○後継者論
昨日開かれた「地域の自立を考えるシンポジウム」では、「地域づくりは人づくり」という言葉が度々出てきました。言い尽くされ、使い古された言葉なのですが、この言葉はやはり流行ではなく不易なものといえましょう。人づくりについては時間の関係で、その重要性はわかっていても踏み込んだ議論はされませんでしたが、4次会の席では、酒の勢いを借りた連中が、酒の飲めない私に人づくり議論を盛んに吹っかけてきました。素面の私に酒飲みのみんなが勝てるはずがありません。結局は繰り返しの議論になりましたが、大まかふたつの意見に集約されました。
ひとつは「いい指導者はいい後継者をつくる」という話です。誰もこの意見には異を唱える人はいませんが、この論法で行くといい指導者は自分の意に適った自分の跡継ぎを世襲のような形でつくるのです。組織も継続し一見いい方法に見えますが、指導者二世は自分の色を出せないまま、一世の小型のような指導者が生まれる危険性を持っています。 もう一つは「いい指導者は去るか死ぬ」という話です。これは私の持論でもあります。わたしも前述のような方法が最も手っ取り早いし、自分がそんな年代になっているのでそんな方法が一番楽だと思います。しかしわつぃのような人間は最早賞味期限の切れたゴミなのです。例えば夕日をテーマに私はまちづくりを推進してきましたが、私が求める本当の指導者は夕日の伝承よりも夕日を否定する人が欲しいのです。つまり私が朝日より夕日を選んだように既成概念を打ち破る指導者を求めているのです。時代は急速なスピードで進んでいます。ゆっくリズムの時代を生きた私たちのようなパソコンで情報の発信できないような指導者と次代が求める指導者とは明らかにその量と質が違うのですから・・・・。
ごっくん馬路村で知られる東谷さんと私のこうしたバトルに参加者も戦々恐々の面持ちで見守っていました。東谷さんは組織人ですから自分の後継者を心配しています。しかしいくら心配して3代続いた家がないとか、お店と屏風は大きくなったら倒れるの例えを述べながら、延々と話が続きましたが、拙論は人それぞれなので持ち越しました。ポールラッシュの言葉を思い出しました。「私はただ消え去るのみ。もう道は開けた。心配ない」
「俺の後誰が継ぐのか分らない居なくなったら人は生まれる」
「くたびれて賞味期限の切れた俺棚から卸してゴミの中ポイ」
「酒飲みと飲まぬ私が一騎打ち口角飛ばしてどちらも利あり」
「ちゅうちゅうとネズミの如く言う方言高知男はさすがにでっかい」