人間牧場

〇世界遺産白川郷を目指して(その1)

 昨年の10月13日、西予市で開かれた全国過疎問題シンポジウムに、パネラーの一人として壇上に上がりました。その夜西予市文化会館で開かれた交流会には、全国から沢山の人が集まっていました。勿論パネラーの一人に名を連ねていたので、立食パーティーでは食べる暇がないほど名刺交換の列が出来て、多くの人と交流することが出来たのです。その折岐阜県白川村の担当者が、「村長さんがお会いしたいというのですが」と呼びに来られ、早速別室へ行きました。酒の勢いもあって成原村長さんから「あなたの話は面白かった。是非来年1月11日にわが村で行なう予定の賀詞交歓会で講演をして欲しい」と頼まれました。私の記憶だとその日は愛媛新聞の食談会の予定が入っているので、難しいかも知れないと返事をしましたが、その予定を変更して欲しいと食い下がられました。明くる日変更が効くかどうか先方と相談してみるということでその場を逃れました。  しかし、私にしてみれば世界遺産白川郷へはどういう訳か、まだ一度も行ったことがなく、行きたい気持ちに傾きつつありました。しかし1月11日は先方の都合にしろ一度変更をした経緯があるので難しいと思いつつ明くる日、愛媛新聞の担当者に無理をいって2月15日と変更をしてもらい、白川村の担当者にその旨伝えて準備を進めてきました。

 白川村での賀詞交歓会予定が1月11日の11時から14時までなので、その時間に間に合うようにするにはどうしても前日村に入って前泊しなければなりません。そのためには折角だからその前の日の夜遅くに大阪まで出て泊まり、明くる日の朝大阪発サンダーバードという特急に乗って石川県金沢まで行き、迎えに来てもらう約束が整いました。電話やメールでの連絡で雪が1メートル以上積んでいるという話に胸をときめかせながら9日の夜愛媛県を出発しました。  私は元来朝起きがいいので大阪梅田駅近くのホテルを少し早く出て7時過ぎ、一便早い大阪発のサンダーバードに乗り込み北陸本線を走りました。大阪から岐阜羽島まで新幹線で行く方法も、大阪から飛騨高山経由で行く方法もそんなに時間的には変わらないので、結局は福井等へ講演に行く機会が多くて馴染みのルートであるため、とりあえず金沢経由のルートを選びました。このルート沿いには鯖江という街があって、かつて地域づくりの発表会で国土庁長官賞や実行委員会賞をダブル受賞した思い出や、一筆啓上火の用心をヒントに、日本一短い手紙で日本全国に大きな反響を呼んだ福井県丸岡町の大廻さんとの交流経緯、福井県公民館連合会での度重なる講演もあって、列車の窓からそれらの街が近づいたり遠ざかる度に懐かしく当時のことが思い出しながらの旅でした。

 金沢は前田百万石の城下町で、日本三大庭園兼六園もある北陸路きっての有名な場所です。既に金沢駅周辺では北陸新幹線の高架工事が急ピッチで進められていて、越後湯沢に直結するようです。1時間も前に到着して金沢駅の構内にある土産物屋を一通り歩きましたが、塗りや焼き物、菓子類などどれをとっても名品の誉れ高い物ばかりのようでした。携帯で連絡を取り合った白川村役場の岩本一也さんが迎えに来てくれました。岩本さんは総務課の課長補佐で議会事務局長さんなのです。金沢から高速道路に乗ってしばらく走ると沿線は白い雪景色に変わり、西国育ちの私には見るもの全てが別世界のように感じられました。
 金沢から高速を約一時間ばかり走るとそこはもう岐阜県谷川村です。高速道路やトンネルの合間から村の様子が垣間見えましたが、かなり雪深く山深い場所のようでした。

  「過疎シンポ 白川村長 おらが村 話しに来いと 客引きされて」

  「行きたいと 思いかられて 日程を 変更してまで 行くこと決める」

  「念願の 雪に埋もれた 白川郷 タイムスリップ 心ときめく」

  「何事も 包み隠して 白い雪 合掌造り 浮かび上がらせ」  

[ この記事をシェアする ]

人間牧場

〇今日から留守にします

 今晩(1月9日)から3日間(1月12日まで)、岐阜県白河村へ講演に出かけて留守にします。悪しからずご了承下さい。お急ぎ御用の方は私のホームページの携帯へ、またお急ぎでない方は私のGメールへ伝言を入れて置いて下さい。土産話を楽しみにしておいてください。

[ この記事をシェアする ]

