shin-1さんの日記

投稿者: | 2007年8月22日

○漁村下灘の民俗学

 民俗学者宮本常一の本を読みながら、高い見識の民俗学などは分らないものの、自分の生まれ育った古きよき時代を回顧しながら、私が編さん委員長を務めてまとめた双海町誌以外、まだ誰も書いたことがないであろう下灘という漁村のことだったら書けるかも知れないと、項目を拾ってみました。思いつくままに拾い出してみると結構あるもので、50ほどの項目が浮かんできました。これだけでも十分一冊の本になると思いつつ、とりあえず書いてみる事にしました。

 私が覚えている少年時代の双海町下灘という漁村はいかにも貧しく、いかにも長閑で、流れの早い今の時代から見れば、時計が止まっているような錯覚さえ覚えるのです。でも貧しくても幸せでみんなが助け合って生きていたような気がします。そんな漁村にスポットを当てながら、時には90歳になった親父の助言を得ながら、私という人間の目と心でとらえる民俗学的な発想で書いてみたいと思っています。

 まず最初に書くのは親父若松進という男のことです。

 1、親父若松進という男

 親父は大正7年9月1日、当時の下灘村大字串に12人兄弟の長男として生まれました。当時は生まれてから直ぐに戸籍に入れることをしなかったため、年齢不詳な部分があるようです。後日祖母から聞いた話ですが、昔は乳幼児の死亡率が高く1歳か2歳でなくなる子どもも珍しいことではなかったようです。多分それは貧乏による栄養失調や赤痢やチフスといった流行り病が原因で命を落としたのではないかと思われますが、産んで直ぐに死ぬと折角戸籍に入れても除籍手続きが面倒なので、2、3年様子を見て元気に育つようであれば戸籍に入れるという曖昧な親の思惑があったようです。

 親父は幸いにも12人兄弟全てが元気に育ち成人を迎えたため、暮しを成り立たせて行くため、小さい頃から祖父の元で家業の手伝いをして家計の助けをしました。したがって学校は義務教育になっていても殆ど行かず、それは漁村の子どもの常識でしたから、別に苦にもせず物心ついてから一生懸命働いたようです。小学校4年の時初めて船頭として小さな弟を連れて櫓こぎ舟で佐田岬半島まで出漁したといいますから凄いとしか言いようがありません。小さな1トンそこそこの漁船に寝泊りして漁をするのですが、冷蔵庫などのなかった時代なのでそこそこの港で魚を売りさばいて換金し、お金を母親に渡すというまるで二宮金次郎のような暮しをしていたのです。幸い祖母が佐田岬の中ほどにある瀬戸の小島出身だったし、子どもに優しい半島の人たちに助けられて貰い、風呂や食べ物を買って2~3日間船上生活をしていました。船には水樽と木綿の着物、麦や芋、煮干しといった簡素な食べ物程度で飢えをしのいでいたようです。

 その親父に転機が訪れたのは結婚と戦争でした。隣の集落に住む2歳年下の母と結婚し、姉を筆頭に3男2女をもうけましたが、祖父が戦後間もなく流行した赤痢にかかって死ぬという悲劇にも遭遇し、一家の大黒柱としての役割は親父にますます重くのしかかったようです。また太平洋戦争の真っ只中で何度も召集令状が届き、中国へ派兵されました。中国との戦いで左腕を負傷し傷痍軍人となって帰国、全国の病院を治療のため転々としたことで命をとりとめたことは不幸中の幸いでした。この戦争で徴用先の大阪で2人の姉妹が焼死したことも戦争の悲劇としてわが家の墓所の一隅に深く刻み込まれています。それでも親父夫婦は働き者の母と二人で漁業を生業として生き、10人の兄弟全てを嫁がせたり分家させたりしながら祖父亡き後の責任をまっとうしました。

親父の実力は自他共に認める漁師の腕で、物心ついた頃から遊びや手伝いの中身体で覚えた六感は冴え渡り、豊田の浜一番の鯛取り名人の名を欲しいままにしていました。わが家の座敷にかかっている年間漁獲高1位の漁協からもらった表彰状が何枚も誇らしげに掲げられているのです。そのお陰で貧しいといっても現金収入のよかったわが家は、人に遅れることなく新造船や自宅などに投資が可能となりそれなりの暮しが出来たのです。

 親父90年の生き様はざっと振り返っただけでもかなりの量です。鼻ガンに侵され九死に一生を得たことや、小さな5トンの船で伊豆諸島三宅島まで乗り出した尋常とは思えぬ仕業や漁師の晩年母と夫婦舟となったことなどを語ると切りがないくらい話題がありますが、その話は折々に項目を立てて書いて見たいと思いますが、私的なことなのでブログで深く書くことは出来ません。こうしてさわりを書くことで自分の民俗学的スキルを高めてゆきたいと思って始めました。

  「九十年 生きて働く 人生を わが目で追って 民俗学に」

  「貧乏に 負けぬ気性を この肌で 感じて育った 故に逞し」

  「親父とは 高くて登れぬ 山のよう 俺などしれた 小さき砂山」

  「親と子の ダブった人生 六十年 知らない部分 余りに多く」

 

 


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