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○国立大洲青少年交流の家運営委員会

 かつて私は若い頃、青年団に入団して8年間活動しました。その結果①仲間、②主張、③ふるさと、④感動、⑤夢という5つの道具を手に入れました。その道具は様々な機会と場所を砥石にして、磨きながら今日も使って活動しているのです。青年団はその意味において私の大恩人かも知れないのです。そんな青年団活動の中でも愛媛県青年団連合会長と愛媛県青少年団体連絡協議会長、四国四県青年団連絡協議会長などの要職をしていたころ、国立大洲青年の家の誘致運動が起こりました。同じ四国ブロックの中で高知県室戸と大洲は激しく競り合いましたが、当時の坂田文部大臣を招聘するなど激しい運動の末、90%以上の内定を覆し、見事大洲の地に青年の家を誘致したのです。以来名称は国立大洲青少年交流の家と名称は変わったものの、こだわりとかかわりの多さから、この年齢になった今も運営等に深く関わらせてもらっているのです。

幾何学模様のイメージ図 そんなこともあって請われるままに運営委員を引き受けていますが、最近は松山出身で東京から四年前にやって来た新山所長とことのほか息が合い、新山所長が年輪塾の会員になっていることもあって、頻繁に顔と口を出しているのです。まあ私にとって国立大洲青少年交流の家は、わが家のようなものですから、昨日も昼食を用意してもらい、所長さんと室長さんと三人で、レストランで昼食をご馳走になりました。 運営委員会は午後1時半から3時半まで、私が運営委員長として議長を務め、約2時間に渡って行なわれましたが、議長は事務局の説明に対して委員から意見を求めたり、審議事項の橋渡しなければなりませんが、行き当たりばったりながらほぼ時間内に委員全員から意見を述べてもらいました。 その殆んどは、私の意見を除けば建設的な意見が多く出され、手前味噌ながらある意味とてもいい会だったように思いました。 昨日は玄関先の芝生中庭に、孟宗竹を割って作った半円形の作品が妙に気になり、所長室ではもっぱらこの話に話題が集まり、その経緯と作り方を設計図をいただいて伝授してもらいました。私はこれまでにも様々な道具類を見つけ、直感で伝授してもらい多くのことを活動に生かしてきました。かつて竹で作った赤とんぼを作ったり、丸木舟を作って瀬戸内海を航海したりして、当時大きな反響を呼んだものです。今回の幾何学模様の半円形作品も、青少年活動に生かせば面白い効果が出るかもしれないと、早速写真に撮り、紙荷造り紐で作ったミニチュアや設計図まで所長さんからいただいて帰りました。 孟宗竹は里山を荒らす天敵といわれるほど厄介がられていますが、竹の活用は竹炭や建築資材などに使われているものの、それ程の妙案は中々見つかっていないのです。この半円形の作品がその妙案とは思いませんが、子どもにも手軽にできるアート作品なので早速試作を重ね、組み立て自由なキットにしたいと思っています。昨日は楽しくも充実したいい一日でした。(昨日は夕方から別の会議があって松山に出ましたが、新山所長さんから携帯にお礼のメールメッセージが入っていました。さすが気配りの所長さんです。)中庭にある孟宗竹を使ったアート

  「幾何学の 竹のアートが 気になって 中庭出でて 写真収める」

  「議長席 座って話 橋渡し 2時間かかり 話しまとめる」

  「交流の 家は私の 家のよう 隅々知りて どこか落ち着く」

  「この家に 中江藤樹の 教えあり 未熟なゆえか 未だ分からず」 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

中庭にある孟宗竹を使ったアート

 

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○4つの春

 私の住んでいる四国愛媛県は、瀬戸内海に面しているため、温暖少雨な地域といわれています。その気候を利用して昔はあちらこちらに塩田があったようですが、塩を科学的製法で作り出せるようになって、その姿は完全に姿を消してしまいました。温暖少雨はそこに暮らす人たちにとってはとても便利なのですが、厄介なことはやはり夏場の水不足です。雨が降ると川は水が勢いよく海に向かって流れますが、それも何日かで、冬のこの時期は雨が余り降らないため、川は水無川と呼ぶような瀬音もない音無川になっています。そのため何年かに一回は渇水対策本部などが置かれて、難儀を共有しなければならないのです。
 それでもこのところ春が近づいているのか、晴れと雨の周期が短くなって、雨だれや流れる水音にどことなく春の足音を感じ、どことなく身も心も浮き浮きしてくるのです。春を感じるものには光、音、温度、人の動きなどがあります。

