shin-1さんの日記

○送られてくる「ちろりんだより」
 私の古い友人に丹原町で有機農業を営む西川則孝さんがいます。いつ何処で知り合ったかは随分昔のことなので忘れましたが、多分まちづくりの研修会で丹原町の若者塾の指導で度々お邪魔していた頃だろうと思うのです。当時はどの町や村でも青年が活発に活動を展開していて、行けばごろ寝のような泊り込みで酒を飲みながら深夜まで夢を語ったものでした。その頃知り合った柿農家の佐伯武広さんからは毎年年末になると渋抜きの柿が送られてくるし、時々元気確認の電話が入る間柄です。
 親分肌の佐伯武広さんは私の煙会所などに感化されたのか、家の横にホワイトハウスなる家を建て、広く交流を行っていましたが、最近ホワイトハウスへも行っていないのでどうなっているのだろうとふと思い出しました。
 西川さんと私の縁は意外と深く、あるタウン情報に二人が紹介された時、「尊敬する人物は」の質問に「最近の若松進一さん」と書かれたのを記憶しています。以来私の事を漢字の「師匠」ではなく、「ししよう」と呼んでもらい、深い仲は一層深くなりました。そして彼も佐伯武広さんと同じように、いやむしろ順番から行くと佐伯武広さんは西川さんや私に感化されたのだと思いますが、西川さんは自宅の横にゲストハウス「縁会所」を建てているのです。家の横に「煙会所の分家であるゲストハウスを造りたい」という話が持ち上がった時、私は快く賛成し建前のその日は妻と二人で手伝いに出かけました。そして書家である私の叔父に頼んで桑の木の板に煙会所ならぬ「第二縁会所」と大書してもらい、看板を掲げてもらったのです。西川則孝さんの第二縁会所へももう随分行っていないような気がしています。蛇足ですが西川さんの第二縁会所を皮切りに私の煙会所で身も心も感化された人たちが全国に第三、第四とゲストハウスを造って、今ではその数18にも及んでいるのです。
 西川さんは10年間で40回の開催を目指した私の主宰する「フロンティア塾」の塾生として年に4回、10年間も双海町へ熱心に通った男です。その都度自分で作ったスモモ酒とウクレレギターを持ち込んで賑やかに過ごしたことを懐かしく思うのです。
 更に彼の出版した「晴れときどきちろりん」に序文を、私の「昇る夕日でまちづくり」に彼が特別寄稿文を寄せ、私の仲間のうちでもこれほどつかず離れず交友している人はないくらい、お互いが感化を受けて来ました。
 数日前西川さんから「ちろりんだより」という、手書きの新聞が2枚送られてきました。初冬の号(148号)、新春の号(149号)と、送られてくるのは送料を勘弁してかいつも2枚送られてくるのが彼らしいのです。多分奥さんの文抄子さんが書くのだと思いますが、まるで学級新聞のような丁寧で綺麗な文字でびっしり書いています。社説のような巻頭の文章は西川さんの目から見た社会の動きがかなり鋭く書かれていて、参考になることが多いのです。149号のどの辺りから読んでいるのか忘れましたが、今ではすっかり陰を潜めているものの、二人の子どもの成長記録は読み応えがありました。
 西川さんが入植した周桑郡丹原町、今は合併して西条市丹原町の来見という地名が「くるみ」と読め、NHKの人気番組だった「ちろりん村とくるみの木」にあやかってちろりん農園とつけたらしい話を、昔聞いたような気がしています。
 彼は柿を主産物にしている佐伯武広さんとは違い儲からない農業をやっています。有機野菜を宅配する安心で安全な手間のかかる農業だからです。今でこそ産地偽装が問題になって食の安全性が問われていますが、彼はもう何十年も前からその事を実践している先駆者なのです。故に彼の生き方は変わり者と見なされましたが、彼はそんな批判も何処吹く風であっけらかんと生きています。そこが彼の魅力であり、私とどこか通じる部分なのです。「人間は何のために生きるのか」?、それを教えてくれたのは西川さんだったような気がします。
  「小さくも 生き方貫く 人ありて 自分戒め しみじみ思う」
  「今月も ちろりんだより 風便り 届いて読んで 納得しきり」
  「添え書きに ししょうと四文字 走り書き 弟子よりもっと 上を目指さにゃ」
  「顔思い 返信ハガキ したためる ちろりんだより 感想などを」  


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