生死のさまよいなどや氷山の一角についての話しをしました。さて50歳近くも離れている私の話が理解できたかどうかは疑問の残るところです。

(ミニフォーラムがあった講堂)
(小学区を移築した米博物館の中には長い廊下がありました)

(中々味があった森田さんの事例発表)

 新田青雲中等教育学校を出た私は、一路西予市を目指しました。「町並み保存と地域づくりIN宇和」という地域ミニフォーラムに参加するためです。今年は西予市を中心にして10月、全国町並みゼミ卯之町大会が開かれる予定で、今日はその前哨戦なのです。宇和町に入って間もなく三崎の塩崎さんから携帯が入り、うどん屋で一緒に食事をしながら久しぶりび積もる話しをしました。会場となる宇和米博物館は旧宇和町小学校を移築した施設で、小高い丘の上にありました。近くを通ったり近くまで所用で来ながら一度も中を覗いたことがないだけに楽しみにしていました。会場へ着いたのが早かったため、米博物館の近くの三好さんのお家を訪ねました。シーサイド公園で不慮の事故に会い亡くなった息子ささんの仏壇に線香を手向けるためです。あれ以来ご厚誼をいただいていますが、三好さんは闘病生活をされていてかなり体力が落ちていました。短い時間でしたが様々な話をして人間牧場での再会を誓い合いました。

 会場の予定された席は満席で、椅子を追加する盛況ぶりでした。岩松の町並み保存について宇和島市教育委員会の森田浩二さんが30分ばかり事例発表をしました。森田さんはまちセンに出向して研究員をしていたこともあって、内容も要を得て分りやすく中々の論客です。馴染みの顔も多くNPO法人全国町並み保存連盟常任理事の八木先生、宇和中町休憩所三好さん、それに私の三人がパネラーとなり、えひめ地域づくり研究会議事務局長の岡崎さんがコーディネーターを務めました。それぞれの思いが交錯して絡みのいい討論が2時間ばかり続きました。

 外はにわか雨が降ったり陽が射したりと安定しない天気で、講堂の中はかなり蒸し暑く感じました。でも議論の深まりが熱気を作ったようにも見えました。城川から参加していた西岡先生は私が中学校時代の恩師で、久しぶりに旧交を温めました。また先生にはお土産までいただき恐縮してしまいましたが、何時になっても教え子のことを心配していただく恩師とはいいものです。

 朝から夕方まで休む間もなく話し、人と出会い、まちむらや人を訪ねて今日も充実した一日でした。こうして長くも短い一日が毎日のように終るのですが、明日も幸せな一日は続くことでしょう。

 わが家へ帰ると3人の孫がやって来ていてとても賑やかでした。これもまた幸せというのでしょう。

  「朝は北 昼は西へと 移動して お座敷かかり 幸せ語る」

  「早十年 命亡くせし 人は今 線香手向け 冥福祈る」

  「元気かと 握手求める 恩師あり 老いてかくしゃく 私も元気」

  「こんなこと 話せとメール 届いてた 言われるとおり 話さず無骨」


 

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shin-1さんの日記

○面白い形のミニトマト

 お盆が過ぎても暑くてかなわなかったのに、さすがにこの頃になると朝夕涼しくなって、昨日の朝妻は薄手の布団に包まって寝ていました。傍で寝ている私はいたって平気で、何時ものようにタオルケットを布団の隅に追いやる寝相の悪さです。妻と私は同じ人間なのに鈍感な私と敏感な私とではこうも季節の感じ方が違うのです。

 夜が明けるのも随分遅くなってきて、私が毎朝起きる午前4時はまだ真っ暗で、曇っている今朝などは午前5時半になってやっと夜明けです。私は起きると書斎へ入りまずパソコンの電源を入れてトイレへ行くのが日課です。最近はパソコンも少しくたびれたのか、あるいは容量がオーバー気味なのか立ち上がりが遅く、時々言うことを効かなくて仕事がはかどらなくなりました。そのため新しいパソコンに変えようと準備を進めて購入したのですが、使い方が今一しっくり来ないし、ソフトの入力を頼んでいる息子が忙しくて間に合わないため、こうして古いパソコンに文句を言いつつ、朝のお勤めのようにブログを書いているのです。でももう時間の問題で、間もなく新しいパソコンに移動するべく机の上に並べて置いているのです。