 ・光の春
 日脚が随分長くなってきました。7時にならないと夜が明けなかった新春から比べると、すっかり早くなって、6時過ぎには辺りが明るくなるし、年末に5時過ぎだった日没も今では6時近くになり、昼の時間が毎日朝1分、夕方1分ずつ長くなっているようです。私たちのように谷あいに住んでいると、冬は殆んど日が当たりませんが、このところ日増しに日当たりがよくなり、日当たりのよい場所を選んで蒲団を干したり、先日作った切干大根のサナを並べたりして日差しを活用しているのです。樹幹からこぼれる日の光は明るくて、冬の寒さが厳しく待ち遠しいかっただけに光の春を強く感じています。

 ・音の春
 春は「♭どこかで春が生まれてる♯」と歌われているとおり、余り目には見えないものですが、音の風景で春を感じることができます。その最たるものは鳥の鳴き声です。裏山が家の近くまで迫っているわが家の近くでは、ウグイスは大寒の頃から鳴き始め、下手糞だった鳴き声もすっかり上手くなって、「ホーホケキョ、ケキョケキョケキョ」と谷渡りまで披露するようになりました。メジロなどの野鳥も庭先に飛んできて、椿の花の蜜などを吸い、時には大胆にも庭に置いているキャリーの中のミカンまでつつくのです。気がつけば吹きすさぶ北風の音に替わって、上灘川に架かった長い鉄橋を走る列車の音、港を出る漁船の音なども遠く近くに聞こえるようになってきました。

 ・気温の春
 春を感じるのはやはり気温です。名残の寒さなのか昨日の朝は放射冷却現象で珍しい霜が降り、散歩途中の道端の水槽には薄い氷が張っていましたが、さすがに日中は風もなく10度近くまで気温が上昇しました。部屋のあちこちに置いて使っている石油ストーブの灯油を入れる回数の頻度が少なくなり、今朝の室内温度は9度を表示していました。ストーブをつけた書斎の温もりも、湿度を保つためストーブの上に置いたやかんの湯気の立ち昇り方にも、どことなく春を感じるのです。

 ・人の春
 人の往来が多くなってきました。本当は明日から3月なのに今年は暦の悪戯で、4年に一回の閏年のため2月29日があるのです。したがって県立高校の卒業式は明後日です。これからは卒業式、就職や進学の準備にそれぞれ慌しい日々が続くようで、引越しの荷物を積んだトラックが俄然多くなってくるのです。息を潜めるように暮らしていた、近所のおじいちゃんやおばあちゃんも、マイカーたる手押し車を押して歩き、野良仕事もスタートして畑には人の姿が目立つようになってきました。

  「光・音 気温や人に 春見つけ 心浮き浮き 花春を待つ」

  「あと何回 春を向かえる ことできる 指折ってみる 二十回足らず」

  「春が好き 冬の寒さに 首すぼめ 一日千秋 あれやこれやと」

  「冬峠 登りて親父 今年また 春を向かえる ことぞ嬉しき」

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○新聞や雑誌の記事

 何げなく毎日見たり読んだりしている新聞や雑誌には、お悔やみや事故など虫眼鏡で見ないと見えないような記事から、町や自分に関する記事などが載っていてハッとしたりします。また自分が直接新聞や雑誌で見たり読んだりしなくても、仲間や友人からそれらが送られてきたりするのです。最近は便利になったものでそれらの記事はスキャナーでスキャンされ、メールに添付して送ってくれるので、保存するのにもブログに使うのにもとても便利で、この数年でその数や相当な量にのぼっているのです。

金丸弘美さんの旅日記
 一昨日夢工房で出会った友人の高岡さんから、一枚の雑誌切抜きをいただきました。彼は京都大学を卒業して県庁に入庁されたエリートですが、何故か私のような無学なものでも大切にしていただいて気が合い、これまで20年を越えて付き合っている古い友人です。無類の読書家で、彼から教わったり、薦められた本は数知れず、全てがインプットされた訳ではありませんが、私の血となり肉となっていることは確かです。彼はガバナンスという雑誌を愛読していて、その中のコラム記事に双海町やや私に関する記事が載っていると、こうして手渡しや手紙で送ってくれたり、時にはコピーして関係者に配ってくれるのです。
 今回いただいた記事は昨年サイコーダイガクの講師として招いた食環境ジャーナリストの金丸弘美さんが、その折取材したと思われる双海町の記事でした。金丸さんは気さくな方で、講演が終わって帰られると直ぐに、私宛にハガキをいただきました。また金丸さんの自著本をわざあわざ贈呈してもらったりしたのです。
 講師の先生たちはこのように全国を歩き回り、それぞれの地域で見聞きした情報を旅日記で紹介し、結果的にそれらの記事が全国の優良事例集として、居ながらにして本になるという、なんとも羨ましい限りです。