人間牧場

〇久万高原町成人式の記念講演に招かれました

 昨日は久万高原町から成人式の記念講演依頼があって早朝より出かけました。記念講演の依頼を受けてから年末年始にかけて久万高原町の天気予報が妙に気になり始めていました。というのも12月に鳥取県の伯耆大山の麓で思わぬ大雪に逢い、スリップ事故を起こした経緯があって、久万高原町に行く国道33号線三坂峠付近は県内でも久万スキー場があるほど雪が積もる所ですから、雪道の怖さを知っているのです。講演依頼の窓口となっている教育委員会の鶴井さんとこのことについて再三メールで連絡を取り合い、もし雪や凍結がある場合は麓の砥部町まで迎えに来てもらう約束をしていました。
 前日鶴井さんから電話が入り、雪も凍結もない旨の確認がありました。妻はそれでも三坂峠の雪が心配で、仕事の休みを理由に一緒について行くと言うのです。妻がついてきたからといって雪や凍結による事故がなくなる訳ではありませんが、たっての希望なのでしぶしぶ了解し家を8時半過ぎに出ました。
  昨日は雲ひとつない冬の四国愛媛県地方にしては珍しい快晴の上天気で、遠くに雪を被った西日本最高峰の石鎚山が美しく見えました。放射冷却現象で朝の気温はかなり低かったものの、車の中はポカポカ陽気で順調に三坂峠を越えました。三坂峠は740m程の高さにあるため道の両側には多少雪が残り、久万高原のあちこちには1月4日に降った雪が残っていて、冬の寒さを感じさせました。

 私が講演している間妻は久万高原町を散策するため、久万高原町役場前の駐車場で降ろしてもらい、私は歩いて会場となっている久万高原町産業文化会館まで歩いて行きました。お約束の10時きっかりに会館内に入り、ステージ裏の楽屋に設えてもらった講師控え室へ案内されて入りました。暖房の効いた部屋でお茶をいただきながら式典の終るのを待ちました。式典は時間通り10時40分に終了し、町長さんや河野県議会議員さん、教育長さんなど顔見知りのお偉い人が楽屋へあいさつに見えられました。特に河野さんとはお父さんが久万町長をしていたり、河野さん自身も若い頃塩崎潤国務大臣の秘書をしていた時代から長く付き合いしていて、わが私設公民館煙会所には「自彊不息」という大臣の掲額をいただき、今でも大切に飾らせていただいているのです。
 その後促されてステージに上がりました。ステージは演台と生花、それに看板類だけというシンプルさです。懸垂幕には演題「青春のメッセージ」人間牧場主若松進一とお気に入りの文字が書かれていました。やがて開会を告げるブザーが鳴り緞帳が上がりました。客席には約80人の着飾った新成人と来賓が並んで座っていて、少し緊張の面持ちでやわら話を始めました。相変わらずレジメを用意することもなく淡々と話し始めました。青春時代に人生を生きていく上で大切と思われる①仲間、②ふるさと、③主張、④感動する心という4つの道具を手に入れたことで自分の人生がとても充実したこと、二十三歳の時に作った生活設計が役に立ったこと、人間が本来持っている4つの願望を実現させるための方策、潜在能力を顕在化する生き方などなどをマイクを通して語り掛けました。

 最近まで日本全国各地で起こっている成人式の不祥事が頭を過ぎり、私のような人間の話を着飾った新成人は聞かないのではと多少懐疑的な気持ちもありましたが、どうしてどうして久万高原町の80人の新成人は1時間10分の全てを熱心に聴いてくれました。実は3年前々久万高原町の成人式に招かれ同じ場所で記念講演をしているのです。あの時は帰宅すると参加した一人の新成人からお礼と感想のメールは入りました。またもう一人の新成人からは人間牧場を訪ねたいと電話が直接入り、後日この若者は人間牧場へやって来て瀬戸内海を見下ろす眺望に感激して帰りました。
 講演終了後ステージで記念写真に納まり全てを終えて会場を後にしました。県内では正月と昨日と明日にかけて1万4千5百人余りが新成人として成人式を迎えるようです。成人式に記念講演を聞かせるといったオーソドックスな式典をする市町も随分減ってきたようですが、私は人生の門出に当たり、人の話に耳を傾けることもいいのではないかと思っています。聞かないからやらないという迎合型は如何なものかとも思うのです。
 私が好きな言葉に「面白きこともなき世を面白くすみなすものは心なりけり」(高杉晋作)、「足は野につき心は天に向かって開く」(西郷隆盛)、「ロマンとは考えを形にする行動力である」(ジョン万次郎)、「鮮やかに想像し熱烈に望み心から信じ魂を込めた熱意を持って行動すれば何事も実現する」(ポール・J・マイヤー)。私の人生を一言で語るならやはりこれらは全て金言であり、いい影響を受けたと思っています。新成人の皆さんも誰でもいいから誰かの言葉を座右の銘として心に望みを持って生きて欲しいと願っています。

