○荒れる成人式
昨日行われた沖縄の成人式が今年も荒れたと、今朝のテレビで報じられていました。出演したコメンターからは「今時の成人者はけしからん」「成人式を主催した行政は何をやっているのか」などと、相変わらず傍観者的発言が目立ち、本質に触れるような発言が少なかったような気がしてなりません。
テレビを見て思ったのですが、画面に登場する茶髪にピアス、羽織袴の姿は何とも奇妙な和洋折衷の光景でした。しかもあの羽織袴に沖縄の地酒泡盛を浴びるのですから、貸し衣装とはいえ洗濯代を加えると相当な出費に違いなく、酔いがさめた頃には「しもた」と自戒の念に駆られることでしょう。
新成人の彼らが国際通りという沖縄を代表する目抜き通りで繰り広げたパフォーマンスを、「沖縄の恥」と見るか、「沖縄の戦争という悲劇が生んだ後遺症」と取るかは議論の分かれるところでしょう。でも私たち大人が新成人たる若者の行動を見て、「新成人の自覚も足らない」と罵声を浴びせて解決するようなそんな生易しい社会ではないことに、私たち大人は気付かなければならないのかも知れません。
私たちは若者たちの置かれている立場を理解しなければなりません。知識万能な競争社会や落ちこぼれたた子どもを切り捨てる非人間社会の中で育った若者は、こんな行動しか親や社会に反抗出来ないのです。
言葉の暴力だって日常茶飯事、親子の対話なんて「早く、頑張って、勉強」という親と、「金、飯、うるさい」の単語しか交わせないのです。これはもう対話ではありません。あの優しかった子どもが何故中学、高校、若者と成長するにつれて悪変身して行くのか、考えなければなりません。
成人式のありようも問題です。集まった若者に、市長や議長といったお歴々が選挙運動の延長のような
説教を式典の大半を費やし、成人者代表も勉強の良く出来た子どもを選んで、歯の浮くようなこちらが仕組んだ誓いの言葉を言わせたところで、出来ない、出来なかった若者の反感反発を招くだけなのです。
しかし、一方では真に新成人になったことを自覚する大半の若者がいるということも見逃してはいけません。結局はどうすればいいのと解決策は暗いトンネルに入ってしまいますが、要は若者たちの「何がしたいのという要求課題」と、成人の日を意義あるものにするために「何をさせたいという必要課題」の折り合いを求め続けていかなければならないようです。
私が成人式の頃は、なんて述懐はもう古くなりました。社会は変化しています。成人式は変化の中の流行と不易を見極める時期なのでしょう。
「あの子たち馬鹿じゃあないのいいながら今年も続く荒れた式典」
「金かけた衣装に酒を浴びて飲むこれしか出来ぬ今の若者」
「若者の出すシグナルは赤信号気付いていても誰も止めれず」
「おめでとう日本中が日の丸を掲げて祝う祝日悲し」