○厄払い
私と妻は年齢が一つだけ違い私が上の申年です。妻は酉年なのでこの4年余り、還暦の前厄・本厄・後厄と毎年のように厄年がやって来て、その厄払いのために菊間町のお寺へお払いをしに毎年行っています。昨年は娘の33歳の厄年とかも重なり、一緒に出掛けたのですが、今年は娘婿の厄除けもからめて孫と3人で先週の日曜日に出掛けました。
好天に恵まれ吹く風は寒く感じられるものの太陽の光はもう春の足音を感じさせるような強い日差しを感じました。厄除けの仏様とあって参拝客や願掛け願解きの人も多く、境内はかなりの人でした。間もなく立春ですがその日は縁日なので混雑を避けたつもりでも、厄払いの仏事は少し待ち時間があるほどでした。
私たちが本道に案内され、さあいよいよ護摩法要という時になって同行の孫が、大きな太鼓の音と、護摩を焚き読経が始まると異様な雰囲気に恐れて泣き始め、車の中で寝ていたこともあってオシッコを漏らしてしまいました。結局後厄お願いに来た当の妻はその処理に追われてしまいました。
孫のオシッコで濡れた妻のズボンも孫のズボンも全て厄だったのだと思うと何か軽い気持ちになって、途中のスーパーでズボンを買って履き替え、帰りに温泉で洗い流す結果となりました。まさに予期せぬことで厄払いが出来たと、孫だから思えるのでしょう。
厄払いで全ての厄が払われるとは思いません。事実初詣に行く途中、あるいは88箇所参りに行く途中で事故に会う人だって要るのですから一寸先は分からないのです。私も本厄の一昨年、チェンソーで足を切って入院の羽目になったことだってあります。妻は風呂上りに私の足の傷を見ながら「よくそのくらいな傷で済んだねえ」と言ってくれますが、これもご利益と考えれば有難いことなのです。
人間は文明の発達によって目に見えない神仏や迷信などは科学的な実態がないだけに信じない傾向があります。そこへ行くと文明の発達していない地域では神仏は絶対的なものとして崇められています。子どもの頃のような神仏に祈る年中行事が廃れたのもそのためのような気がします。でも人間は神仏を忘れ自然の偉大さを忘れてはならないと厄払いをするためお経の経典でお坊さんが背中を思い切り叩く痛さを感じて思いました。
「ああ私も妻も還暦という人生の節目まで生かせてもらった」「有難う」と感謝せずには要られません。これからは「自分で出来る幸せ」はもとより、「人のためにしてあげる幸せ」を少しでもして行きたいと心に念じました」
「孫小便妻にひりかけ小厄だと笑い転げてお札授かり」
「前厄も本厄さえも超えてきた後は後厄妻よ元気で」
「酒さえも飲めぬ体になりました還暦生きて後は何年」
「同年のあの人逝きしあの世とはどんな世なのか一度は行かねば」