○世界遺産広島原爆ドームを訪ねる
世界遺産には自然遺産もあれば文化遺産のありますが、広島の原爆ドームはそれらとは一線を画し、人間の愚かさを人間自身に問いかける平和へのメッセージとしての価値としては世界で唯一だと思うのです。対岸のこんな身近な場所にありながら、私たちは平和の上に胡坐をかくように殆ど訪れることもなく過ごしていました。
広島上空600メートルで原爆がさく裂した1945・8・6・午前8時15分という一瞬は、広島にとっても日本にとっても、いや世界にとっても忘れてはならない一瞬なのです。原爆資料館に展示されている投下された原爆はこんな小さな爆弾でした。しかしこんな小さな原爆が広島を、そして広島市民や国民の一部を焼き殺し、戦後60数年たった今も原爆症の後遺症に苦しむ人たちがいるのです。
私は原爆が投下された時、生まれて間もない10ヶ月でした。母親の手に抱かれて、熱い夏の日が始まるであろう下灘の海岸からキノコ雲を見ていたようです。残念ながら幼少ゆえその記憶はありませんが、体教とでもいうのでしょうか、どこか記憶の隅に靄がかかっているような感じがするのです。原爆ドームの上600メートルでこの展示のような火の玉がさく裂したのです。そしてその爆風は鉄やコンクリートまで一瞬にして破壊しました。
爆発してから3時間後に爆心地近くで撮影されたという一枚の写真は、体を焼かれた生々しいものでした。そして時間が経つにつれて太田川の近くは何千という死体が浮き、焼けただれた人々は水を求めて川沿いに集まりました。まさにこの世の地獄だったといわれています。
原爆は死の雨を降らせました。爆風によって空高く舞い上がった砂塵は放射能を含み、やがて灰色の雨となって地上を濡らしたのです。窓を伝う放射能の雨筋は原爆資料館に残っていました。
当時は、原爆投下後75年間は草木も生えないだろうと言われていたのに、そして多くの原爆に遭った人たちがその後遺症に苦しんでいるのに、あくる年の夏焼け跡にカンナの花が芽を出し花を咲かせたそうです。この館菜の花にどれほどの生命が残っていたのでしょう。人々はカンナの花に平和へのメッセージと生きる勇気を貰ったそうです。
その後日本は恒久平和を願い、にどとこのような痛ましい戦争を起こしてはならないと世界に向けて広島や長崎からノーモアヒロシマ・ナガサキを訴え続けていますが、ソ連とアメリカの冷戦などは次々と核実験を行い、ビキニ環礁で行われた水爆実験で第五福竜丸が被爆し久保山愛吉さんがその犠牲になった事件は強い衝撃として私の記憶に残っているのです。私は第五福竜丸がマグロはえ縄漁船であったと同じように、宇和島水産高校の実習船えひめ丸に乗ってマグロはえ縄漁に南太平洋へ船出している経験を持っているがゆえに、第五福竜丸のことは忘れられないのです。
長い廊下沿いに原爆投下というファインダーを通した過去・現在・未来の展示を見るにつけ深い悲しみと平和への願いが心の底から湧いてくるようでした。
外に出て平和公園を散策しながら色々なことを話し合いました。
偶然とでも言うのでしょうか、北朝鮮がテポドンを発射するかも知れないという話題が国内外を走り抜けました。未だに世界中では戦争や愚かな核の脅威にさらされているのです。
原爆ドーム対岸の平和公園の隅にチューリップが印象的に咲いていました。朝から降り続いた雨もどうやら上がり、折りヅルの飾れれた子どもの像の上に少しばかり陽が差してきました。どれが鳴らしているのか子どもの像の鐘の音が広島の空に印象的に響いていました。
「子どもらの 祈りを込めた 折りヅルに 平和の誓い 今日も届いて」
「許すまじ 原爆歌う こともなく ただ安穏と 愚かに過ごす」
「この犠牲 なくば平和は なかったと 心に刻み 生きて行かねば」
「平和こそ われらが世界 遺産なり 訪ねる旅で 心に刻む」