shin-1さんの日記

○人間牧場から見た今日の豊田漁港

 今日は北西の風が強く、海は白波が立つほどの時化で豊田漁港の漁船は全て休漁です。小型底引き網の漁船は普通だと早朝2時頃から出漁して、遠い漁場でははるか豊後水道入り口まで行って漁をします。約100隻の船体を黄色く塗った漁船は、休みだと港にこのようにきちんと係留されているのです。

 この漁港も私たちが子どもの頃は僅か一本の突堤にしか過ぎませんでした。ですから親父の乗った船が出漁する度に家族総出で船を海岸から降ろして見送り、帰ると又海岸にウインチで揚げなした。この作業は気の遠くなるようなしんどい仕事で、特に時化た日の「船のぼし」作業は困難を極めたものです。でも何故かその頃の思い出が鮮明に残っているのは、やはり家族の絆の深さではなかったかと思うのです。また鯛が沢山獲れた大量の日などは浜が活気付き輝いて見えました。漁港には漁港計画というのがあって、度重なる計画の推進によって見違えるような姿に変身を遂げました。今では西日本、とりわけ瀬戸内海では屈指の漁港規模を誇り、全国各地から視察者が相次いでいます。この写真の右側に出来た新しい漁港は計画図面区域の段階から私も深く関わり、その実現にいささかなりとも努力したものですから、いつかその顛末を書いておかなければならないと思っています。

 漁港の全体がこのように美しく見える場所は探しても中々見つからないので、人間牧場のこのアングルは私のお気に入りの場所です。昔「港が見える丘」という流行歌が流行りましたが、まさに港が見える山といった所でしょう。私はこの漁村で生まれ、この漁村で育ちました。私の人生の心の港はこの港なのです。そして遍歴を辿ってはいますが、青年時代の7年間は自らも若吉丸の船長として漁船に乗り込み漁師をしたのです。この港を出てこの港へ帰ってくる作業を何百回も繰り返しました。港の灯台の灯りに見送られて出航した思い出は今も忘れられない光景で、時々陸路この灯台へ歩いて行くのですが、漁港の外郭施設が拡張される度に灯台の位置も変わって、今は気が遠くなるほど歩かねば灯台へ行くことは出来ません。

 しかし人間とは素晴らしいものです。何もない場所にコンクリートの塊でこんな立派な港を造るのですから信じ難い仕事です。その度に漁港担当者は漁民の意見を聞き、その意見を絵にして県や国に金のむしんをしてきました。またその実現のために町長は県と国への陳情を繰り返し、その隠れた努力がこの漁港を造ったのです。私は担当者として魚市場と、新しい東側の漁港計画を直接担当しましたので感慨も一入です。

 自分の人生と矢の様に駆け抜けた昭和や平成の時代を重ねながら、この港の物語を振り返ってみました。そういう意味でこの原風景が独り占めできる人間牧場のこの位置に満足しているのです。

  「北西の 波風強い この位置に 人の力で 港立派に」

  「灯台の 赤き光に 送られて 何度港を 出漁したか」

  「この一枚 俺の思い出 原風景 何時まで見ても 飽きぬばかりに」

  「えっあれは 知らぬ間に 家が建ち 屋根の姿に 記憶まさぐる」  

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shin-1さんの日記

○ 春の一日西

 私たちの地方には天気を現すことわざや言い伝えが沢山残っています。漁村であるが故の、また天気予報など発達していなかった時代が故のことだと思われますが、「板子一枚下地獄」といわれる海で働く人々にとってみれば、天気の目利きは何よりも大切な仕事だったのです。私はそんな漁村に育ったものですから、子どもの頃から大人の世界の天気に関することわざが自然と耳に入っていました。「平群島に雲がかかるとやまじ風が強い」とか、「お日様が高入りすると雨が近い」とか覚えているだけでも十本の指を軽く越えるほどです。お陰さまで教育委員会や産業課、企画調整室、地域振興課などを渡り歩いて各種のイベントを数多く手がけましたが、日和を見る名人として天気は天気の、雨は雨の対応をしてきました。

 今日は冬の季節風にも匹敵するような北西の大風が吹き荒れました。ここ数日地元では「やまぜを食う」と表現する南西の風が吹いていたので漁師さんは今日の北西の風を予測していたようです。それにしても強い風です。人間牧場で農作業をしていたのですが一日中この強い風に吹きさらされ、被っていた帽子を何度飛ばされたことでしょう。その都度拾いに行って被り直して作業をするのですが、時には下の畑まで飛ばされました。

