shin-1さんの日記

○息子との面会

 私には一女三男の子どもがいます。もうそれぞれ大人になってそれぞれの道を歩んでいますが、幸せなことに4人の子ども全員が県内の職場であるため県内に住んでいます。しかし子どもたちはそれぞれの仕事が忙しく、子育てで休職をしている娘を除けば三人の男の子は男というせいもあるのでしょうか、中々家には帰って来ないのです。それでも長男は一人の子どもができ、来年には第二子誕生予定ということもあって、一カ月に一度は家族で泊まりに来ます。しかし看護師をしている次男は仕事が三交代と不規則なため中々帰れず、末っ子に至っては警察官のためこれまた帰るることができず、みんなが出会うことは殆どないのです。

 昨日の夜その末っ子の三男から自宅に電話が入ったらしく、年末調整の申告に生命保険の払い込み証明書が必要なので送って欲しい旨の連絡があったそうなのです。たまたま私が西条市で開かれる厚生年金受給者の集いという研修会に講師として招かれているので、少し寄り道をして持って行くことにしました。

 本当は国道11号線を通るのですが、今日は旧北条を通る海周りの道を走りました。島影織りなす瀬戸の海は、このところの寒さで少し北寄りの風が吹いてどことなく秋の深まりを感じさせましたが、島影は少し浮島現象も見られました。

 時折入る携帯電話に対応して広場に車を止めて対応しながら今治まで行きました。息子の務めている警察は私も行ったことがないのでその所在を調べるためカーナビで入力しましたが、いつも利用している国際ホテルや旧地方局のすぐ近くだけに直ぐに分かりました。警察の駐車場に入って息子に電話すると12時を少し過ぎていたためあいにく外へ昼食に出ていました。食事を注文しているので15分くらい待つよう言われたので車の中で待っていると息子は帰ってきました。昨年までは交番や派出所勤務でした。今年の春から別の仕事をしていたようですが、先月警察学校で特別な訓練を受け刑事になったようで、私服の背広姿も凛々しく働いていました。

 々警察とは言いながら職種が変わったため、その後どうなのか尋ねてみると、好きでなった仕事だけに生きがいを持ってやっていると胸を張って答えてくれました。親としてとても頼もしくそれでいて嬉しい面会でした。妻から預かった書類を渡し、私も次の予定の時間が迫っていたので僅か5分くらいの立ち話で警察の駐車場を出て海岸沿いの道を西条に向かって走りました。

 三男は、大学を卒業して直ぐに民間の会社に就職しました。そこの会社は果樹の選果機製造メーカーでしたが、愛媛県下を揺るがす入札問題で経営者も変わり、技術者として働く意欲がなくなったようで、思い切って転職の道を選び、子どもころからの夢であった警察官になるために猛チャレンジし、幸いなことに社会人枠で憧れの警察官になったのです。妻は危険な仕事だからと大反対でしたが、「警察官が一番安全」という訳の分からない言葉の説得で夢をつかんだのです。


 子どもが4人も入りと子育ては上手くいって当たり前、下手をすると子どもと親の断絶があるものですが、幸せなことに優しい子どもたちに育って人様のお役にたっているのです。官舎に入っての一人暮らしは大変だろうと思いますが、当の本人はいたって気楽なようで極楽トンボを決め込んでいるようです。今年の正月は日勤になったので帰れるかも知れないと別れ際に話してくれました。


