人間牧場

〇鉛筆すす払い

 昔は鉛筆すす払いといって、その一年を総括して感想を書いたものですが、今は鉛筆という言葉すら死語に等しくなり、原稿の殆んどはPCで書くというより、キーボードのキーを打って作るのです。挿入も抹消も自由自在だし、消しゴムだっていらないし、出来上がった文書をしっかりと記憶して、必要な時取り出せるのですから、これほど頭のいいこれほど便利な道具はほかに類を見ないのです。
 町の広報を毎月2回発行し、10年間に渡って原稿用紙と鉛筆、それに消しゴムのお世話になった私にとっては、派sp金泥とも簡単に原稿が書ける現代と比較すれば、少々生まれるのが早過ぎた感じもするのです。私のように古い時代の人間は学校でPCを習っていないため、使い方は殆んど独学です。ゆえに普通は上手く使えてもトラブルに遭ったりするともうお手上げで、手に負えずついつい友人や知人のお世話になって復旧してもらうのです。時にはふた周りも違う息子のご厄介になり親の面目丸つぶれですが、それでも背に腹は変えられないのでしぶしぶ治してもらうのです。

 今年の8月ごろ、画像取り込みの上に「画像の容量間もなくいっぱいになります」という警告表示が出ました。何とかしなければと思いましたが、私にはどうすることもできず、とりあえず大学に勤める娘婿に相談したところ、「ward puress」というサイトを使って書くように勧められました。練習期間を一ヶ月ほど取ってもらっていたので、順次練習し愛読者にもその旨を書き込んで9月7日からとりあえず一本だけ、つまり一本は元のままアメーバブログに、もう一本はワードプレスに、まるで二刀流のようにそれぞれ書き始めました。あれから3ヶ月が経ちましたが、移転先は今のところ何の問題もなく順調に推移しています。愛読してくれている仲間内からいつ引越しは完了するのかと聞かれていますが、アメーバブログは一ヶ月に1回か2回メンテナンスで、午前2時から午前8時まで使えなくなるのに比べ、ワードプレスはそれもなく、結構便利に使っているのです。
 でもどちらかにした方が読む側も各側も便利なようなので、いずれアメーバブログの写真が満杯になったとき考えて見たいと思っています。

 今年も色々な日常の話題をつれづれに書いてきました。読む方が驚いたり疲れるほど私のブログは多少長文なのでもっと短く書こうとも思いますが、舌足らずになって中々上手くいかないのです。まあ私自信の日記なので記録性を重視して書いて行こうと思っています。
 今年も「舞たうん」という雑誌の記事や様々な雑誌の原稿を頼まれて書きました。それらの記事は極力スキャナーで写しブログに取り込んで記録するようにしています。いずれPDFの仕方も学びたいと思っていますが、とりあえずそんな方法で記録に残しています。
 訪ねた町や村、出会った人、感じたことなど、日々折々の想いをこれからも書こうと思っていますが、お陰様で今年も大過なく鉛筆すす払いならぬPCブログすす払いをすることができました。多くの読者の皆さんに感謝申し上げ終筆といたします。ありがとうございました。

  「何年か 前まで鉛筆 すす払い 今はパソコン ほこり払って」

  「よく書いた 実感しつつ 大晦日 寸暇惜しんで 二本のブログ」

  「さて来年 どんなブログを 書こうかな 思いながらも 妙案もなく」

  「穏やかに 暮れる今年の 大晦日 来年こそと 夢と希望を」

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人間牧場

〇今年最後の忘年会

 私が地元の役場を退職して早くも七年目を迎えています。第一線を退くということは給料が出ないばかりでなく、外交の表舞台から姿を消すことになるのです。給料の存在も外交の存在も現役の頃は左程重みを感じませんでしたが、辞めてみて始めてそれらの重さに気付くものなのです。辞める前には職責の責任の重さから解放されたいばかりに、辞めて早く自由人になりたいと思ったり、辞めたらのんびり夫婦で旅行にでも行こうと思ったものでした。
 ところがいざ辞めてみるとある部分自由はあるものの、のんびり夫婦で旅行なんて余裕は殆んどなくて、日増しに減って行く財布の中身を心配しながら、細々と暮らして行かねばならないのです。幸せなことに私は年金支給年齢が62歳だったこともあったし、在職中に社会教育やまちづくりで培った「舌技能?(笑い)」を最大限に生かして、首をくくることもなくどうにか今日まで生き延びることができたのです。

