○「読めぬこと」はいいことなのでしょうか
昨日の交流会で、佐賀関の渡辺さんが、「若松さんあなたのブログにはよくお父さんや奥さんが登場しますね」と言われてびっくりしました。そう言われたので直近の自分のブログを読んでみましたが、確かに親父や妻、それに孫までもが度々登場しているのです。私はハッと気付きました。親父も妻も孫もブログが読めないことを発見したのです。妻はその気になれば職場のパソコンを使えるので読めるかもしれないし、妻の仲間の中には私のブログを読んで感想を言う人もいますから、絶対読めないのは親父と孫くらい、いや孫も両親が殆どを読んでいるからまったく無縁は親父くらいなものでしょう。
読まないということは何を書いてもいいと思う安心感が私の心にあったかも知れないと思うと、急に不安になってきました。元々妻を登場させることはしない考えでした。しかし私が出版した自著本の中にも僅か1.2度いい訳程度に登場した場面を見て友人が、「若松さん、あなたが今日あるのは奥さんのお陰ですからもっと奥さんのことを書かなくては」と不満の忠告を受けました。確かにそうだなと認めていたので、罪滅ぼしのつもりで書き始めたのですが、「どうせ妻は読まないだろう」と少々鷹を食っていたようです。
妻が私のブログを全て読んだらどういう感想を持つでしょう。まず確率的に高いのは「お父さん私のことは恥ずかしから書かないで」と止められるでしょう。次に予想されるのは「朝早くから夜遅くまでパソコンの前に座って、手っきり仕事をしているのかと思っていたら、私のことを書くなんて、何でこんな恥ずかしいこと書いたの」でしょう。けなされても褒められることは絶対にないと思いました。挙句の果ては「消して」とか口を利かなくなる夫婦喧嘩のネタになりそうです。この上は親父も妻も孫も時効が成立するまでは読まないことを願っています。時効とは多分この記事を書く作業を当面の目標である1年、つまり今年の私の誕生日くらいまででしょうか。渡辺さんは私にいらぬことを気付かせました。でも渡辺さんの一言がなかったら親父も妻も孫も私の餌食になる所でした。少しだけ親父と妻と孫を意識した文章を書きますので許してください。
自分のブログを読んで気がつくことがもう一つありました。それは私が昔(まだ一年なので昔といえるかどうか)勤めていた役所へのメッセージです。それは一市民の立場になって気付いた役所の非常識を常識という形で考えて欲しい、いわば「こうしたら市民が幸せになります」という提案なのです。この文章も時には辛辣に、時には優しく書いているのですが、情報のメッカといわれる役所なのに反応はまったくといってよいほどないのです。私はこのことそのものが非常識だと思っています。よく役所の偉い人はあいさつで「市民の声なき声に耳を傾け」なんて歯の浮くようなあいさつをしていますが、市民のブログは仕事中に盗み読みするくらいで、そのブログに書き込みなどしないのですからこれも困ったものです。まあ腹を立てる私が悪いと思って下さい。
「ブログ読み 忠告意見 下さって なるほど感じる 今から直す」
「読んだのに 読まないふりし やり過ごす これも問題 声は届かず」
「このブログ 妻孫親父 読めぬのを 初めて意識 友の一言」
「顔洗う 前に座って ブログ書く 私の日課 変化しました」