  「私服にて 働く姿 凛々しくて いつの間にやら 大きく成長」

  「別れ際 安全運転 気をつけて 親に諭しの 労い言葉」

  「歳をとる はずだと息子 見て思う 早く嫁でも 貰ってやらねば」

  「正月は 帰れるかもと 濁らせる これも仕事が 言わせる言葉」

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○日本列島は広いねえ

 4日前に四国愛媛県伊予市双海町を脱出し、名古屋経由で長野県へ行きました。出発した日は20度近くあった外気温度も東北上するにつれて下がり始め、長野県木曽福島に着いたころは10度を下回る寒さでした。旧開田村のある開田高原に行くと5度前後とさらに冷え込んで、御岳山や南アルプスの山々はには今年の秋始めて見た白くて雄大な冠雪です。さすがに南国とは言い難くも四国瀬戸内に暮らしている人間にとっては、15度も下回る急激な温度の変化は身に堪えました。下着は年中袖なしのランニング薄着で暮らす私ですから、そんな薄着のままで出かけコートを持って行かなかったため、寒くて寒くてぶるぶる震えました。長野の二日間は旧友大目富美雄さんがつきっきりで案内してくれましたが、大目さんはさすがにそんな寒さの中でも私のようにぶるぶる震えるでもなく、薄着でコートも着ていないのに平気で過ごしている姿を見て感心してしまいました。

 私の住む愛媛県伊予市辺りも秋が深まったとはいいながら、山の木々はまだ緑が多く、ウルシやハゼがどことなく色づきかけたかなあと思う程度で、クヌギなどはまだまだ11月下旬でないと紅葉はしませんし、その紅葉も紅葉する前に枯葉になってしまうのです。

 私は飛行機で松山~名古屋便に乗れば早いのですが、名古屋便がとれなくて往路をバスや列車を乗り継いで行ったものですから、近いと思う場所も中々目的地まで時間がかかりました。願わくば旅はのんびりゆっくりをモットーにしている私としては、結果的に自分の願い通りの旅になりましたが、それにしても狭い日本といいながら広いと思いました。

 日本が広いと感じるのはこうした気候と時間的距離だけではありません。日ごろ慣れ親しんでいる言葉も特に地方へ行けば方言がまだまだたくさん残っていて、「それは何?」と聞き返さなければ分からない言葉だっていっぱいあって、おかげ様で傍耳を立て興味を示せば長い列車の旅も結構楽しいものなのです。この4日間の珍しい言葉を名刺の裏の白い部分に書き込んでいましたが、最後に書いた名刺をワイシャツの胸ポケットにしまっていたため、妻が洗濯して溶けてしまいました。これも笑い話の一つです。


 そうそう、広いといえば食べものだって地方には美味いもの珍しいものがいっぱいあって、今回も大目さんの配慮で随分堪能しました。寒い地方には寒い地方なりの食べ物があります。信州はそばと漬物とおやき、それに五平もちが有名ですが、漬物は美味しいもの珍しいものを沢山食べました。今回は山深い古民家の民宿に泊めていただきましたが、夕食朝食に食べた野沢菜や大根の漬物はご飯や酒の肴によくあって、ご飯のお代りをしたいくらいでした。

 また泊めてもらった民宿では奇しくもおじいちゃんの49日の法要の日と重なったため、80歳がらみおばあちゃんが朝早く起きて仏壇に供えるぼた餅を作っていました。その姿に今は亡き母や祖母の背中姿を重ねながら色々なお話をさせてもらいました。お陰さまでそのぼた餅もご相伴にあずかりました。

 旅の目的は違うのですが、「旅を楽しむ」心を持てば目的以外のことが楽しめて、今回も楽しい旅となりました。

  「旅先で 食う寝る遊ぶ してるうち 異文化ギャップ 心洗われ」

  「ぼた餅を 作る民宿 ばあさんの 背中にダブる 今亡き母祖母」

  「昔言う 旅は道連れ 世は情け お一つどうぞ 隣席から」

  「のんびりと ゆっくり向かう 信州路 日本は広い 体感しつつ」

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○日本一の紅葉を今年も見てきました

 木曽川沿いを中央本線に沿って北上しました。恵那辺りから車窓に見える景色がだんだん変わり始め、やがて上松辺りを挟んだところまで来るともう眼に映る景色は紅葉一色でした。昨年の驚きに比べれば一応は予測をしていたものの、地元の人に言わせれば台風も上陸せず、機構や水分のも丁度良かったせいもあって、昨年よりもきれいだと自慢していました。でも私に言わせれば去年も今年もそんなに甲乙つけるほどの意味もなく、今年も「よっ、日本一」と言ってやりたいような気持で眠りもせず、目をたじろきもしないように車窓のもみじを追っていました。