 今日は午前中松山市で、午後は西予市でそれぞれ会議が予定されていて、早い朝食を終えると出発しなければならないためブログを書く時間が少なく、こうして思いつくままに指先を動かしているのです。6時に起きた妻が隣の居間から、「お父さんトマトを取って来て」と声をかけました。早速私は台所から金網篭を持って来て家の横の家庭菜園へトマトを取りに出かけました。「わあ凄い」と思わず声が出るほどトマトは沢山赤く熟れていました。ミニトマトはヘタの部分が弱く手で触っただけで簡単にもぎ取ることが出来ますが、注意をしないと青い実まで落果する恐れがあるのです。トマトの木も随分大きくなって木の中へ手を突っ込んで採取するのには中腰にならなければならず、腰を痛めないように取って行きました。ほんの10分ほどで金網篭いっぱい取れました。これを収穫の喜びというのでしょうか、さも自分が作ったような顔をして、「おい取ってきたぞ」と台所の食卓上に置きました。何時もの事ながら妻は「まあ嬉しい」と、早速何個かを手に持って水洗いして食べていました。私も洗ってもらって食べましたが、木の上で完熟したトマトの味は格別で二人で沢山食べました。

 取る時に気が付いていたのですが、今日収穫したトマトの中に双子の変わった形をしたものがありました。一卵性双生児とでもいうべきそのトマトは根元がくっついていて、見方によってはハート型をしているのです。今年はシーサイド公園の恋人岬が恋人の聖地百選に選ばれたばかりで、そのモニュメントの製作に関わってハート型にしたり、漁協女性部の皆さんがハート型のラブジャコ天を作るなど、何かとハートに縁があったのでこのトマトはジャコ天のお店にでも持っていってあげようかと思いました。普通はこうした奇形物は縁起が悪いと捨てましたが、今はそれなりの話題になって、時には新聞のホットな話題として紙上を賑わせているようです。

 今治へ講演に行った折貰ったミニスイカの苗も畑の隅に植えていましたが、ソフトボール大からハンドボール大までの大きさのスイカが10個くらいなりました。今朝は最後の2個を収穫しました。ほおっておいたのにしたたかに生きて実をつけてくれたのです。今日は孫がやって来るので、一緒に植えたことを話しながら食べてみたいと思っています。

  「一卵性 双子のトマト 発見し 何処かハートに 似てて楽し」

  「ミニスイカ これで十個目 なるものだ 味もまあまあ 来年こそは」

  「パソコンの 更新間近 データーを 移す作業が 終り次第に」

  「また一つ 悩みの種が 増えました パソコン変わり 自身喪失」

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shin-1さんの日記

○田舎のバス

 今日は大洲へ講演を頼まれて出かけました。余裕を持って1時間半も前に家を出たため、ゆっくりと車を走らせました。そのうち私の車の後に車が何台も並んで走るようになりました。気になって前を見ると私の前にも6~7台並んでいてその前を一台のバスが制限速度で走っていました。やがて追い越し禁止区間が解除されると私の前の車は一斉にスピードを上げてバスを追い越し、私の後の車も全て私の車とバスを追い越して行きました。よく見るとこのバスは海岸線を走る路線バスなのです。バスの後ろについて走りながらバスの中をうかがいましたが、バスの中には乗客らしい人の姿は見つけることが出来ませんでした。乗客が一人もいなくても走らさなければならないのが路線バスの宿命です。普通の人だとこの光景を見て「何と無駄なことか」と思うのですが、路線バスは各地にある停留所に乗客のいないことを確かめるように速度を落としながら走っていました。

 田舎の人、特に車の運転が出来ず交通手段を持たないお年寄りにとっては、バスや列車は唯一の交通手段なのです。そのため乗客が乗らなくて赤字だからとバス運行廃止をバス会社は提案をします。すると地元民からは唯一の交通手段をなくさないようにと行政に陳情し、行政もそれではと何がしかの予算を組んでバス会社に補助金を出し運行できるよう働きかけて、減便に減便を重ねながらもどうにか走らせているのです。

 乗客が殆どいないのにバスを走らせている光景は田舎ではよく見かけます。しかし実態と合わない部分も多く、最近では市町村が独自で周回ルートをつくり、手を挙げれば乗れる過疎バスを走らせて効果を挙げている地域もあるようです。こんな住民のためのバスは過疎地だけかと思えば、松前町のような公共交通機関が発達している地域でもバス会社と提携してバスを走らせていて、面白い試みだと感心しました。

 「♭田舎のバスはおんぼろ車 タイヤはキズだらけ~」なんて歌が昔あって面白おかしく唄ったような記憶があります。ボンネットバスが田舎の砂利道を砂塵を巻き上げて走る長閑な姿はもう昔の出来事、まさに宮崎峻の世界なのかも知れません。このままだと田舎のバスは遅かれ早かれ地方の街や村から姿を消すでしょうし、それもやむを得ない出来事として受け入れなければなりません。バス会社の赤字経営に対する苦悩と行政の財政事情による経費節減とを一気に解消する妙案は中々見つかりそうもないのです。

