○愛媛県青年研究大会
私は26歳の時、青年団活動8年間の有終の美を飾るべく愛媛県青年団連合会長と四国四県青年団連絡協議会長、合わせて愛媛県青年団体連絡協議会長などの要職を歴任しました。丁度自分の結婚と重なったため、寝る間を惜しんでの活動でしたが、今振り返ると有終の美を飾るに相応しい楽しい一年でした。その活動の中で国立大洲青年の家の誘致や全国青年大会選手団長として国立競技場で入場行進したことなど思い出に残ることはいっぱいありますが、青年研究大会もそれに匹敵する思い出です。
私たちが青年団活動をしていた頃は青年の数もたくさんいて、「1万人の仲間づくり」などの目標を掲げて活動していました。当然年に一回の青年研究大会は松山市民会館の大ホールが一杯になるほど盛況でした。市民会館のステージに上がって開会の挨拶をした時の原稿は長い間手元に置いていましたが、役所を辞めた時ダンボール10個分の名刺とともに焼却処分しました。
あれから40年の時が流れ、きしくも昨日、愛媛県青年研究大会の記念講演で壇上に上がったのです。昨日の参加者は資料に添付された名簿だと60人ほどでした。私たちが現役の頃の町の青年研究大会でもこれ以上の人数が集まっていましたから、えらい様変わりです。でも私流に考えれば数ではないと思うのです。
昨日の私の講演題は「人生の宝物を見つけるために」でした。私は青年団活動で四つの宝物を見つけました。その一つは仲間です。青年時代から人間は一人では生きてゆけない事をしっかり学びました。また自分のレベルを上げればそれに見合った仲間が出来ることも分りました。三崎町の塩崎さんや長浜町の菊池さんなど、今でも切磋琢磨できる友人が沢山いるのです。確かに人は善悪の友によるとしみじみ思うのです。
二つ目はふるさとです。青年を連れて東京へ行った時、他所の町を枕詞にしなければ自分の町を語れなかった悔しい経験はその後のまちづくりへと私をいざない、日本一と自認す夕日の町をつくり上げさせてくれたのです。人間牧場をつくり、今もふるさとへの恩返しを心がけれるのはやはり青年団活動のお陰なのです。
三つ目は主張です。私は人の前に出ると思っていることが言えない上がり性な性格でした。恥をかきつつ青年活動で訓練し、第十四回NHK青年の主張の県代表になれたり、その後の活動で自分の主張が出来るようになったことは大きな宝でした。特に結婚披露宴の司会を537組もやった実績は主張の訓練だったのです。
四つ目は感動する心です。感動は感動という作用によってのみ点火されます。ジーンと感動するような純真な心を育てるために、無人島に挑む少年のつどいなど、様々なボランティア活動にも参加して、感動する心に磨きをかけてきました。
しかし、この四つの宝物は日ごろの努力で磨かないと光を失うという厄介なものですから、「今やれる青春」をテーマに、今も怠ることなく一生懸命磨き続けているのです。
(はるか彼方に聳える西日本最高峰の石鎚山、この山は私の憧れの山であり目標です)
若者に向って話をしながら、窓の向こうに見える西日本最高峰の石鎚山の姿を思いました。丁度この日は前日までの厳しい寒さで石鎚山は真っ白に雪化粧し、幾重にも重なった山の向こうに一際輝いて見えました。青年時代は何の目標もなく好きか嫌いかで判断したその日が楽しければいいという生き方をしていたように思います。しかし思いもかけず青年学級の「青年の生活設計」で目標を持つことの大切さを学びました。人生の向こうに聳え立つ石鎚山を発見した瞬間でした。しかし石鎚という途方もなく高くて大きい山を目指すには、その前に立ちはだかる山や十下を越えなければいけないのです。それが結婚であったり、子育てであったり、またアメリカへ行きたいというささやかな夢となりました。私の終局の夢である石鎚山の頂上を極めるにはまだまだ遠い道のりですが、とりあえず気力と体力をしっかり整えて夢の実現に向って努力したいものだと思いながら話しを終わりました。
クラーク博士の「青年よ大志を抱け」という言葉を思い出しながら・・・・・・。
「楽しくて 今日も暮らせる 有り難さ 四つの道具 持てたお陰で」
「青年団 今では死語に なりそうな いいつつ残る やはり伝統」
「ビリビリと 電気のような 感動が 社交ダンスの 女性の手から」
「憧れた はずの女性も 腹が出て 化粧で隠す 目尻の小じわ」