shin-1さんの日記

○今日から3日間、全国地域づくり団体交流大会に出席するため茨城県水戸市へ愛媛県内の皆さんと行ってきます。今年の11月14日と15日愛媛県で全国大会が開かれますので、その全国大会実行委員長として今年は忙しくなりそうです。

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shin-1さんの日記

○言う事とやる事のの一致

 私たちが青年時代は「黙ってやれ」と不言実行を良しとするような教育を受けてきました。特に大正生まれで漁師をしていた親父からは、そのことをきつく教育されたものです。「これはこうした方がいい」といっても、「半人前のお前に何が分る」と随分無視され、そのことが原因で親子喧嘩とでもいうのでしょうか、何日も口を利かずお互いが意識しながらも無視するような態度が続いたものです。今にして思えばそれは少し遅れた反抗期の生だったかも知れないと思うのですが、子どもを育ててみて親というのは子どもに反感反目されるもののようです。

 映画やテレビで「武士に二言はない」という言葉を頻繁に聞きますが、私たちの知らない大昔は「言ったことは必ずやる」という心構えがあったようです。それは世間一般の常識となっていたから、わが身にかかる大事なので「滅多のことは言えない」という、自分の言葉の抑止にもなっていたようです。

 最近は大言壮語といえばいいのか、出来もしない事をやたら口にする人が多くなりました。しかもそれがメディアを使って私たち庶民に流れてくるものですから、みんなそれなりに聞きそれなりに期待をするのです。特に政治家は選挙で当選する事を目的としていますから、公約を掲げて出馬します。さすがに最近は市民の目と口が厳しくチェックして「公約違反」だと騒ぐものですから、「マニフェスト」などといっていますが、そんなに成果など上げないうちに次の選挙に突入し、「あんま膏薬」になり下がって、政治家への不信感が募るのです。

 昔は信用というものがものを言う世界だったため、余程のことがない限りは約定書など書かなかったものですが、今は法的根拠が喧しく言われるため、些細なことでも契約書をしたためます。でもその契約書ですら守れないのですから、言う事とやる事の不一致は見るに見かねる状態のようです。

 私は有言実行を旨とするような時代に生きてきました。ゆえに色々な事を言い色々な事をやって来ました。まるで夢みたいと自分でさえ思った夕日を地域資源にしたまちづくりも、苦労の甲斐あって何とか夢から現実へと具体化することが出来ました。言いながらやるのですから様々な困難にも出会いましたが、「言う事も言うがやることもやる」ということで私への信用が増したことは事実です。

 何も語らず何も行動しないことが美徳のように思われた、いや今もそんな風潮がある公務員の世界は、責任が伴うゆえに「滅多な事を言うな」と上司や先輩から、口を出すことをきつく咎められてきました。それは多分私の発言が自分に及ぶ責任ではなく、私の責任が即上司の責任に転化される、つまり責任を取らされることへの警戒だったように思うのです。しかしその上司や先輩ですら、一度成功すると、「あれは私が許可してやったから」とその果実を自分の成果にして周りの吹聴するのですからいい加減なものなのです。

 最近地域づくりの現場でよく見かけるのが、評論家まがいの人です。自分では何もやらずただ色々なところを見て歩き、さも自分がやったことのように事例を紹介している人です。確かにそんな人もつなぎとしては必要でしょうが、そんな手を汚さない話しで地域づくりができるほどやわいものではないのです。「あそこはこんな事をしている」と「であるべき」論を聞いた後、「やるのはあなたたちです」と言われて興ざめという話はよくある話です。

 私は自称実践家です。実践家は理論ではなく論理であると思います。実践の中から生まれた言葉は論理ですから人の心に感動を与えるのです。いわば実践家は感動商売人です。たとえその言葉が朴訥としていても、人の心を捉えるのです。これからもそんな「言う事とやる事の一致」するような人間を目指したいものです。少なくと「不」のつく「不一致」だけにはなりたくないと思います。

  「言ってやる これぞ究極 実践家 だから説得 出来ると信じ」

  「言わずやれ 親父に言われ 反発し 親子喧嘩も 今は思い出」

  「災いの 元とはいうが 語らずば 意思も通じず そんなのいやだ」

  「最近は 見てきたような 話しして それで飯食う 人も多かり」



 

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shin-1さんの日記

○地域資源を生かす

(フォーラムパンフレット)

