○夕べは寝れなんだ
同じ敷地内に住む親父の隠居へ毎朝出かけ、ストーブの前の座椅子に座って待っている親父の背中をめくり、サロンパスを張るのが日課になっています。母亡き後一人暮らしの親父の元へは妻が毎日一汁一菜の夕餉の膳を運んでいます。私は血を分けた親子ですから何ともない日課なのですが、妻は母が死んでからずっと、「硬い、柔らかい、甘い、辛い」などと文句を言いながら食べる老人のわがままな言葉にも耐えながら日課として食事を運んでくれていて、頭が下がる思いです。
元気な親父も88歳の年齢を超えるとさすがに老域というのか、最近親父の動きが鈍く、親父の体が小さくなったような感じがします。それでもみんなに迷惑をかけまいと、暇さえあれば畑を耕し、暇を見つけては散歩を心がけています。
親父の朝は早く、もう4時には起き6時には身支度してスタンバイです。ところが今朝は親父の隠居を覗いても電気もストーブも、テレビも点いていないのです。おかしいと思って親父のベットへ行ってみましたが、昨晩は夢を見て寝れなかったらしく、朝方二度寝したらしくてゆっくり起きてきました。「まさか死んでいるのでは」とよからぬ取り越しな考えをした私を恥じました。親父の話によると『最近夢を見て寝れない」と言うのです。妻の言うのには「午睡をたっぷりとって、夜も7時頃にはもういびきをかいているのだから大丈夫」と観察の状態を説明してくれたので安心していましたから、「じいちゃん眠れんで死んだ人はいないから大丈夫」というと「そんなことをいっても眠れんことは死ぬほど辛い」とこぼすのです。
私ははっと気がつきました。起きてこない親父を見てもしや「死」、この悩みを聞いた妻も「死」、親父自身も「死」、私の受け答えも「死」なる言葉を平気で使っているのです。私は親父の周りにいる親父を含めた全ての人間が「死」なる存在を意識し始めている事実に驚きました。
人の死は仕方がないと思うのですが、いざ最も身近な親父のこととなるとまだまだ心の整理がつきません。こんな文章を書くことすら不謹慎で、この文章を見れない世界に親父がいることを少しだけ安堵します。
今年もまあまあの元気で寒い冬を乗り切った親父さん、更に元気で長生きしてください。
昨日孫がやって来て親父の部屋へ連れて行きました。おじいちゃんと並んで煎餅を食べてる姿は何とも幸せそうでした。
「子の孫と並んで煎餅食いながらさも幸せな笑顔満面」
「無意識のうちに使っている言葉はっと驚き口に飲み込む」
「この冬も元気乗り切り春が来た親父偉いぞしっかり生きろ」
「寝てるのか死んでいるのか分らない遅い目覚めに心動揺」