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○世界遺産を巡る旅(その4)

 各地には○○小富士とか○○銀座とか、○○小京都といわれる山や商店街や地域が沢山あって、飛騨高山も小京都言われている全国に知れた名だたる観光地です。江戸時代に天領だったこともあって、九州日田豆田の古い町並みと飛騨=日田、天領=天領までよく似ていて、歴史の好きな人には魅力のある所です。京都の流れを汲む夏の祭りもいつかは見たいものだと思いながら、後ろ髪引かれるつもりで朝の散策を終え、バスに乗り込んで次の目的地木曽路・妻籠宿へ向かいました。
 前日は雪の中とはいいながら、天候に恵まれ予想された吹雪や寒さもない絶好の天気で、順調に世界遺産を巡る旅を続けていましたが、二日目は一転して昼食会場となる下呂の舞台峠辺りで雨になってしまいました。舞台峠では下呂地方の郷土料理を食べましたが、前日の昼食といいこの日の昼食といい、食べきれない程の料理で、旅先で運動量が少なかったためか、完食するのに時間がかかりました。
 仲間たちはそこそこでお土産を買っているようでしたが、「七億円の扇子」という遊び半分の玩具が話題になって、私も講演材料として使うため370円を出して「七億円の扇子」を買い求め、バスの中では大いに盛り上がりました。

妻籠宿の町並み

 

 バスは参加者のサービスを平準化するため、前日は一番前の席に座っていましたが、二日目は一番後ろの席付近になりました。13人の私たちのメンバーは相変わらずバスの中や行く先々で賑やかに会話し、ツアーのリードに一役買いました。妻籠は長野県のはずれにあります。何年か前友人大目さんの招きで木曽福島へ講演に来た折、木曽福島宿や馬籠宿を案内してもらいましたが、今回行く妻籠宿は初めてとあって楽しみでした。中津川を経て旧中仙道沿いの妻籠宿へ到着したのは昼過ぎでした。駐車場にある休憩所で置き傘を借り、妻籠の町並みを散策しましたが、月曜日の雨模様もあって人通りも殆んどなく散閑としていました。しかしこれもまた風流とばかりにお店の軒先で冷やかしたりしながら存分に楽しみました。
 その後前日走った名神高速道路に乗って一路伊丹空港へ到着し、空港で一服したあと最終便で松山空港へ帰り、楽しい思い出を手土産に少し激しい雨の中での散会となりました。

 私たちの21世紀えひめニューフロンティアグループの世界遺産を巡る旅も、来年は九州鹿児島屋久島へ行くことが、このツアーの最中に開いた総会で決定しました。目的地が遠いため多分2拍3日の旅になるし、費用も少し高くなるものと思われますが、今から勘弁して費用を貯めて元気で参加したいと思っています。今回の世界遺産を巡る旅も、この歳になって今更と思われがちですが、私の知的レベルを高めるのに大いに役に立ったことは言うまでもありません。私はグループの代表でリーダーですから、メンバーのレベルアップに貢献しなければならないと意気込んでいますが、はてさて参加した他のメンバーは、どれほど知的レベルを上げたことでしょう。それでもかつて若い頃無人島に挑む少年のつどいや丸木舟建造航海、竪穴式住居製作、空からふるさとを見る運動、フロンティア塾、モゥーモゥー塾、ブーメランテーブル製作などの活動を企画実践してきたメンバーたちの、その後の消息や生き方が確認できたことは良かったし、これから始まるであろう老後の生き方に先輩として多少のアドバイスが出来たことは嬉しい限りです。

 追伸
 今朝ブログを開くと、かつて無人島に挑む少年のつどいで、由利島キャンプに参加した新田優子さんから私のブログを懐かしく読んだと嬉しいメールが届いていました。優子さんはお医者さんと結婚して兵庫県に住んでいて、今は年賀状程度のつきあいですが、幸せに暮らしているようです。一度お会いしたいものです。

  「小京都 言われるだけの ことはある 飛騨高山の まちを訪ねて」

  「孫土産 さるぼぼ買って 妻土産 柿の葉鮨と おへつをかいて」

  「旅はいい 気心知れた 人たちと 世間話に 花を咲かせて」

  「七億を 三百七十 円で買う これもお遊び 話のネタに」

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人間牧場

○世界遺産を巡る旅(その3)

