shin-1さんの日記

○寂しくなった商店街

 日本全国のどの街もそうですが、別名シャッター通りといわれるように商店街が寂しくなりました。道の発達と車の普及によって便利になり、郊外や都会の店に客を奪われてしまったからです。馴染みのおじさんやおばさんが店番する長閑なお店も今は殆どなく、商店街にポツンと残されたようにある店さえも「もうわし一代」と嘆くように、存続は時間の問題かも知れません。私の町でも頑張っているお店は、国道沿いのコンビニと、月に一度必ず通う散髪屋さんくらいなものです。

 昔あったが、今は無いお店を思い出してみると、桶屋、下駄屋、うどん屋、塩屋、豆腐屋、鍛冶屋などが頭の中に、少年の頃の思い出として浮かんできます。

 桶屋は正目の杉板がうず高く積まれた仕事場でおじさんが板を削って継ぎ合わせ、割竹をくぐらせて作った輪の中で組み合わせ、見事な桶を作っていました。下駄屋は桐板を割ってハマや鼻緒をつけていました。切れた鼻緒を直してくれたり、高下駄を鳴らすバンカラ風な格好をしたこともありました。うどん屋の店先ではおじさんが手動の機械を回しながら、板状のうどんを何度も機械にかけ、やがて暖簾のようなうどんを鋏で切って釜に入れ茹いていました。塩は当時専売でしたので、今のようにどの店でも売っていませんでしたから、藁で作られたた塩カマスの中から枡で量り売りしてくれました。このお店は塩くらいでよう生活できるなあと思ったものです。豆腐は今のようにパックに入っていませんでしたから鍋を持って買いに行きましたし、おばちゃんが豆腐箱を下げて「豆腐は要らんかな」と売り歩いていましたが、大豆が豆腐になる不思議な謎は大きくなるまで解けませんでした。鍛冶屋のおじさんは頑固者で、鍬の修理に行っても機嫌が悪いと中々直してくれませんでした。天井から引いたベルトがクルクル回り、鉄槌機が真っ赤に焼けた鉄を音を立てて打っていました。

 桶屋はプラスチックに、下駄屋は靴に、うどん屋はインスタントに、塩屋は不専売に、豆腐屋はスーパーに、鍛冶屋は日曜大工店にそれぞれ取って代わられました。商店街のあちこちから聞こえた音の風景、匂いの風景、物の風景、手仕事の風景、活気の風景が姿を消しました。出来ればそんな思い出を語ったり記録に残して置きたいものですが、今では適わない夢かもしれません。

 先日出版会社から古い時代の写真集を出すから手伝ってくれないか相談がありました。頼る人もないというので無理やり引き受けさされましたが、その写真には様々な村や町の思い出が凝縮され、キャプションを書きながら一人少年の頃にタイムスリップしていました。

 「ぬかるみを藁の草履でパタパタと背中シリバネ頭の上まで」

 「クルクルと鉄を削って出る屑の余りの綺麗さに少し貰って」

 「下駄鼻緒布を破って修理した淡く生まれた恋もはかなし」

 「一升瓶下げて親父の酒を買う樽からトクトク音と香りが」

 「タガ取ればただの板だと口上を言いつつ桶屋木元竹裏」

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shin-1さんの日記

○幼稚園から老稚園へ先祖返り

 「這えば立て立てば歩めの親心わが身に積る老いも忘れて」。この言葉のように親は子どもの成長を願って一生懸命子どもを育てますが、子どもが一番最初に行くのは保育園か幼稚園です。私たちが小さい頃わが町には幼稚園も保育園もなく、いきなり小学校でした。子どもは大きくなるにしたがって様々なことを学ぶのですが、今日地元の高齢者サロンという事業に自治会長として事業に参加し、高齢者を相手に指導員さんがしているレクリェーション指導を見て、まるで幼稚園や保育園でしているお遊戯と一緒であることに驚きました。今日の高齢者の行動を見る限り、これは幼稚園ならぬ老稚園ではないかと、高齢者には大変失礼ながら私流に「老稚園」という新語を作らせていただきました。