 私のもう一つの幸いは、退職後外交の表舞台からは去りましたが、外交には裏舞台もあって表舞台ほどの華やかさこそありませんが、私の性格を百も承知でそれなりに付き合ってくれる人もいて、今なお裏舞台で活動することができていることは嬉しい限りです。表舞台で活動していた頃は仕事の関係で損得勘定や建前も多かったようですが、裏舞台は人と人を出会わせて結びつけたり、どちらかというと支援や後押しに回ることが多いようです。まあこれも人生、時の流れだと思いつつ、心許せる色々な人に出会っているのです。
 昨日は中央省庁から愛媛に出向して来ている偉い人と、ギノー味噌の田中社長と私で、ささやかな忘年会を兼ねた出会いをしようと私が画策しました。その偉い人は私の申し出に快く応じ、12月29日の午後6時からスケジュールを開けてくれました。ギノー味噌の田中社長は、ご存知私の名刺の裏を使った「裏が味噌」という名刺のスポンサーなのです。その偉い人が興味を示している広田村の山村留学の話は、田中社長自身が5人の子どもを山村留学に預け育てた経験を持っているので、それだったらと偉い人の部下が田中社長と同級生だからご一緒に、田中社長の社長の息子さん2人も冬休みで帰省中だからご一緒にとサプライズが実現し、合計6人の賑やかな忘年会となりました。

楽しかった今年最後の忘年会

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 午後5時に家を出て午後5時30分にギノー味噌の本社に立ち寄り、田中社長ファミリーを私の車に乗せ、北斗七星というお店に行きました。ささやかながら会費でフグを食べようということになり、楽しいお話をしながら延々3時間も過ごしました。田中社長の次男は東大へ通う現役の学生で優秀です。長男も礼儀正しく家庭教育のしつけが行き届いている姿を垣間見ることができました。私は酒を飲まないため、もっぱら希臼に入れた温かいお茶を手酌で注いで、フグを食べながら過ごしましたが、若い人の話が聞けていい勉強になりました。
 宴会を終え私の車で自宅まで送り届ける道すがら田中社長から、来年早々といっても1月2日に、二人の息子さんを連れて人間牧場へ行きたいと申し出がありました。1月2日は人に会う予定が入っているので時間調整をしようということでお別れをしました。今年はこの偉い人のお陰で、長年逢いたいと思っていた宮城県気仙沼の畠山さんとも公式対談が実現し、とても充実した一年だっただけに、この偉い人と一年の締めくくりができたことを幸せに思っています。来年も表舞台こそないものの裏舞台でせいぜい人生の出会いを楽しみたいと思っています。

  「給料も 表舞台も なくなって でもそれなりに 裏の舞台で」

  「いい人は いい人連れて やって来る 俺もいい人 なるため修行」

  「動かねば 風は起きない そう思い ささやかながら 微風起こして」

  「何人の 人に会ったか 数知れず 指折り数え 今年も暮れる」

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人間牧場

〇公友会誌第24号

 暮れも押し迫った昨日、私が会長を務めることになった公友会という公民館OB会の事務局(愛媛県公民館連合会)から、公友会誌第24号(平成23年12月)が送られてきました。私は25年前にこの会が発足以来会員として名を連ねていますが、元々この会は県公連の会長を長年務めていた岡島明夫さんの肝入りで作ったものですから、岡島さんが22年間も会長をされていました。しかし岡島さんも寄る年波には勝てず、会員の気配りで3年前に魚島村の村長だった佐伯真登さんに会長職をバトンタッチしていました。今年の10月30日秋の勉強会が、奇しくも25年前に発会した時に使った白魂という中華料理店であり、今年の夏に初代会長の岡島さんが亡くなったこともあって、佐伯さんから会長を辞する旨の提案があって、図らずも私が三代目の会長に就任したのです。

 公友会はOBの集まりですから会員全員が毎年一歳ずつ歳をとって行くため、活気が失われつつあることは大きな問題です。会長が代わったところでこの問題は解決しないので、私は会長を引き受けるに当たって幾つかの提案をしました。先ずこれまで置かれていなかった副会長を2名お願いしました。東予から生名の浜田さん、南予から長浜の菊地さんを選びました。これで相談できる相手ができました。また年に一度の勉強会には現職の若い公民館主事さんたちを招いて交流会をしようと思っています。私が一番やりたいことは「公友会10人衆」という比較的若いメンバーを10人セレクトしてプロフィール名簿を作成し、かつて公民館の実践で培った論理を愛媛県内公民館の活動に生かそうという試みです。既に今回の公友会誌の中には松本、谷本、米湊、津嶋さんのような若い人が持論を寄せていて、その兆候が見られるので年でも明けたら事務局と相談して実行に移そうと思っています。