 2m近い雪に埋もれた合掌造りの中でも荻町集落は世界遺産の名前に相応しい見応えのある集落です。私たちの一行は明るいうちに駐車場~であい橋~明善寺~和田家と荻町集落の中を、滑りこけないよう足元を気にしながらゆっくりと散策しました。重文の指定を受けている和田家の前に来た午後5時半頃、ライトアップが点灯し始め、白い雪の中にひとつ二つとオレンジ色の明かりが灯り、合掌造りの家々が白い雪の中に柔らかく浮かび上がりました。世界遺産を巡る旅を思い立った私たちが、2年がかりで見たいと思っていた思いがやっと叶った瞬間でした。雪の中をうごめく人の群れも、お目当てのライトアップされた合掌造りのそこそこの場所にに陣取って、しばし幽玄の世界を楽しんでいるようでした。
 ライトアップした荻町の合掌造りは、先月訪ねた時とまた違った趣でした。前回昼食をご馳走になった岩本さんのお姉さんが経営している「ゆきんこ」というお店にあいさつに伺いましたが、お姉さんは私のことをちゃんと覚えていてくれて、一昨日そのことを岩本さんや知り合った村議会議長さんからも嬉しいメールとして届きました。

 

ライトアップされた合掌造り

 

 先月は十右エ門というかん町にある合掌造りの民宿に泊まりましたが、今回は愛媛新聞旅行のツアーということもあって、泊まる場所は遠く離れた飛騨高山のひだホテルプラザなので、私たちの一行は午後6時15分に後ろ髪引かれる思いでバスまで戻り、高速道路を乗り継いで高山市内まで戻りました。ホテルは高山でもいち二を争うような近代的なお宿でした。私たちフロンティアグループはひとり2千円ほど上積みして別部屋に別料理を用意してもらい、総会を兼ねた宴席を持ちました。フロンティアグループのメンバーももいつの間にか歳をとり、佐々木さんはあと一年、豊田さんはあと二年、國元さんはあと三年すれば定年だそうで、残りのメンバーは既にリタイアして元気に何とか暮らしているようです。
 来年の事業安は千本桜の森づくり事業と世界遺産を巡る旅で屋久島、予算案は原案通り、役員改選は全員留任ということが全会一致承認されました。毎年のことながら昭和56年9月に21世紀えひめニューフロンティアグループを結成し、事務所を煙会所に置いて以来続いている出来事ですが、また新しいページに新しい出来事が加わりました。

  「灯が点けば ほのぼのとした 風景に 変わりて村は 人を迎える」

  「つり橋を 渡ればそこは 桃源郷 裸電球 ひとつ二つと」

  「滑こける 人の姿は 滑稽で 笑っていたが 俺も転げた」

  「日本の 行く先々で 目を見張る ような景色に 感嘆声を」   

飛騨高山の市内

 私は大野さん、田宮さん、佐々木さんと4人合い部屋でいびきのかきあいし、少々寝不足の一夜を過ごしました。朝起きて朝風呂に入り部屋に帰ったころ、ホテル12階の窓から雪に覆われた飛騨高山の街を見ました。その後飛騨の小京都といわれる上三之町の古い街中を散策散策したり、日本三大朝市といわれる朝市を見学して回りました。伝建地区の古い家並み、代官屋敷跡など思い出に残る風情でした。
 代官屋敷跡の門前で若き日の山岡鉄舟の銅像を見ました。鉄舟といえば勝海舟、高橋泥舟と共に三舟といわれた傑物です。わが家にも「この槌は宝打ち出す槌でなし のらくら者の頭打つ槌」という鉄舟の掛け軸がありますが、予期せぬ鉄舟銅像との出会いに少し心がときめきました。
 街歩きでちょっとしたハプニングがありました。町歩きの途中でみんなとはぐれ、北原さんと二人で縁起物の「さるぼぼ」を、民芸店で買い求めようと散策している途中、まだ開いていない蜂蜜を売る専門店の入り口で中を覗こうとした瞬間、硬く凍ったアイスバーンで足元を掬われ滑り転げてしまいました。持っていたカメラも無事、体も尻餅程度で事なきを得ましたが、笑うに笑えぬ失態でした。そういえば買ったばかりのアイゼンを使わず散策していました。大笑いです。

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○世界遺産を巡る旅(その2)

 名神高速道路は揖斐川、長良川、木曽川という美濃地方を流れる大きな一級河川を相次いで渡り、ジャンクションで大きく迂回して北陸自動車道へ入りました。北陸自動車道は長良川に沿って大小五十を越えるトンネルを抜けますが、途中刃物で有名な美濃関で一度降り、物産館で昼食を取りました。長良川舞茸わっぱ蒸し料理はとても豪華で美味しくみんな満足した様子でした。
 バスは再び北陸自動車道を走り、日本の高速道路で一番高い場所や、100mを越えるこれまた一番高い箸、それに10kmを越す長い長いトンネルを抜け、白川郷へ入ったものの一旦白川郷を通り越して、岐阜県から富山県に入り五箇山へ向かいました。菅沼合掌造り集落を車窓から眺めながらいよいよ世界遺産を巡る旅の始まりです。五箇山・相倉合掌造りは今回が初めてとあって期待をしていましたが、先月1月11日に白川郷の荻町合掌造り集落を見ているので、規模が小さいので少しがっかりしました。