 写真をパソコンに取り込んだらその言葉が本当と分かるでしょう。

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○再びの長野県木曽福島

 私の昨年の予定表によれば、長野県木曽福島へ行ったのは11月1日と2日の両日でした。昨年は相変わらず出かける時に深く考えもせず出かけたものですから、木曽福島が長野県なのか岐阜県なのかも分からず、直感的に東京羽田へ飛び新宿に出て、特急あずさに乗って塩尻経由で行ったところ、車内で見た地図だと名古屋がいことに気づき、帰りは名古屋経由で帰ったことを記憶しているのです。

 今回はその轍を踏まず名古屋経由で長野入りしました。ゆえに名古屋へは何度も出かけていながらソロを遠望したことはあっても中まではゆっくり権がっくしていなかったので、徳川御三家の一つである名古屋城もぜひ見ておきたいと少し早目の旅だととなりました。したがって今回の旅は名古屋一泊、長野一泊の長旅になってしまいました。今日帰ると妻が「お父さん久しぶりのような気がする」というほど私もどこか遠い所へ行ったような気分で今日帰ってきたのです。

 木曽の話はおいおいするとして、まず尾張名古屋界隈について少しだけ話しておきたいと思います。大阪もそうですが特に名古屋は私のような四国人には野球中日やきしめん、金の鯱鉾、味噌カツ蔵氏しか知識がないとてつもなく縁遠い街なのです。故に新鮮な街に見えるのかも知れませんが名古屋を中心とした中部地方は、このところの円高や株価などで色々いわれていても、やはり日本で一番活気のある地域であることは待合のない事実なです。

 写真を撮り込んだら見たまんまのその話をしましょう。

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○こうも社会が変わるとは

 私が町づくりに関わるようになって22年が過ぎました。その間の社会の流れは速く、また技術革新や情報化も進んで、あの頃流行ったものでもう殆ど用をなさなくなったものがいっぱいあるようです。そのひとつがポケベルとテレホンカードです。私はポケベル全盛時代、町の名前を変える町名変更を教育委員会社会教育課にいながら企画調整室係長、総務課係長という3つの職場兼務の辞令をいただき、それなりに忙しく働いていました。そんな私に町長は当時流行っていたポケベルを持つよう命じたのです。ポケベルはどちらかというと忙しい営業の人が呼び出されて電話をかけて連絡を取り合う道具でしたので、私のような行政マンが持つことは殆どなく、当時はポケベルを持つ男として注目されたりしましたが、そのポケベルももう知っている人が少ないような時代になりました。ポケベルと合わせて普及していたのがテレホンカードです。NTTはテレホンカード対応の電話ボックスも次々と設置して普及したのです。シーサイド公園を整備した折も公衆電話ボックスを駐車場の隅に設置しましたが、使用頻度激減でそのボックスもすでに取り壊されているのです。

 その当時はオリジナルなテレホンカード製作が隆盛を極め、私たちの町でもNTTと代理店契約をすれば安く作れるとあって、観光協会が主体となって夕日や夕焼けコンサートをあしらったテレホンカードを毎年作り、販売しそれなりの利益を得ていました。特にシーサイド公園のオープン時には6種類ものテレカをシリーズで製作販売し飛ぶように売れてかなりの収入を得ていたのです。

 ところが携帯電話が普及し始めるとテレホンカードの売れ行きは急激に下降線をたどり、7~8年後には在庫の処分を検討していました。私の手元にはその当時作って買ったテレホンカードが何枚か残っていて、名刺入れに入れて持ち歩いていますが、残念ながら今年はまだ一度もテレホンカードを使って通話していないのです。