 昨日は高知市文化プラザかるぽーとという、凄い施設で開かれた中小企業基盤整備機構の主催する「地域資源活用促進フォーラム」のパネラーとして、壇上に上がりました。新聞や雑誌で時々お目にかかる玄代表の政所利子さんの「四国ブランド活性化戦略」と題した基調講演を聞き、「素材とマーケットの出会い」とうテーマでパネルディスカッションをやりました。四国地域支援事務局ゼネラルマネージャーの三井文博さんの軽妙なコーディネートで、三重県伊賀の里モクモク手づくりファーム専務の吉田さんと私、それに政所さんの三人で話しをする予定でしたが、会議が始まる前に高知県馬路村の東谷組合長さんから会議に出席したい旨の電話が私に入り、折角来るのだったらパネラーに加わってもらうという事務局の判断で、急遽四人の賑やかな討論となりました。

(政所利子さんの基調講演)

 僅か1時間半余りの短い時間だったため、議論ではなく事例の発表に留まりましたが、地域づくりの現場で働いてきた私の主張は、何十億円も売り上げる吉田さんや東谷さんの生き方と全く違うため、参加した人たちの目と耳にどう映ったか、少し心配になりました。

(吉田修さんの話に魅了されました)

 吉田さんの生き方は農事組合法人を設立して自然・農業・食農をテーマにした農業公園をつくり上げ、ユニークな手法と情熱で、創業以来消費者の心の中に隠れたニーズを掘り起こし農業の新しい価値をつくり上げたとして、観光カリスマ百選を受賞しています。

 東谷さんは農協職員として特産品であるユズを地域資源にしてごっくん馬路村という商品を開発し、人口1100人余りの村で年商30億円も業績を上げて注目を集める人です。

 片や私はどうか、第三セクターは設立以来13年間一度も赤字にならなく黒字経営、しかも5パーセントの配当、そして年間55万人がやって来ると胸を張っていますが、たかだか年商数億円程度の道の駅に甘んじているのですから、勝負にはならないのです。吉田さんは法人経営、東谷さんは組合運動と微妙に違う生き方を披露されましたが、時代の要請に応えながら成長し、後戻りの出来ない企業になっているようでした。最近まで「大きいことはいいことだ」と右肩上がりを誰もが狙ってきましたが、最早それは私たちのやっているまちづくりや村づくりでは手の届かない世界のように思えました。参加した人たちにとって吉田さんや東谷さんの話はため息の漏れるような凄さです。そこへ到達するための並々ならぬ知恵と行動に大きな拍手を送りました。

(会場はまるで東京の施設のようでした)
 

 私の持論は「身の丈で持続可能な成長」を考えています。身の丈とは田舎のおじちゃんやおばちゃんでも頑張れることです。面白可笑しく、それでいて生きて働けることを実感できるということです。持続可能とはそんなに売り上げ高を伸ばすことなく、しっかりと経営することです。30億円売って2千万円の赤字を出すより、2億円の売り上げでも2百万円の黒字を出し、地域に還元するする方がいいという考えです。そんな考えが浸透して、田舎のおばちゃんの集団が「じゃこ天で儲けてヨーロッパに行こう」などと、それなりに夢を持って生きているのですから世の中は不思議です。

 先日えひめ地域政策研究センターの丹羽部長さんと話しをしていて、地域資源を漢字で表すとどうなるかという話しを聞きました。優・少・凡・負・棄・未ではないかというのですが、私はもう一つ美を加えて7つにしました。美しい地域資源とは何か、私の取り組んだ夕日も花も美しいのです。夕日は自然の美しさ、花は人の心で咲かせる美しさがあって、むしろ作り上げる地域資源です。でも地域資源をひとまとめにすると「感」かも知れないと思いました。結局感動しない地域資源は人の心に届かないし経済に結びつかないような気がしました。

 「オンリーワン」を貫くこともまあいいかと思いつつ帰路につきました。

  「それぞれに 違う生き方 あればこそ 議論成り立つ それでいいんだ」

  「会いたいと 思う人あり 会えました 思われるよな 人にならねば」

  「二時間の 話のために 三百キロ 往復時間 無駄には出来ぬ」

  「回り道 やったお陰で いい事を 学ぶ出会いが 知識を増やす」

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shin-1さんの日記

○運の悪さを嘆くより運の良さを楽しもう

 昨日畑に出て少しの間草削りをしました。今年は冬の寒さがきついようで、後ろに聳える牛の峰山には昨日降った雪が白く残っているようです。この時期はどうしても運動不足で体が硬くなったように感じるものですから、思い切って戸外へ出て農作業です。上下とも防寒のためのウインドブレーカーを着ているため寒さは殆ど感じず、作業が進むにつれて少し汗ばむようでした。畑では早くも春の草であるハコベが当り一面にはびこって、キャベツやブロッコリーの周りを覆っていました。