 さて送られてきた会誌には、双海町の松本さん(無人駅をフィールドミュージアム)や米湊さん(やっぱ、ふるさと双海町が好きです)の記事が載っていますが、「もう一人の自分を強くする」というタイトルで私のつたない文章を載せています。記録のつもりでスキャンしておきます。
 この会誌が恐らく遺稿となったであろう、先日亡くなった親友菊地邦求さんの「地域の民生委員として」という少し短めの原稿が偶然にも私の原稿の直ぐ後に載っていました。菊地さんは合併して大洲市職員になった職場を退職して直ぐに民生委員になったようです。地域のお年寄りとのふれあいの中で感じる福祉の脆弱さと重要性を強く訴えているようでした。「民生委員は偉ぶらず、住民と一緒になって汗を流し、住民の立場に立った活動をしていきたいと思っています。寒い時期だからこそ暖かい心配りの思いやりが必要だと思う今日この頃です」と、印象的に締めくくられていました。

 「人は何のために生きるのか」「私はどんな思いで何をしてきたのか」「これから何をしようとしているのか」「私には何ができるのか」、公友会誌をめくって会員の主張を読みながら様々な想いが去来しました。算数的には1+1=2だけど、公民館のパワーは1+1<∞(無限大)という法則を公民館主事13年、公民館長2年の経験で学んでいるのですから、会員40人弱の公友会といえども大きな力を生み出せるはずなのです。少なくてもOBとして昔を懐かしんだり傷を舐めあったりするだけの活動にはしたくないものです。
 私たちの役割は公民館のためにどう役立つか、公民館の未来を背負う人たちをどう育てるか、つまり役立ち感と人づくり感を生きがいに生きていけるような人間になりたいのです。少々熱くなり過ぎましたが、まあやるべきことをやって次の人にバトンタッチをしたいものです。

  「公友の 会誌送られ 目を通す 汗顔しつつ 書いた記事読む」

  「亡くなりし 親友遺稿 読む度に 人の命の はかなさ思う」

  「一人逝き また一人逝き 順番の 近づく性を 何と思わん」

  「今日もまた 夜明け迎えて 起き上がる 転ばぬように 注意をしつつ」

公友会誌に書いた私の記事記事P、1

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

公友会誌に書いた私の記事P,2

 

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人間牧場

〇来年は辰年

 子・牛・寅・卯・辰・巳・午・羊・申・酉・戌・亥と12匹の動物が続く干支は、(子⇒鼠・丑⇒牛・寅⇒虎・卯⇒兎・辰⇒竜・巳⇒蛇・午⇒馬・未⇒羊・申⇒猿・酉⇒鳥・戌⇒犬・亥⇒猪)と、日ごろ使っている漢字とは違っていて、漢字の読み方や書き方が難しく、また干支と十干(甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸)を組み合わせ、奇数番同士、偶数番同士の組み合わせで合計60の組み合わせができる太陰暦は、凡人の私には余りにも難解な内容なのです。中国の戦国時代(紀元前5世紀頃)に発展した五行説では「万物を木・火・土・金・水に分類し、その相互の働きによって生成発展する」と考えられていました。十干については甲と乙を木、丙と丁を火、戊と己を土、庚と申金、壬と癸を水に分け、さらにそれを陽(兄(え))と陰(弟(と))に分類するのです。読み方は甲は「木(き)の陽(え)」で「きのえ」、乙は「木(き)の陰(と)で「きのと」となるのです。高校球児の憧れである甲子園は、1924年(大正13年に)できたので、その名前がつけられました。その60年後に暦が一巡したのが1984年(昭和59年)なので、次の甲子(きのえね)は2044年(平成56年)ですから33年後です。私の只今の年齢67歳に33年を加えると私は100歳です。とてもそんなに長生きは出来ないだろうと思う反面、よし100歳の甲子(きのえね)まで生きてやろうと思ったりするのです。

 12支はどうやって決まったのか?、色々な逸話が残っています。昔猫を加えた13匹の動物が競争をしました。その結果一着は鼠でした。順次ゴールしましたが12着は猪だったため12支になったのだそうです。その原因は猫がレースの日を間違えて参加せず失格になったというのですが、こじつけのような話です。
 私の友人の砥部町で車の修理工場を営む稲葉真光さんから、今年も砥部焼きの干支が届きました。稲葉さんは毎年年末になるとこのように、来年の干支の置物をプレゼントしてくれるのです。わが家にはあちらこちらから毎年いただく干支の置物がありますが、八瑞窯の白潟八洲彦さんの作品は作家さんの人となりを知っているだけに、どこか嬉しい贈り物として玄関先に飾るのです。白潟さんは私より5つ年上の1939年生まれです。私が青年団活動に入った駆け出しの頃、白潟さんは愛媛県青年団連合会の主要メンバーとして活躍していました。同じ伊予郡連合青年団に所属していたため時折研修会などで出会いましたが、私もその後愛媛県青年団連合会の会長や、四国四県青年団連絡協議会会長などを歴任して、いささかなりとも後継活動をやらせてもらいました。白潟さんは1968年に青年海外協力隊に参加してフィリッピン・ソルソゴンにて陶芸指導をしたり、様々な社会活動をしてこられました。