  「新成人 私の話に 頷いて 一時間余も 耳を傾け」

  「新成人 縮む社会で 生きている 未来に希望 持てないままに」

  「近頃は 成人の日さえ 分からない 祝日だから 十五日でいい」

  「青春は 年齢で無し 心がけ 私にだって 今も青春」

[ この記事をシェアする ]

人間牧場

〇今年最初の講演会

 週休二日と振り替え休日の影響で、年末にも三連休、年始にも三連休と子どもたちにとっては長い冬休み、そして普通の勤め人にとっても昨日から始まった三連休は、ちょっとした正月骨休めの三連休のようです。ところが私にとってはこの三連休が仕事始めとなりました。年末年始は体力づくりとブログ記事のプリントアウトという目標を掲げ、いつもの年より少し緊張感を持って過ごしてきたので、昨日はすんなり仕事を始めることができました。  昨日は中山町野中の連合老人クラブから頼まれて講演会に出かけました。いつも中山や広田、小田に行く時通る山道を通って野中へ入りましたが、道沿いのあちこちには数日前の寒波で降った雪が薄っすらと残り、深い山里の厳しい冬の寒さを垣間見ました。  野中の中心は野中小学校ですが、ご多聞に漏れず急激な少子化の影響で学校は廃校となり、その跡地も今は双海町の収集した民俗資料が運び込まれて倉庫として活用されたり、運動場は社会体育や臨時の駐車場として活用されているようでしたが、ここにも縮む社会の現実が横たわっているようでした。

野中連老老人クラブでの講演会

 学校のすぐ隣にデイサービスなどの高齢者福祉施設があって、窓越しに見える室内には高齢者の息遣いのようなものが感じられました。少しぬかるんだ道を気にしながらその施設の前を通って、すぐ隣の講演会場である活性化センターへ入ると、30分も前だというのに既に殆んどの人が集まっていて、「まあコタツにでも」と誘われ別室で次々とあいさつに見えられる顔見知りの人たちと、出された番茶を飲みながら懐かしい会話を交わしました。元青年団関係者、元町会議員に加え、双海町の近所へ嫁いで来ている人の両親など様々で、まるでタイムスリップしたような感じで昔の話に花を咲かせました。  中岡会長さんから「少し早いようですが予定した人は全員揃いましたので始めていいでしょうか」と相談があり、10分も早く10時20分に講演会は始まりました。12時からはお楽しみの酒宴を兼ねた新年会が予定されているので、それまでに切り上げなければなりません。相手が少し耳の遠い高齢者なので、つとめてゆっくり、つとめて大きな声で予定された90分間をどよむことなく話すことができました。寒い時期ながら空調もしっかりと効いてベストコンディションだったため、眠る人もなく大いに笑いを誘いながら終始賑やかな反応でした。

 講演会が終わるとパックに入った料理が配られ、来賓として加わった議員さんや民生委員さんたちを交え賑やかな新年会となりました。私は双海町で開かれている水仙祭りに顔を出すため、草々に引き上げましたが、中岡会長さんからは段ボール箱いっぱいいただいて帰りました。この時期は冬野菜が不足するころなので大いに喜びました。
 山村に暮らす人たちは高齢化社会の中で息を潜めるように日々を生きています。ややもすると歳をとることを後ろ向きに捉えがちですが、人間は誰でも歳をとる訳ですから、そんなに卑屈になったり諦めることはありません。堂々と楽しみながら笑って暮らせばいいと思うのです。私の話がその参考になったかどうかは疑問ですが、講演会の後の質問や雑談には十分にその意気込みが感じられ、頼もしく思いながら山里を後にしました。

  「学校も 保育園もなく ひっそりと 静まり返る 山里の冬」

  「道沿いに 残雪白く 『寒いねえ』 逢う人毎に 同じあいさつ」

  「冬過ぎりゃ 必ず春は やって来る 希望を持てば 何のこれしき」

  「逢う人も 逢う人もまた 福の神 昔話に 花を咲かせて」

[ この記事をシェアする ]

人間牧場

〇私の目標は一日1万歩を歩くこと

 1月1日 10,608歩

 1月2日 10,091歩

 1月3日 15,972歩

 1月4日 10,737歩

 1月5日 14,966歩

 1月6日 10.335歩

 この数字は私の携帯電話に内蔵している万歩計の今年に入ってからの一日一日の歩数です。最近になって急速に普及したスマートフォンを持っている今時の若者から見れば、まったく時代遅れもはなはだしい私の携帯電話ですが、時代遅れの旧式だからといって通話に支障がある訳でもなく、カメラ機能だってついているのですから、別に困ることもなく現在も使っているのです。

