○130円の買い物
私の町に数年前コンビニができました。私の発想で造ったシーサイド公園に人が来るようになり、表通りだった商店街が国道バイパスの完成とともに裏通りとなってしまったため、地元の酒屋さんがコンビを開店したのです。このコンビには深夜は閉まる青少年にとっては余り好ましくないコンビにですが、私たち大人からすれば健全なコンビニなのです。そのコンビニに行ってお目当てのものを探しましたが、店長さんは何も買わない私にまで丁重に「またお越し下さい」と声をかけ深々と頭を下げてくれました。コンビニができただけで何かこの街もすっかり都会化した雰囲気になるから不思議なものです。仕方がないので隣の伊予市までと思いきや、「あっ、そうだ。私の町も今は伊予市だったっけ」と思う有様です。
昨日コンビニに行き130円の買い物をしたのは朝日新聞なのです。先日の「地域の自立を考える」シンポジウムの模様がシリーズも含め都合7回載りました。その都度朝日新聞さんへの儀礼も込めて7回もコンビニへ走りました。結局同じコンビニへ足を運び、「朝日新聞下さい」となりました。 私たち田舎に住むものは新聞を買うという習慣はなく、新聞は届くものと思っていました。ですから新聞が130円で買えるという実感も、新聞が130円の値打ちであるということも分らず読んでいるのです。私たちのように新聞記者と知り合い、この記事がどんな想いや取材を経て書かれたのか分る人間はそういう目で読めるのですが、何も知らない人はそのことすら分らず読んでいる、いわばチラシのようなものかも知れません。「何気なく過ごせる幸せ」は結局、「何気なく過ごす傍観的な人」を作っているのです。
130円の買い物で買った朝日新聞はハサミで切り取り無造作にまtダンボールの中それにしても、あれだけの量と質を保ちながら毎日紙面を送り続ける新聞はあれでたった130円とは安いものだと思いました。隅から隅まで丹念に読めば私は凄い物知り博士になるものを、読んでも分らないと決め付けて政治や経済など斜め読み見出し読み、いや実際には読むこともなく目を通すだけで終わっているようです。 私の書斎にはこれまで新聞や雑誌に載ったり書いてもらったスクラップされた記事が山のように積まれています。いずれ暇が出来たら整理をと思いつつその整理も出来ぬまに納まりました。
「新聞が百三十円とはこりゃ安いそんなにするのいつも分らず」
「俺の顔まるで三面記事のよう手配写真で使われるかも」
「新聞を読んだとメールで文届く愛媛の果てから瞬時感想」
「九時間に及ぶ話を十行によくぞまとめる記者さん偉い」