 もう一つ、2~3日前、市役所支所の松本さんからPDFファイルで、一枚の新聞スクラップの記事が送られてきました。昨年2011年の地域トピックス中予編で、下灘駅のプラットホームを舞台に開かれたシンポジウムの記事でした。その日の朝何げなく新聞をめくっていると、見覚えのある下灘駅のプラットホームの写真が載っていました。老眼鏡のお世話になっている妻が目敏く見つけ、さらに虫眼鏡で「これお父さんじゃない?」と言うのです。よくよく見ると観光カリスマ対談で来町した山梨県の舩木上次さんと二人の写真でした。そういえば昨年9月23日(ふたみの日)秋分の日に、14時55分串駅発の列車に乗って、下灘駅へ降り立ち、二人で観光に関する四方山話をしたなあと、半年前なのに何故か懐かしく当時のことが蘇ってきました。

下灘駅フォーラム新聞スクラップ

 

 

 

 

 

 

 

 

 双海に関する資料、私に関する資料はこうして僅かながら記録の片隅に残っていくのですが、多分これらの記録もページをめくられることもなく思い出の彼方に消えていくのかと思うと、何だか寂しくなるのです。でもPCという優れもののお陰で、資料をひっくり返すこともなく手元目元に呼び出すことができるのですから、凄く便利な時代になったものです。
 一昨日子ども体験塾のスタッフとして来られていた人から、「若松さん、私はあなたのブログを殆んど毎日楽しみに読んでいます。これからも続けて下さい」と、唐突に言われました。名前も知らない主婦からそんなことを言われると、事の重大さにハッと気がつき、滅多なことは書けないと自重のブレーキをかけそうになりましたが、むしろ自重しつつアクセルを踏んで、これからも記録のブログを書こうと思いました。

  「楽しみに 毎日読んでる 言われると 自重ブレーキ 思わず踏みそう」

  「便利だね 記録数々 パソコンが 覚えてくれて 俺より偉い」

  「双海町 若松進一 見る度に 懐かしくなり 送ってくれる」

  「もう二度と 見ることもない 記事写真 消える運命 寂しくもあり」

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○ふるさと体験塾「一年を降り返ろう!」

 昨日は翠小学校の多目的ホールや運動場をお借りして、ふるさと体験塾最後の集会が持たれました。31人の子どもたちに加え20人ものスタッフが集まり、とても賑やで楽しい集会となりました。今年は中学生をジュニアリーダーと位置づけて、その育成に主眼を置いていたため、この日のプログラムは嬉しいことに中学生が中心になって考え準備を進め、運営を高校生や大学生たちと一緒にやってくれました。
 メインのプログラムは昔私たちが子どものころに行っていた、「鬼ごっこ」をゲーム化した「逃走中」というものです。内容説明書によると、「ハンター」チームと「逃走者」チームに分かれて行なう鬼ごっこで、最近フジテレビ系番組で紹介されてから人気急上昇中のゲームのようですが、今回は各班による対抗戦で行い、グループの全員が捕まった時点の人数の多少で順位を競うのです。
 中学生から参加者に一通りの説明が行われましたが、私には理解できなくても子どもたちは直ぐに納得し、早速夜来の雨で少しぬかるんだ運動場に出て、各班を示すゼッケンをつけてゲームを楽しんでいました。

多目的ホールに集まった子どもたち

 私は多目的ホールのペレットストーブの前に椅子を置いて陣取り、ストーブ番をしながら更生保護女性会の久保さんや山口さんたちと久しぶりに、井戸端ならぬストーブ端会議をやりました。久保栄子さんとはもう長い付き合いで、私が現職のころ婦人会長や花の会の会長をされていて、その後もこうして子ども体験塾の実行委員としてボランティア活動をしてもらっているのです。年齢を気にして「もうそろそろ」と辞退の意思を示しているような口ぶりでしたが、ボランティア活動は一体何歳まで続けることができるのか、自分自身のことも含めて身上を吐露しながらお話をしました。
 身を引くタイミングは自分自身が決めることだと言われていますが、私もその歳になると色々と考えるのです。「いつまでするの?」という世間体と、「もうそろそろ」という年齢や体力の限界等、タイミングは人それぞれなのですが、公民館で育ててもらった私としてはもう少し、ボランティアとして頑張ってみようと思っています。
 子ども体験塾や通学合宿夕やけ村、おもしろ教室等、双海町の一連の社会教育的青少年育成事業は、子どもの健全育成に地域が関わる点では、誰しも認める大きな成果を上げています。昨年から始めた中学生によるジュニアリーダーの育成も、その成果が見え始めているので、も少し充実させたいと思っているのです。