 先日北海道伊達市のまちづくりへの挑戦をテーマにしたビデオを、限界集落の勉強会で見ました。市町村合併によってまちづくりの方向を見失っている市町村が多い中で、伊達市は定住人口の増加を目指して地道な取り組みがされていました。また2地域居住という全く新しい発想で地域づくりをしている事例もとても参考になりました。手をこまねくだけでなく、合併して3年余りが経ったのですから、もうそろそろ新しい独自の色を出さないと、後ろ向き行政だけでは地域住民に合併のメリットを説明できないのです。

 先日、何の用もないのにバスではなかったのですが思い切って上灘から長浜まで列車に乗ってみました。列車の車窓から見える海辺の景色は子どもの頃の原風景を蘇えらせてくれました。しかしその列車の行き着いた長浜では長い時間待ちがあって、そこから先への旅は残念ながら諦め、再び折り返しの列車に乗って帰って来ました。顔見知りの人が何人か乗っていて、「久しぶりだが元気ですか」「何処へ行ったの」「何しに行ったの」と矢継ぎ早の質問です。「はい別に用はないのですが気分転換に乗ってみました」といったら、「あんたも退職したので相当暇なのですね」と呆れた言葉が帰って来ました。

 別名「病院列車」「爺婆列車」と揶揄されるだけのことはあるなあと自分自身を納得させました。折角廃線の憂目から救った予讃線海岸周りの列車ですから、そろそろ廃線?という言葉が出る前に、行政も住民もことの重大さに気付いて守る運動を始めて欲しいと、「気づかないふりをしている人たち」に物申したいと思いこの記事を書いてみました。

  「乗客の 姿も見えぬ 路線バス ノロノロ車 従え走る」

  「バス廃止 絶対反対 言うけれど 乗らぬバスなど 必要でなし」

  「存続を するため駅で コンサート 残った残った 今に残らず」

  「また一つ 田舎の不便 増えるかも 赤字経営 財政難で」

 

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shin-1さんの日記

○小さな贅沢

 午前中から午後にかけて人間牧場の今夏最後の草刈りにいどみました。一昨日あたりから天気が秋に転じたのか、炎天下は暑いものの木陰を吹く風は涼しく、草刈機の給油の度に水平線の家のウッドデッキに、大の字になって寝そべり空を見上げると真っ白い雲が真っ青な空をゆっくりと流れ、ついウトウトしました。それでも夏の水不足のせいか草は柔らかく草刈機の刃にまとわり付いて切れが悪く、かなり苦労しましたが、やっと綺麗に全てを刈り終わり、秋を迎える準備が出来ました。

 昨夕は広島・岡山と650キロも走った旅の疲れもあるし、久しぶりに風呂に行こうと妻が誘うものですから、大洲の嵯峨野の湯へ行きました。妻は友人たち数人と高校野球の優勝予想の当てやいこをしたそうですが、素人で高校野球も分らないのに見事的中したそうで、その景品として風呂券を二枚貰ったらしくご機嫌に、「お父さん今日は私のおごりよ」と風呂券は500円以下だというのに何と気前のいいことでしょう。「じゃあ行くか」と妻は仕事から帰って直ぐに親父の夕食を作って持って行き、「直ぐに帰るがちょっと出かけてくる」と言い残し午後5時に家を出ました。

 普通松山へ行く上りの道は見慣れた光景ですが、大洲や八幡浜へ向って走るとダントツに車の数も少なく、何処か田舎の風情を感じ少し落ち着いた気持ちになります。それは妻も同じで、一緒の屋根の下で毎日毎日暮らしながら、会話の少なくなりつつある年齢に達すると、こうでもしないと中々会話の機会が少ないことにも気付きました。今は昔のように会話で喧嘩することや衝突することも殆どなくなりましたが、久しぶりに会話が弾んだドライブでした。

 嵯峨野の温泉で約1時間余りを過ごしました。これほど離れている場所の温泉なのに知り人は結構いるもので、「若松さんではありませんか?」「今日は何しに来られました?」「あなたは退職されたそうですが今は何をしていますか?」「この間伊予銀の雑誌であなた人間牧場の紹介記事を読みました。人間牧場へ行くのにはどうすればいいですか?」と質問攻めにあう始末で、オチオチ温泉にもこれないなあと苦笑してしまいました。

 温泉を出た所に嵯峨野というレストランがあります。ここで食事をすると温泉の割引券がもらえることを妻は知っていて、ここで夕食を食べようという話になりました。最近私たち夫婦は別々の物を頼みます。そして二人で半分ずつ食べ合いするのです。食べる量の少なくなった私たちの苦肉の策で、こうすれば少量他品目を楽しめるのです。私は蕎麦とうな重のセット、妻は蕎麦とお鮨のセットを注文し、海草サラダを一品加えました。やがて料理が運ばれ贅沢にも豪華な料理に舌鼓を打ちました。毎日三度の料理を作り、毎日三度の片づけをしなければならない妻にとっての外食の魅力は上げ膳下げ膳なのです。私も妻も外食が嫌いで余程のことがない限り余り出かけませんが、それでもささやかで小さな贅沢に満足、満腹の夕食でした。