 民生委員をしている妻の主催で始めた高齢者サロンに集まった人は20ほどでしたが、高齢者の対応には慣れている私に協力を求められたので参加しました。顔見知りの近所のおじいさんやおばあさんばかりなので、いきなり会話が弾みます。「最近は耳が遠くなるし生きとってもちっとも面白くありません。一人身では会話も限られていて言葉を忘れそうです」と嘆く人もいれば、「耳が遠くなりましたが、いらんことも聞こえなくなって丁度いいです。でも悪口は何故か良く聞こえます」と洒落た会話もありました。「耳が遠くなっただけ小便が近くなりました」と笑わせるおじいさんもいて華やいだ雰囲気でしたが、レクリェーションは幼稚で間違いやゆっくりペース、それが逆に面白い雰囲気をかもして結構楽しい集会でした。

 この集会で一際目に付いたのが漁協女性部の皆さんの踊りでした。銭太鼓やドジョウ掬い、小網音頭など、一座を組んで町内各地の催しを巡回して回るのです。勿論ボランティア活動で無報酬です。富岡喜久子さんという責任者を中心にシーサイド公園でじゃこ天のお店を開いて頑張っている、その恩返しだと言うのですが、これが中々の玄人はだしで、見応えがありました。その崇高な精神は見上げたものだと感心しました。感謝と真心をじゃこ天に乗せて売る口コミ商売は、さすが55百万円の売り上げを誇るだけあるなと、感心しました。

 こんな世知辛い世の中で頑張っている漁協女性部の皆さんに大きな拍手を贈ります。

 「じゃこ天を売りも売ったり五千万感謝を込めてこれぞ本物」

 「大漁を喜ぶ浜の猟師あり魚は弔みすず言うなり」

 「耳遠く小便近くなりにけり足す引くお相子だから生きれる」

 「ジジババの仕草はまるで子どもです先祖がえりと思えば納得」

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shin-1さんの日記

○たかが名刺されど名刺

 まちづくりに関わって以来、長年慣れ親しんできた夕日をあしらった名刺がなくなりました。双海町というまちを売り出すために考えた夕日の名刺も、多い月には600枚、年間7,200枚くらい使う驚異的な枚数でした。今年の4月に退職後も無職ながら夕日の台紙で通しました。この半年余りで1,000枚を使い、この程名刺がないことに気付き、役場と印刷屋に掛け合ったところ台紙がないというのです。明日から始まる全国行脚にさてどうしたものか思案をしてますが、只今名刺がないと自分だけではなく夕日を売り出せないジレンマに陥っています。「夕日のミュージアム名誉館長」という肩書きがあるのですから、その線で役場へプッシュも考えましたが、大人気ないので思い切って自費で作ろうと決意しています。というのもよくよく考えてみると退職後まで、自分と町の関係を引きずって生きてるような後ろめたさがあったからです。夕日さえももう自分のものではないのです。しかし私が夕日の宣伝をしなかったら、この町や夕日を誰が真剣になって売り込むのか不安もあります。「あなたの心配することではない」と言われそうです。

 たかが名刺と思われるでしょうが、小心者の私?ですから昨日はそのことが頭から離れませんでした。発想の転換で名刺が切れたのを機に、今度作る名刺には思い切って「人間牧場主若松進一」と書くことにしました。差しあげた瞬間「えっ、人間牧場って何ですか?」と言われそうで話題の広がりを予感しました。台紙は夕日かそれとも出来上がった水平線の家にするか迷っていますが、過疎逆の和田さんが書いてくれた似顔絵を使うも一考です。しかし似顔絵と男前である本物との落差に思わず噴出してしまう危険性もあります。漫画チックに渡辺えつこさんが岩国で書いてくれた色紙も・・・・・・。ああー迷うなあ。男前は辛いなあ。

 今までの名刺にはEメールやホームページアドレス、それに携帯電話番号は載せていませんでした。個人情報が気になるところではありますが、交流の広がりを考え思い切って載せます。今や私にとって自宅の住所・FAXよりもパソコンの方がはるかに頻度が高い交信手段なのです。でもこうしたデジタル社会でありながら、毎日三枚のハガキ実践対応はどうしても現住所も必要不可欠なものです。