運動場での逃走中という鬼ごっこゲーム

 そんな雑談をしている間に子どもたちの歓声の中で、「逃走中」というゲームは無事終りました。冬の寒さの中でややもすると、不完全燃焼気味だった子どもたちは爽やかな汗をいっぱいかいて、とても楽しかったと、予想をはるかに超える成果を収めたようです。これもジュニアリーダーたる中学生のお陰です。
 片付け終了後場所を翠ピザ釜に移し、50人がピザ作りに挑戦しました。私は「自宅へ来客直ぐ帰れ!」の携帯電話が入ったため、ジュース搾りやここでもストーブの番をしただけでお暇させてもらいましたが、集会が終って公民館主事の赤石さんがわが家まで、その後の進捗状況と絆プロジェクト報告書を持って自宅まで報告に来てくれました。若松君、幸君、中村君の三人は来春から中学生になりますが、来年からはジュニアリーダーの仲間入りをすると張り切って宣言したことを喜んでいました。
 間もなく春がやって来ます。一年の終わりは一年の始まりでもあります。まるでエンドレステープのようですが、また新たな気持ちで双海町の宝である子どもたちを、しっかりと育てるお手伝いをしたいと心を新たにしました。

ピザ作りに挑戦する子どもたち

  「中学生 頼もしきかな プログラム 企画運営 大きな成果」

 

  「ボランティア 自分のために するものと 思えばこれが 生きがいなりて」

  「中学に あったら僕も リーダーに 涙出るよな 嬉し宣言」

  「子どもたち 冬の寒さの モヤモヤを 吹き飛ばすよに イキイキ走る」

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○ミニ四国八十八ヵ所(資料編)

上灘八十八ヵ所場所一覧その1

 

 

 

 

 

 

 

 

上灘八十八ヵ所一覧その2
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○ミニ四国八十八ヵ所遍路(その5)

 上灘四国八十八ヵ所の最後は大栄地区です。県道のとんでもない直立岩の上にある80番の石仏は、県道の改修工事で移転したとの話を聞きました。戦後から今日まで、八十八カ所の散在する地域では、徒歩から車に交通手段が変化したため、道路の拡張工事や付け替え工事がしばしば行われていて、その度に石仏が勝手に動かされているようです。石仏を動かすとたたりがあるとか、動かした人が病気になったとかいう移転にまつわる話は、枚挙に暇がないほどです。そのため関係者は動かす度に、お坊さんを呼んでお経を上げたり、移転先を立派に整地してねんごろにお祀りしているようで、お供えやシキビを上げたりしている姿を見ると、近郷の人の信仰心の厚さにただただ驚くばかりです。
 75番石仏は奥大栄に続く往還道路が、あったであろう岡田義秋さん宅から上流へ20mほど進んだ畑の隅になりました。県道がぐるっと回っているため、この地を不思議に思いましたが、80番の石仏は直線的には直ぐ上のようでした。76番石仏は岡田常夫さん宅上方新道大カーブを上がりきった墓地の傍にあり、お参りをして大栄公民館の前に車を止め、山本彊さん宅奥南側の、急な坂を上がりきったカーブに77番、78番、79番の三体の石仏がありました。この上付近は県道の拡幅工事が盛んに行なわれていて、その影響もあって石仏を囲う石積みが崩れかかっていて、心ある人の手助けでしょうか、腕首ほどの丸太でつっかえ棒をして崩壊を止めていました。

 ここの石仏は珍しいことに77番が奥、78番が手前と、左右でなく前後に配置していました。多分前述のような土砂崩壊などの理由でこうなったのでしょうが、八十八ヵ所を巡ると何ヶ所かでは、台座や屋根石、側石柱が悼んでいるものもあって、修理が必要な場所がありました。赤石さんとも相談したのですが、地元やお祀りしている人と相談しながら、修理をするための何らかの行動を起こさなければと思いました。しかしこの作業も宗教が絡んでいるだけに難しそうです。
 大栄公民館の敷地の中にも81番と82番の石仏がありました。ここには横に常夜灯や石舟型の手水もあって神仏混合ながら風情がありました。森岡繁夫さん宅横の83番、川向こうに渡った坂の上の旧大上長太郎さん宅奥に84番の石仏がそれぞれありました。入り口付近にある安田さんの庭で安田さんや小谷峰子さん、森岡敏雄さんの三人が談笑していて、伊予柑とポンカンのお接待を受けました。この時期の雑柑類はどれも美味しく、6人で石仏の話やかつての賑わい、今の寂しさ、将来の不安など沢山の話を聞くことができました。

