shin-1さんの日記

○青年団の愉快な仲間たち

 私は18歳から26歳までの若いころ、地元の青年団に入っていました。その頃はまだ町内には昭和30年の合併で双海町が誕生して20年近くが経っているというのに下灘、上灘という二つの青年団があって連合青年団があってもお互い競い合っていました。私が双海町青年団長に就任した23歳のころは団員も100人を超えていて、それぞれの地域には支部と称する下部組織がこれまた活発に、祭りや盆踊りを請け負っていました。26歳の時に愛媛県青年団連合会の会長を務め、結婚したこともあって私の青年団現役活動は8年間で終わりましたが、その中の最後の2年間は教育委員会で社会教育をしながら青年団のインリーダーとアウトリーダーを兼ねていましたので、社会教育13年間を含めると19年間も青年団と深く関わったことになるのです。県内には青年団活動を長くやった人は沢山いますが、これほど長く関わった人は他にいないのではないかと思うのです。

 自らが活動体となった8年間も思い出は沢山ありますが、むしろ青年を育てる側に回った13年間の方がいい思い出がいっぱい残っています。その中でも極めつけは1年で10人、10年で100人の青年を日本一といわれる国内の先進地に派遣してリーダーを育てることを目論んだ、「人づくり10年計画」は忘れることはできないのです。

 昨晩その中の日本一高い山富士山と日本一南の沖縄に派遣した人たちの集いが、シーサイド公園の芋炊き会場であり招かれて出かけました。新潟、大洲と宿泊付きの長旅が続いて少々お疲れモードで、しかも遠来の客が来宅していて出席をためらいましたが、会場から再三の携帯電話での出席要請と、妻の強い勧めもあって出かけて行きました。

 陽がとっぷり暮れた午後7時に伺ったのですが、10人の参加者はもう既に出来上がっていて、鍋の芋を食べアルコールを飲みながら賑やかに旧交を温めていました。敬子ちゃんやはるみちゃん、照子ちゃん、純子ちゃんたち女性も顔を出していました。かつてはみんなの憧れだったマドンナたちも50歳の坂を越えてすっかり落ち着いたおばさんになっていました。また健ちゃん、秀和君、文和君、水本君、山下君、時さんも私より年齢が少し下だけなので60歳を目前に控えているようで、頭に白いものが目立っていました。

 楽しかった若い頃の思い出は時として鮮烈に蘇ってくるものです。日ごろの忙しい雑事に追われてすっかり忘れかけていた思い出を、彼ら彼女たちは鮮明に覚えていて、「あの時こんなことがあった」とか、「○○ちゃんは××ちゃんが好きだった」とか、他愛もないことと思いつつも、青春時代の思い出話に花を咲かせました。

 青年団という言葉はもう日本国中死語に近い存在で、かつて青年たちが自分の住んでいる町や村の将来を憂えたような逞しい姿は見る影もありません。またそうした青年を育てようとする人たちの姿も皆無に等しい状態です。何かが狂い、何かがおかしいと思いつつも、どうすることもできないもどかしさが、私自身にもあるのです。

 彼ら彼女たちは青年団に入ってよかったと口々に述懐しましたが、それは偽らざる言葉だと思うのです。確かに彼ら彼女たちは青年団で大きく成長しました。地元の郵便局長を務める青木君は人の前に出るとあがる赤面症でしたが、青年団の演劇で自信をつけ今は堂々として活躍しています。また山下君も今は立派な市役所の課長さんに成長しています。

 小さな田舎の青年団はもう心の中の青年団となりましたが、これからも彼ら彼女たちの生き方の縁になって欲しいと願い、再会を約束いて早々に会場を後にしました。

  「思い出を 芋と一緒に ごった煮し 過ぎ越し昔 懐かしみつつ」

  「赤面の 癖ある人が 堂々と 局長勤め 嬉し活躍」

  「賑やかな 青年団も 今はなく 少し寂しい 秋の夜長を」

  「好きだった あの子も今は オバタリアン みんなこうして 歳をとるのか」 

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