○今日は成人の日
私たち古い人間には成人式といえば1月15日と決まっていたから、今のような祝日だと国民の祝日といわれても余りピンと来ず、その生でしょうか町内の家々に国旗が飾られているのを殆ど見なくなりました。それもそのはず正月でさえ国旗を立てたりする風習が廃れているようです。今年の正月に町内の漁港に係留している漁船を見ましたが、船玉様信仰を信じる漁民さえ大漁旗を立てない漁船が増えていて、何かしら寂しい感じがしました。
私が成人式の頃は一体どんな時代だったのでしょう。残念ながら思い出しても断片的な思い出しか思い出せないのです。それでも近所の洋服屋さんが採寸に来て真新しい背広を作ってくれたり、似合おうが似合うまいが締めてるだけで事足りたネクタイを買って親父に締めてもらいました。その親父も漁師が故にネクタイなど漁協の役員として県庁へ行く時以外はネクタイを締めたことがないので、まるでわらじをつくる仕草で足の親指にネクタイをからませ、首輪を入れるようにしてネクタイを結んでくれました。漁師をしていた私にとって初めて結ぶネクタイはまるで首を絞まられるようで息苦しく、それでも成人式の間だけはと我慢していましたが、耐え切れず成人式が終わると外に出てネクタイを解いたものです。あれから43年が矢のように過ぎ去りましたが、初心だったあの頃が懐かしく思い出されます。でもそんな時代でしたから反社会的なことなどする時代でもなく、神妙にやたら長い来賓のあいさつをあくびもせずに聞き入ったのです。
私の頃と違って今は女性は殆ど、男性もちらほら和服姿で成人式を迎える華やかな時代となりました。和服という民族衣装を戴せtにする時代回帰はいいことですが、その殆どが親の懐という情けなさも時代を反映しているようです。頭の先から足の先までといいますが頭や足ならまだしも耳の先、詰めの先までがお洒落の対象で全てをまかなうにはそれ相当の出費を覚悟しなければならず、まあそれも個人消費なのだから社会の経済サイクルだと思えば社会に後見していることになるのです。
ある人が今の若者は「砂漠の真ん中に立たされているようだ」と表現しています。砂漠ですからなんの遮るものもない自由な世界です。何処へ行こうとどんな道を選ぼうと勝手なのですが、その分迷いが深く元に戻ることは出来ないというのです。上手い表現だと思いました。でもその道と未知に迷い込むのも若者にとっては必要な迷いかもしれません。無駄や徒労ほど血肉になるものはないからです。でもうろ覚えの知識だけで世の中を渡ろうとするのは余りにも危険が大き過ぎるのも今の世の中、心して船出して欲しいと願っています。
私は幸いなことに成人式を迎えた頃地元の青年団に入団していました。殆ど先輩という青年団の集団で様々な知識を学び、ややもすると知識だけで暴走がちな私たちに生き様や知恵を授けてくれました。先輩や仲間がいるということは今になって考えると素晴らしいことだったように思うのです。僅か8年の青年団活動でしたが私に勇気や希望を与えてくれたのはやはり青年団だったと思うのです。今日成人式を迎えた皆さんにも願わくばいい仲間をつくるよう切望します。
「あの頃と いっても四十二年 前のこと 初心な私が そこにいました」
「青年団 私育った 恩がある 返せることは 若者育て」
「いい時代 思う私は 古臭い それでもみんな 懐かし昔」
「ダンスにて 手を取りビリリ 衝撃波 初心な時代も あったものです」