卯から辰への干支送り

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 昨年いただいた兎の干支はお月様と二匹の兎がテーマでした。今年のテーマは空想の動物辰だけにどんなテーマだろうかとワクワクしながら中を開けて見ると、「雲中の辰」というメモが入っていて、白磁の見事な置物でした。早速孫たちと干支送りをしようと相談し、お月様と二匹の兎の置物を片付けて雲中の辰を置きました。雲の中を昇るが如く運が開けることは、この歳ですから望むべきもありませんが、せめてイーブンパーで退化しないようにだけはしないといけません。
 わが家には一人辰年がいます。息子嫁のあゆみさんです。辰年の性格がどんなものかは分かりませんが、まあ穏やかな性格で、何の問題もなく過しています。同居を始めて早いもので8ヶ月が経ちました。今は2歳の息子の養育のため自宅にいますが、来年は二人の子どもが保育園に通えるので、実家の経営する喫茶店に復職して働きたいといっています。妻もそろそろ退職する意向なので、わが家の人間環境構図がかなりか変わるものと思われます。家族のいい人間関係を保ちつつ来年もいい年でありますように・・・・・・。

  「干支送り 兎から竜 置物で 来年占う いい年頼む」

  「来年は 私の年と 嫁は言う  何かにつけて 張り切り過ぎて」

  「太陰の 暦いちいち ごもっとも 日本の季節 暦と合わず」

  「辰だけが 架空動物 見たことも ないゆえ思う タツノオトシゴ」

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人間牧場

〇お茶を濁した話

 日曜日の夕方、11月12日・13日の両日国立大洲青少年交流の家で開かれた社会教育実践交流集会の反省会が持たれました。讃岐先生が実行委員長を務めているし、私も成り行きに任せてこの4年間お世話役をしているので、双海町の米湊さん、松本さんとともに参加しました。反省会といっても時期が時期だけに忘年会を兼ねたような呑み会で、会費4千円にしては美味しい中華料理に舌鼓を打ちながら、実行委員会の主要メンバーである13人が今年一年を反省しました。先日のコープえひめの忘年会も今回も席を決めるくじは13番でした。隣の席には1番の松本さんと12番の和田さんが陣取り、酒を呑まない私はもっぱら注ぎ役で、それでも松本さんは私に気を使って、暖かいお茶を何度もサービスをしてくれました。お茶に関して言えば酒を呑まない人は決まってウーロン茶を注文するのがすっかり定番のようになっていますが、私はどうも冷たいウーロン茶が苦手なのです。そこへゆくと温かい緑茶は日ごろ飲み慣れているため口当たりもよく、食が進むのです。第一暖かい緑茶はサービスでタダだし、この日のような飲み放題は別として、普通は結構安くつくのです。

 何年か前ウーロン茶について議論したことがあります。ある消費センターの調査によると、ウーロン茶をコップに入れその中に10円玉を入れると明くる日10円玉が真っ赤に錆びるという話を聞きました。つまりウーロン茶はひょっとしたら強酸性ではないかと思われるのです。最近の会議は女性がお茶を入れる日本の風習が男女差別だと息巻く人もいたり、便利なためペットボトルに入れたお茶が頻繁に使われ、温かい緑茶が出てくる会議は殆んど見かけなくなりました。確かにペットボトルを配っておけば、湯飲み等を片付ける手間も省けて便利に違いはありませんが、市中に出回っているペットボトルのお茶は中に一体何が入っているか、何の疑いもなく飲んでいるお茶を疑ってみることも、必要なような気がするのです。
 私は先日鳥取県大山町へ講演に出かけた折、大山町役場の大黒さんの紹介でお茶屋さんに紅茶の作り方を教わりました。幸い人間牧場の農場内には薮茶の木が沢山あって、この葉っぱを使えば新芽の出る春先、簡単に紅茶が作れるようで、今から春の来るのが楽しみなのです。

楽しかった社会教育実践交流集会の反省会

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 すっかりお茶を濁してしまいましたが、今年で4回目を迎えた社会教育実践交流会も、少しマンネリの感がありますが、それでも始める活動、高める活動、続ける活動と続いて、まだ止める活動という選択肢には到着していないような気がしています。どんな活動でもそうですが、やはり10年間は続けないと成果には結びつかないのです。私が主宰しえている21世紀えひめニューフロンティアグループの活動も、年輪塾の活動も、勿論人間牧場の活動もとりあえずの目標は10年なのです。そこから先は10年を迎えて考えれば新しい発想は湧いてくるのです。ただし10年40回で終るとみんなで決めていたフロンティア塾も、20年で終ると決めていた無人島キャンプも目標を達成して幕を下ろしましたが、今にして思えばこれも賢明な選択だったようです。
 人も組織もやる目標を失えば老化したりマンネリ化してしまいます。戦略や戦術をもう一度再確認して、とりあえず10年間やったらどうかと提案しましたが、とりあえず来年はしようという話で落ち着いたようです。
 今年の大会では、公民館主事さんたちが進めている福島の子どもたちを愛媛に招く絆プロジェクトへの支援として、懇親会で私がセリ人となりチャリティオークションをやりました。募金もあわせると10万円を超える資金が集まりました。これも大きな収穫でした。さて来年はどんなプログラムを用意すればみんなが喜んでくれるでしょうか。楽しみです。