 畑の雑草を削っていると、一本の綺麗な花を見つけました。わが家では抜いたり削ったりした雑草は畑の隅に作った囲いの中に入れて堆肥にして畑に還元していますが、その雑草の中で咲いているのです。名も知らない花ですが、細い茎を一生懸命伸ばして、冬の寒さに打ち勝つような健気さです。ふと私は思いました。もしこのはなが口がきけたらどんな話しをするのだろうと・・・・・。花になって話しを考えてみました。

 運がいいと思う花の独り言 

 私は去年の秋、畑に大根の種を蒔く時、雑草とともに雑草置き場へ運ばれました。雑草は刈れましたが、その雑草を肥やしとして幸運にも生き延びることが出来ました。私の使命は花を咲かせて実を稔らせて子どもを作ることですから、少々寒くてもここでこうして花を咲かせているのです。幸運にも今日はご主人が鈍った体を鍛えようと雑草採りをしていて、雑草の中から私を見つけて口では言いませんでしたが立ち止まり「綺麗だ」と思ってくれたのです。私はご主人様が雑草を採っている姿を見て、「ああ、私の上に雑草が乗っかる」と諦めかけていました。ところが運は開けたのです。ご主人様は私に気がつき、雑草を被せるどころか私を愛でてくれたのです。私は思いました。こんな寒い日に仕事をしようとするご主人の、一本の鼻にも心を動かせてくれるご主人様の優しさを・・・・・。やがてご主人様は奥さんを連れて来て、「見てくれ、綺麗な花だろうが。こんな雑草置き場で、しかもこの寒い時期に咲くなんて」と褒めてくれたのです。私は何て幸運な花なのでしょう。

 運が悪いと思う花の独り言 

 私は大根畑の隅で産声を上げました。ご主人様は私が畑で芽を出しているにも関わらずまったく気付かず、大根ばかりに気を取られ、私は他の雑草とともに汚い雑草置き場へ捨てられました。一緒に目を出した大根は大事に育てられ、今も美味しい大根として持て囃されていますが、私は結局ゴミでしかないのです。今日もご主人が私の側へ雑草の削ったのをどんどん持ってきて捨てて行くのです。ああ私の運命はこれで終りと覚悟しました。私に気付いたご主人様は、さも自分が咲かせた花であるような錯覚をして、私を奥さんまで連れて来て自慢するのです。冗談じゃあない。私が冬の寒さにも負けず自分の力だけでここまで生き延びて花を咲かせたのです。結局ご主人様は「野の花はそこに咲くから美しい」などと勝手な事をいって、私をほったらかしにして去って行きました。ああ私は何て運の悪い花なのでしょう。

 この花を人間に例えると面白い物語ができそうです。私たちは運がいいとか悪いとか思って生きていますが、いつの間にか自分の運の悪さは社会や人のせいだと思う人が多いようです。毎日のように報じられる事件を聞く度に、運が悪いと思う人間不信がいかに多いことかと、嘆かずにはいられないのです。

 運がいいと思う花の独り言がいえるような人間になりたいものです。

  「冬なのに 雑草置き場の 片隅で 咲きし名もなき 花に気付きて」

  「運などは 自分の心が 決めるもの 人や社会の せいにするなよ」

  「運の尽き いやいや運が ついてきた どちらの運も 考え一つ」

  「この花は ものが言えたら 何と言う そんな空想 馬鹿げた話」 

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shin-1さんの日記

○ミカンの木を植える

 わが家の家庭菜園は完全に冬モードで、いかにも寒そうな様相です。文化の日に買って植えたタマネギの苗など、ひょっとしたら植えた時の方が大きかったのではないかと思うほど成長が止まったままなのです。また春のために植えたキャベツも寒らんといわれて、高村光太郎の詩の中に出てくるような、冬の寒さで「まろく育つ」どころか、成長がストップしているような心もとない状態なのです。

 でも冬野菜の王様である大根は生き生きとして、漬物にした後の残りが大きく育って、毎日大根サラダや昨晩のブリ大根、おでんの具財として楽しんでいます。この大根も間もなく表現は悪いのですが「とうが立つ」ことから首を切られて無残な姿を醸すのです。

 そんな菜園畑の向こうに細長く果樹園が続いています。ミカンやかぶすなどかんきつ類が植えられていますが、その主流は甘夏柑で、今年は沢山実をつけ豊作のようです。これらの甘夏柑は寒い冬を樹上で越冬し、夏までその味を楽しむことができる、いわばわが家の自慢の一品なのです。

 これらのかんきつ類は今は亡き母が植えたものです。最初は手入れが行き届かなくて何本か枯れたりしましたが、父が世話をするようになって消毒や剪定などの肥培管理が行き届き随分立派な畑に変身しています。

