shin-1さんの日記

投稿者: | 2007年8月24日

○3、半農半漁(芋と麦)

 私が子どもの頃の漁村は極めて単純な経済でした。漁民は獲った魚を漁業組合を通じて売るか自分で行商に出掛けて売っていました。そのお金で食料品や衣料といったこれまた単純な必要なものを買い求めて日々の暮しを組み立てていました。今のように自動引き落としで電気代や電話使用料を払わなくてもいいのですから、財布は儲けて入る、使って出るといった小遣い帳のようなものだったのです。しかしその頃はまだ漁業組合の取組も弱く、大漁で少し多めに魚が獲れると販路がなく、余った魚は冷蔵庫もないため保存が利かず近所に配るかその日のうちに自分で売り歩くしか手がなかったのです。その売り歩く仕事は主に母親の役目でした。売り歩くといっても村内の集落へは交通手段もなく、もっぱら天秤棒で担いで急峻な山路を上り下りしながら、知人友人の農家を訪ねて売っていました。当然足元を見られて安く買い叩かれたりもしましたが、戦後の食糧不足な時代だったため殆どが物々交換で、当時としては貴重品だったお米やみかんと替え、行きから帰りまで荷物の重さが変らず、むしろ増えて帰ることもしばしばでした。それでも集落の人たちはみな親切で、行商のつれづれに深いご縁が出来て、みかん採りや田植えのシーズンになると雇われて手伝い働きにも出かけ重宝がられました。

 漁家の食べ物は芋と麦が主食でした。その芋も麦も食糧難な時代ですから、近場の山林を冬場や漁の合間に切り開き段々畑を作っていました。どちらが表か裏か分りませんが、夏から秋はサツマイモ、冬から春は麦と二毛作で畑は休むことなく有効利用されていました。春先にはイモズルを作るため芋を半分に切って伏せ、6月にはイモヅルを畑一面に植えました。開墾したばかりの痩せた赤土はむしろサツマイモに最適で主に収穫の多いこうけい24号?などといった白芋が植えられていました。秋になると家族総出で芋掘り作業をやりました。母がツルを切り四つ鍬と呼ばれる四本爪の大きな鍬で親父が堀おがして行くのです。子どもも大事な労働力で掘り出した芋を傷をつけないようにツルを切り落とし、カマスといわれるムシロを二つに折って二方を縫った袋に詰め、体力に見合った分を背負子に荷造りされ、急な坂道を家まで運ぶのです。今考えればあんな急な坂道を午前中2回、午後2回と背中に背負ってよくもまあ頑張ったものだと感心するのです。その芋は陰干しにして表面の水分を飛ばし、家の畳の下が地下室になっている芋壷に、農家から貰った籾殻や藁を使って囲い、一年分の食料としたのです。今は滅多に食べないサツマイモで健康食品として持てはやされていますが、私たちが子どもの頃は「また今日も芋か」とため息の漏れる日々でした。余談ですがツルを取るために伏せた種芋もフルセイモといって捨てることなくキントンなどにしておやつ代わりに食べましたし、芋壷に出没するネズミの被害に遭ってかじられ残った部分も切り落として大事に食べた記憶があります。

 冬になるとこの芋を使って芋飴を作りました。その日は朝から総出でイワシを釜茹でする大きな釜で水洗いした芋を茹で、それを絞って煮詰めて行くのです。やがてそれを薄く延ばして芋飴が出来た悦びは、甘いものに憧れる時代でもあったので飛びきりのご馳走だったように思います。

 芋が終わった畑は鍬による人力作業で綺麗に耕され畝作りされて麦を蒔きました。年末には青い麦が目を出し、寒風吹きすさぶ中頬かむりをした母親の言うがままするがままを見習って、まるでカニの横ばいのように麦踏をやらされました。子ども心に「折角芽を出した麦を何で踏みつけるのか」不思議でしたが、春になって麦が実る頃、麦の茎が倒れないようにするのだと説明を受けながら納得の作業をしたものです。やがて春から初夏に移る頃、畑は一面麦秋と呼ばれる麦刈りのシーズンを迎えるのです。この頃は雨がよく降り折角実った麦が重さで倒れ麦に芽が出て収穫できなかったり、少し遅れただけで麦の穂が真っ黒になったりもしました。刈り取った麦は芋と同じように背負子に背負って家まで持って帰るのですが、麦の穂は刺が痛く、首筋などに入るとかゆくて仕方がありませんでした。自宅の浜にはムシロが何枚も敷かれ、その上でセンバという麦こぎにかけられて穂だけになり、それを広げて刈り竿で叩き落すのです。ヨイショヨイショと声を掛けて調子を合わせるのですが、これが子どもの私には回転が合わず中々難しい作業でした。麦藁は焼かれて肥料にしたり再び畑に肥料として戻されたり、今でいう循環型農業が行われていました。これらの麦は精米屋に運んで玄麦にしてもらい丸麦、押し麦

として私たちの胃の中へ消えてゆきました。その頃は麦飯は常識で米1、麦9なんてご飯もざらでしたし、それを平気で学校に弁当として持って行っていました。

 お米が全てでお米の値打ちによって物価が決められていたお米万能な時代、私たちの憧れは「お米のご飯を腹いっぱい食べたい」くらいなささやかな夢を追い求めていました。私たち以前に生まれた戦中派の人はサツマイモの茎やスイトンなどを食べたのですから贅沢は言えませんが、今考えると何と他愛のないことでしょう。高度成長によって昭和30年代には質素なこんな暮らしも次第に姿を消しましたが、トウモロコシやヒエや粟、ソバ、タカキビなどの雑穀を正月用の餅として食べたのも懐かしい思い出です。

 余談ですがサツマイモと煮干しいわしを交互に食べるのは意外と相性がよく、盛んに食べたものです。サツマイモのおならもしょっちゅうでした。

  「芋と麦 これが主食の 貧しき日 それでもみんな 幸せ日々を」

  「芋背負い 歩いた山坂 懐かしい 草に埋もれて 今は通れず」

  「芋を食い 麦を食っても 母思う 今は芋麦 健康食品」

  「芋背負い 転んだ傷跡 見る度に ヨモギ揉み込み 医者へも行かず」 


 

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