  「世の中は お茶の出し方 一つでも 随分変わった これでいいのか?」

  「呑まぬ人 ウーロン茶だと 決め付ける 私しゃ緑茶を タダでいただく」

  「四回の 次は誤解か 五回なり とにかく十回 続けてみよう」

  「反省会 反省よりも 酒を呑む これも大事と 呑み助理由」  

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人間牧場

〇年賀状作りと注連縄作り

 今年も残すところあと6日となりました。毎年のことですが、私にとってやり残した仕事がまだ2つあります。一つは年賀状作りです。私には山のようにという表現がぴったりのように毎年沢山の年賀状が届きます。その一つ一つをパソコンの筆王というソフトを使って入力するのですが、退職した時仕事上の人を削り、1000人の名簿を約400人に絞り込みました。それ以上は来ても出さないと心で決めていたものの、結局は一枚また一枚と増えて、結局は今年も年賀状を扱う馴染みの人から600枚の年賀状を買い求め、この20年来印刷をお願いしている岡田印刷の大見さんに、無理を言って印刷してもらっています。

今年作った年賀状

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 本当は裏も表も手書きがしたいのですが、私は日常的に今年も365日(今のところ359日)、つまり一年中毎日3枚のハガキを手書きで書いているものですから、年賀状くらいは手間を省いて印刷でやろうと心に決めているのです。昨日パソコンに入力している5組の中から一番多い001組を画面に呼び出し、亡くなった人を消去したり住所移転した人などの住所録を思いつくままに修正しました。そしてプリンターに裏面印刷している年賀状を差込み、プリントアウトしました。プリントアウトも意外と時間がかかって300枚を作り上げるのに12時間余りがかかりました。それでも作り上げる予定の年賀状の約半分以上は仕上がったので、今日中には何としても仕上げて、郵便局へ持って行きたいと思っています。

 もう一つの仕事は注連縄を作ることです。わが家には93歳の親父がいて、元漁師らしく縁起を担ぐものですから、注連縄を作る日は暦を見て大安か先勝の日を選ばなければなりません。最近はどの家も注連縄飾り等殆んど形骸化して、買ったもので済ませたり、中には注連飾り等しない家庭も増えてきました。「わしが生きている間はお飾りぐらいは作れ」と親父はかたくなに注連縄飾りを作るよう強要します。それは私が既に小学生の頃注連縄飾りの作り方を親父から、厳しく伝授してくれているからこそできるのです。今日も先勝ですから、朝食が終ると親父の隠居のストーブの前で午前中注連飾りを作る予定です。

 

ストーブの前で2時間で作った注連縄飾り

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 注連飾りを買い求めても注連飾りをしなくても正月は迎えられます。しかしわが家の先祖が営々と伝えてきた伝統や風習を、私の代で終える訳にはゆかないと、自分自身に言い聞かせていますが、わが息子や孫の代になると注連縄作りを伝授していないので、途絶えることになりそうです。息子に伝えるべきことを伝授していない愚かさに、今頃気付いていますが、まだ間に合うかも知れないと思いつつ、今年も同居を始めた息子は暮れの仕事の追い込みで忙しく、伝授することはできないようです。
 一昨日孫たちと遊んでいて道で転び、両手を負傷してしまいました。大分直ったようですがはてさて今年の注連飾り作りは、上手く行くでしょうか。親父は既に藁をそぐって準備を終っているようです。