 私たちの食事は子どもがそれぞれ独立したため、栄養過多となるような肉類が陰を潜め、海の町らしく魚と野菜中心の食事に変化しました。私の胆のう摘出手術の影響もあって脂肪分の少ない食事に切り替わったのです。お陰で少し痩せ気味の私も、少し肥え気味の妻も体重的にはベストコンディションに近付きつつあるようです。この上は健康によいものを食べることは勿論ですが、たまには妻の労働軽減も考えて外食も悪くはないと思いました。

 昨日は聞こえは悪いのですが、結局妻の当てやいこで貰った風呂券が元手の散財となりました。妻が「お父さん今度はお父さんの番よ」と、暗に私の小遣いからのおごりを期待しているようです。私の財布はいつも妻が管理をして入れてくれているので、私のお金ではないので、「ああいつでもいいよ」とやり返しました。まあ犬も食わない夫婦の話をしてしまいましたが、こんなささやかな幸せをこれからも追い求めて行くことが、本当の幸せなのかも知れません。

  「儲けたと 得意げになる 妻の弁 風呂券二枚で 鬼の首取る」

  「ささやかな 食事を二人 分け合って 食べる幸せ これも幸せ」

  「湯に浸かる 壁の向こうの 妻思う トドの入浴 似ているような」

  「温泉と 食事セットの むつまじさ 久しぶりだな こんなのんびり」 

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shin-1さんの日記

○青年の船班長会の案内状

 昭和51年に第10回総理府派遣青年の船に班長として乗船してから、早いもので34年が経とうとしています。私が30歳の時の出来事です。私は建国二百年のアメリカやメキシコ、ハワイなどを歴訪するこの大きな旅で人生観が変わるほどの体験をし、以後の自分の生き方に大きな影響を与えてくれたのです。もしもあの船に乗らなかったら自分の人生はこれほど充実していなかっただろうと思うのですから、青年の船は私の大恩人なのです。

 青年の船には私と同じように班長と呼ばれる指導者が30人選ばれて乗船し、班員の指導に当りましたが、それぞれ立派な方で私を基準にすれば既にリタイアした人、そろそろリタイアする人など、人生の転機を迎えていることだと思うのですが、下船後も班長会を組織して毎年一回持ち回りで交友を温めているようです。私は下船した時自分に言い聞かせていました。というのも、青年の船に班長として乗船したある先輩から、「班長で乗船したからといって、青年の船の仲間と付き合うことを重視する必要はない。そんな暇があったら、自分のふるさとの若者を育て、ふるさとのためになることをやりなさい。それこそが大事な事後活動である」というのです。同感した私は34年間の間にたった1回しか班長会に出席していないのですから、班長の仲間からは当然ブーイングが起こるのは当たり前なのです。私はそんな信念を持っていましたが、毎年案内状を貰う日時が多忙で行けなかったというのが正直な話です。

 昨年の班長会も東京で外国とのテレビ会議が重なり出席が叶いませんでしたが、どうも昨年の班長会で、「次回は愛媛県松山で開催し不義理をし続けている若松に担当させよう。そうすれば嫌でも若松は参加する」と欠席裁判に合い、私に前回の責任者本田さんからその旨電話が架かってきたのです。

 あの時の青年の船には愛媛県出身で今は横浜に住んでいる八幡浜出身の林富佐子班長さんがいます。彼女と二人で今回の班長会はやらねばと、相談しながら準備を進め、第一回目の予備連絡に続いて一昨日正式な案内状を全国に向けて発送しました。もとより、自分の時だけは来て欲しいなんて虫のよい話は全然考えていません。また日頃不義理をしているためそれ程の参加期待もできないものですから、まあ誠心誠意粛々と受け入れ準備をしたいと思っています。先日林さんから電話が架かってきました。お盆の帰省で実家に帰っているとのことでしたが、私は残念ながら広島と岡山へ出張中で、出会うことが出来ませんでした。心配して電話をかけてくれた事に感謝しながら案内状を出しました。

 最近はハガキや封筒の印刷もパソコンで出来るような便利な世の中になっていますが、私はそれ程能力が高いわけでもなく、四苦八苦しながら本田さんからいただいた班長さんの住所氏名を打ち込み、案内文と返信用ハガキを作成しました。文房具屋さんに行って四角い封筒を買い求め住所氏名をプリントして発送する作業は一人でするため結構時間がかかりましたが、やっと発送にこぎつけました。後は締切日を待って対応すればいいのです。気になっていた作業だけに無事終ってホッと一息といったところです。