 末っ子の息子も中学生のころテレカホルダーを買ってテレホンカードを集めていました。私が全国へ旅をすると必ず土産に各地の名所をあしらったテレホンカードをお土産に買い求めた関係で百枚を超えるくらい集めていたように思うのです。はてさて息子が収集したテレホンカードのホルダーは今どこに行ったのでしょう。妻にそのことを聞くと、大切に保管しているそうです。今にプレミアがついて高く売れるかも知れません。

 こうして社会は絶え間なく進歩し時代は流れて行くのです。む私などはひょっとしたら進歩より退化し、時代先取りより時代遅れな人間になっているのかと思うと、先の暗さを感じずにはいられないのです。だからといって自分を卑下して生きていくのは嫌だから、身の丈に合った生き方を、身の丈に合った仲間と生きて行こうと思ったりもするのです。

 いつの時代も不易な部分はあって、私たちはむしろその不易なものを追求しながら生きてゆくことに意味を見出せば案外これからも楽しい生き方ができるのかも知れません。よーし、頑張って生きてゆこう。

  「俺などは テレホンカードと 同じよう 時代遅れの 無用の長物」

  「ポケベルも テレホンカードも 思い出の 彼方に消えた 夢のまた夢」

  「遅れてる それでも俺は 生き方を 変える気もなし このまま生きる」

  「久し振り テレホンカード 使ったが 何処か懐かし 電話声まで」

 

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○年輪塾NETを立ち上げる準備

 私への情報は自分自身の口(喋る)と耳(聞く)、それに目(見る・読む)が主でした。自分の行動範囲が全国区と自称するように人より広いのと自分が勤めていたのが地元の役場だったため、居ながらにして遠い情報と近い情報が傍受できていたのです。ところが最近自分の行動範囲の全国区は変わらないから全国や全県の情報は入ってくるものの、役所を辞めたため近場の情報が殆ど入らなくなってしまったのです。

 昔から近場の情報は散髪屋や風呂屋といった人の集まる所集まるものですが、散髪屋へも月一回しか行かず、風呂屋へも忙しくて行かないものですから中々苦戦しているのです。そこで考え付いたのはじゃこ天を作っているシーサイド公園のおばちゃんたちに、暇があれば会いに行くことにしたのです。

 昨日も所用を作りじゃこ天の店に立ち寄りました。普通は平日の午後ですからおばちゃんたちはお茶を飲んで楽しそうにおしゃべりをしているのですが、昨日は誰一人そんな人はいなくて、みんな忙しそうに働いていました。特に裏の加工場ではまるでちょっとした食品加工場のようでした。聞けば南海放送もぎたてテレビがらみの大きなイベントに弁当が作られるそうで、その中心にラヴじゃこ天を入れる計画が進んでいて何と32000個の受注があったそうです。これまで試行錯誤した秘伝のじゃこ天を開発していて、既に量産に入っていました。

 せわしげに働く人の顔は生き生きとしています。でも楽しそうにお喋りをしながら働く姿は真剣で、じゃこ天の働く場所を作った私としてはとても嬉しいことなのです。

 「若松さん、町内の閏住で大きなじこがあって○○さんが死んだん知っている?」「町内の本村の××さんがモノレールに挟まれて死んだの知っている?」とまさに最近起こった身近な情報がどんどん聞かされるのです。情報といえるかどうかは疑問ですが、人間が生きる上で大切な地元の話題やうわさ話に耳を傾けながら、この一週間島根や宇和島に旅をしていて、ロクに新聞を読んでいないことに気がつきました。「新聞に書いてたでしょうが」とおばちゃんに一本取られてしまいました。

 そういえば私の留守中に隣の大野さん宅の倉庫と空家になっていた西田さんのお家は重機が入って跡形もなく壊され、すっかり更地になっていました。また地元の大工さんが造成して売り出した住宅地にまるで夢ではないかと思うほど早くあっという間に家が建っているのです。何気ない見慣れた風景の本尊山の松の木が最近全滅するような勢いで、まるで紅葉したように赤く枯れているのも気がつきました。