 西口光雄さん宅前の85番、大栄入り口分岐点の86番と、いつの間にか石仏の番号も80番の大台を数え、残りは出発した正光寺境内の87番、88番の石仏となりました。正光寺に戻って結願のお祈りをし終ると住職さんと出会い、本堂に案内されて立派な庭や、住職さんの書いた龍の絵、修行僧の絵巻物など色々と珍しいものを見せてもらいました。
 午前中は歩き遍路、午後は車遍路でお茶を濁したものの、私の携帯電話付属の万歩計は2万1千歩を記録していました。上灘八十八ヵ所の存在を赤石さんから一昨年聞いた時から、一度は遍路をしてみたいと思っていた願いは、赤石さんや宮栄館長さんの協力によって、無事実現することができ、今はとても清々しい気分です。本物の八十八ヵ所は一度だけ妻と回っているものの、高野山へのお礼参りはまだなので、今回の上灘八十八ヵ所参りのお礼参りも含めそうだと内心喜んでいます。
 いつの頃にこの上灘八十八ヵ所が起こったのか、これも調べてみたいものです。今回の遍路で正光寺、本覚寺、地蔵寺とそれぞれ宗派の違う三ヶ寺を参拝することもできました。願わくばもう一度今度は本当の歩き遍路で全てを回って見たいものです。それにしても嬉しいのは毎日1万歩のウォーキングをやっているお陰か、2万1千歩歩いても足腰共に全然平気で、体力に自信が持てたことは何よりの収穫でした。

  「一日で 地四国遍路 巡る道 車手助け なければできぬ」

  「地四国を 復活させて 歩こうと 誘いかけるも 足腰嘆く」

  「あれこれと 世間話に 花咲かせ やっとの思い 決願叶う」

  「二万歩を 歩いてなおも 元気とは 老いて益々 体力自信」

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○ミニ四国八十八ヵ所歩き遍路(その4)

 日尾野の西岡猪夫さん宅に入居している福島県出身の渡辺さん家族と黒豚に見送られ、車で出発した私たちは、宮栄館長さんに車を運転してもらい、しばらく二手に分かれることにしました。私と赤石さんは田口裕一さ宅より少し急な柆野坂を歩いて登りました。途中左手に54番と55番の石仏が順番にありました。更に進むと柆野の集落が見えてきました。柆野公民館の横の広場に茶堂があり、その中に56番石仏が安置されていました。ここには天然記念物に匹敵するような大きな樹木が茂っていました。残念ながらその木の樹種は分かりませんでしたが、かつて青年時代に盆踊りの盛んだった頃、この地に仲間と共に踊りに来たことがあり、県道を通行止めにして盆踊りを踊っていた長閑な時にこの木を見た記憶が蘇ってきました。
 柆野集落のほぼ真ん中の道を進むと井川仁さん宅裏に57番が、金井稔さん宅より明神山方面へカーブした内側に58番の石仏がありました。特に58番は四国八十八ヵ所を世界遺産にしようと頑張っている今治仙遊寺の親友小山田憲正さんを思い出しました。58番は何の囲いもなく野ざらし状態で少し可哀想な気がしました。

59番石仏と並んだ石仏は60番かも?

 ここで車に乗った宮栄さんと合流しそこから更に進むと、年末に子ども体験塾でスカイツリーと同じ高さ634mの明神山に登った登山道入り口土俵を越え、大平への分岐点に差し掛かりました。この場所に59番石仏がありました。宮栄館長さんと赤石さんが事前調査で88体の石仏を探して唯一見つかっていないのが60番の石仏です。59番の横にある石仏がそれらしい気もしましたが、台座の構造が少し違っていて、真偽は後の調査に委ねることにしました。
 私たち一行は犬寄峠の旧道を通って国道56号線に出ておき世の池入り口にある、61番、62番、63番の石仏を拝みました。その後中山との境にある信号を右折して高見集落へ入りました。急な坂を車で旧高見公民館跡まで登りました。私が公民館主事をしていた最初の頃に、この公民館には再三主に夜の集会に訪れましたが、今は公民館は下の県道に移転しています。私の記憶が正しければこの新しい公民館には、私が仲立ちして落成記念に講師として招聘したご縁で、大洲の松田寿雄さんの書画掛け軸が飾られているはずなのです。
 ここには64番、65番、66番の石仏が綺麗に安置されていました。この地付近は中山との町境の高台にあるにもかかわらず、隧道水路のお陰で美田が広がっているのです。高見にはいよと書かれた65番石仏とさぬきの66番石仏が同居していました。