1月の自画像

 私は思うのですが、いつの時代にも流行というのがあって、流行を追い求め過ぎると何かと人にはない優越感はあるものの、お金がかかってしまうのです。この10年間を見ると確かにパソコンや携帯電話などのソフト業界は技術革新が著しく進み、昨日使っている機種が今日はもう古いかのような錯覚を受けるほど、これでもかとテレビで宣伝をしているのです。私は若い頃公民館主事をして生活改善運動や貯蓄推進運動に関わったお陰で、日々の暮らしの中で「ミエ、ムリ、ムダ」の三つを出来るだけ省くような心が育ってきました。ゆえに多少時代遅れと思われながらも、パソコンも携帯電話も最先端の機種こそ手に入れなかったものの、まあそれなりに最低限の仕事は出来るようになっているのです。

 さて今年の冬は暖冬かと思いきや12月から年が明けた今日まで、寒気団が居座り続け、毎日寒い日が続いています。私の場合自由業のようなものなので、一番楽な方法はストーブをつけた暖かい部屋でコタツに入り、テレビを見たり本を読んだり、時には書斎でパソコン相手に自由に過ごせるのですが、やはり寒い時は体を動かして体を温めるのが一番とばかりに、午前中5,000歩、午後5,000歩、一日合計10,000歩を目標に正月から休むことなく続けてきました。私は何につけても必ず目標を設定します。今回の正月休みの目標は一日10,000歩でしたから、この6日間は完全に目標を達成したことになります。お陰様で正月のおせち料理を食べながら体重増になることもなく一週間過ごすことができました。

 私の10,000歩の内容は裏山のかなりきつい山道を歩いているので、思った以上に足腰への負荷がかかっていて、5,000歩歩いただけで自宅へ帰ると体がポカポカして少し汗ばむほどです。ゆえに歩いた後のケアーがないと風をひいては大変と気を使うほどなのです。私は携帯電話に内蔵している万歩計を優れものだと思って使っていますが、同じ機種を持っている妻は相変わらず携帯電話を自宅に置いていて、「電話が出んわ」などと家族や妻の友人からブーイングが起こる始末です。それでも妻も何年か前コレステロールの数値が少し高かった時期があってからは、食事に気を配ったり歩いたりして健康に気を使っているようです。驚いたのですが元旦に三島神社と天一稲荷神社へ二人で歩いて初詣に出かけましたが、私と同じペースで歩く健脚ぶりでした。

 人間にとって歩くことは基本中の基本です。さすがにこの歳になるとジョギング等は年寄りの冷や水と笑われるのでしませんが、歩くことなら道具も要らず健康に良いのですから、これからも出来る限り歩こうと思っています。私は年中講演活動などで全国を旅しているため、一日10,000歩の目標を立ててもできない日もあります。でも歩くことを心がけているとタクシーや電車に乗らなかったり、エレベーターやエスカレーターを使わず階段を昇ったり、工夫は幾らでもできるのです。健康は自分が自分に贈る最高のプレゼントだと思いながら今日も明るくなったら、寒い戸外へ出てとりあえず朝飯前に5,000歩のノルマを達成しようと意気込んでいます。

  「一万歩 歩いた証 携帯に ついた機能で 確かめ今日も」

  「正月は 目標どおり 一万歩 体の調子 最高ですね」

  「寒いから 余計歩いて 暖める 体ポカポカ 風邪に用心」  

  「健康は 自分に贈る プレゼント 誰もくれない だから張り切る」

[ この記事をシェアする ]

人間牧場

〇病院の待合室の本棚に私の自著本が置かれていました。

 2~3日前から歯の調子が悪いので病院へ連れて行って欲しいという93歳の親父を連れて、今朝は松山の総合病院へ出かけました。妻が歯科医院に勤めているのに他所の病院で診療するとは何とも可笑しな話ですが、親父の場合は若い頃鼻ガンを患い、頬骨から下の殆んどを手術で取っているため、専門の歯科治療が必要なので仕方がないのです。予約をしていないので多分午前中いっぱいはかかるだろうと思いつつ、また正月明で病院は込むだろうから少し早めに出て純場mmを待つしかないなと、少し腹をくくって7時50分に家を出ました。国道は正月の喧騒も収まって、どちらかというと日常より車が空いていて、受付の始まる8時30分に到着しました。親父は高齢で身体障害者なので、いつもの事ながら駐車場が満車でも優先駐車場へ案内してもらい病院へ入りました。  初診といいながら1ヶ月前に受信しているので自動受付へ案内され、受診票を歯科の窓口に提出しました。月が替わっているので保険証等の提示を求められましたが、やがて待合席でで待っていると、反対側のがん患者が出入りする窓口の下の本棚に目が行きました。小さな本棚にはがん患者向けの自我を超越して生きる生き方の本に混じって、見覚えのある本が一冊置かれているのです。

