○言う事とやる事のの一致
私たちが青年時代は「黙ってやれ」と不言実行を良しとするような教育を受けてきました。特に大正生まれで漁師をしていた親父からは、そのことをきつく教育されたものです。「これはこうした方がいい」といっても、「半人前のお前に何が分る」と随分無視され、そのことが原因で親子喧嘩とでもいうのでしょうか、何日も口を利かずお互いが意識しながらも無視するような態度が続いたものです。今にして思えばそれは少し遅れた反抗期の生だったかも知れないと思うのですが、子どもを育ててみて親というのは子どもに反感反目されるもののようです。
映画やテレビで「武士に二言はない」という言葉を頻繁に聞きますが、私たちの知らない大昔は「言ったことは必ずやる」という心構えがあったようです。それは世間一般の常識となっていたから、わが身にかかる大事なので「滅多のことは言えない」という、自分の言葉の抑止にもなっていたようです。
最近は大言壮語といえばいいのか、出来もしない事をやたら口にする人が多くなりました。しかもそれがメディアを使って私たち庶民に流れてくるものですから、みんなそれなりに聞きそれなりに期待をするのです。特に政治家は選挙で当選する事を目的としていますから、公約を掲げて出馬します。さすがに最近は市民の目と口が厳しくチェックして「公約違反」だと騒ぐものですから、「マニフェスト」などといっていますが、そんなに成果など上げないうちに次の選挙に突入し、「あんま膏薬」になり下がって、政治家への不信感が募るのです。
昔は信用というものがものを言う世界だったため、余程のことがない限りは約定書など書かなかったものですが、今は法的根拠が喧しく言われるため、些細なことでも契約書をしたためます。でもその契約書ですら守れないのですから、言う事とやる事の不一致は見るに見かねる状態のようです。
私は有言実行を旨とするような時代に生きてきました。ゆえに色々な事を言い色々な事をやって来ました。まるで夢みたいと自分でさえ思った夕日を地域資源にしたまちづくりも、苦労の甲斐あって何とか夢から現実へと具体化することが出来ました。言いながらやるのですから様々な困難にも出会いましたが、「言う事も言うがやることもやる」ということで私への信用が増したことは事実です。
何も語らず何も行動しないことが美徳のように思われた、いや今もそんな風潮がある公務員の世界は、責任が伴うゆえに「滅多な事を言うな」と上司や先輩から、口を出すことをきつく咎められてきました。それは多分私の発言が自分に及ぶ責任ではなく、私の責任が即上司の責任に転化される、つまり責任を取らされることへの警戒だったように思うのです。しかしその上司や先輩ですら、一度成功すると、「あれは私が許可してやったから」とその果実を自分の成果にして周りの吹聴するのですからいい加減なものなのです。
最近地域づくりの現場でよく見かけるのが、評論家まがいの人です。自分では何もやらずただ色々なところを見て歩き、さも自分がやったことのように事例を紹介している人です。確かにそんな人もつなぎとしては必要でしょうが、そんな手を汚さない話しで地域づくりができるほどやわいものではないのです。「あそこはこんな事をしている」と「であるべき」論を聞いた後、「やるのはあなたたちです」と言われて興ざめという話はよくある話です。
私は自称実践家です。実践家は理論ではなく論理であると思います。実践の中から生まれた言葉は論理ですから人の心に感動を与えるのです。いわば実践家は感動商売人です。たとえその言葉が朴訥としていても、人の心を捉えるのです。これからもそんな「言う事とやる事の一致」するような人間を目指したいものです。少なくと「不」のつく「不一致」だけにはなりたくないと思います。
「言ってやる これぞ究極 実践家 だから説得 出来ると信じ」
「言わずやれ 親父に言われ 反発し 親子喧嘩も 今は思い出」
「災いの 元とはいうが 語らずば 意思も通じず そんなのいやだ」
「最近は 見てきたような 話しして それで飯食う 人も多かり」