 結局結論の出ぬまま朝を迎えております。差し当たり新しい名刺が出来るまで、今日から一週間は「えひめ地域づくり研究会議代表運営委員」の名刺やそこら辺をかき集め対応したいと思っています。

 「底ついた名刺に驚き電話するピシャリ営業それはもうない」

 「何気なく使った名刺の夕日さえわが物でなき気付き遅れて」

 「太閤は夢また夢と言ったけど私の夕日も夢のまた夢」

 「新しき名刺に書いた牧場主話広がる夢を見つつも」

 

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○お葬式とまちづくり

 世の中には変わった学生がいるもので、何と卒論作成に「お葬式とまちづくり」なるテーマを掲げている学生に出会いました。今日はその学生2人がはるばる高知県から勉強のためにやって来たのです。私も前々から民俗学で葬式のことを書こうかと思っていた矢先のことなので快く対話に応じました。

 私が子どもの頃のお葬式はもっぱら土葬で、おじいさんが死んだ時は、海の見える墓地まで急な坂道を棺おけ担いで登りました。組内の人の掘った穴におじいさんの棺おけを入れて土をかけた時、「ああ人間は土になるのか」と幼心を痛ませてそう思いました。初七日までの毎夜ローソクの光をつけに墓地まで行くのですが、この土の下におじいさんがいると思うと、ボチボチどころか怖くなって、心臓が張り裂けるくらいの速さで墓地に通じる山道を駆け下りました。おじいさんは人徳のあった方らしく、葬送の列が墓地まで長く続いていたことも忘れません。セピア色にあせてはいますが、私の思い出の彼方におじいさんのお葬式の姿は今も鮮やかに残っています。

 お葬式に関しては学生がテーマにするように最近では様変わりしました。土葬から火葬へ、自宅からセレモニーホールへとやり方も場所も随分変わったように思います。正しいデーターはとっていませんが、学生が言うように、お葬式の変化はまちづくりやコミュニティのあり方と、相関関係があるのではないかと思えるのです。私たちの町では限界集落が多くなりつつあり、お葬式さえも組内で支えきれない所もあると聞きます。またお年寄りが病院へ入院するのをためらうのは、病院で死ぬとセレモニーホールへ直行し、住み慣れた家へ帰れないからだとも聞きました。せめて通夜だけでも自分の家でと願うお年寄りの気持ちは痛いほど分かるのです。

 「世の中全て金次第」、いやひょっとしたら「地獄の沙汰も金次第」なのかも知れないと思うと何かしら侘しくなります。

 昨日こんな話を聞きました。ある一人暮らしのおじいさんが亡くなりました。今は忙しい人ばかりだからでしょうか、葬式が終わるのその日のうちに49日の法要を済ませるようです。財産は民法で決められたとおり、均分相続することになって誰も文句を言わず分け前を受け取ったようですが、さて位牌を誰が引き受けるかもめた末、結局は引き取り手がなくお寺に預けることで一件落着したそうです。「財産は欲しいが位牌はいらない」という何とも身勝手な社会は、私のような古い人間にはどうしても理解ができません。あなたはどうお考えでしょう。

 学生はまだお葬式とまちづくりの関係についてよく飲み込めていないようでしたが、私の葬式論に舌を巻いて帰りました。「君なら必ずいい論文が書ける」と激励して分かれました。いい論文が書けるよう祈っています。

 「葬式は今も昔も一里塚土葬と火葬違っていても」

 「死んだはずどっこい母は生きている心のどこかで私見守る」

 「葬式を卒論テーマにする学生何を学ぶか今から楽しみ」

 

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shin-1さんの日記

○芋端(畑)会議の夢を見る

 ストーブの恋しい季節になってきました。毎年この頃になると私の狭い書斎には、妻の配慮でコタツがお目見えするのですが、今年はまだコタツの用意が出来ていないため、椅子机で少し震えながらブログを書いています。

