〇新聞のお悔み欄
新聞のお悔み欄には毎日毎日、沢山の人の訃報が載っています。意識的に載せない人もいるので、どれほどの人が亡くなっているのかは分りませんが、訃報の数ほどそれぞれの人や家庭に悲しみがあるのです。わが家は昨年7月に親父が亡くなった葬儀の折、沢山の弔問を受けているので、礼をしなければならず、妻と私は見落とさないように、毎日新聞紙面のお悔み欄に目を通すのです。
昨日は隣町長浜でパン屋を営むTさんの奥さんと、町内のNさんのお母さんの訃報を新聞で見つけました。Tさんの奥さんは既に前日葬儀を終えているようでしたが、夕方香典を用意して出かけました。Tさんは体調が優れず入院中で、亡くなった奥さんは80歳でした。予期せぬ突然の私の弔問を息子さんは大いに喜び、一室に飾られた祭壇に案内されて線香を手向けた後、少しの間お話をさせてもらいましたが、悲しみは募るばかりのようでした。
その後今度はその足で、午後6時から始まる町内のNさんのお母さんの通夜式に出席しました。葬儀は今日ですがスケジュールが詰まっていて、運悪く葬儀に出席できないため、自宅での通夜に臨みました。お坊さんの枕経や説教、それに友人何人かが集って鐘と鈴を鳴らしながら唱える物悲しいご詠歌を聞きながら、93歳で亡くなったお母さんの冥福をお祈りし、焼香してお暇をしました。
最近新聞のお悔み欄を見ながら気がつくことは、亡くなった人の年齢が80歳や90歳はザラで、中には100歳を越えた人までいて、超高齢化社会になっていることを実感するのです。しかし自分と同じ位の年齢で亡くなった人の訃報を見つけると、「いよいよ自分の番かも?」なんて、少しテンションの落ちる気分になるのです。私も既に男性の平均健康寿命である71歳に達していて、これからがいよいよ正念場といったところです。
「新聞の お悔み欄に 目を通す 毎日まるで 日課のように」
「お悔み欄 知人友人 繋がりを 見つけ対応 昨日は二つ」
「亡くなった 人より残った 人思う 自分に置き換え これから色々」
「同じ歳 なくなりし人 ちらほらと いよいよ自分 順番来たか」