人間牧場

〇指折り数えなくなった親父

 母が亡くなったのは2001年10月4日ですから、早いものでもう10年が経ちました。私の誕生日の10月3日の明くる日を選ぶように死んだのは、「馬鹿息子だが自分の誕生日の明くる日なら私の命日を覚えていて、線香の一本でも手向けてくれるだろう」と思ってのことだと勝手に思いつつ、余程のことがない限り毎日仏壇に手を合わせて、母のことを思い出しては祈っているのです。
 しかし2001年10月4日に母親の時計は止まったままなのに時には思い出し、線香の一本でも手向けるのに、今なお動き続けている父親の時計は余り気にも留めずに暮らしていることに、ふと後ろめたさを感じたりするのです。私の両親は私を含め5人の子どもを産み育てました。貧乏家庭だったし親父の兄弟は親父をかしらに12人もいて、祖父が比較的若くして亡くなったため、若いころから筆舌に尽くし難い辛酸をなめて生きてきました。親父は戦争にも行き傷痍軍人となりましたが、その後50歳でガンを患いながらもかろうじて生き延び、93歳の今日も何とか元気に暮らしているのです。

 親父は几帳面で綺麗好きな性分で、また不器用な私の親ながらとても器用で、自宅のあちこちには親父の器用さを覗わせるものが沢山あり、その際たるものは自宅横の倉庫を改造して造った海の資料館「海舟館」で、中には趣味で集めたお宝が収蔵してあり、自分が造った和船の模型等は学術的にも大変貴重な代物で、時折研究者が訪ねて来るほどなのです。さすがに年老いた最近は耳が遠くなり受け答えもできかねますが、和船の模型一つ一つに物語が込められていて、聞き取りして記録に留めて置いてやりたいと思いつつ、忙しさにかまけているのです。
 私の兄弟、つまり親父の息子や娘は幸せなことに5人のうち4人までが町内で暮らしています。ゆえに老いた父のことが心配で、時折尋ねてきてくれますし、近所に住む姉等は毎日のようにおかずなどを持参して声を掛けてくれるのですが、親父の気がかりは遠く和歌山に住む弟のことのようです。弟は松山工業高校土木科を卒業と同時に中堅企業の奥村組に入社し、トンネル工事のエキスパートとして主に関西のトンネル工事の現場を転々としていました。数年前から退職後は弟妻の実家である和歌山に転居し、奈良県大和郡山の実家を息子に譲り暮らしています。

 母が亡くなって間もないころは親父のことを気にかけて盆や正月に帰省していましたが、今はそれも遠のき、当然のことながら親族のお目出度お悔やみくらいしか帰省しなくなりました。 正月が来る度に指折り数えて弟の帰省を待ちわびていましたが今はそれもなく、正月を迎える喜びも歳を重ねる不安にかき消されているようです。
 昨日親父の隠居へ朝のご機嫌伺いに行くと、何を思ったのか弟の夢を見たので、電話をして欲しいと頼まれました。早速私の携帯で電話をすると弟は、突然の電話に「何事か?」驚いていたようでした。それもそのはず、先月には妹の義父が亡くなり、葬儀のために夫婦で帰省したばかりなのに、「今度は誰が?」とよからぬ不安が過ぎったそうです。それもそのはず、親父の兄弟、つまり弟の叔父や叔母はまだ相当数いるのですから当然だと思うのです。
 正月を間近に控え師走になったものの、指折り数えて息子の帰省を待ちわびることの楽しみもなくなった親父ですが、その分一緒に住んでいる私たち家族も親父を極力輪の中に入れて、楽しい正月を迎えさせてやりたいと思っている今日この頃です。

  「師走だと 言うに正月 指折らず 寂しく暮らす 老いた父親」

  「老いてなお 遠方息子 気になりて 近くの息子 余り気にせず」

  「今朝もまた 書斎の窓を 叩く父 今日は何日 聞きに来るなり」

  「歳をとる いずれ私も あのように 拳拳服膺 邪険にするな」

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