shin-1さんの日記

○イカもタコも足は八本

 孫と昨日お絵書きをしました。私たちは普通イカは10本タコは8本と子どもの頃から教わってきました。ところが先日漁師をしている親類から届いたタコは茹でるまでは気がつかなかったのですが、茹で上がっていざ刺身にしようとして切り分けてみると何と足が7本なのです。何だか気持ちが悪いと妻が言いましたが、タコの足は最大が8本で中には外敵に襲われたり共食いで自分の足を食ったりで7本や6本だってあるのです。時には無くなった場所から赤ちゃんタコの足みたいな不揃いな足が生えていることだってあるのです。でも孫に教えるときは必ずタコの足は8本と教えながら書きました。

 さて本日の問題はここからです。イカの足は果たして何本でしょう。そう入学試験の問題が出たら正解は10本なのですが、これは正しくも間違っています。「えっ、どっちだ」と言われそうですが、イカの足は確かに10本あります。しかしその内の2本は他の足より長く触腕と呼ばれています。触腕は餌を捕獲するときに活躍する」利き腕のような存在なのです。他の足と異なり吸盤が先の方に集中しているのも自在に動かしながらハンティングするのに有利なように出来ています。

 イカはどうして泳ぐかというと体内に水を取り込み小さな穴から噴射させることで推進力を得るのですが、あの小さな体で時速10キロから0キロまでの速さで移動出来るというから驚きです。イカは無脊椎動物ですが水を利用したジェット噴射ができる優れものなのです。

 私の町は猟師町なのでイカやタコを見る機会が多いのですが、イカの目はこれならよく見えるなあと思われるほど立派な目をしています。イカはこの目をレーダーのように使って遠くからでも獲物の存在をキャッチできるのだそうです。

 巨大なイカが人間を襲う映画が話題となりましたが、あれは大きいものは体長20メートルにもなるダイオウイカだったのかも知れません。

  「タコ八で イカは十本 足の数 孫に説明 画用紙いっぱい」

  「本当は タコ八イカ八 二本腕 みんな知らない 俺は博士だ」

  「イカ刺しで ちょいといっぱい 飲み屋さん 生きたまま出て しばらく観察」

  「イーカんじ イカれた俺に イカす妻 イカに褒めても イカり直らず」 

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shin-1さんの日記

○これが150年の年輪を刻んだ高知県魚梁瀬杉の切り株

 双海町出身で高知大学に通っている堀川奈津さんがインターンシップでまちづくりのお手伝いに行っていた高知県安芸郡奈半利町へ講演に行った折、ふとしたことからまちづくりの中心メンバーである坂本利男さんと出会いました。彼は百姓はするは養鶏はするは、また高知新聞の直売所はするはと手広く事業を行っており、その生き方に感服していますが、彼から貰った魚梁瀬杉の切り株が我が家へ届いてから、親父と切り株の格闘が冬の寒さの中で行われ、その成果物が水平線の家へ運ばれたことはブログでも紹介しましたが、どんなになったかはお知らせしておりませんでした写真でお見せします。

 切り株の年輪は数えてみましたがとにかく目が込んでいて数えづらいのですが有に150くらいはありました。したがってこの杉は150年生と呼んではばかりません。こんな大きな杉の木が果たして何処に生えていたのか坂本利男さんに一度お聞きし、その現地を訪ねたいと思っています。想像もつきませんが多分150年生の杉の木は天をも覆う大きな木であることは間違いありませんし、この切り株の年輪に比べたら私の年齢なんて僅か3分の1程度でまだまだ青年の木なのです。

 それにしてもこの切り株を貰った私より、この切り株に再び命を吹き込んでテーブル台にする作業は相当な労力だったのだろうと思うと、88歳の親父の技は素人ながら大変な仕事だったようです。当てにならない息子より当てになる友人にお願いしていびつな切り口を木の個性を出来るだけ活かして使い、テーブル台に仕上げました。下の脚はまさに職人芸でいびつなままで横木を巧みに配置しテーブル台の上は水平を保つように出来ているのです。これぞ水平線の家の最も素晴らしい調度品です。杉の年齢150年に親父の年輪88年を合わせて240年の労作なのです。