 そばに寄ってよく見ると、何と驚いたことにその本は紛れもなく私の自著本、「昇る夕日でまちづくり」という二版目の本でした。「何でこんなところにあるのだろう」と不思議に思いました。察するに患者さんか付き添いの人が読んだ後献本されたのでしょうが、可笑しな巡り会わせです。  私は早速その本を手にとってパラパラとめくりました。もう10年も前に出した本ですが、その内容は自分が書いたものだけに懐かしく、そこここに思い出の跡が読み取れました。  しばらくすると看護婦さんが、「若松進さん中へお入り下さい」と呼んでくれました。親父のオーバーと帽子を脱がせ小さなバッグを私に渡し、親父はさっさと治療のために診察室の中へ入って行きました。前回までは一緒に治療室に入って親父と先生の通訳をしていましたが、今はそれもなく一人で先生に色々な話をしているようでした。治療をしている時間は10分ほどでしたが、お陰で自著本に出会い、自著本をめくる機会を得ました。

 予約もなく初診ながら、今日は自宅へ10時に帰る幸運に恵まれました。普通病院から帰るとぐったりする親父も、帰りに伊予市のAコープに立ち寄り好みのせんべいまで買い求め、今日はすこぶる元気で帰宅しました。歯の調子は食事をして見ないと分かりませんが、せんべいを買うくらいですからいいものと思われます。  この歳になって親孝行の一つも出来ない私ですが、私の空いている時間を利用して、せめて行きたい所くらいは連れて行ってやりたいと、殊勝にも思いました。  このところ年末年始は寒く今日は小寒で寒の入りのようです。これから寒さが一段と厳しくなるものと思われますが、風邪を引かないようにしてこの冬を元気に乗り切って欲しいと願っています。少しだけ足元がおぼつかなくなり、どことなく背丈が縮んだような感じのする親父にとって気がかりなことは、自分の体の自由が歳を重ねる毎に不自由になることです。時々弱音を吐いて「特老にでも入りたい」などと漏らしたりもしますが、許す限り家族で在宅介護をと願っています。夕食だけは妻が作っていますが、洗濯も掃除もすべてまだ自分で出来るのですから大したものです。老人が老人の介護をする、いよいよ老・老介護の時代がやって来ました。

  「病院の 待合室の 本棚に 俺の自著本 驚きました」

  「この歳に なっても未だ 親孝行 できぬ自分を 少し恥じつつ」

  「老人が 老人介護 する時代 高齢社会 やって来ました」

  「二十年 余り後には あのように なるのか俺も 少し寂しい」

[ この記事をシェアする ]

人間牧場

〇正月明けのお墓参り

 私たちの町では、正月明の4日に先祖のお墓参りに出かける風習があります。お餅や干し柿を小さく切り、葉付きの小みかん等を墓前に供え、線香を手向けて一年の無病息災を祈るのです。昨日はあいにく雪の舞い散る時化た一日で、墓前の陰に隠すようにライターで線香に火をつけようとするのですが、風にあおられ中々火がつかず苦労しました。  まず自分の家のお墓に参り、続いて親類のお墓を順次巡って同じようなことをやるのです。わが家の親類の墓地は主に3ヶ所に集中していて、約十ヵ所を巡りました。その後は八幡浜にある妻の実家のお墓に参るべく海岸国道378号を走りましたが、昨日は山の中を走る国道56号が雪のため、路面凍結や積雪のない海岸国道に車が流れたため、いつになく多い交通量でした。海岸は積雪はないものの双海から保内まではそこそこで汐しぶきが上がり、まるで塩水のシャワーを浴びて走るような錯覚がしました。

 