 最近友人と話しながら、地域づくりの情報を共有する年輪塾NETを立ち上げようという話になりました。これまでその友人の運営するNETに参加して様々な情報をいただいていましたが、少し方向を変えて人間牧場でやっている年輪塾に情報NETを組み合わせて、楽しくも実のある地域づくりをやろうという相談がまとまりました。まるで「アナログ放送間もなく終了」という試験放送と同じように、試験的に情報NET参加を呼び掛けたところ、次々と参加希望のメールが入ってきているのです。

 この情報NETを利用して様々な新しい分野にチャレンジして行こうと思っていますが、さてどうなるか、また楽しいアイディアが生まれそうです。私と情報NETに詳しい友人をかけ合わせれば、1×1=2ではなく、1×1=5にも6にもなると1.5次産業から6次産業に変化させると同じ発想にワクワクするのです。間もなくスタートです。乞うご期待・・・・・。

  「情報は 待ちの姿勢で 入らぬもの いい人NET 自分を変える」

  「うそ本当? 身近な話 知らなんだ 俺の弱点 脚下照顧」

  「パソコンが 知らない情報 連れてくる 知らぬ間に マルチ人間」

  「一番は 知った情報 頭から 手足動かし 心感じる」


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shin-1さんの日記

○全国大会近づく

 昨日は第26回地域づくり団体全国研修交流会愛媛大会の第4回実行委員会が、主会場となる宇和島市であり出かけました。積もる話もあるので伊方町三崎の塩崎さんに電話をかけ、途中で落ち合い一緒に行こうと誘いました。塩崎さんは今年の春役場を定年退職し悠々自適家で農業をやっていますが、私と一緒に長い間地域づくりをやっていて、今回の大会の私が実行委員長、彼あh県市町振興課長さんと二人で副委員長を務めてくれているのです。彼はやはり私と同じで長年の心労がたたって少し体調をくじしていましたが、今は通院程度に回復して一緒に活動をしているのです。

 昨日は松山へ奥さんと友人の入院見舞に行った帰りに落ち合うことで相談ができていました。ところが昨日は国道378号のあちこちで道路工事が沢山あって要所要所で通行止めにあい、早めに出た私は20分前に到着、遅めに出た彼は30分遅れとなり、昼食でもしようといっていたのに間に合わないかも知れないと、昼飯を食べぬまま会場入りとなりました。

 南予文化会館の裏にある駐車場に車を止めて文化会館の表玄関に行くと、佐々木館長さんが出迎えて部屋まで案内してくれました。佐々木館長さんも議会事務局長をこの春退職され、第二の人生をここで過ごしているのです。

 間もなく一週間後にはこの一年間かけて準備をしてきた全国大会が始まりますが、この日の実行員会は直前とあって、平易に装ってはいるものの皆さんの意気込みが強く感じられました。事務局の説明も確認の作業が殆どですが、全国から集まる参加者もスタッフも既に決定し、300人を超える人たちの顔を思い浮かべながら綿密に、そして濃密に打ち合わせを行いました。

 会議は毎回実行委員長の私が議長を務めますが、この日も私流にあまり時間をかけないように区切りながらやったため1時間余りで終了し、前夜祭の会場となるJAの会議室を全員で事前見学に行き全ての日程を終えました。全国大会は何度も経験していますが少しの緊張とハプニングへの適切な対応をすべく肝に銘じた一日でした。

 帰りは再び塩崎さんと二人で元来た宇和島市~西予市~八幡浜市~保内の道を通りながら、久しぶりの会話を楽しみました。家族のこと、合併後の役所のこと、私たちにつながる友人のこと、間近に迫った大会のこと、私たちの将来のことなどなど、車窓に消えゆく風景には目もくれず話しました。僅か1時間余りの時間でしたが充実した打ち合わせや話し合いができました。

