shin-1さんの日記

〇コスモスを感じる人間牧場からの眺望

 秩序整然とした統一体としての宇宙のことをコスモスといいます。私のような凡人には言葉の持つ深い意味など分かりませんが、それでも海と空が一体となったように見える人間牧場からの眺望を見ていると、目に見える俗世より目に見えない空想の世界を思わせるのですから、人間の思考にとって景観とは大切なものなのです。

 私の誘いの言葉に乗って人間牧場へ来られる人の中には、「人間牧場」というからには牧草が広がっているのだろうと、勝手に想像してやって来ますが、来て見ると牧草どころか急峻な地形で、まるで海まで転がり落ちそうな錯覚さえして、創造と現実のギャップに時には落胆して帰る人さえいるのです。

 でも精神修養ができている人で、海と空を一体の牧草と見立てている私の真意が分かる人はなるほどと頷き、精神論を語るのです。

shin-1さんの日記
(思想魚を育てるために必要なコスモスを感じる人間牧場からの眺望)

 人間にとって目に見える世界はリアルで具象なので誰にでも分かります。しかし目に見えない空想の世界はバーチャルで抽象なため余程心眼を開かないと広さや奥行きを感じることはできないのです。刻々と変わる海や空の色、流れ行く雲、小鳥のさえずり、山の色、吹く風の音や香りなどが否応なしに五感を通して体に入ってきます。何も感じようとしないとそれらに体全体が支配され、空想の世界には入り込めないのです。私は時々水平線の家の板間やウッドデッキに座ったり、背もたれ椅子に座って無我の境地へ入り込もうとするのですが、雑念が多い時などは心の対話ができず、現実の世界を行ったり来たりすることしかできないのです。

 一年に何度か濃い霧が出て自慢の眺望の全てを隠すことがありますが、かえってこの時の方がコスモスを感じるから不思議です。人間はどうやら見え過ぎるゆえに見えない部分が多いのかも知れません。

 中国の思想に双魚という概念があります。人間の体の中には必ず二匹の現実的魚と思想的魚がいて、凡人は目に見える部分の魚が大き過ぎるため目に見えない部分の思想的魚は殆んどいないのです。逆に偉い人は俗世の目に見える魚の部分が殆んどなく、思想的魚が大きいのです。人間は訓練や修行をすれば思想的魚を大きくすることはできるのですが、その域に達するには雑念の多い私などには到底到達することができないのです。でもそういう意識を持っているだけで随分考え方に変化が現れます。現に私などのような凡人でも、人間牧場を造る七年前と、七年後の今とでは随分思想的魚の大きさが違っているように思えるのです。

 昼間人間牧場からは太陽や月など以外満天に輝く星は見えません。でも人間牧場に何度か泊まって春夏秋冬の星空を見ている私には、銀河系宇宙にも似た星の存在が空想として描けるのです。双魚の思想魚をもっともっと大きく育てたいと思っています。


  「双魚図と いう概念を 意識する 目に見えねども 人を支配す」

  「思想魚を 育てる努力 することを しないと人は 役に立たずに」

  「俺って変? 時々思う ことがある 意味もないこと 考えたりし」

  「牧場に 座して色々 考える 暇があったら 積小為大」 

 

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