 上灘川の支流に沿って県道を下り、途中からもう一本の上灘川本流に沿って奥大栄を目指しました。この集落への道は度重なる山津波で付け替えられていますが、残念ながら急激な過疎化の波に翻弄され、今は数軒しか住む家もなく、住む人絶えた家が寂しく崩れかかっていました。
 奥大栄公民館前に69番、72番、少し下の永木に通じる往還道路脇に67番、68番、70番、71番、73番、74番の石仏がありました。私が日ごろ飲んでいる飲料水は、この先が上灘川の源流域となっていて、何年か前子ども体験塾で源流探しに出かけた場所なのです。
 私たち一行は元来た道を県道まで下がり、県道の上のとんでもない場所にある石仏を下からお参りしました。残念ながら上に上がることができず、下から一円玉の賽銭を投げ入れ、運よく止まって事なきを得ました。私たちの一行はやっと最後の大栄集落まで辿り着きました。

  「本当は 歩き遍路を するはずが 道程長く 車で参る」

  「六十番 石仏未だ 見つからず 八十八ヵ所 思い残して」

  「道もなく 崖っぷちゆえ 賽銭を 投げて運よく 石仏前に」

  「住む人も なくて崩れし 家の前 郵便受けに カズラからまり」

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○ミニ四国八十八ヵ所歩き遍路(その3)

上灘八十八ヵ所歩き遍路の灘町地区最終は29番石仏が本覚寺にありました。石段を登り山門を入ったところに6地蔵が安置され、その横にありました。この境内から見える双海町のシンボルである本尊山の眺めは素晴らしく、大洲藩主の詠んだ歌の歌碑が建っていました。丁度お昼になったこともあって、一区切りして教育委員会に立ち寄り弁当を食べました。3時間歩き少し疲れましたが、先を急がねば陽が暮れるかも知れないという焦りもあって、宮栄館長さんの痛めたスネの傷を気遣い、3人で協議の結果、午後は車を利用することになりました。仲宮の長岡栄一さん宅前のお堂に30番と31番の石仏があり、更に進んで三島の広沢熊市さん宅前の32番石仏をお参りしました。32番石仏の石積みには立派な藤の蔓があり、居合わせた広沢の奥さんと色々会話を交わしました。

三島集落の川本さん裏にはトンネルが・・・

 私たちの一行は公用車の運転を宮栄館長さんに任せ、私と赤石さんと二人で、三島公民館横の33番、34番、35番、36番と4つ並んだ石仏を拝みました。その後川本将稔さんの庭と倉庫を通らせてもらって裏道に出ました。ここの37番石仏は、石垣に見事に組み込まれていて、歴史のようようなものを感じました。その横には立派なトンネルが残っていて、戦争中は防空壕に使っていたらしい話を聞きましたが、中が二手に分かれたトンネルは今回の遍路めぐりの大きな発見だったようです。
 そこから裏道を通って三島の坂本さんというお宅の近くにある38番の石仏へ行きましが、坂本さんの家は住む人もなく空き家になっていました。
 八十八ヵ所は阿波の国23、土佐の国16、伊予の国26、讃岐の国が23と合計八十八ヵ所ですが、石仏にはそれぞれ漢数字で番号と、阿波、土佐、いよ、さぬきという国の名前、お寺の名前などが書かれています。何と石仏に刻まれた仏像は四国八十八カ所のそれぞれのお寺の本尊なのです。1番であれば阿波、霊山寺、釈迦如来が彫られているのです。

 私たちはその後地蔵寺へ車で到着しました。このお寺は最近屋根の葺き替え大修理を行なったばかりで、銀ねずの日本瓦がまばゆく、そして重厚さを増していました。お寺の境内に入って直ぐ左に40番、41番、42番、43番、44番、45番、46番と8体もの石仏が行儀よく並んでいましたが、今回の屋根替え普請のついでに石仏をジェット噴射機で洗ったらしく、8体全てが空に向かって寝かされ、まるで日向ぼっこか虫干しでもしているような珍しい光景に出会いました。間もなく元の位置に安置されるのでしょうが、いやはや面白い光景でした。
 人の話によると地蔵寺は向かいの山の中腹にあったらしいのですが、火災にあって今の場所に移ったようなのです。その際石仏も一箇所に集まられたものではないかと推察するのです。
日尾野の石仏は西岡猪夫さん宅前に47番、48番、49番の3体、日尾野公民館横に50番、51番、52番、53番の4体が安置されていました。福島県から移住してきた渡辺さんが西岡猪夫さん宅に入居しているため、在宅だった渡辺さんや子どもさんと飼育している黒豚の前で色々なお話をさせてもらいました。