 その父が昨日の朝私に、「あと4~5本蜜柑類の苗を植えたらどうか」と提案しました。90歳になる親父が苗を植えるというのですから、その元気さに安堵し、昨日の昼間所用で愛媛大学へ行ったついでにダイキのナーサリーに立ち寄り苗木を物色しました。親父は甘夏柑でもといっていましたが、私は甘夏柑は1本にして、ポンカン2本、きよみ2本を買い求めました。園芸店の店先には春の訪れを感じるように沢山の苗木が並び、欲しいほどに手をこまねいているようでした。どの品種も1本千円程度で5千円弱の出費で済みました。

 早速家に帰り、寒くてコタツとテレビの番をしていた親父に買ってきた苗を見せ、二人で植える事にしました。このところの雨で畑は随分ぬかるんで、私の履いた長靴にしっかり大地の土がついてしまいました。親父は念者で苗を植える周囲の草を丁寧に取り払い、穴を掘って植えて行くのです。親父の年齢からして、この植栽も親子で植える最後の思い出になるかも知れないと、失礼な話ですが変な考えが先に立って少ししんみりしてしまいました。裏山の隅に立っている苦竹を5本切って更にその竹を半分に切って支柱を作りました。先を尖らせて地中に突き刺し、紐で縛ってしっかりと固定しました。さあこれで冬の風に倒されることもなく活着することでしょう。

 去年人間牧場に植えた梅とスモモ、今年人間牧場に植えたスモモやブルーベリー、今年わが家に植えたかんきつ類と、このところわが家では苗植えラッシュです。去年植えた梅やスモモは「植えない木は育たない」の例えどおり、一本枯れただけで順調に育っています。春までに更に苗木を植え、妻から「無駄な草刈りばかりしない方策を」といわれた言葉を思い出しながらせっせと小遣いをはたいているのです。

 町内の知人友人から、ミカンを栽培していないわが家へは沢山のミカンが届き、ビタミンCが不足する冬のこの時期ながら毎日楽しくその味を楽しんでいますが、美味しい果物を年中食べれるなんて、幸せな土地に住んでいるなあと、しみじみ思うこの頃です。

  「なんぼまで 生きるの親父 まだ苗を 植える提案 驚きモモの木」

  「思い出が 又一つ増え 親子苗 揃って植える 大寒の頃」

  「母植えし 木から採りたる ミカンの実 仏壇供え 思い出語る」

  「冬野菜 大根以外 冬篭り 春の来るのを 今か今かと」

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shin-1さんの日記

○31文字の暮し

 朝起きて一本、夜寝る前に一本と、毎日パソコンに向かいブログを2本書くようになって二年半が過ぎました。その途中の急な思いつきで末尾に4首の笑売啖呵を添えていますが、これも何気なく書いているつもりでも駄作ながら一日8首ですから10日間で80首、100日で800首という膨大な数にのぼり、今更ながら何気ない日々の積み重ねの重みを感じるのです。

 「5・7・5・7・7」を足し算すると31文字になります。最初は俳句も考えたのですが、上の句と下の句をつなぎ合わせる妙が自分の性に合っていると思い始めました。しかしいくら文系だと自分で思っていても、能力のない自分には人に読ませたりなるほどとうならせるような才覚もなく、ただ作って自己満足で終わるようなものしか出来上がらないのです。

 先日私の友人で先輩の玉井さんから電話が入りました。彼は絵や書は書ける、詩は作れるそんな才能のない私にとっては何とも羨ましい限りの人なのですが、彼もまた色々な趣味の世界に身を置いています。私と彼の決定的な違いは自分を磨くためにそれなりの人に出会い、それなりのグループに所属して芸域を広めようと努力していることなのです。私の場合はつい最近始めた落伍だって自分流を貫き、人の真似をしたり師匠につかないため、相変わらず土に埋もれそうな雲行きなのです。

 でもこれが自分の生き方ですから、これもいいと思いつつ、相変わらず31文字の笑売啖呵を飽きもせず作り続けているのです。玉井さんは電話で、「このような自由な表現をする句会に入って楽しんでいる。先日もその例会で表彰された」というのです。そして「あなたもその人たちに接触してみないか」と進められました。

 私は二の句が継げず電話の話だったのでその場はお茶を濁しましたが、妻の話によると「これ以上活動領域を広げると、あなたは夢中になる性格だから考えた方がいい」というのです。確かに自分にはそんな能力もないしブログ記事の末尾に書いてささやかながら自分で楽しむくらいで丁度いいと思っています。