 今日早くも嬉しい出席通知第一号返信用ハガキが舞い戻ってきました。広島県の松永さんからです。



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shin-1さんの日記

○しまなみ海道から瀬戸大橋を巡る旅②

 瀬戸田を出発したのは午後9時半でした。満月にも似た月を追うようにしまなみ海道から山陽道に出て、福山、倉敷を経て岡山に着いた頃はもう11時を過ぎていました。カーナビに入力した岡山駅前の予約ビジネスホテルにチェックインして、友人たちが集まるホテルの近くの居酒屋に顔を出しました。私が岡山に来るというニュースをかぎつけて5人ほどが集まって歓迎会をしてくれたのです。夜も遅いのでと誘いをお断りしましたが、聞き入れてもらえず、深夜の出会いとなりました。皆さんはもう出来上がっていて、随分と酒の肴にされてしまいました。前もって仲間に話しをしていたので12時杉には無罪放免となりました。ホテルへ帰ってシャワーを浴び、テレビを見ながら本を読み、いつの間にか夢の世界へと旅立っていました。私は自宅にいると通常は12時頃に寝て午前4時頃に目を覚ますのが何時ものパターンですが、この日は旅の疲れかぐっすり寝込み、気がついたら朝6時になっていました。やることもないので早速起きて顔を洗い早朝読書をした後ホテルを出ました。旅先では出来るだけ界隈を歩くようにしていますので、のんびりゆっくり岡山駅前辺りを歩きました。岡山駅は大阪や山陰に向う中継点としてよく利用しますが、駅舎を出ることは殆どなく、歩いてみると駅のイメージが随分と変わったような気がしました。朝の散歩で携帯に付いた万歩計を見るとと6千歩も歩いていました。ホテルに帰ってシャワーを浴び身支度を整えてチェックアウトし、この日の目的地であるテクノサポート岡山へ向かいました。

 テクノサポート岡山は岡山空港に近く、また岡山インターにも近い市内からは少し離れた郊外にありましたが、車だとスイスイ行けて9時にはもう到着です。車の中でカーテレビを見ながら過ごしていると、高田事務局長さんが見えられ中に用意した控え室へ案内されました。岡山県が威信を掛けて作ったのでしょうが、まあそれは立派な建物で、森を切り開いて作った広大な敷地には幾つかの企業も進出していましたが、空き地もまだ多く、手入れの行き届かない空き地周辺や道端には夏の雑草が生い茂り美観を損ねているようでした。

(広場に設置さいたモニュメントが岡山の威信を物語っていましたが、どこか繁栄の遺物のようにも見えました。

 さて、この日の研修会は農業団体である岡山県経営構造対策協議会の主催で開かれ、その研修会の講師に招かれました。農業の振興のための指導助言や調査、情報提供、組織人材育成などを主な任務にしているようで、参会者も県内各地から認定農業者、集落営農団体、農協、市町進担当者、県民局、普及指導センターなどから100人近くの人が集まっていました。いわゆる農家を取り巻く支援者たちの集まりなのです。

 私の演題は「まちづくり・人づくり・拠点づくり」でしたが、90分の短い時間なので用意したDVDもついには利用することなく終ってしまい、セットして1時間半もその操作を今か今かと待ち続けた担当の方にブログ画面を通じ衷心よりお詫びいたします。

 農業の体力が落ちているのは誰もが認めるところです。そしてその中心となる集落の体力減退は農業不振、過疎と高齢化によって限界集落への道を突き進んでいるのです。これは最早国家的な支援をもっても再生不可能だとさえ思える凋落ぶりです。自給率は40パーセントまで落ち込み、農業への期待は大きい反面、農業、集落、農業者の今の体力では持ち堪えられなくなっています。このような集会に行く度に、どこか重く垂れ込めた暗雲のようなものを感じますが、へこたれたり諦めたりすr余裕はなく、もしこの日集まった人たちが本当にやる気になって農家を指導すれば再生は不可能ではないと力説しました。

 講演が終わって経営構造対策協議会の高田事務局長さんや、農業会議の中力事務局長さん、愛媛県今治市と縁の深い県農林振興課大内課長さんの三人と昼食をともにしながら様々な話をした後会場を後にして、岡山インターから高速道路に乗り、瀬戸大橋を渡って帰って来ました。

 思えば僅か2日間の近くで身近な小さな旅でしたが、車のメーターは557キロも走っていました。途中トイレ休憩のために立ち寄った豊浜サービスエリアで早めの補給をし、長旅の疲れを心配した妻からの携帯電話に返信をしました。また途中電話のあった山口県からの講演依頼も車を安全な場所に止めてお話をしました。