  「年賀状 裏も表も 印刷で 心苦しく すきま風吹く」

  「年賀状 今年は五百 五十枚 寒さの中を 全国くまなく」

  「注連飾り 縁起かついで 先勝の 日を選びつつ 今年も作る」

  「子や孫に わが家伝統 伝えずに 途絶えてしまう 胸が痛みて」   

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人間牧場

〇仲田さんの旧家を訪ねる

 昨日の昼前、友人の岡田博助さんから、「仲田さんの家にいるがお茶を飲みに来ないか」と誘いの電話がありました。午後一番に松山から人間牧場へ来客がある予定でしたが、孫の子守を息子に頼み、5キロほどの道を仲田さんの家のある大栄へ向かいました。窮屈な感じのする路側帯に車を止めて坂を登ると、仲田さんの家の前で岡田さんや仲田さんの子孫に当たる若者が一生懸命掃除をしていました。案内されて家の中へ入りましたが、中でも女性二人が忙しそうに掃除をしていました。仲田さんは私の薄っぺらな記憶によると広島大学の教授を勤められた国文学者で、旧家で財力があったのか築40年近くの民家はそこら辺にはないほど立派なお屋敷なのです。しかし住んでいた息子さんも既に亡くなり、普段は空き家状態になっていて、たまには風を入れなければと、何人かが集まって暮れの大掃除をしているようでした。

 私も過去に何回かこの家を保存したり活用できないか注目して、上田稔さんや岡田博助さんと足を運んだ経験がありますが、贅の限りとまではいかなくてもまあ朽ち果てさせるには惜しい逸材なのです。岡田さんは地元の市会議員をしているので、私と考えは同じでもいざこの民家を使うとなると、それ相応な覚悟が必要なのです。前回訪ねた時心配していた雨漏り箇所は修復して止まったようですが、はてさて今後どうすればいいのか智恵の出しどころです。家は人が入らねば空気が滞留して湿気を呼び、足元からぐらついてきます。こうして空気をたまに入れ替えるだけでも多少は違うものの、やはり人の命を吹き込まなければ維持存続は難しいようです。すでに外の倉庫の一部は崩れかかっていました。

旧家中田家

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 昼時だったため女性の方が作ってきたというおご馳走をいただきました。炊き込みご飯の握り飯やカナガシラの吸い物、漬物や煮豆等どれも美味しく、誘われるままに昼食をいただきました。聞けばこの女性の息子さんは松工出身だそうで、私が松工のPTA会長をしてたため、私のことをよく知っていて、昔話に花を咲かせました。子孫にあたる若者も大学生で学校の先生を目指しているとのことでした。先祖が残してくれた余りにも大きな財産を今は持て余していますが、かつてこの家を造られた先祖のように、大成して欲しいと願っています。田舎にはこのようにかつての繁栄の歴史を物語る遺産が数多く残っています。しかし過疎と高齢化の荒波をまともに被り、消え失せようとしているのです。私たちのような小さな力では想いはあっても余りにも非力で、田舎の縮み行く社会を守ることはできないのです。そんな少しだけ寂しい気持ちと、こうして心ある人がいることの複雑な気持ちで山里の民家を後にしました。

  「縮み行く 田舎を守る すべもなし 消える運命 寂しかりけり」

  「この家が 俺のだったら どうするか 妙案あるが 人のものゆえ」

  「いいことと できることとは 違ってて いいことなれど 手出しもできぬ」 

  「この家を どんな想いで 建てたのか 美田がゆえに 守りきれるか」

 

 

おご馳走になった手づくりの料理
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人間牧場

〇町内に水仙が咲き始めました

 今年の晩秋は暖冬を予感させるような暖かさで、その陽気に誘われて水仙の花が咲きそろい、今年は例年より早い見ごろを迎えて、来年早々に予定している初春水仙花まつりの関係者をやきもきさせています。
 わが町の水仙や菜の花も今ではすっかり県内の風物詩となってマスコミに登場するように定着していますが、水仙も菜の花もまったく無名に近かった当時の双海町が、花咲くまちづくり事業の一環として始めたことなのです。今は亡き金山泰盛さん(水仙)やエプロン会議(菜の花)、青年会議(桜)、花の会(水仙まつり)など、花作りを陰で支えてくれた人たちの努力を思うと、隔世の感があり嬉しさがこみ上げてくるのです。

一昨日の愛媛新聞朝刊で紹介された下灘の水仙畑

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 先日海岸国道を通っていると、道端に植えている水仙の花を取っている数人の女性を見つけました。私は路側帯に車を止めて「その花は地元の人が植えて丹精込めて世話をしているので取らないで欲しい」と注意をしました。その人たちは文句ありげな不満そうな顔をして私をにらみつけました。私が車に戻りバックミラーから様子を見ていると、取った水仙を車に積んで立ち去りました。こんな出来事はこれまでにも随分見受けられました。
 ある時沿線に花を植えて世話をしているおばちゃんから、私の元へ泣いて電話がかかってきました。聞けば菜の花が間もなく咲くだろうと楽しみにしていたのに、菜の花の蕾が無残に摘み取られ始めたのです。ある日その現場を見つけ注意したところ、「このくそババア」と怒鳴ってその場を立ち去ったようです。「私は何か間違ったことを言ったのでしょうか」と泣きながら話すおばちゃんをなだめ、私は看板を作って持って行きました。おばちゃんたちは之までにも智恵を出したつもりで、「この菜の花はみんなで世話をしているので取らないで欲しい」と看板を立てたそうです。すると余計漬物にするためか花の蕾はどんどん取られたそうです。多分花の存在に気付かなかった人まにまで気付かせてしまったようです。

