○世の中を憂える人
今の日本を見て憂える人は多いはずですが、私のようにただただ傍観者に過ぎず、何の策も打たぬままその日が過ぎ去っててゆくことに心が痛んで仕方がありません。「何もあなたがそんなに悩まなくても」とか、「あなたが悩んでも世の中は変わらない」といわれるかも知れません。でも何とかしたいものですね。国家を論じるつもりはありませんが、せめて自分の手の届きうる我が家や自治会長をしている自分の集落だけでも何とかしようと少しずつ始めています。
昨日はあいにくの雨でしたが、午後から雨がやんだので灘町集会所の横にある海岸の清掃を一人でしました。この海岸はもとも海水浴場でしたが隣にシーサイド公園ができたためお払い箱となって、今は家族連れや仲間内の野外活動の場所として使われています。今はシーズンオフで訪れる人もなく漂流ゴミが沢山ありました。
近くの方が散歩をしていて私の清掃をしている姿を見て一緒にゴミを集めてくれました。夏になると近所の人たちは花火や騒音に悩まされるそうですが、綺麗にしないとゴミを置いて帰るので時々は散歩のついでにゴミを拾うのだと言っていました。私の小さな行いは一人の同調者と行動者を生みました。このように小さな親切の輪が少しずつでも広がると地域は良くなるのですから、私から始めなければならないと思います。すっかり綺麗になった浜辺を見て自己満足でしたが、綺麗にしたからといって漂流ゴミが流れ着かないことはありません。でも綺麗にしておくことでゴミを捨てる連鎖反応は少しでも減るのです。
現代人は看板の文字が読めあいのでしょうか。海岸には昔私が立てた「ゴミは持ち帰りましょう」という看板のがくたびれて立っていました。その看板の横には「なんだこんな看板無視しろ」と言わんばかりにゴミがおいてありました。
さて私と近所の人が集めたこのゴミは一体誰が処理するのでしょうか。私は役場に掛け合いに行くのが億劫です。何故なら多分押し問答やたらい回しになるからです。昨年も一斉清掃の折みんなで海岸清掃をしました。膨大なゴミだったものですから役場の担当者に電話をかけて処理を依頼しましたら、「それは海岸ゴミで私の所ではありません。産業建設課に言ってください」t言われました。産業建設課へ言ったところ「これはゴミですから生活環境課です」と振られました。結局は自分たちがトラックを借りて清掃センターへ持って行く羽目になりました。じゃあ処理費用はでまた大もめです。掃除という綺麗な善意の花はものの見事にしぼみました。「役場に勤めていたからって大きな顔するな」という後輩の冷たい目と、「役場に勤めていたのに顔も効かないのか」という住民の冷たい目に晒され寂しい思いをしました。
今朝早起きをしてそのゴミをゴミ袋に入れ、ゴミ出しの所へ少しずつ出すようにしようと決意をして持って行きました。これ以外方法が見つからないので収集車のおじさんごめんなさい。
「掃除する 集めたゴミは どうするの 言ったところで それはうちでは」
「捨てないで 書いた看板 直ぐ横に ゴミを置き去る 看板読めぬか」
「俺一人 それでもゴミは 少しでも 減ってゆくから あせらず始める」
「昨晩は 綺麗だった 砂浜が 今朝はまたゴミ 元の木阿弥」