  「一円を 供え手合わせ 石仏の 顔に会釈し 次々参る」

  「石仏の どの顔見ても 慈悲深く もっと笑顔と 言ってるようだ」

  「阿波と伊予 越えて讃岐に 入ったが 険な路ゆえ フウフウ言って」

  「住む人の 絶えた屋根には 草が生え 壁も崩れて 寂しかりけり」

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○ミニ四国八十八ヵ所歩き遍路(その2)

 東谷に出た私たちは宮田英雄さん宅近くの15番石仏へ向かいました。「ほらあそこに」と指差した断崖絶壁の上に15番と16番が並んでいました。賽銭をあげることもままならない断崖をよじ登ってどうにか手を合わせ賽銭を置くことができましたが、さあそれからが大変で、17番の石仏がどうしても見つからないのです。三人であちらこちら探しましたがどこにも見当たらず、仕方がないので運よく自宅にいた宮田英雄さんに協力を求めました。探していると石仏がイノシシの悪戯で崖から下の草むらへ落ちているのを発見しました。宮田さんと赤石さんが協力して何とか元の位置へもどしましたが、宮田さんの話によるとこれまでにも時々イノシシが悪さをして落ちたようで、「ほら見てください」と指差す宮田さんの家の裏山は、イノシシが悪態の限りを尽くして掘り返した、無残な姿がかなり広範囲で残っていました。
 「多分こんな罰当りなことをしたイノシシは、鉄砲か罠で始末されたに違いない」などと、イノシシに聞こえとばかりに人間様の話をしながらその場を去りました。

転げ落ちた石仏を元の場所へ安置する

 東谷のお参りを終えた私たち一行は西谷に入りました。西谷はかつて大水害にあったようで、中学校辺りからかなり奥まった所まで川は三方コンクリートになっていて、川という風情はなくまるで水路といった感じでした。18番石仏は岡崎常雄さん宅東側川向こうの橋のすぐ近くにありました。途中福岡暉司さん宅の庭には見事なモミジの木がありました。春の芽吹きや夏の緑陰、秋の紅葉が見事だろうと想像し、話しながら進みましたが、ここからはかなりきついダラダラ坂が続き、汗をかき始めました。この奥にはかつて宮の瀧という集落があった話を教育長をしていた中田豊さんから聞いていたので、「何でこんな所にあるのだろう」という疑問も解け、福岡暉司さん宅から50mほど先の21番石仏、さら500m先の20番石仏を通り越して、20m先の19番石仏をお参りしました。帰りに20番、21番に立ち寄り、そこからは西尾さん宅の前を通って池田勇さん宅の横にある22番石仏を目指しました。途中出会った山口さんが草を刈っていたというとおり付近の薮草は刈っていましたが、お参りした後の帰り道は引き返さず畑の中を通らせてもらったので、中々の難所で行く手を阻まれました。何年か前までは池田勇さん宅から私の家の浦に通じる裏道がありましたが、今は薮に覆われて通ることが出来ないようになっていました。

 23番石仏は東谷入り口の旧道、永井昭一さん宅川向こう、亀岡さんの家の横の人一人が通れる小さな橋を気にしながら渡りお参りしました。これで両谷の全ての石仏を終え、中学校横の給食センター横、源田自動車横を通って上灘川に沿って河口を目指しました。上灘川には長いJR予讃線海岸周りの鉄橋が架かり、その鉄橋を見上げたり、元町長で今は亡き丸山勇三さん宅や岡崎さん宅の見事な格子戸を眺めながらかつてメインストリートだった往時の姿に思いを馳せました。
 大石さんのギャラリー蔵の前の広場横に24番、26番、28番と三つの石仏が安置されていますが、何故か飛び番の25番と27番が五丁目宮崎のお地蔵さん内に安置されているのです。宮崎のお地蔵さんは天一稲荷神社のお宮の先にあるので宮崎と呼ばれているようですが、かつては見事な松が生い茂り近くには常小屋や風呂屋もあって風情があったようですが、今はその面影は見る影もなく、海岸国道や漁港のの整備に伴って船揚場も出来一変しています。上灘八十八カ所の中でも25番と27番は別格で、地蔵尊本堂内にねんごろにお祀りしていました。

