shin-1さんの日記

投稿者: | 2008年9月4日

○子どもたちの遊び

 今の子どもと私たちが子どもの頃の遊びとが大きく違うのは、無と有といった表現がぴったりするのかも知れません。無の世界は何にもない中で遊び道具や遊び方まで子どもが創作したり考えたりしていました。一方有の世界はあるものを使った与えられた遊びのような気がするのです。

 私たちが子どもの頃は野球がしたくてもボールもバットもグローブもありませんでした。ゆえにウエスと称する機械をいじる時に使うボロ布を丸めて凧糸でグルグル巻きにすると立派なボールが出来たのです。バットは竹薮に竹を切りに行き適当な大きさの真竹を見つけて適当に切ると、軽くて立派なバットが一本出来上がるのです。グローブはないから素手でした。放課後の学校の運動場は格好の遊び場でしたが、近くには漁村だったため砂浜が広場でした。砂浜は傾斜があって海に向って打ったり投げたりするとボールの回収が不可能となるため海を背にして野球をやりました。でも時折バックホームのボールが海に落ち、あえなくゲームセットだったことも覚えているのです。

 野球のルールは適当で、人数に合わせて3人だったりすると三塁ベースを作らず、また海にボールを落したらアウト、ボウルを走塁者に当てるとアウトなどの臨機応変でした。たまに女の子後入ると女の子はバットを使わず素手で拳または平手で打ったりして楽しみました。まさに道具も遊びも無の中で生み出していたのですから驚きです。

 子供用の自転車などは皆無で、大人の自転車を借りてきて、乗る練習を転んでも転んでもやりました。怪我も多く擦り傷や生傷は絶え間がなく、余程のことがない限り消毒したり包帯を巻いたりなどはせず、ヨモギを手の平でツバをはきかけて揉み、傷口に当てただけでいつの間にか治っていました。乗り物もないので一日中走ったり歩いたりして、夕方にはヘトヘトになって家に帰っていました。今の子どもは直ぐに疲れたと音を上げますし、学校の朝礼中でもバタバタと倒れるのですから、体力はないのだと思います。

 少子化で子どもの数が減り、子ども社会そのものが存在しなくなりました。ひょっとしたら私たちの世代以降は子どもの自治活動など知らないで育ったのではないかと思うのです。子ども自身が子どもとしてどう生きるか本能的に学んだ私たちが子どもの頃の社会はもう日本には戻って来ないでしょう。

 最近若いおじいちゃん、おばあちゃんが目立ち始めました。五十代でおじいちゃん・おばあちゃんになるのですから、前々期高齢者といっても過言ではない若いおじいちゃんやおばあちゃんが、暇も金もあって孫を甘やかせる時代は終わりにして、孫育てに一役買って欲しいと思うのです。例えば私は現在63歳ですが、妻が私のことを孫の相棒と言うほど孫は私になつき、私も孫と自然派的な遊びを通して様々なチャレンジをしています。幸い人間牧場というフィールドを持っているため、再三再四やって来て、楽しい遊びをしています。それは孫にとっても必要な情操教育だと思っています。残念ながら孫の親は働く事に熱中しなければならない年代です。そのカバーをこれからも後に続く孫二人にも深く関わってやりたいものです。

 明日の夕方孫は娘に連れられてやって来ます。さて今度はどんな創作的な遊びを教えてやろうか、今から楽しみです。相棒よ早く来いです。

  「創作の 遊びも知らぬ 孫達に 前々期高齢 手取り足取り」

  「子どもには 走る歩くが 常識だ 楽すりゃ今に 手足動かず」

  「虫の声 賑やか聞こえ 秋の夜 孫と一緒に 鳴き主探す」

  「孫植えた カボチャ収穫 嬉しげに 明日はカボチャの 煮物食べるか」


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