  「行き帰り 別の大きな 橋渡り 周遊の旅 いつものように」

  「対岸と いえど広島 岡山も 知らない場所が 幾つもありて」

  「出先まで まるでで追いかけ られるよに 次々架かる 電話にもしもし」

  「農業の 厳しい姿 これからも 益々悩み 深くなりつつ」  

 


 

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shin-1さんの日記

○しまなみ海道から瀬戸大橋を巡る旅①

 民俗学者宮本常一のように自分の足で歩き記した足跡ではないにしても、私の訪ねた全国の市町村の数も相当な数と距離になってきました。、ましてや僅か二日間で広島と岡山をひた走りに走れるのですから、全国を歩いた宮本常一や奥の細道を歩いた松尾芭蕉、それに全国を地図を作るために歩いた伊能忠敬がもし生きていたら驚くような便利な世の中になったものです。

 今回の旅は往路しまなみ海道を走りました。一旦しまない海道を全て走り抜けて尾道の奥座敷のような御調町まで行き、移動落伍寄席を終って同じしまなみ海道を引き返して夕闇迫る頃、井口島北インターで下りて瀬戸田町に向かいました。予定より1時間も早く着いたので島内を歩いて散策しました。

(耕三寺の山門)

 西日光といわれる耕三寺の前の道路を歩きましたが、寺の山門は既に閉門されていました。寺の裏側にある細い路地道を歩いて裏側に出ました。そこにはどの家も立派なみかん農家が沢山あって、このところの雨が降らない水不足のため特産品であるレモンやかんきつ類に潅水する姿があちこちで見受けられました。私はこれまで何度かこの島に来ていて、今では年に一度訪れるような頻繁さですが、これまで島の表の部分しか見ていませんでした。裏側に回ると人々の暮しが息づいていて、何とも温かい風情なのです。一軒のこじんまりした庭が目に留まりました。古さを感じさせる老松を見ていると、そこのご夫婦が散歩から帰ったところでした。不審者と見間違えられても困るので、自分の素性を明らかにして庭を見せてもらいました。ご主人は庭を褒められ余程嬉しかったのでしょうが、「まあお入りなさい。お茶でも」と案内されましたが、急ぎの旅の途中なのでと断り、立ち話をして分かれました。なだらかな路地道は海峡が一望できる海まで続いていて目の前に海と島が広がりました。

 対岸は上浦辺りで、遠くに大三島、近くには小さくひょっこりひょうたん島が見えました。

(大三島とひょっこりひょうたん島が遠望できました)
(海の玄関口に架かった黄色い橋の見える風情は何とも味があります)

 目を転じれば見慣れた海峡に見慣れた黄色い橋が見えました。ここが瀬戸田の海の玄関口で、対岸の尾道と三原への連絡船が発着する場所なのです。公共交通機関で瀬戸田へ来るのはこの船が一番便利なようですが、夕方のため人影もまばらで、尾道へ向う午後6時40分発の最終便に乗るであろう2~3人の若い女性がアナウンス放送に促されるように足早に桟橋へ向っていました。

(マリンオアシス瀬戸田)

(船着場の前にある案内看板を見ましたが、瀬戸田は魅力ある島なので、今度ゆっくりサイクリングでも楽しもうと思いました)

 夕闇迫る耕三寺に至る商店街を歩きました。子どもの頃や若い頃にこの商店街を歩いた時は軒を連ねた土産物屋さんで賑やかだったことを思い出しますが、今は閑散として子どもの姿さえも見えませんでした。

(夕闇迫る商店街にはボンボリの鈍い光が灯されていましたが、何処か侘しい島の夕暮れでした)

 約束の午後7時が近付いたのではーとふる講座の開かれる瀬戸田市民会館2階多目的ホールへ移動落伍寄席の道具を持って上がりました。受講生の中には顔見知りも多く、懐かしい話に花が咲きました。「一週間前に生まれたという孫悠真君が可愛くって」と目尻を緩める人、「先日はお世話になりました」と人間牧場にやって来た人、「夫婦だけで会話が単調で、今日の落伍を楽しみにして来ました」という人たちと和やかな会話を交わしました。世話役の皆さんは既に高座の準備に余念がなく、引っ張り出した机を二つ並べてにわか作りの高座がまたたく間に出来上がりいよいよ座布団を敷いて出来上がりです。金本さんの紹介で高座に上がりましたが、会場いっぱいの人を相手に楽しく話し、楽しく聞いていただきました。


(女性大半、男性ちらほら出下が、いつも思うのですが瀬戸田の人は楽しい人が多いので助かりました。顔見知りの平山郁夫美術館の館長さんも見えられるなど嬉しい出会いもありました)

 