 しかし、こうした友人からの投げかけは不思議なくらい自分の生き方をあらためて見つめ直すきっかけになるのです。これまでだらだら作ってきたけど、「お前は笑売啖呵を何のために作っているのか」と、夕べから今朝にかけて疑問が生じ、自問自答し始めたのです。「笑売というが私の作品には本当に笑いという落ちがあるのだろうか」とも思いました。「うーん」と黙り込んでしまう有様です。作り始めた最初の思いはどこへやら、それでもいいと思えばいいのですが、さてどう進化するか、玉井さんから突きつけられた難解な難問にこれから少し悩んでみようと思っています。

 ブログのよさは書いたものを前に遡って読めるということです。バックナンバーから幾つか選んでブログの自分のページを開き、あらためて何本かを画面に出して、末尾の笑売啖呵を読み直して見ました。確かに「オッ」と思ったり「ハッ」とするようなものもありますが、「エッこんなの」と思うようなものもあって、汗顔しきりでした。友人のメールでは何本かの笑売啖呵に食いついて、批評まがいの返信をいただいている様子まで調べることができました。

 早いもので、間もなく後2日で1月も終りです。また一ヶ月のブログまとめプリントアウトの日を迎えます。今やすっかり生活の一部になったブログ三昧の生活ですが、一石を投じてくれた玉井さんに感謝をしつつ今日も相変わらず拙文と駄作を書いています。

  「何のため ただ何となく 暮す日々 それでもいいか それじゃ駄目だ」

  「笑売が 入らないのは 季語のない 俳句と一緒 駄作に過ぎず」

  「ウフフフフ 思わず笑う ネタありて 初めて秀作 目指すはこれだ」

  「妻太る 季節外れの 鏡餅 浴湯溢れて ちょっとオホホ」(自分では秀作)

 

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shin-1さんの日記

○いい指導者はいい後継者をつくれるか

 私たちのような、いささかなりとも地域づくりに携わる者にとって、次に続く人を育てることは大切なテーマです。しかし世の中はそんな思いとは裏腹に、中々次に続く人が上手く育たないというのが正直な気持ちです。私たちが青年時代には地元に残る青年も多くいて、青年団などの活動が活発でしたし、青年団長になりたいという意欲を持った青年がゴロゴロしていました。私は23歳の時に他の立候補した2人を相手に、選挙という方法で選ばれ双海町の青年団長になりました。私の人生において選挙というものに立候補したのは後にも先にもこれが最初で最後ですが、幸運にも当選したのです。したがって私は選挙当選100パーセントの、落選を経験したことのない幸運な男なのです。

 当時先輩から、「いい指導者はいい後継者をつくる」という話しを聞き、その話を鵜呑みにしながら自分に続く人を育てようとしたものです。確かに自分がそんな意識を持って後輩たちに接すれば、それなりの後継者は育つのですが、自分を越えたり自分と違った考えや行動をする人が意外と育たないことに気がついたのです。あの有名な山本五十六は「やってみせ、させてみせ、褒めてやらねば人は動かじ」と言っていますが、これも一利あるものの、人によっては褒め過ぎると有頂天になって間違った方向へ進む者まで出るのです。

 私の親父は腕の良い漁師でした。「漁師の長男と竹の竿は使い物にならない」という言葉が口癖でした。漁師の長男に生まれたというだけで家督を継いだ人間はその居場所に安住し努力しない例えであり、竹の竿は船を操る時竿竹に空気が入っていて、木の竿のように直ぐに海中に差し込めない例えのように解釈しています。そんな例えどおり、「お前は漁師で名を成すことはできない」とばかりに、親父は私を一緒に船に乗った人より厳しく育てました。でも私には厳しいと思っていても他の人から見ればまだまだ甘いと評価されるのです。

 わが家の船に乗って修行した人で、腕の良い立派な漁師になっている人がいます。中学校を出ると舵子(弟子)としてわが家の船に乗り込みましたが、若くして父親をなくしたこの人を親父は徹底的にしごきました。県外出漁で僅か5トンの船に乗せ太平洋のはるか遠い三宅島まで一緒に連れて行き、ともに苦労もさせました。今は親父の妹が嫁ぎ親類縁者となりましたが、一目も二目も置く漁師になった彼が、「仕事は盗むもの」という親父の言葉そのままに、潮の流れや魚の習性を努力習得して立派な漁師になってているのです。

 青年団の先輩が言った「いい指導者はいい後継者をつくる」も、山本五十六の「やってみせ」も、漁師だった親父の「仕事は盗め」も全て後継者づくりに通じています。しかしそれも相手の人によりけりで、すべてが当てはまるものではありません。