  「イノシシが 十七番の 石仏を 鼻息荒く 谷に蹴落とし」

  「十七番 石仏抱いて 元の場所 お座りなさい 心優しく」

  「悪さした イノシシ既に 罰当り したであろうと ヒソヒソ話」

  「何しよる 会う人毎に 声かかる 返す言葉は お参りしよる」 

 

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人間牧場

○ミニ四国八十八ヵ所を巡る遍路歩き(その1)

 双海町公民館主事の赤石さんから数日前、「月曜日の予定、忘れちゃいませんか?」とメールや電話をいただいていた、「上灘八十八ヵ所巡り」に月曜日の昨日出かけました。前日の夜妻に弁当を作ってくれるよう頼んでいたので、妻は日常より少しだけ朝早く起きて手作りの弁当を作ってくれ、「弁当持った!、手袋持った!、ペットボトル持った!、寒くはない?」などと、まるで子どもが遠足にでも行くようにいちいちうるさく注意を促し、自宅まで迎えに来た赤石さんの運転する公用車に乗り込みました。出発地は一番のお地蔵さんが祀られている正光寺です。正光寺は翠小学校の直ぐ上の急な坂道を登った所にあり、ここで公用車を降りて、公民館の松田さんに車を取って帰ってもらうのです。山門をくぐり本堂に深々と一礼をして道中の安全を祈りました。山門の直ぐ右横に6基のお地蔵さんが行儀よく整然と並んでいました。ここには1番から4番までのお地蔵さんがあり、後の2体は87番・88番、つまりここから上灘八十八カ所の祈りのへんろ道はここから始まり、ここで決願するようになっているのです。

正光寺境内の一番石仏~

 私はまだ般若心経も空で覚えていないので、祈りはもっぱら手を合わせて「どうか道中無事でここまで辿り着きますように」という程度の簡単なものなのです。今朝は妻が用意して持たせてくれた絣布製の小銭入れに入れた、約100枚の一円玉をポケットから取り出し、石仏の前に供えて行くのです。本当は10円か100円硬貨の方がご利益があるのでしょうが、それ程金持ちでもないので、気は心とばかりに1円玉での代用となりました。妻とは嬉しいもので、こうして1円玉でもちゃんと持たせてくれた気配りに感謝するのです。上灘八十八ヵ所がいつの頃に出来たのかは文献がないので定かではありませんが、ミニ八十八ヵ所を発案し、村の隅々に石仏を配置して祈りの道を作った人たちがいるのですから驚きです。それらの石仏は時代の流れや月日と共に何度も散逸したり移転を余儀なくされたりしたようですが、公民館の宮栄館長さんと赤石主事さんのひた向きな現地捜索の努力によって、見事全容が明らかになったのです。ミニ八十八ヵ所を回った経験のあるお年寄りもいるのでしょうが、その記憶も殆んど忘れられているため、現地捜索は難航を極めたと二人は笑って述懐していましたが、折角石仏の存在も明らかになったようなので、どの程度の時間で回れるのか、一度試してみたいと三人の相談がまとまり、今回の歩き遍路+車遍路となったのです。

 正光寺の1番~4番を参拝した三人は、お寺と翠小学校の間にある坂道を下って久保地区の井口一実さん宅の前に出ました。そこには大きなヤブツバキの根元に5番の石仏がありました。そこから細道を県道に出て久保公民館前に安置されている6番・7番、寺西光朝さん宅横8番、井戸本福市さん宅横9番と、少しの下り道をのんびりゆっくり歩きました。仲宮長岡さん宅前の上灘川に架かる橋を渡り、川向こうのほたる護岸沿いの畑中の道を歩いて、両谷に通じる坂道を登りました。登りきった峠には東谷の墓地があって、小さなお堂がありました。ここからの眺めは東向うに仲宮や久保辺りの田園眺望が開け、特老夕なぎ荘も直ぐ下に見え、反対側の斜面にへばりつくように東谷の集落が朝日に輝いて美しく見えました。この墓地の二ヵ所に10番、11番と12番、13番、14番の石仏が石屋根を配して安置されていました。
 私たちは墓地に通じる坂道を東谷の川沿いの道に出ました。途中畑で仕事をしている木曽博機さんや谷江共一郎さんの奥さんと言葉を交わし、宮田英雄さん宅まで歩を進めました

  「お二人の 捜索成果 明らかに しようと巡る 石仏遍路」

  「長年の 風雪耐えて 鎮座する 石仏の顔 まるで微笑み」

  「阿洲から 始まる遍路 石仏に 寺の名前や 本尊掘りて」

  「誰たちが どんな思いで 置いたのか いにしえ人を 垣間見ながら」

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