 春になると冬の間吹いていた北西の季節風が止んで春の南よりの風に変わるのですが、時おり季節の変わり目でしょうかこんな北西の季節風が吹くのです。こちらではこの風のことを「春の一日西(ひしてにし)と呼んでいます。これほどの強風も長続きせず一日で終わるというのです。この言い伝えも殆ど当るのですから昔の人は偉いものです。

 やっと芽が出た木々たちも昨日まではつよいやまぜ(南風)にあおられ、今日はまた北西の強い風にあおられきっと驚いていることでしょう。

 「風土」という言葉があります。その土地の状態や気候、地味などの意味だと思うのですが、私流にいえば読んで字の如くその土地に吹く風だと思うのです。その地域には土地の条件によって一年中様々な風が吹き、その風を受けながら人間も自然も生かされて生きているのです。風は人々の暮らしにとって厄介者であると同時に恵みでもあるのです。その風の方向や強さをよみながら風とともに生きてきたのが人間の知恵となったのです。家の周りやみかん畑の周りに防風垣を廻らせたのも生活の知恵なのです。風土は時として風土病などという病気も起させます。その地域独特の水や食べ物が長い年月をかけて人々の体に影響し原因不明の病気に蝕まれたりすることもあるようです。

 漁師さんの予想やことわざが正しければ明日はこの季節風も収まるでしょう。

  「この風は 誰が吹かすか 知らねども 春の眠りを 起しやがって」

  「ひして西 漁師の言葉 信じれば 明日は収まり 漁に出るかも」

  「二度三度 帽子飛ばして 吹き抜ける この風俺に 何の恨みが」

  「一向に 温くならない 春日和 桜は遠に 散ったというのに」


 

 

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shin-1さんの日記

○日本一高い山と日本一低い山

 人間牧場へ来た人が、急峻な地形の上に立つ水平線の家で「ここは標高何メートル」とよく聞くのです。地図上で一度調べたいと思っているのですが、最近まで下のみかん山に標高100メートルという表示があったのを記憶しているので、100メートル以上であることは間違いないと思っています。急峻は平地が少ないなど欠点も多いのですが、悪いことばかりではなく眺望がすこぶる良いので訪れた人は感嘆の声をあげています。

 昨日来た人との談笑で日本一高い山富士山は3776メートル、では日本一低い山はと聞かれたので「大阪市港区にある天保山で、確か4.5メートル」と知ったかぶりに答えました。ところが物知りの彼が「それは違うというのです」彼の話によると大阪の天保山は確かに低いそうです。天保山は天保2年、安治川浚渫の土砂を積んで作られた人工の山です。江戸時代には葛飾北斎が絵の題材にしたこともあるという由緒ある入船出船の目印でした。作った当初は20メートルほどの山だったそうですが、その後地盤沈下が進んで地図上から抹消された時期がありました。地元住民からの指摘で平成8年、大阪西南部25,000分の1の地図に復活したそうで、それまで日本一低い山といわれていた仙台市日和山を抜いて日本一低い山になったそうです。

 物知り彼の話を続けましょう。ところがこの日本一低いという論争は国土地理院に公認されている山の話で、日本一低い山は実は他にもあるのです。秋田県大潟村に3.776メートルの大潟富士というのがあるそうです。大潟村は干拓によって出来た村全体が海面より低い村です。干拓の際富士山の100分の1の山を作ったそうですが、偶然にもその山が海抜ゼロメートルになったというのです。国土地理院に申請すればギネスものかも知れないと彼は教えてくれました。海抜ゼロメートルの山があるなんてと思わず吹き出しましたが、調べてみれば意外な事実があるものです。

 標高と海抜は一緒ですが、広辞苑によると平均海面からの高さだそうで、日本では東京湾がその基準になっていますから、わが人間牧場より見下ろす海面は直ぐ側まで迫っているような「高さ」の意識はやはり錯覚の世界なのでしょう。ジャガイモの芽吹きがわが家の庭のものより遅いのもこの標高差のせいなのです。

  「日本一 高い山なら 知っている 低い山など 何処にあるのか」

  「おらが山 海抜百の 高さなり 高みの見物 横をヘリ飛ぶ」

  「石投げて 届きそうだと 人は言う 直ぐ下海が 迫り開けて」

  「遅咲きの 俺に似たのか この桜 今が盛りと 人知れず咲く」

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