私の「話の落ちはどうやらハーモニカの余韻だ」と、金本さんが落伍の始まる前に耳打ちされたことを思い出して、ストーリーのない四方山夜話で終りましたが、この日のダブルヘッター第一試合は御調町、第二試合は瀬戸田町、それぞれ楽しい観客に助けられ無事終えることが出来ました。普通だとこの会場を後にしてしまなみ海道を四国方面へ向うのですが、この夜は全く逆の方向へ走り岡山方面へと向かいました。

  「昼の部と 夜の部こなす 移動寄席 笑いの渦に 巻き込みながら」

  「島の裏 歩いてみると あちこちに 人の温もり 声かけくれる」

  「久しぶり そんな馴染みの 客がいて 私の落伍 聞きに来てくれ」

  「青々と 実るレモンの 木の根元 丁寧水やる 農家忙しげ」 

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shin-1さんの日記

○旅先トイレでの学び

 昨日は尾道市中央公民館の金本さんに招かれて昼間は尾道市御調町夜は瀬戸田町と、ダブルヘッターの仕事をしました。平成の大合併で海の町・島の町瀬戸田と尾道市を挟んだ山あいの町御調町が合併して(他に向島町と因島市も)、新生尾道が誕生したため、尾道と一口でいっても中々広い地域になったのです。瀬戸田や御調町へ行くのにはやはり今治からしまなみ海道を通って行きます。いつもながらの見慣れた光景ですが、多島美を誇る沿線の風景は島と島とを結ぶ現代的橋の造形美も重なって口では言い表せないくらい美しく、独り占めして見るのが勿体ないような気持ちになるのです。

 御調町は旧尾道の奥手にある町で、金本さんから聞いた河内公民館の電話番号をカーナビに入力して走ったため迷うことなく到着することが出来ました。馴れない道なので少し早めに出たため1時間も前に到着です。公民館のホールには既に夕日寄席の高座舞台が出来ていて、凄いことになっていると直感しました。

 そのうちやって来た金本さんと中央公民館長さんと別室で雑談していると、急に雨が降ってきました。カーラジオで聞いた天気予報によると前線の通過で雨が降るかもしれないということでしたが、よく当る天気予報に驚きながら、今日の参加者は出鼻を挫かれたのだろうと心配しました。しかしその心配をよそに会場は満員の盛況でした。わざわざ持ってきた捲りも、公民館が用意してくれた座布団もそろいいよいよ出番のようです。


 間もなく夕日寄席が始まるというので、長旅で忘れていた用を足すべくトイレに入りました。何気なく小便器を見てみると、三つある便器になにやら貼り紙がしてあるのです。一番手前には「もう少し前へ」、次の便器には「もっ一歩前へ」、最後の便器には「思い切って前へ」と書かれていました。公民館のトイレは不特定多数の人が使うため、下品なはなしですがおこぼしで土間が汚れるのを見て、公民館のどなたかの発案で書いたのでしょう。しかいこれが中々のヒントだと直感しました。やはり公民館とは生涯学習の拠点だとも感心しました。

 公民館の学習活動やボランティア活動は役割や機会がないと中々参加するきっかけがつかめないものです。もしこの言葉が便器のおこぼしのためでなく、そういう人たちのために書かれたとしたら、まさにホップ・ステップ・ジャンプになるだろうと思ったのです。しり込みする人たちに「もう少し前へ進みなさい」と手をとってあげるに違いありません。恐る恐る参加した人に、次は「もう一歩前に進みなさいと後押ししてあげるのです。そして少し自信が付いたら自立を促し「思い切って前へ」とい誘ってあげるのです。

 公民館の便所は人生の学びの宝庫です。私が勤めていたころの公民館の便所も色々な言葉が書かれていました。当時の教育次長さんが頓智の効いた方で「西や東にたれかけな南(皆)見る人が北(汚)ながるらん」などと墨字で書いて貼っていたのを思い出しました。

 旅先で出会った色々な教えは中々忘れられないものです。縁あって私は公民館を去った今もこうして公民館に話に行く機会が多いのですが、たとえトイレであっても学ぶ気概があれば学べるものなのです。

 「陰徳」という禅語に出会ったのトイレでした。ある時今はもう亡くなった教育長さんが毎日乱雑になっているトイレの下駄を揃えていました。教育長さんにそんなことまでさせてはいけないと、それ以来気が付けばトイレの下駄やスリッパを揃えるようになりましたが、その姿を見て私に「陰徳」という話しをトイレでしてくれました。人間は人が見ていない時は平気で悪いことをします。勿論トイレの下駄やスリッパも誰かが見ていれば綺麗に揃えれるのに、見ていない揃えないのです。隠徳とは人に見ていないところで積む徳のことですが、私は随分その教えを人にも伝えてきました。