 私も地域づくりの世界に飛び込んでもう20年を越えました。その間様々な試練や成果に一悠しながら何とかここまでこれましたが、そろそろ次のことを考えなければなりません。64歳という年齢は第一線で機関車役をやるのには気力も体力も限界かもしれないのです。加えて後進に道を譲ることも考えなければなりません。機関車の後を押すことに徹する時期だとも自覚しています。その意味で今回の全国大会は一つの区切りだとも考えています。「私は若い」と思うのは勝手でしょうが、それとこれとは別なのです。いい年齢になったとしみじみ思いました。

  「一週間 後に迫った 大会を 成功さすべく 士気を高める」

  「四十年 近くも友で あり続け 今なお無地の 親友うれし」

  「色々な ことがあったな しみじみと 語る二人も いつの間にやら」

  「三日前 昨日来週 立て続け 宇和島詣で 元気伝えに」

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shin-1さんの日記

○デジタル情報の整理

 最初にデジタル情報を意識したのはワープロでした。勤めていた役場の職員が当時珍しかったワープロを購入し様々な資料を作成しているのを見て私も欲しいと思い、当時のお金で15万円の大金を工面して手に入れました。先に買った仲間の手ほどきを受けながらこれほど便利なものはないと、フロッピーに入力して保存できる記憶装置に感心したものです。そのうちパソコンが出回るようになってワープロが時代遅れになりましたが、パソコンを買う大金の工面ができずしばらくの間ワープロに甘んじていたものの、役場の机に一人一台のパソコンが用意され、否応なしにパソコンの世界に引き込まれていったのです。デスクに置かれたパソコンは持ち運ぶことができないため、仕方なく自宅用のパソコンを購入しましたが、その互換性も分からぬまましばらく使ってそれぞれの資料を作り。それぞれのフロッピーやCDに保存して書斎の引き出し収納して今日を迎えているのです。

 ワープロ時代の使わない情報を入力したフロッピーとパソコンのDVDが混在する中から、時々必要に駆られて情報を取り出すのですが、それらの整理がうまくできていないので、これまた探すのに一苦労しつつ一人悩んでいるのです。パソコンの記憶を検索するには、もう私の記憶がパソコンの記憶について行けないことに気づいているものの、何とかしなければと思う心の焦りが余計退化ししつつある頭をぐじゃぐじゃにしてしまうのです。

 役所を退職して3年半が過ぎました。多分それ以前の資料は処分しているので、3年半分しかないのに収めたDVDの数は50枚を超えていて、先日息子がくれた真新しいものも20枚あるのでこれからもどんどん増えそうな勢いだし、故障しかかった以前のパソコンに内蔵された情報もまだそのままの状態で残っているのです。

 パソコンを使うようになって私の暮らしは一変しました。毎日の暮らしの中でパソコンの前に座って向き合う時間がだんだん増えてきていることに気づくのです。かつてのようにペンと紙を相手にものを書く時間が極端に減り、昨日送った原稿などはパソコンで書き、デジタル化されたバーチャルな原稿をペーパー化することもなく画面で校正しデジタル写真とともに指定されたメールアドレスに送付して一件落着です。早速届いた返信にも同じような作業を繰り返しましたが、結局は相手の顔の見えないままでこの仕事は終わってしまいました

 最近近所の野菜畑にパソコン用のDVDが何枚も吊り下げられているのに気がつきました。最初は何だろうと?と不思議に思いましたが、近づいてみると七色に輝くDVDなのです。野鳥や害虫などを追い払う脅し用だと分かりました。とっさに最近の野鳥や害虫もいよいよデジタル化されたのかと一人苦笑しましたが、畑もアナログな案山子からデジタルなDVDへと変化しているようです。

 便利なデジタル情報も整理ができない私には不便な情報になりつつあります。それでも写真がセピア色に変色化するのに比べデジタルで保存した写真は変色もしませんし、データーの所在さえしっかりしていれば、いつだって鮮明な写真が取り出せるのです。またこれらの情報を送ったり受けたりすることも自由自在で便利です。

 先日パソコンに堪能な人から面白い写真が送られてきて驚きました。私の写真を行ったことも見たこともないない外国の美しい夕日の風景の前で、何と私が記念写真に納まっているのです。いわゆる合成写真でしょうが、これだとアリバイ工作に使えるのではと、人気番組「相棒」みたいなことを考えました。世の中は私の知らない、私のできないことが多いようです。