大法寺の山門
美しく咲くローバイの花

 保内町の若松蒲鉾店に立ち寄り、年末友人知人に送った蒲鉾の支払いを済ませ、八幡浜のお寺に着くと風雪は一段と強くなり、遠くに見える段々畑の頂上辺りは薄っすらと白い積雪が見えました。ボタン雪の中を寺の山門をくぐりましたが、境内では早くも黄色いローバイの花が初春を告げるように満開に咲いて、寒い中思わず夫婦が見とれてしまいました。悪天候なので大法寺の裏山の墓地には私たち以外人影はなく、八幡浜湾の遠くに九四フェリーの船影がかすんで見えました。風雪の中の急いでお参りを済ませ、兄嫁の勤めているショッパーズというお店にも立ち寄り、ここでは妻が精算を済ませて買い物をしている間に、私は同居しているダイソーという100円ショップでブログ用の紙表紙や人間牧場用のコマ後真を買い求めました。値段が安い分品質は劣りますが、使い捨てだと思えば結構便利なものが揃っていました。ピザ生地用の麺打ち棒や亀の甲タワシ、ステンレスボール等、不便を感じているものを買い求めました。

 保内町で食事をして、昨日で正月や墨が終わり今日から仕事の妻の慰労を込めて、伊方町にある亀ヶ池温泉へ足を延ばしました。私も妻も温泉は大好きで久しぶりにのんびりしようという算段です。温泉は地味との人で賑わっていました。温泉の暖簾をくぐると偶然にも蜜蜂の師匠と出会い、話を弾ませ過ぎて妻からタオルを貰うのを忘れて脱衣し、慌てて蜜蜂の師匠に200円借金をしてタオルを買いに戻るお粗末さです。これも正月の戯言とお湯に流し、サウナや水風呂などを楽しみながらのんびりゆっくり過ごしました。  帰りに長浜町の村上薬局に立ち寄り、ご主人に入れてもらった熱い風邪薬をいただきながら世間話をしました。長浜町もご多聞に漏れず大洲市と合併してからどこかすきま風が吹くような寂しさだと、かつて隣町としてまちづくりを競い合った昔を懐かしんでいました。

 お墓参りは先祖の供養のために出かけるのですが、小雪舞う寒さの中での墓参りは、線香の煙や香りも感じないほどの悪天候だったため、残念ながら「お墓参りを済ませた」という儀礼的なものに終ってしまいました。先祖もさぞやお叱りのご様子だろうと反省しています。十年余り前に亡くなった母親には親父のその後の様子を報告しなければならなかったのにそれも出来ず、またご先祖さんの顔を思い出すことも出来ませんでした。近々天気の良い日に畑に植えているシキビを取ってきて、再び墓参りをしようと思いました。

   「あいにくと 時化た天気の 墓参り かじかむり両手 合わせはしたが」

   「母ちゃんに 親父のことを 告げなくて 少し気がかり 天気になったら」

   「温泉で 蜜蜂師匠 ばったりと 出会い重ねて 今年いい年」

   「四国でも 雪降ってると 電話する 岩手の友は 驚きの声」

[ この記事をシェアする ]

人間牧場

〇封書で丁寧な年賀状 

 正月の年賀状はお年玉つきハガキと大体決まっていますが、西条市丹原町に住む親友の西川則孝さんと砥部町長の中村剛さん、それに広島県三次市総領町の和田芳治さんからは相変わらず封書での正月あいさつでした。年賀ハガキは50円ですが封書だと80円もかかるのですから、丁寧だと思えばとても丁寧な年賀なのです。三人三様個性ある生き方を常日頃からしているし、三人とも時折封書のお便りが届く私にとっては手紙の常連さんなのです。  西川さんはいつも今時珍しい手書きのガリ版刷りのような体裁の「ちろりんだより」というのを送ってくれます。春・夏・秋・冬の季刊年4回の発行分を2回に分けて届ける省力化はいかにも彼らしいやり方ですが、ナンバーを見ると新春号は既に169号を数えているのですから頭が下がります。何年か前ふとしたことが縁で彼と会い、彼から「ししょ~う」と呼ばれていますが、彼が自宅横に造ったゲストハウスに「第二縁開所」という看板を贈ったり、彼が「ちろりんだより」に書き溜めた原稿を「晴れ時々ちろりん」という本として出版した折、頼まれてまえがきを書いたりと、つかず離れずの関係を保っています。彼は鳥取大学農学部を卒業した後同級生の奥さんと丹原町来見(くるみ)に入植し、自然循環型有機農業で作った野菜を宅配して、楽しくやっています。

  砥部町長の中村さんは、町長になる前は旅行会社の社長さんでした。町長選に一度は落選したものの見事当選し現職町長として陶海道めぐりや砥部焼きまつりなど伝統産業の砥部焼きを生かしたまちづくりを展開、砥部在住だった宗教詩人坂村真民さんに信奉し、このほど記念館を完成させるべく努力しているのです。「念ずれば花開く」という坂村真民さんの言葉の句碑は今や全国各地に建立されていますが、真民さんの言葉や自身が砥部町広報に書いた記事のコピー、心に残った雑誌の記事などをコピー同封して送ってくれるのです。現職の町長でありながら「人生楽々工房」という便りを私のような無位無官なものにまで届ける気安さは真似のできない生き方だといつも感心しているのです。