 今の世の中はマナーの悪い人が目立ちます。タバコの吸殻も、ガムをかんだ跡も平気で道端に捨てます。また飲み干したジュースの空き缶も同じです。日本人の日本人たるゆえんはやはり陰徳の生き方だと思うのです。

 この日の落伍寄席は創作落伍ですから、気が付いたことを気が付いたときに話すのが特長です。お陰様でいい一話が出来ました。

 御調町の落伍寄席は盛況のうちに終り、皆さんが帰る頃には激しく降っていた雨もいつの間にかあがり、薄日が射していました。

  「小便を ただ何となく するは駄目 便所も学習 する場所だから」

  「少し前 もう一歩前の その次は 思い切って前 感心しきり」

  「えー毎度 馬鹿馬鹿しいと へり下り 落伍の腕も 未だ上がらず」

  「出囃子の 音もないから 拍子木の 音でごまかす 落伍始まる」 

  

 

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shin-1さんの日記

○どうやら私は文系

 近頃になって思うのですが、親父は手仕事が上手く、なんでも器用にこなすどちらかというと理系なのに、私は親父の爪の垢でも飲みたいくらい不器用で、親子でありながら似て似つかぬ性格をしているのです。8年前に亡くなった母親は小学校しか出ていないのに文字は何でも読め、文章を書いたり発表したりするのが得意で、若い頃は東京まで発表に行くほどでした。今にして思えば多分文系ではなかったかと思うのです。理系の父と文系の母から生まれた5人の子どもは、親父似が二人、母親似が三人でバランスはとれているようです。

 文系の私はパソコンなどの操作が苦手です。しかし文章を書いたり人前で発表したりすることはさして苦にならず、若い頃からその文系的特性を生かした仕事をしてきました。その結果が今の私の存在になっているのですから、母親譲りの文系的遺伝子に感謝しない訳にはいかないのです。

 先日母の法事に集まった私を含めた5人の兄弟がそのことについて触れ、姉は「私は女なのに父ちゃんに似ていて、余り得をしたことがない」というのです。直ぐ下の弟は「俺は母ちゃんに似ていたから苦労した」などといえば、下の弟と妹は「どっちもの悪い所ばっかりが似て、ええことは一つもない。良かったのは進兄ちゃんで、母ちゃんのいいとこと、父ちゃんのいいとこを全部独り占めしている」と、私の人生を羨ましがるのです。そういえばそうかも知れないと思いながら、私だって親父の器用さを受け継いでいないと、五分五分の遺伝子によって生きてる自分を振り返るのです。しかしその話の後に、それじゃあお前らは「父ちゃんと母ちゃんの子どもに生まれたことを悔やんでいるのか」と尋ねると、「いやいや、色々あるけどやっぱり父ちゃんと母ちゃんの子どもに生まれて良かったと思う」と言ってくれました。

 子どもは親の体内から様々な遺伝子を持って生まれてきます。時には顔形や声までも瓜二つという親子を見かけますがそれは外見上だけで、子どもは親から受け継いだ遺伝子を持って生まれてきても、全く違った環境で育てば別人のような特性が生まれるものなのです。したがって自分の出来が悪いのは親のせいではなく自分のせいだと自覚しなければ自律して生きることは出来ないのです。

 よく子どもが過ちを犯すと、「何故こんな自分に育てたのか。生んでくれといった覚えはない」などと、親のせいにして言い逃れをする子どもをよく見かけますが、それはお門違いもはなはだしいとしかいいようがありません。学校や職場を途中で止めたりする理由が、「親が決めたから」「親が行けといったから」という言い訳など世間では通用しないのです。

 どうやら私は文系だと悟るようになって、随分気が楽になりました。これまで自分は人に出来て何故自分に出来ないのか随分悩みましたが、人間は向き向きがあって不得意を是正するよりも得意を肯定して生きる方がらくだと思うようになりました。オール5の人間なんてありえないのですから、何処かに5の特長を見出せば、オンリーワンの人生が歩めるのです。しかし理系でないからとパソコンを諦めて使わない訳にはいきません。学校でパソコンを習っていないことを理由にしてパソコンに触らない人が多いのですが、私は敢えて失敗ありきでパソコンに触っています。少しずつパソコンに触って失敗すれば、そこに智恵が生まれどうにか使えるようになるのものです。お陰様で文系ながら理系に近付きつつあるようです。いわれて見ればパソコンはボタンを間違わないように押しさえすればいい道具なのですから、これからも苦手な物にも挑戦して行きたいと思っています。

  「文系に 生まれたことを 生かしつつ 生きてきたから ここまで来れた」

  「理系無理 それもそのはず 文系と 嘆いて見ても 替わる訳なし」

  「不器用は 誰に似たのと 結局は 逃げ道探し 親に当てつけ」

  「何時の世も 親にならねば 分らない 親は私に どんな期待を」

 

 

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