 馬路村の上流に位置する魚梁瀬地区は魚梁瀬杉に詳しい馬路村役場の木下さんの話によると、魚梁瀬杉も戦後の伐採で古木はかなり減っているそうです。九州の世界遺産に登録されている縄文杉で有名な屋久島でも屋久杉は減っており、その価値が高くなればなるほど人間は手に入れたいエゴのような気持ちが生まれてくるのです。

 この切り株は魚梁瀬杉の物語と親父の物語の合作です。山が海の恋人なら杉が育った魚梁瀬の地は川と海で結ばれ、果てしない山野を越えて瀬戸内海を見下ろす山の一角人間牧場にたどり着きました。150年生の杉の木はこれから終焉の地水平線の家で一体どんな夢を見るのでしょうか。

  「この杉は 江戸の終わりに 芽を出して 竜馬の脱藩 見つめて育つ」

  「切り株と 厳冬格闘 した末に 見事なテーブル 山に登りぬ」

  「一二三 数えて驚く 木の太さ 一つ一年 何と百五十も」

  「坂本さん 龍馬の末裔 かも知れぬ 俺に託すは どんな生き方」 

  

 

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shin-1さんの日記

○これが人間牧場の水平線の家です

 間口4間半、奥行き2間半、まるで2階建てのようなこの木造の建物が、ブログ本邦初公開の人間牧場の中心施設である水平線の家です。これまでデジカメの写真を圧縮することが私の技術では残念ながら出来なかったため公開が遅れていましたが、いよいよその姿をブログ上でお見せする事になりました。建築構想が浮かび上がってから丁度一年目のことですので感慨も一入です。これまでにも昨年9月から始めたブログの愛読者からは「人間牧場の記事は読むけどその実態が分らない」「写真で紹介して欲しい」などのリクエストが再三再四寄せられていました。それでも見たいという人が後を立たず工事中や工事現場に沢山の人がやって来ました。この水平線の家を見て感激した人、それ程でもないと落胆した人様々ですが、それでもオーナーの私としましては、目いっぱい頑張ったつもりだし設計した息子も私の頑固でこだわった主張をよくぞ表現してくれたと感謝しています。

 水平線の家は片屋根式です。海に面した北側がまるで2階のように高くなっています。人間牧場が海抜100メートルに位置して急峻なため部屋の大きさと同じ広さのウッドデッキは、スライドして開く3間半の窓を開けると室内の広さが倍になるよう設計されています。このウッドデッキからの眺望は絶景ですし、室内から眺めるとウッドデッキが地球のごたごたを全部消し去って海・水平線・空・島・雲しか見えません。このことも水平線の家という命名の源なのです。

 外壁のペンキは防腐剤ですが、木調色でとても周囲の風景にマッチしています。勿論このペンキ塗りは私たち家族の共同作業で塗りました。少しムラがあるのもお愛嬌です。

 来る人たちが異口同音に言うのは「私もこんなセカンドハウスを手に入れたい」という願望です。そしてその口裏として「どのくらいお金をかけたの」です。確かに県庁所在地の松山市から1時間程度、海が見えて夕日が見える場所にセカンドハウスを造りたいというのは中年男の最後の願望かもしれません。もし手の届きうる金額だったらと思うのも無理からぬことです。その度に私はポール・J・マイヤーの言葉「鮮やかに想像し熱烈に望み心から信じ魂を込めた熱意を持って行動すれば何事もついには実現する」という言葉を引用して説明するのです。お金より優先するのは「何をしたいか」なのです。