 昔は火鉢ひとつ、それも今の家のようにサッシの家でなく、あちらこちらから隙間風がピューピュー入ってくるような家だったのですから、寒かったのは当然でしょう。私たち子どもはは青鼻を垂らしていました。あの懐かしい火鉢も倉庫にしまわれ、各部屋にはストーブ、電気カーペットなどの暖をとる暖房器具が色々と置かれています。贅沢になったものです。暖冬傾向だといっていますが雪の降らない南国双海でも冬は結構寒いので、我慢もそろそろ限界かなと思いつつ、不足の不足を感じることに挑戦しております。

 それにしても最近は、私たちの暮らしの中で煙なるものがなくなりました。落ち葉を集めて焚き火をすることはごく自然の風景でしたが、今ではやれダイオキシンだのやれ環境問題だのとうるさくて、焚き火は姿を消しました。確かに環境については考えなければなりませんが、焚き火でどの程度ダイオキシンが出るというのでしょう。ダイオキシンという物質は目に見えないから私たち凡人には知る由もありませんが、化学工場から出る膨大な化学物質はそのままで、こんな小さな焚き火を止めるのは枝葉末節だと思うのです。でも焚き火も日本全国の国民がやったらこれも困ったものです。先日埼玉で面白い知恵をいただきました。焚き火で芋を焼いて食べる芋端(畑)会議なるものです。井戸端と掛け合わせたものですが、これは人間牧場でも使えるアイディアだと思いました。

 早速来年は人間牧場の畑に芋を植え、秋の収穫の頃焚き火をして芋端(畑)会議をやりたいと、人間牧場のコンテンツに一項入れました。秋の長閑な時期に焚き火を囲み芋をフーフーやりながら、家族や友達と色々な話をしたいと思っています。ひょっとしたら親子向けのプログラムとしては最適かも知れませんね。

 今の時代は、「早い」というスピードが求められています。季節や旬や人間性がまったく無視され、効果効率だけが一人歩きしています。スロ-ライフといいながら、便利さや安さを求めて人々は動いています。「あの商品は何円安い」が話題になり、地元の商店は競争に負けてしまいます。頑固親父の店など見る影もありません。結局はそうして時代は知らず知らずのうちに流れてゆくのですが、せめて何かにこだわって、少し自分の体内時計にあった暮らしがしたいものです。

 「芋食うて臭い屁こいたの誰だっけそんな話題は夢のまた夢」

 「どの家も風呂を焚いてる煙あり長閑な秋のふるさとの昔」

 「鉢巻や頬に被ったタオルだが今の若者お洒落に頭」

 「芋という字を分け見ると草を干すじゃあ草干して芋でも焼くか」

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shin-1さんの日記

○ある親の苦悩

 子どもを育てることの大変さは、子どもを育てた人にしか分からないといいますが、特に反抗期や思春期の何かと問題を抱えた子どもに対する教育は相当頭を悩ませます。今日も突如としてある親から子どものことについて相談を受けました。喫煙が発覚して学校から謹慎処分を受けたというのです。集団での喫煙だけに集団で一律同じ謹慎処分と思いきや、その子だけが家庭謹慎という重い処分を受けたそうです。親で見たら合点がいかぬと言うのですが、相談する人もなく尋ねあぐんで私の所へやって来ました。早速学校へ連絡を取り、学校へ出向きましたが、何度も同じ過ちを繰り返してきた過去の事実と、先生たちがこの子どもを立ち直らせようと努力してきた経過が先生の説明で明らかになりました。

 学校は、青少年の喫煙は法律違反であり、青少年の健康を蝕む観点から絶対してはならない行為だと厳しく言っているにもかかわらずやめれないのは、本人の意志の弱さと親のしつけが悪いと断罪し、退学処分を決定したようです。本人の将来を思うと悲しくなりましたが、決意文を書いた前回の反省が生かされなかった本人や親のあり方や、指導努力の甲斐もなく成果を挙げれなかった学校側にも責任はあるようです。

 私を見込んでの相談とは、親からすれば「学校に顔の聞く人に頼めば何とかなる」といった安易な考えがありはしないか、またその甘い親の姿勢が「悪いことをしても頼めば何とかなる」という本人の甘えに繋がっているようにも見えました。