  広島県三次市総領町の和田さんは、ご存知過疎を逆手にとる会のメンバーですが、言葉遊びの天才です。普通だと「えっ変換ミス」と思われそうな言葉を臆目もなく使い人をドキッとさせます。コンセンサスを「混線さす」とか、貴族を「木族」と読ませたり、まあやりたい放題なのです。「私の恋文」という今回も送られてきた恋文はもうNO389号を数えているのです。広島県北レクの出身なので歌が歌えるし、絵が書けるし、マルチタレント並みの活躍ぶりです。宮崎さんや彼が率いる逆手塾は今年で30周年を迎えるそうですが、これほど長く輝き続けている地域づくり集団も私は余り見たことはないのです。今年の新年には「私の恋文」に、何の相談もなくいきなり30周年記念講演を頼むと依頼文が添えられていてビックリしてしまいました。ある意味私の目指す「書けて喋れて実践できて多芸人」ですから、受けて立たない訳にはいかないのです。

  まあそんな訳で、今年も正月早々この三人の年賀封書は私の心に新たな波風を立て、スキルアップに大いに役に立ちました。私もバックナンバーこそありませんが毎日二本のブログを書いているのですから、この三人に負けるとも劣らず、あえて文明の利器といわれるインターネットで配信して、仲間や世間を騒がせているのです。地域づくり人の末席を汚す私にとって文章書きは最早一種の武器であり、活動の拠点である私設公民館煙会所も人間牧場も大きな大きな武器なのです。さあこの三人に負けないよう今年も頑張りましょうか。

   「年賀状 ならぬ年賀の 封書にて 心揺らせる 便りが届く」
   「それぞれに 文字を大きな 武器にして 地域づくり人 心動かす」   
         「そういえば 私も文字で まちづくり ささやかなれど 今年も書くぞ」 
  「昨日今日 書いたブログを プリントす 積み重ね見る 量に感心」
[ この記事をシェアする ]

人間牧場

〇正月三が日
 子どもたちが成長してそれぞれ独立した今、私たち夫婦も日常的には穏やかな暮らしができるはず
だったのですが、昨年五月から始まった長男息子家族との同居によってその夢は消え、また近所松山
に娘家族が暮らしているため、何かにつけて実家へ泊まりに来るため、私はまだ良いのですが、パート
といいながら現役日勤で仕事をしている妻は大変で、それぞれ4人の孫の世話を分け隔てなくしなけれ
ばならないのです。正月三が日はそのようなことで、家族の食事や身の回りの世話であっという間に終
ってしまいました。

 今日は3日目で娘家族も夕方になると帰ることから、家族で伊方町にある亀ヶ池温泉へ家族全員で行
くことになりました。息子の車と私の車2台に分乗して1時間余りの道程を夕やけこやけライン、潮風
メロディーラインをドライブがてら走りました。孫たちもまるで温泉旅行のようなルンルン気分で、車
の中は大はしゃぎでした。私も妻も年末年始の疲労がかなり溜まっていたので、温泉代もその後の夕食
代も私たち持ちながら、とてもリラックスできました。
 私は今日は部屋に閉じこもって正月休みに片付ける予定のブログのプリント9か月分のアウトを一生
賢明頑張りましたが、とりあえず6ヵ月分だけは何とか片をつけました。あとはこのプリントアウトし
た用紙にパンチで穴を開け、100円の店で買った3枚100円の上フォルダー表紙を1ヵ月分ずつま
とめてつけて終わりなのです。

 明日は親類縁者の初お墓参りがあるので出かけるので、後3ヵ月分は夜にでも片付けようと思ってい
ます。
 今日は久しぶりに島の会社の兼頭さんご夫妻がお正月のご挨拶に子どもを連れて見えられました。長
い間見なかったのですが、子どもさんもすっかり成長して4歳になったと聞き、時の流れの速さを感じ
ました。ちろりん農園の西川さんからは手書きのちろりん便りが届き、楽しく読ませてもらいました。
 皆さんそれぞれにそれぞれの人生を謳歌しているようで、頼もしく思いました。いよいよ正月三が日
も今日で終わり、明日から仕事始めで、いつものような日常モードに戻りますが、今年もいい年であり
たいと願っています。