 田舎にこんな夢のような私設を造ることは容易なことではありません。土地を探し、水を確保し、地域との人間関係を築き、仲間を集め、豊かな人生を共有する。ワクワクするけれど難問が幾つも前へ立ちはだかります。それを一つ一つクリアーしてこその成果物なのです。でもここからがまた大変です。この施設を維持し何のなめに使うかという知恵がなければ、芸能人が金に明かして別荘を持つのと一緒です。焼肉を食ったりするだけではいけないのです。

  「五右衛門の 写真配信 ブログにて 早速メール 早く行きたい」

  「なんぼ要る 必ず聞かれる 金のこと そんなことより 何をしたいの」

  「いいとこだ 異口同音に 美辞麗句 訪ねた人は みんな感嘆」

  「海と空 これがコスモス 牧場と 夢の世界を 言うが人には」




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shin-1さんの日記

○私の人生はどんな色?でどんな時代?

 自分の人生を色や時代で表現すると今の自分はどんな色でどんな時代だろうと考えてみました。今の自分の人生をばら色なんて輝く表現はできませんから、さしずめ黄色と表現しましょう。そんなに遠くない昔、「幸せの黄色いハンカチ」という高倉健と倍賞千恵子の北海道の炭鉱が舞台になった映画を見ましたが、赤や青の連続した人生の果てに迎えた今の心境は、少しだけハッピーエンド的な黄色がピッタリのようです。降り返れば私にも社会教育に燃え、町名変更に燃え、夕日に燃え、まちづくりに燃えた赤の時代がありました。その赤く燃えた分だけ裏返しとして真っ青な失敗や反対に一喜一憂した時代もあったのです。言い換えれば赤と青が交互に襲ってきたから赤は赤でより鮮明に、青は青でより深い青となって心に焼きついているのだと思うのです。同じ赤と青の時代にも若草色の期間も混在しました。初めて子どもが生まれた時の喜び、長男が生まれた時の喜び、青年お船でアメリカやメキシコを旅した時の喜びは、まさに草燃える春の色だったように思うのです。

 ここでは何故か赤い色の文字で表現しようとしていますが、わが人生の黒色の代表格は何といっても母親の死です。祖母も祖々父母も見送り叔父や叔母も見送りましたが母の死は格別な黒色でした。台風襲来で裏山が崩れその片付け作業中チエンソーで足を切った時も一瞬ではありましたが黒色です。でも何故か黒色であるはずの昨年3月31日はブラックデーではなく黄色でした。たった2年間でしたが激務に明け暮れた教育長としての役割から解き放たれ、しかも35年間の公務員生活に終止符を打てた安堵感が黄色に感じさせたのかも知れません。

 ああ、ばら色で思い出しましたが、たった15分間の見合いで妻と知り合い結婚を決めたあの頃は短いながらばら色でしたし、アメリカから帰って一念発起して自宅を新築した時もばら色だったようです。でもその後には赤貧洗うが如しとまではいきませんでしたが、ローンや子育てで妻にはかなり窮屈な思いをさせたようです。

 孫の声を聞くと赤くなり、妻の声を聞くと灰色になる、まあ一日のうちでもこうして色々な色が交互に現れるのは人生が充実しているからなのかもし知れません。打ち沈んだ老後を一人寂しく過ごす黒色な人生はご免こうむりたいものですが、人生は一寸先はどうなるか分りません。でもたとえそれが沈んだ色の人生であっても明るい色の人生にするよう努力すればいいのです。今の時代のスピードは私たちにとってはあまりにも速過ぎ変化が多過ぎます。そう感じるのはスピードの速さと変化の大きさについて行けない人間になっているという自覚も必要でしょう。その自覚をしてマイペースで明るい色の人生を生きて行きたいものです。

  「今の俺 色に例えりゃ 黄色です 信号注意 いやいやし・あ・わ・せ」

  「孫の声 若草色と 思いきや いきなり妻の 声で灰色」

  「俺だって ばら色人生 ありました もう来ないかも あんな楽しさ」

  「ふと見れば 周り素敵な 春の色 赤青黄色 いい色染まろ」

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