 これでは折角の危機をチャンスに生かすことは出来ず、たとえ退学という重い処分を今回免れても、本人のためにはならないと、思い切って退学を勧めにお家へ伺いました。あいにく両親は留守でしたがおばあちゃんがいましたので、過酷だとは思いましたがそのことを話して帰りました。おろおろ涙するおばあちゃんの姿を見たとき、この涙を本人がどう感じるのか明日にでも本人に話してやりたいと思いました。

 学校へ行きたくても行けない時代を過ごしたおばあちゃん。学校へ行きたくないのに学校がある時代に育った孫。どちらも悲劇です。「こんな子どもに育てたのは親の責任です」t嘆く親の悲しみもよく理解できます。

 通っていた学校へは行けなくなるだろうけど、本人が早く立ち直って両親やおばあちゃんの笑顔を見たいものです。そのためには私の役割は何なのか、関係ないと思わず逃げずにしっかりとお手伝いしたいと思います。

 「悲しきは可愛い孫がマゴマゴと迷える姿見るに見かねて」

 「辛いけどここでしっかりせにゃならぬ親という字は立・木・見る」

 「何にでも興味を示す若さゆえでもダメなものダメダメダメだ」

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shin-1さんの日記

○私が私を意識した日(意識の誕生日)

 私の誕生日は昭和19年10月3日です。誕生日は人間の生命が生まれた日とされていますが、よく言われる夫の精子が妻の卵子に宿って、「とつきとうか」(10月10日)で子どもが生まれるとしたら私の生命の誕生は昭和18年12月24日、クリスマスの日へと遡らねばなりません。「えっ、私はキリストと同じ日に・・・・・・」なんて驚きです。しかしこの考えは父と母のみぞ知る布団の中の出来事ですから、あまり深く詮索すると死んだ母親に叱られそうなので止めます。でも馬や牛が生まれて間もなく立ち上がって歩く姿を見ると、人間は誕生からさらに1年間もしないと歩けないのですから、世話のやける動物と言わざるを得ません。

 時々自分の幼かった頃のことを思い出そうとするのですが、小学校以前のことは中々思い出せません。保育園も幼稚園もなかった田舎で育ち人の、移動もそんなに多くなかった戦後の、貧しい時代に育った私ですから、とりたてた思い出がないのかも知れませんが、小学校へ上がる頃の思い出は少しあるのです。私は知能の発達が遅れていたのか元々なかったのか分かりませんが、小学校へ上がるまでに10の数が数えれなかったようです。今時の子どもだと信じられないことで、今の時代に生まれてたら母親は私を教育相談にでも連れて行き、「はてどうしたものか」と行く末を嘆いたことでしょう。

 父は海岸から石を10個拾ってきて、毎晩夜なべ仕事の作業場に私を座らせ、石を数える練習をしました。数え間違えると竹の鯨物差しで手の甲をピシャリと叩くのです。出来ない私は涙を流していました。

 ひょっとしたら「私が私を意識した日」は小学校へ入る前の6歳頃の春だったのかも知れません。正確な記憶ではないのですが、これが私の「意識の誕生日」なのです。あんなに遅れていた算数能力も何とか人並みになり、今では計算も出来るのですから、私は大器晩成とまではいかなくても、小器晩成くらいとは言えるでしょう。でもそんな過去があっても社会に出るとそれなりに暮らしていけるのですから、石ころが数えられなかった意識の思い出は、むしろ人生の出発点として私の面白いエピソードになっています。

 「意識の誕生日」以来55年間、私の脳は覚えたり忘れたりを繰り返しながら、覚えなければならないことは覚え、忘れてもいいことは忘れて今日を迎えています。本当の誕生日から6歳引いた55歳が私の意識の誕生日ということになりますから、私はまだ55歳の若さなのです。

 この文章を書きながら私は若いことに気がつき、若いという自信を持とうと考えました。「失礼ですが若松さん、お歳は幾つですか」と尋ねられたら、「はい意識の年齢55歳です」と応えようと思っています。