 最近まちづくりの現場で私に対する質問の中で多いのは、「若松さん、あなたの後継者は育っていますか」とよく聞かれます。幅広い活動を展開する私の、何を称して後継者と呼ぶべきなのか戸惑いますが、少なくともまちづくりの世界においては、私の後に続く人は沢山います。役所にも、グループにも、地域にも私が育てたというよりは育った人がいますが、私の似たような人は幸せな事にいません。それは私と同じような人を育てても意味がないという私の持論そのままなのです。私と違った生き方をする人、私を越えようと頑張る人、そんな人の後押しをしたいと思うこの頃です。

  「去るか死ぬ さすれば人は 育つもの 早くそうする 心の準備」

  「俺にしか 出来ない事を 目指すよな そんな若者 育てやりたい」

  「その道を 極めなければ 憧れの 人にはなれぬ 後も続かぬ」

  「団長に 当選したこと 人生が ささやかながら 今の自分に」 

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shin-1さんの日記

○愛媛県青年研究大会

 私は26歳の時、青年団活動8年間の有終の美を飾るべく愛媛県青年団連合会長と四国四県青年団連絡協議会長、合わせて愛媛県青年団体連絡協議会長などの要職を歴任しました。丁度自分の結婚と重なったため、寝る間を惜しんでの活動でしたが、今振り返ると有終の美を飾るに相応しい楽しい一年でした。その活動の中で国立大洲青年の家の誘致や全国青年大会選手団長として国立競技場で入場行進したことなど思い出に残ることはいっぱいありますが、青年研究大会もそれに匹敵する思い出です。

 私たちが青年団活動をしていた頃は青年の数もたくさんいて、「1万人の仲間づくり」などの目標を掲げて活動していました。当然年に一回の青年研究大会は松山市民会館の大ホールが一杯になるほど盛況でした。市民会館のステージに上がって開会の挨拶をした時の原稿は長い間手元に置いていましたが、役所を辞めた時ダンボール10個分の名刺とともに焼却処分しました。

 あれから40年の時が流れ、きしくも昨日、愛媛県青年研究大会の記念講演で壇上に上がったのです。昨日の参加者は資料に添付された名簿だと60人ほどでした。私たちが現役の頃の町の青年研究大会でもこれ以上の人数が集まっていましたから、えらい様変わりです。でも私流に考えれば数ではないと思うのです。

 昨日の私の講演題は「人生の宝物を見つけるために」でした。私は青年団活動で四つの宝物を見つけました。その一つは仲間です。青年時代から人間は一人では生きてゆけない事をしっかり学びました。また自分のレベルを上げればそれに見合った仲間が出来ることも分りました。三崎町の塩崎さんや長浜町の菊池さんなど、今でも切磋琢磨できる友人が沢山いるのです。確かに人は善悪の友によるとしみじみ思うのです。

 二つ目はふるさとです。青年を連れて東京へ行った時、他所の町を枕詞にしなければ自分の町を語れなかった悔しい経験はその後のまちづくりへと私をいざない、日本一と自認す夕日の町をつくり上げさせてくれたのです。人間牧場をつくり、今もふるさとへの恩返しを心がけれるのはやはり青年団活動のお陰なのです。

 三つ目は主張です。私は人の前に出ると思っていることが言えない上がり性な性格でした。恥をかきつつ青年活動で訓練し、第十四回NHK青年の主張の県代表になれたり、その後の活動で自分の主張が出来るようになったことは大きな宝でした。特に結婚披露宴の司会を537組もやった実績は主張の訓練だったのです。

 四つ目は感動する心です。感動は感動という作用によってのみ点火されます。ジーンと感動するような純真な心を育てるために、無人島に挑む少年のつどいなど、様々なボランティア活動にも参加して、感動する心に磨きをかけてきました。

 しかし、この四つの宝物は日ごろの努力で磨かないと光を失うという厄介なものですから、「今やれる青春」をテーマに、今も怠ることなく一生懸命磨き続けているのです。

(はるか彼方に聳える西日本最高峰の石鎚山、この山は私の憧れの山であり目標です)

 若者に向って話をしながら、窓の向こうに見える西日本最高峰の石鎚山の姿を思いました。丁度この日は前日までの厳しい寒さで石鎚山は真っ白に雪化粧し、幾重にも重なった山の向こうに一際輝いて見えました。青年時代は何の目標もなく好きか嫌いかで判断したその日が楽しければいいという生き方をしていたように思います。しかし思いもかけず青年学級の「青年の生活設計」で目標を持つことの大切さを学びました。人生の向こうに聳え立つ石鎚山を発見した瞬間でした。しかし石鎚という途方もなく高くて大きい山を目指すには、その前に立ちはだかる山や十下を越えなければいけないのです。それが結婚であったり、子育てであったり、またアメリカへ行きたいというささやかな夢となりました。私の終局の夢である石鎚山の頂上を極めるにはまだまだ遠い道のりですが、とりあえず気力と体力をしっかり整えて夢の実現に向って努力したいものだと思いながら話しを終わりました。