  「三が日 締めくくるよう 温泉で 汗を流して 正月終る」

  「定職の ない私には 三が日 過ぎた後でも 休みが続く」

  「正月は 妻の疲労が 積もるのみ それでも愚痴を 言わず笑顔で」

  「年賀状 一つ一つに 目を通す 会った出来事 思い出しつつ」 

[ この記事をシェアする ]

人間牧場

〇愛媛新聞1月1日付朝刊第2部46面に掲載される

 1月1日正月の朝、年賀状より早い午前5時頃愛媛新聞の朝刊がわが家へ届きました。毎年の事ながら正月の新聞は紙面広告も多く、まるで雑誌のような64ページにも及ぶ分厚さです。PC画面にて読んでいたメールへの対応を一時中断し、新聞を1ページから順次読み始めました。1部が終わり2部の目次欄を見ると、45・47ページに記者が歩くという楽しみにしていた連載の総括記事が載っていました。というのも年末に山本良さんという記者がカメラマンを連れてわが家に取材にやって来て、「この記事は勝が都合に載せますから」と予告をして帰っていたのです。
 紙面は2ページ仕立てで、記者が歩くというこれまでの取材で拾った読者の声、識者の声、取材後記の3つに別れ、その記事を記者が記録に残った25枚の写真で囲むように編集していました。写真25枚の半分は白黒ゆえ残念ながら小さ過ぎて何を撮っているのか余り分かりませんでしたが、山本さんが記者として県内各地を歩いて撮った写真の迫力は読者たる私には十分伝わってきました。

 識者の声はえひめ地域再生戦略研究会長の小松正幸氏、えひめ地域政策研究センター所長森敏明氏、それに人間牧場主の肩書きで私若松進一が取材に応じて語った記事が、「地域の元気回復『人づくり』から」というテーマで、それぞれ2段抜きで紹介されていました。
 小松正幸氏といえば前愛媛大学学長であり、先の愛媛県知事選に立候補しながら落選した偉い先生です。また森敏明氏も私が日ごろ出入りするえひめ地域政策研究センターの所長なのです。それに比べ退職して無位無官なのは私だけで、名乗る役職もないので人間牧場主という私が最近一番好んで使う肩書きで紹介されているのです。いつもながらこの記事を読む人は、「人間牧場主」という肩書きに違和感を感じたり、不思議さを覚えたりしているだろうと思わず一人苦笑いをしてしまいました。

愛媛新聞で紹介された私の記事

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2ページ目

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「手放しの連帯へ転換」という見出しがついている私の記事は小松さんや森さんの記事に比べると理論体系をはっきりしていませんが、論理体系だけは言っていることがぶれていないと思いました。私がまちづくりを始めた頃若者たちが言っていたことは「田舎嘆きの十ヶ条」だったように思います。それは自分たちの努力によって「田舎楽しみの十ヶ条」に変われたし変わってきました。しかし今住民たちの苦悩は「田舎縮みの十ヶ条」に変化して、嘆きの中身が変わっているのです。学校統合、公共交通機関廃止、商店街の衰退、伝統文化の消滅、限界集落の増加、消えゆく自治組織、 防犯・防災能力の低下、行政サービスの低下など、行政も合併で方向性を見失っているのです。つまり縮む社会は最早地域住民の努力だけでは解決できない最低ラインまで下がっているのです。

 行政も当てにできないのですからこのままでは死に絶えていくしかないと思った時、手をこまねいて死を松よりも「私たちにできることは何か」「私たちは何をしなければならないのか」という、止むに止まれぬ行動が生まれてくれるのです。いつの時代も人間や地域はそんな外圧や内圧と戦い智恵を生かして再生してきたのです。
 私が目指す社会再生はローカルコミュニティとテーマコミュニティを組み合わせ地域と人の自立を目指す考えです。そのためにはその中心となるべき人を育てなければなりません。一年の大計は種を蒔けばいいし、五十年の大計は気を植えればいいのですが、百年の大計は徳を持った人を育てなければなりません。そのためには何としてもみんなの力で経済を産みそれを徳育てに再投資するシステムを作らなければなりません。二宮尊徳の言う経済と道徳の融合こそが地域再生に必要なのです。
 4年前人間牧場で私塾年輪塾を開いた原点もそこにあるのですが、手つなぎの連帯から手放しの連帯へ転換する耐えにはまだまだ多くの学びが必要なようです。

  「正月の 地元新聞 それなりの 写真を添えて 紹介される」

  「インタビュー さすが記者だね しっかりと 言ったこと等 まとめています」

  「このままじゃ 田舎潰れる 思うから 止むに止まれず 私塾開いて」

  「いつの世も 民に苦労の 種尽きず 結局つけは 民に戻りて」 

[ この記事をシェアする ]