 「歳なんぼいうと必ず褒め言葉7・8つ若く言われ喜ぶ」

 「父母が布団の中でドッキング私の誕生しれた夜話」

 「生まれた日私の父は戦争で留守してました何故に生まれた?」

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○トタンで作った中国式万里の長城

 最近の私のブログ「shin-1さんの日記」はまるで旅日記のようです。昨日埼玉かと思えば今日は広島と全国各地をまるでフーテンの寅さんのように気になるカバンを提げて出歩いています。

 今日は広島県安芸高田市の甲山町を訪ねました。担当者が清水しげ子さんといって、字こそ違え私の妻のの名前と一緒なのです。最初講演についてメールのやり取りをした時には、かつて妻と交際した頃を思い出し、淡い恋心を抱くような心境でした。今日お会いをしましたが予想をはるかに超えた、気配りの出来る方でした。勿論妻よりも数ランク上とお見受けしました。(妻には内緒です)

 晩秋の安芸路は山が赤や黄色に染まり、日本晴れの青い空に映えていました。多分待ちの中に住んでいる人たちには見なれた光景ですから、美しくも感じなと思いますが、茶色の屋根とマッチして、とても絵になる光景でした。私の町を彷彿するマッチ箱のような一両編成の黄色い電車に乗って、のんびりゆっくり本を読みながら各駅停車の旅を楽しみました。乗り降りする人も穏やかで、気軽に声をかけていただきました。「どちらから」「はい愛媛県から来ました」「まあ、遠い所からご苦労様です。どちらまで行かれますか」「はい甲山町まで行きます」「何をしに」「はい講演を頼まれてお話しに行きます」「えっ、何を話しに行かれますか」「はい、まちづくりについてです」「じゃあ、先生ですか」「いやいや私は先生じゃあありません。田舎のおいちゃんですよ」と、まあ長閑な会話です。多分そのおばちゃんは私の風采を見て「えっ、あんたが何で講師?」って感じが見え見えの会話でした。

 それにしても、車窓に気になる光景が続いていました。波型トタンで畑のあちこちを囲っている光景です。中国地方では万里の長城ならぬトタンの長城とでも呼ぶのでしょうか、何処までもどこまでも続いていました。これはイノシシの食害から作物を守るために作られたイノシシ避けの柵なのです。進んだところでは波型トタンに変わって電圧線を張り巡らしていますが、山間地ではまだまだトタンの柵が多いようです。どの地域もイノシシと人間の知恵比べが行われているようであり、ただいまのところ人間とイノシシの知恵比べはいのししに5分の利があるようです。あのトタンもタダではないはずですから、イノシシのために中国山地では、農家に大きな負担が強いられているようです。

 「そのうちにイノシシならぬ人間がトタンで囲われ行き場失う」

 「山里に落ち葉煙が幾筋もああ長閑なり日本のあちこち」

 「今頃は甘柿熟れてもど子どもらは見向きもせずに去り行く寂びし」

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shin-1さんの日記

○理想の妻の条件

 よく観光地などに行くと、湯飲み茶碗やキーホルダー、タオルなどに名前や歴史上の人物の有名な教えを書いたものが売られています。多分何処かの観光地で買ったか、誰かにお土産に貰ったのでしょうが、「理想の妻の条件」という世にも珍しい湯飲みがあります。お茶を飲みながら妻とこのことについて話しました。

 私「おい、お前も湯飲みに書かれている理想の妻か?。せめてこの書いたものを読んで、少しは近づくように努力したらどうか」。「ええこと書いとるねえ。私のことを書いとるのではないかしら」。「・・・・・・・」。次の言葉が出ませんでした。「自分はどうなの」。「・・・・・・・・・・」。

 理想の妻

 1、夫の好き嫌いを早く飲み込む妻。1、快活で愛嬌たっぷり従順で優しく上品な妻。1、どことなく初々しい感じのする妻。1、家政と料理が上手くて糠味噌臭くない妻。1、機転が利いて利口ぶらぬ妻。1、何事にも理解と同情を持とうとする妻。1、働き者でコセツカぬ妻。1、話し上手聞き上手の妻。1、飾り気なく身だしなみのよい妻。1、世の中に遅れぬだけ修養につとめる妻。