 クラーク博士の「青年よ大志を抱け」という言葉を思い出しながら・・・・・・。

  「楽しくて 今日も暮らせる 有り難さ 四つの道具 持てたお陰で」

  「青年団 今では死語に なりそうな いいつつ残る やはり伝統」

  「ビリビリと 電気のような 感動が 社交ダンスの 女性の手から」

  「憧れた はずの女性も 腹が出て 化粧で隠す 目尻の小じわ」  


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shin-1さんの日記

○いい湯だな

 昨日は急な思いつきで夕方4時から息子と二人で人間牧場へ出かけました。体力に勝る息子の力を借りて耕運機を下の畑まで降ろし、ペレット牛糞をすきこむ作業をするためです。畑もそろそろ春の農作業の準備なのです。亀本さんから貰った耕耘機も冬の寒さで長い間使わずに作業小屋にしまっていて、エンジンをかけるのが大変だろうと思いきや、調子が良く2~3回引っ張っただけで快調に始動しました。早速急な坂道を下まで降ろし、早速ペレットを畑に振り撒いて耕運機で中耕しました。この畑は今年も予定している子供たちのサツマイモ植えに使う大切な場所なので、しっかりと耕して管理しておかなければならないのです。

 まず息子が運んでくれた牛糞ペレットを畑に満遍なく撒き散らしました。ペレット状の牛糞は何の雑作もなく振り撒けました。

 振り撒いた後を耕運機で耕すのですが、畑の傾斜があるためこの作業は中々大変です。こんな作業はこの3~4年やっている馴れた作業なのであっという間に終り、息子の力を借りて再び上まで揚げて倉庫に収納し無事作業を終えましたが、ペレット実験プロジェクト事業のため私の作業風景は息子に頼んで写真に収めました。

 私が作業をしている間に息子は五右衛門風呂、通称ロケ風呂を沸かし始めました。穏やかといっても冬の寒さなので、風呂に入るには絶好のチャンスです。辺りを見渡すと夕日に照らされた湾岸の素晴らしい眺望が眼下に開け、沖に浮かぶ島々が冬としては珍しいほどくっきりと見えました。

(夕日に照らされた双海町の豊田漁港から松山道後平野に至る素晴らしい眺望が開けていました)

(私たちが20年間に渡って無人島キャンプをした由利島も沖合い遠くにくっきりと見えました(
(ここから一番近くに見える島は旧長浜町の青島です)

 風呂が沸いたようなので今年最初の入浴を楽しもうと、沸かした息子がまず入りました。入浴シーンを写真に撮ることも余りないので、外側から撮ってやりました。風呂のお湯がモザイク状になってほっとしましたが息子の入浴シーンも中々絵になる光景です。

 続いて私の番です。下簾板を沈めたっぷりの湯に体を沈め、短いながら農作業で疲れた体を癒しました。風呂の揚げ窓からは瀬戸内海の夕暮れがまるで絵のように見え、これぞ「ロケ風呂」と幸せをかみ締めました。息子がこんな風呂を作りたいと言った時には金のいることゆえ、「また建築士の独りよがり」と思ったものです。設計という仕事は目に見えない夢を絵にします。多分私には見えない心の目でこの姿を見ていたに違いありません。斜面を最大限に利用したロケ風呂は、出来上がってこうして入って今にして思えば、いいアイディアだったとしみじみ思うのです。

 息子の夢はこの風呂に続いて露天風呂を作ることだそうです。多分彼の夢の実現にはオーナーである私の懐を当てにしてのことでしょうが、最初は馬鹿げたこととその提案を鼻で笑っている私も、昨日風呂に入りながら息子の話しに、何となく相槌を打ち始めた自分に気付いています。

 人間何が幸せか?と尋ねられたら、「究極の幸せは人のために出来る幸せ」なんて、講演で格好いい事を御託並べていっている自分ですから、人間牧場に来た人が喜ぶ露天風呂も悪くはないと思うようになりました。さてその夢を実現するための軍資金をどう調達するか、またまた新たなプロジェクトの作戦が始まったようです。