 私が作った看板は、「消毒中につき食べたら危険」と書いていたのです。それ以来花が咲くまで蕾は取られなくなりました。涙を流したおばちゃんは私の智恵に呆れかえりました。しかし花が咲くと相変わらず花を摘み取って帰るので、「監視カメラ作動中につき華を取ると花咲か爺さんに罰せられます」と書きました。考えてみればこんな場所に監視カメラなどあるはずがなく、また花咲か爺さんって誰のこと?と首をひねりたくなるのです。それにしても丹精込めて地元の人が育てた花の蕾を漬物にして食べたり、花を家に飾ったところで幸せになるのでしょうか?。疑問ですね。
 私がまちづくりで花作りを思いついた理由は二つです。まず一つは人は美しいものに憧れる心があるからです。特に若い人にその傾向は強く、蜜蜂やチョウチョが花に群がるように、人も花に心を許すのです。もう一つは冬の人寄せでした。春夏秋はほっといても人が集まってきます。しかし冬は中々人が来ません。まちづくりや観光にとって冬と夏の落差は致命傷なのです。そのため冬に咲く花を考えました。その花が水仙と菜の花だったのです。私の町は海沿いに面していて、幾ら寒くても氷点下を下がることは殆んどないため、他の町より花が早く咲くのです。この作戦は見事に当たりました。今年もこの新聞記事に誘われて多くの人がやって来ることでしょう。目出度し目出度しです。

  「水仙が 咲いたと新聞 ピーアール 暇・金ある人 やって来ますね」

  「消毒中 危ないですよ 取らないで たったそれだけ 見事的中」

  「水仙は 花と球根 儲けると 思ったけれど 的が外れて」

  「花が咲く 影に人あり 忘れない さすれば花を 盗ったりしない」 

 

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人間牧場

〇親友菊地邦求さんの告別式

 今日は親友菊地邦求さんの葬儀の日でした。今朝方豊茂の大本さんから弔辞の件で打ち合わせがあり、少し早めに告別式の会場へ来て欲しいというので、9時過ぎに家を出ました。大洲市にあるルミエールたいきという告別式会場までは約50分なので、10時過ぎに到着しました。実は一昨日菊地邦求さんの訃報を聞いて菊地さんの自宅へ弔問に行った折、菊地さんの奥さんから弔辞を述べて欲しいと頼まれていたのです。「私で良かったら」と快く引き受けたものの、私も実は67年の今日までまだ弔辞を述べた経験がないのです。役場で企画調整室や地域振興課に在籍していた頃、名誉町民の町葬等の折何度か町長さんの弔辞を書いたことはありましたが、自分が弔辞を読むとなると話しは別なのです。その話を聞いてからも高知へ出張したり会議が重なって家には殆んどいなかったため、弔辞を作る暇もなかったのです。さりとて親友の告別式なので手を抜く訳にも行かず、結局今朝2時に起きて原稿を書き、それをプリントアウトして張り合わせ、奉書で包み紙を作るのに夜が明ける朝6時までかかってしまいました。

 私が書いた原稿は次の通りです。

菊地さんの告別式弔辞
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
菊地さんの告別式弔辞
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  早速出来上がった弔辞を妻に読んで聞いてもらいました。寝起きの妻でしたが、時折涙ぐんでいました。妻の感想は「少し長過ぎるのでは?」でしたが、祝辞とは縮辞、弔辞とは長辞なので少し長めの方が胸を打つと小言蒟蒻で納得させました。
 弔辞を胸のポケットに忍ばせ会場入りしました。菊地さんの告別式は仏式ではなく神式で日ごろの葬儀とは少し様子が違っていました。弔辞は民生委員をしていたこともあって地方局の課長さんと民生委員協議会の会長さんがそれぞれ代表から届いた弔辞を代読されました。私は3番目で少々色あせるかも知れないと思いつつ、涙ながらに自分で作った弔辞をゆっくりとした口調で読み上げました。感情がこみ上げ涙が出て止まりませんでしたが、何とか役目は果たせたような気がしました。出席した仲間から「良かった」「感動した」とお褒めの言葉をいただいたし、菊地さんの奥さんも「ありがとうございました」とねぎらいの言葉をかけてくれました。
 
 
 今日は菊地さんの死を悲しむように時折みぞれ交じりの雨が降るあいにくの天候でしたが、もう菊地さんにこの世で会えないのかと思うと、寂しいものです。私も気丈に菊地さんの分まで長生きしなければと、心に念じました。
 今夜は菊地さんが書いた本を書棚から取り出して読もうと探しましたが見つかりませんでした。多分人間牧場へ持って行き、水平線の家の書棚に置いて、来訪者に供覧しているものと思われます。明日にでも探しに行こうと思っています。
 
