shin-1さんの日記

○8、合成酒売り

 漁村には時として不漁や災難などが舞い込み、貧乏が故に日々の暮しは決して楽しいものではありませんでした。それでも漁師たちは不漁を大漁に、災難を福にすべく神仏への信仰を欠かしませんでした。不漁は信心が足りないからと思い込み、お光やご神酒を神棚や船玉様に供え敬虔な祈りを捧げたのです。私の親父は酒が好きで若い頃は朝からでも酒を飲んでいました。私と一緒に漁に出た時の親父は船長兼漁労長でしたから、朝まじめと称する早朝一番の網入れに全精力を傾注してのぞみました。漁場に着くと網入れ準備の万全を確認しやがて朝が開けるのを見届けるように、一升瓶の口を開け海の上と網にお神酒を注ぎ、「おおだまー」と大きな声で叫び、ロープの端を縛った樽を海中に投入するのです。船上にはピリピリとした緊張が漂い、ロープをもつらせたりしないよう、慎重に作業が進むのです。何せ最初のこの網入れが上手くいくとその日は全てうまくことが運ぶと信じていましたので、みんな真剣でした。朝ぼらけの海にやがて朝日が差し込み鯛の銀鱗が眩く輝いて見えるこの感動は漁師にとって何よりの至福の時なのです。やがて漁が終り母港を目指す船には大漁を示す大漁旗が掲げられるのです。

 このように漁師と酒は切っても切れない縁があるのです。戦後は貧乏な時代だった故酒を買うこともままならな買ったのでしょうか、各家でドブロクを作っていたようですが、密造酒は税務署の取締りが厳しく、下灘という漁村では余り普及しませんでした。その代わり下灘出身のMさんという女性が郡中方面から汽車に乗って水枕に合成酒を入れ、風呂敷包みにして方に背負い売り歩いていました。一週間おきにやって来るMさんは村の出身者らしく話題も豊富で、「今日は何本置いとこうか」などと母親と話し、「10本ほど置いといてや」と言葉を交わすのです。Mさんはかつて知ったるように戸棚を開け、一升瓶を取り出してじょうごを使うでもなく、一滴も漏らさず水枕から一升瓶に酒を注ぎ分けて行くのです。「まけとくきんな」と別の瓶に少しだけ加え、母と精算の後帰って行くのです。

 酒が来た日の親父の機嫌は上々で、「これで明日も大漁じゃあ」などといいながら、コップ酒を呑んでいました。酒好きは何処も一緒でよくたむろして飲んでいました。わが家へも父の友人の漁師仲間が数人よく呑みに来ていました。飲み屋などそんなになかった漁村でしたので、それぞれの家でこうした小さな酒盛りが行われていたようです。火鉢や囲炉裏を囲んで漁業全般の話をしていましたが、私たち子どもにはチンプンカンプンの話でした。それでも「やがてこの瀬戸内海の魚も獲れなくなるのではないか」とか、「エンジンを大きくして将来は外海へ乗り出そう」とかいう不安や将来の夢を随分話し、時には私も加わり、「坊は長男だからやがて漁師にならにゃあいかんが、親父のような立派な漁師になれよ」と頭をなでられ、その気になったものでした。

 大漁が続くと景気がよく、知人友人を招いて大漁祝をやりました。また不漁が続くと「まん直し」といって、近所の神官にご祈祷ををしてもらったお札と御幣を神棚に飾って友人たちが酒を持ち寄りげん直しの酒盛りを開いてくれました。酒は漁村や漁民に元気を与えてくれる水だと子ども心に思ったものですが、酒代を工面する母親の難儀を思うと、酒などなかったらいいのにと何度か思ったものです。大漁といっては酒不漁といっては酒、漁村は酒が主役でした。

 合成酒売りのMさんもいつの間にか来なくなり、漁村では日本酒に混じってビールが飲まれるようになってきました。合成酒売りのMさんは元気で過ごしているのやら、親父が90歳、母親も亡くなったのですから、Mさんももしやと思いつつ、一升瓶を見るにつけ合成酒を背負ったMさんの後姿を思うのです。

  「何につけ 酒が取り持つ 男たち どれ程呑んだか 分りはしない」

  「青年団 初めて呑んだ 酒の味 頭ふらふら 口からゲーゲー」

  「坊もなあ やがて漁師だ 頭撫で その人今は あの世にいます」

  「やりくりを してでも呑ます 母心 あの金あれば どんなに楽か」


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