  「山の家 息子沸かせし 風呂に入る 眼下広がる 島影望み」

  「いい湯だな 思わず鼻歌 歌いつつ 次なる夢は 露天風呂とは」

  「入浴の シーン写真を ブログ載せ まるで迷惑 メールのようだ」

  「作業終え 今年最初の 風呂に入る 金はないけど こんな贅沢」

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○香川県小豆島を訪ねる

 「小豆島子育てフォーラムinとのしょう」という研修かに招かれ、久しぶりに小豆島を訪ねました。サンポート高松の敷地内にある船着場から高速船に乗ること30分で島に到着します。小豆島といえば「岬と思えば島なり、島と思えば岬なり」と紹介された壺井栄の「二十四の瞳」で有名な島ですが、最近はそんな小説も時代とともに風化しつつあるようです。それでも二十四の瞳の映画村には年間かなりのオールドファンがやって来て、右肩下がりながら観光の目玉となっているようです。天下の名勝寒霞渓を中心にした観光や手延べそうめん・醤油・オリーブが島の主産業で、どこか地中海を思わせるような雰囲気の島なのです。

(小豆島国際ホテルのレストランから瀬戸内海を眺めましたが、遠くには瀬戸大橋が見えました)

 船で島に着くと土庄町の企画課長さんが港まで出迎えに来てくれていました。途中で町長さんを乗せ、昼食会場となっている小豆島国際ホテルへ向いました。この日は昨日までの寒さとはうって変わって絶好の天候に恵まれ、レストランへ差し込む昼の日差しは暑く感じられるほどでした。ホテルのレストランから窓越しに見える瀬戸内海の島々はとても長閑で、こんなゆったりした所で暮らせる人は幸せだとも思いました。レストランでは既にフォーラムのパネラーの皆さんがお集まりで、楽しいお話をしながら美味しい昼食をいただきました。

(ギネスに乗っている世界で一番細い海峡)

 食事が終わって会場となる中央公民館に町長さんとともに公用車で移動しましたが、ギネスブックに載っている世界一狭い海峡を見せてもらいました。役場の横には「巾の広い橋」と表現たら分るような立派な橋がかかっていて、町民の憩いの場所になっているようでした。興味をそそられたため公用車の窓から写真を撮らせていただきましたが、今度来る時は必ず見学したいものと、多少後ろ髪を惹かれる思いで会場へ行きました。

(フォーラムが始まる前の会場の様子)

 町長さんは県議会議員の経験が長く議長までされた方のようで、町長選では薄氷を踏む僅差で当選され、子育て支援や合併推進を公約に掲げているようで、今回のフォーラムもその一環として行われたようで、それなりの方々が集まっていました。

 私が地域活性化伝道師として、高松で開催された研修会に出席した際、私の話しを聞いた担当者が私へアプローチをかけ、講演が実現したのです。テーマは「子育てからまちづくり」というかなり難しいテーマだったので、全国の事例などを話そうと思ったのですが、参加者は一般町民が多く、そんな話をするとブーイングや居眠りされると大変と、家庭の変化やまちづくりのさわりをそれなりに話させてもらいました。

(小豆島を後にする)

 特急のアクセスが悪く、もし遅れると1時間も待たなければならないとあって、講演が終わると直ぐに課長さんが港へ送ってくれました。お陰様でサンポート高松周辺や玉藻公園を久しぶりに散策することが出来ました。


(高松城)

(玉藻公園)

 サンポート高松の中心は何といっても高松駅ですが、駅に降り立ち一際目を引くのは全日空ホテルの高層ビルです。白亜のビルは海と空の青に程よくマッチし、まるで別世界のようです。かつては宇高連絡船の発着港として四国の玄関口だった港周辺も、瀬戸大橋の開通などもあって少しずつ変化発展しているようです。

 帰りの特急いしづちは、これまで四国では見たことも乗ったこともないようなウッド調の列車でとても美しいもので松山までの2時間30分がとても快適でした。

(素敵なウッド調の特急いしづちの客車内部)

 小豆島には合併して出来た小豆島町という町があります。土庄町は合併しなかったため名前を奪われた格好でした。高知県に四万十市、四万十町、同じように島根県に隠岐島町というのがあるようですが、どこか錯覚したりするような名前が全国には随分多くなりました。特に小豆島町とは小豆島を代表するような地名だけに、合併しなかった土庄町の困惑も垣間見た気がしました。

 でも何度来ても小豆島は又来たいと思わせる不思議な魅力を持っています。今度必ずと心に誓いました。

  「二十四か 子どもの頃に 涙して 映画見たこと 思い出しつつ」

  「ギネス載る 海峡上に 橋がある 広さ別格 これもギネスか」

  「久しぶり 列車に乗って 高松へ うどん食いたし うどんも食えず」

  「小豆島 名付けた町は 別にある どこがどこだか 一向分らず」

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