 以上のことが書かれているのですが、妻の「あなたはどうなの」の言葉で、私を私がテストしてみると、はてそんなに理想の夫であるか自信がもてないのです。

 私たち、いや私は得てして自分のことを棚に上げて相手に自分の理想ばかしを要求していたように思えるのです。特に何処かの出来た女性を頭に描きながら言うものですから、言われた妻はかちんと来るに決まっています。

 ある友人が、「テレビで見る理想の女は格好いいが、あの人だって糞も小便もするし、自分の家では化粧を落として寝巻きでちょろちょろするし、自分の妻と同じだよ」と言うのです。同感でした。特に疲れた時の寝姿はカバに似ているし、いびきだって壊れた掃除機のようです。「じゃあ自分はどうなの」。はい自分は自分に見えませんから、同じでした。

 これからはこの湯飲みを自分の目標として頑張ります。アブ蜂取らずとはこのことです。

 「この妻の何処に惚れたのまあ不思議同じ思いの顔でジロジロ」

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shin-1さんの日記

○妻が風邪でダウン

 埼玉から二日ぶりに帰ってみると、妻は仕事に出掛けていました。娘の夜勤の都合で孫が我が家に来ていましたが、次男と久しぶりに帰省していた三男が孫の面倒を見てくれていました。

 妻が職場から昼過ぎになっても帰らないのでおかしいと思いつつ、青少年の合宿研修に顔を出し、帰ってみると妻は床に伏せっていました。病院で点滴を受けていたのだそうです。

 夕方になっても妻は起き上がることが出来ず、私は右往左往しました。幸い自炊経験のある三男がテキパキと食事の準備をしてくれました。私は大きな声ではいえませんがお湯を沸かしただけです。

 私は自慢ではありませんが、家事は家でまったくやったことがないのです。無人島キャンプなどの野外活動も、もっぱら食事の得意な仲間におんぶにだっこで、会の運営などに携わっていました。「お父さん私が病気になったらどうするの」といつも妻から小言を言われてきましたが、こんなに早く病気になろうとは夢にも思いませんでした。妻の枕元に行って、何をどうするのかいちいち聞きながら、結局はお湯を沸かすしか芸のない私は、つくづく自分のふがいなさが身にしみました。「病気になったらその時はその時」と鷹を食っていましたが、この際自立できるような自分になりたいと思いました。

 三男はご飯をちゃんと炊いて、仏様と神様棚にご飯を供える習慣までちゃんとやってくれるのですから、驚きでした。神様・仏様に妻の風邪が早く治りますようにお祈りしましたが、それは自分の食事を作ってくれる妻がいないと困るからといった、安易な考えの祈りであったことも、少しだけ反省しております。はい。

 それにしても三男の作った鍋物は美味しかったです。「鍋でもするかい」と思いつき、三男は急遽畑へ大根を抜きに走り、下ろし大根までする徹底ぶり、空いた口が塞がりませんでした。三男と久しぶりに向かい合って二人だけの食事をしました。いつもガミガミいう山ノ神(妻)は別室で寝ているのですが、台所はまるで火が消えたような静けさでした。いるものがいないだけでこんなにも暮らしの雰囲気が変わるものなのかと、改めて妻の偉大さに感心しました。

 嘔吐下痢症の妻は食事を枕元に運んでも食べることも出来ません。三男はポカリスエットを枕元に運んで母の病気を気遣っています。

 明日、私は早立ちで広島へ行かなければなりません。妻の病気は、明日が休みの次男にまかさなければなりません。寒くなった旅支度にとパッチ(ズボン下)を穿いて行くよう寝床から心配してくれています。有難う。母さん。

 「床伏せし妻に感謝の言葉かけ旅に出る朝後ろ髪引く」

 「黙々と鍋をつついて晩飯を息子と二人味気なきかな」

 「携帯の声でうつらぬ流行風邪妻は床臥し私ピンピン」

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