  「結婚の 祝辞を述べた その人の 弔辞まで言う 何としたこと」
  
  「お祝辞は 縮辞といって 短めが 弔辞は長辞 長い方よし」
 
  「涙声 弔辞悲しく 読み上げる 水打つような 静けき中で」
  
  「また一人 親しき友が 消えて逝く つまらん人間 故に残りて」 
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人間牧場

〇よく似た境遇とよく似た人生

 一昨日事故で亡くなった大洲市長浜町豊茂の菊地邦求さんとは、生まれた場所こそ海辺と山の中こそ違え、思い出せば思い出すほど私とよく似た人生を生きてきたと思うのです。
 ①私は昭和19年生まれ、菊地さんは昭和20年生まれ)
 ②青年団活動を経験(私は伊予郡連合青年団長、愛媛県青年団連合会長、四国四県
   青年団連絡協議会長、菊地さんは喜多郡連合青年団長)                       
 ③後継者活動を経験(私は漁業後継者、菊地さんは農業後継者として農漁業従事)
 ④転職中途採用で役場勤務(私は双海町役場、菊地さんは長浜町役場を経て最後は
   合併のため大洲市役所勤務)
 ⑤結婚式は生活改善公民館結婚式
 ⑥教育委員会で社会教育担当、特に公民館主事として活躍、同じ主事集団煙仲間を
   結成し活動
 ⑦県公連主事部会正副部会長(私が会長、菊地さんが副会長で6年)
 ⑧論文入選(私は海外派遣30周年総務大臣賞、菊地さんは全公連論文優秀賞)
 ⑨地元の地域づくりに関わる(私は夕日によるまちづくり、菊地さんは仲間と豊友会)
 ⑩私は平成17年退職、菊地さんは平成18年退職
 ⑪10年前ころから体調を崩し酒を飲まなくなった
 ⑫私は昇る夕日でまちづくり、今やれる青春、夕日徒然草を相次いで出版中、菊地
   さんは先年愛媛新聞門欄に投稿した記事100編を選んで出版

 私と菊池さんの違うことといえば、わが家は母が死に、菊地さん方は父親が死に、わが家は妻がパートで顔はそれなり、菊地さん方は奥さんが保母で美人、わが家は子どもが4人、菊池さん方は子どもが2人くらいでしょうか。それにしても列記しただけでもこのくらいあるのですから、まあ似た境遇似た人生と言わざるを得ないのです。こうしたよく似た境遇がそうするのかお互い気心が合って、若いころから何かにつけて酒を鱈腹飲みました。大洲に住んでいた故松田寿雄先生を介して仲間が集まり、大風呂敷を広げて将来への夢を語ったものでした。夕日によるまちづくりも、人間牧場構想も元根はこの当たりにあると思われるのです。お互いがライバル意識を持つこともなく、むしろ悩みを打ち明けたり、時には色々なアドバイスを受け合いながら人生を過してきたように思うのです。

 菊地さんは私のブログの愛読者で、時々電話をかけてくれましたが、今年の春何を思ったのか、「ブログに書かれている人間牧場を見てみたい」と、一人で人間牧場へやって来ました。海の見える水平線の家のウッドデッキに、背もたれ椅子を二つ並べて置き、体を沈めて半日他愛もない過ぎ越し人生やこれからの夢を大いに語り合いました。
 もう一ヶ月も前のことでしょうか、菊地さんの夢を見ました。菊地さんのことが妙に気になり電話をしたら奥さんが出られて、検査入院しているとの事でした。そのうち入院中の菊地さんから電話が入り、30分間も長話をしたのが最後の言葉でした。
 幾ら元気で長生きしようと思っても、人は必ず老いるし死にます。その老い方や死に方が分からないから生きていけるのかも知れません。菊地さんのように予期もなくある日突然死ぬことだってあるのです。年齢順に順番に老いて死んでいくのであれば、一歳年上の私は菊地さんより先に逝かねばならないのに、順番が狂ってしまいました。残念ながら菊地さんに私を見送ってもらうことは出来なくなってしまいました。願わくば菊地さんの分まで長生きするからねと、弔問の言葉を菊地さんのご遺体にかけ、ご自宅を後にしました。

  「まあ何て 俺によく似た 人だろう 指折りながら あれやこれやと」

  「今だから 思える予兆 あれやこれ もっと出会って  おけばよかった」

  「俺の分 長生きせよと 言うように 見える死に顔 涙止まらず」

  「あの世にて 今度会うときゃ また酒を 鱈腹飲もう 涙で誓う」

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