shin-1さんの日記

投稿者: | 2007年1月2日

○坂本龍馬もう一つの魅力

 四国といえば明治維新の折に活躍した薩長土肥といわれる各藩出身者の中でも、世代を超えてずば抜けた知名度を持つ坂本龍馬の出身地です。四国山脈で分けられた高知や徳島は太平洋を見て育つ風土でしょうか、吉田茂や三木武夫など気骨な政治家を生んでいますが、坂本龍馬に比べたら比ではないほど話題に富んだ人物なのです。坂本龍馬については前にも触れましたが、彼の生い立ちを語る時必ず登場してくるのが三歳年上の乙女姉さんです。しかし彼が存分に発揮した商売の才覚と武士の剛健さを思う時、どんな人が彼の生き方に影響を及ぼしたのか調べてみたい気持ちになるのです。

 坂本龍馬の母「幸」は龍馬が12歳の時39歳の若さで亡くなりました。一年後龍馬の父八平は「伊与」という後添えを娶るのですが、実はこの義母が坂本龍馬の生き方に大きな影響を与えているのです。伊与は大変出来た人で薙刀のが達者でしたからその影響で龍馬も薙刀から剣術の修行を始めています。

 伊与は今でいうバツニですが下級武士北代家の娘です。その北代家の三つの教えが残っています。一つは「先に手を出すな」、二つは「やられたらやり返せ」三つは「男は強く、優しくあれ」というものです。この家訓を伊与は少年の龍馬に強く諭して育てたようです。竜馬は三十三歳という若さでこの世を去っていますが、彼の人生を振り返ってみるとまさにこの三つの教えを実行していると思うのです。

 彼の生きた時代は明治維新という日本にとっては革命ともいうべき時代でした。脱藩、暗殺など今でいうテロの横行した時代です。危険人物として彼も再三再四刺客に狙われますし、自分も刺客まがいのことをやっています。しかし彼がテロリストにならなかったのは、「先に手を出すな」という家訓が体に染み付いていたからかも知れません。結局は自分の身を守るためピストルという飛道具を手に入れ寺田屋で発砲していますが、あれほどの使い手ながら手を出さない相手には決して手を出さなかったのです。

 決して先に手を出さなかったけれど「やられたらやり返せ」というのも面白い教えです。「いろは丸事件」というのがあります。広島県鞆の浦で紀州の帆船「明光丸」と衝突して、海援隊が借り受けたいりは丸は沈没しました。幕末というけれど紀州といえば徳川御三家、その紀州を相手に万国公法を武器として八万三千五百両という当時としては破格の賠償金を勝ち取っているのです。これも「やられたらやり返す」教え通りだと思うのです。

 「男は強く、優しくあれ」という言葉は、男の私にとっても永遠のテーマなのですが、平和な時代になって優しい男は随分と増え巷に溢れていますが、強さと優しさを併せ持った人はそんなにいないのではないかと思うのです。竜馬の生き方は様々な人が微妙に絡み明治維新という時代の潮流の中で大きな足跡を残しましたが、伊与という義母の存在を思う時家庭教育というものがいかに一人の人間に大きな影響を与えるのかが分るのです。

 殺すつもりで行った勝海舟に地球儀を見せられて世界を知ったという通説も、伊与の嫁ぎ先下田屋に今でも残っている天保年間に発行された世界地図から推し量れば、勝海舟に会う前に世界を知っていたようにも思えるのです。ジョン万次郎が土佐藩に返ってきたとき事情調査をして「漂撰記略」というレポートをまとめ藩主山内容堂に提出した」河田小龍との付き合いで世界観を身に付けていたようです。

 数えればきりのない竜馬の魅力を巡る様々な事例を思う時、人間は人によって人となるということです。人間が人間たる由縁は

パソコンでもなく人の間「人間」なのです。

  「ああ俺は 龍馬の倍も 生きている だのに成さない 成さぬからだと」

  「伊予は伊与 龍馬脱藩 伊予~長州 伊与の教えは 今もご立派」

  「龍馬より 勝れるものは 何だろう 車パソコン それは道具だ」

  「男とは 強く優しく いうけれど 両方備えた 人は少なし」

   



[ この記事をシェアする ]