  「情報を 保存し過ぎて 何処へやら これでは便利 かえって不便」

  「行ったこと ないのに私 写ってる 合成写真 ここまで進歩」

  「キラキラと 七色光る 野菜畑 野鳥害虫 デジタル時代」

  「顔見えぬ 人に原稿 パソコンで 送って返事 何処か不安に」

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○積ん読か熟読か

 私は子どもの頃から本が好きなタイプではありませんでしたが、それでも必要に駆られて読んでいるうちに、いつしか本を読むことが日課のような暮らしになりました。私が子どもの頃貧乏なわが家には、教科書以外本は殆どなく、「本は学校の図書室で借りて読むもの」という認識でした。ところが図書室に通うようになって自分の好みの本が分かるようになって本の魅力に取りつかれ、小学校の図書室は私の最もお気に入りの場所となったのです。そんな私の行動を見てた担任の先生が小学校5年生の時、私を図書部長にしてくれました。私についた初めての公職だったのです。テレビなどない時代でしたから私は一躍クラスの物知りになりました。本を読んで知り得た知識は自分の錯覚を生みました。それまで劣等生だった私が読書によって少し勉強のコツが分かるような気がしてきたのです。勉強もしなかった私が勉強し始めたのです。驚いたのは先生と両親でした。参観日など来なかった母親が参観日に来たりするようになり、その余勢をかって中学・高校へ進みましたが、そこそこの成績を修めことができました。私にとって本はその頃からかけがえのないものになりました。

 役場職員として努めるようになってからも公民館や広報を担当し、特に広報では読まないと書けないため膨大な本を読みました。その本の一部は人間牧場・水平線の家の壁片面を埋め尽くすほどの量で、人間牧場・水平線の家の知的インテリアとして存在感を誇示しているようです。

 しかし時代の流れでしょうか、これらの本も訪れる人たちは殆ど手にすることもなく、開くでもなくやがては紙ごみとしての運命をたどることでしょう。それでも前に来られた宇和島の女性が本棚の本を何冊か貸して欲しいと申し出があり貸したところ、先日宇和島へ講演に行った折、お返しに見えられました。イカの一夜干しまでお礼にいただきました。ただ今のところ貸し出している本は50冊くらいあるようですが、いつ帰る当てもなく、また読んだ感想も届かず行方知れずになっているようです。まあそれでもどこかの人のどこかの場所で積ん読されているのだと思うと気も休まるのです。

 私の友人に浜田さんという人がいます。人間牧場に開設した年輪塾の塾生第1号ですが、彼は本を読むのが大好きな人間です。と同時に本を人に配る奇特な人間です。私も彼から色々な本をいただき、その度に熟読してきたつもりです。浜田さんから本を読むことの大切さを改めて教わりました。

 一昨日門田眞一さんを通じていただいた栄養学の本類は昨日友人に貸し出しました。その人も無類の本好きで、度々自分が読んで良かったものを紹介してくれるのですが、彼らのようなスピード感あふれる読み方は残念ながらできず、机の隅に積ん読しながらゆっくりゆっくり熟読しています。

 このところ忙しくて一ヵ月も本屋に行っていません。本屋へ行かないと何か時代に取り残されたような、また情報に乗り遅れたような錯覚に陥ります。今日あたりは宇和島に行くので昔懐かしいキング堂という本屋さんにでも立ち寄ってみようかと思いました。

 「本に金をかけない人は自分に投資しない人である」とは私の持論です。

  「積ん読じゃ 知識得られぬ 熟読し 作者の真意 しかと読み取る」

  「はじめにと 後書き読んで 本文を 読む癖今も 治らず健在」

  「そういえば ひと月間も 覗かずに 本屋遠のく 金は要らぬが」

  「辞書要らぬ インターネットの 世界にて 読み書き忘れ 能力退化」

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