菅沼合掌造り集落

 それでも雪に埋もれた相倉合掌造り集落内を、この日のために妻が買ってくれた新品の雪道用の靴に、松山空港で買ったアイゼンを着け、転ばないよう注意をしながら仲間と共に歩きました。雪は予想通り前日までの寒波で2メートル近くあり、駐車場の広場では小型の除雪機がフル稼働して雪を空高く跳ね飛ばしていました。相倉合掌造り集落を出て再び菅沼を通りましたが、既にライトアップするであろう集落を撮影しようとする人たちがあちらこちらにカメラの三脚を立て準備をしていました。
 1月10日講演を頼まれやって来た前回は、大阪から特急サンダーバードで金沢まで行き、白川村役場の岩本さんに金沢駅まで公用車で迎えに来てもらって白川郷入りしましたが、今回は講演の仕事ではないのんびりゆっくりバスの旅です。車窓に流れる雪景色は僅か20日ほどなのにどこか見覚えのある懐かしい光景でした。

 

相倉合掌造り集落にて

 

 せせらぎ駐車場にバスを止めましたが、既に何台ものバスが到着していました。無制限にバスを乗り入れさせるとだいい渋滞を起こすので、バスの乗り入れは抽選に当たった100台近くに制限されているようです。それでも1台50人としても5千人の人がうごめくのですから大変な人数なのです。庄川にかかった細くて長いであい橋をその人たちと列を成して歩き荻町集落へと入るのですが、この橋はとても趣きとスリルがありました。
 私たち一行は先ず名刹明善寺を目指しました。すでに夕闇が迫っていて、雪に埋もれ雪を被った山門や鐘楼はとても迫力があり、仲間たちもカメラでの撮影に余念がないようでした。その後重文指定の和田家付近までどちらかというと裏道をゆっくり歩き、ライトアップが始まる17時30分を待ちました。本当は一度20分かけて展望台へ行った方が荻町全体の様子が分かっていいのでしょうが、時間がないため残念ながら断念しました。

  「相倉 相を愛だと 勘違い 愛媛県人 ゆえの愛嬌」

  「庄川に 架かるつり橋 であい橋 一列並び アリの如くに」

  「友だちと 荻町合掌 雪道を 明善寺まで 歩き遍路で」

  「二度目にて 荻町様子 幾分か 分かり説明 得意になりて」

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人間牧場

○世界遺産を巡る旅(その1)

 世界中には私の知らない自然や文化といった世界遺産が沢山ありますが、日本にも知ってはいてもまだ行っていない世界遺産が数多く残っていて、一度は訪ねて見たいと思っているものの、小笠原のように余りにも遠過ぎて行っていない場所だってあるのです。
 何年か前、私が代表を務めている21世紀えひめニューフロンティアグループでは、世界遺産を巡る旅なるちょっと変わった旅をシリーズで計画、少しでも若いうちに少しでも世界遺産を見て、少しでも知的エネルギーを吸収しようとやり始めました。お陰様で広島原爆ドーム・安芸の宮島・石見銀山・熊野古道・平安遷都1300年にちなんだ奈良京都周辺の神社仏閣・姫路城などを順調に制覇して、今回は少し遠出の富山県五箇山と岐阜県白川郷の合掌造りを目指すことになりました。
 今回は雪の中でもあり遠出のため、愛媛新聞観光社のツアーにメンバー13人がまとまって応募しました。幸い2月5日(日)と6日(月)の2日間、合掌造りのライトアップという珍しいイベントに便乗することが出来、メンバー一同ワクワク・ドキドキしながらの参加となりました。

 今回のツアーは松山空港に集まり、飛行機で大阪伊丹空港まで飛び、そこからバスで名神高速道や北陸自動車道を乗り継ぎ、五箇山・白川郷へ入り飛騨高山で一泊、二日目には飛騨高山を見学した帰り道、長野県妻籠の古い町並みを見学後大阪伊丹空港を経て松山に帰ってくるという、少し贅沢な旅でした。
 私は先月岐阜県白川村の招きで新春講演会に参加したため、石川県金沢市から白川村に入り、白川村のご好意で白川郷荻町の合掌造りを見学し、十右エ衛門という合掌造り民宿に泊めてもらい、その余韻がまだ残っているこの時期の旅だったため、ライトアップなど違った味わい方が出来るという、大きな期待に胸を膨らませていました。
 今回のツアーに参加する2~3日前から日本列島はこの冬一番の寒波に見舞われ、沖縄を除いた全ての県庁所在地の最低気温がマイナスを下回るという寒さでしたが、二日目の6日はあいにく雨が降ったものの5日はこの上ない穏やかな好天に恵まれ、心配もどこ吹く風といったいい思い出を作ることが出来ました。

 私たちと同じように世界遺産白川郷のライトアップを楽しみにツアーに参加した人たちは総勢43人でしたが、その殆んどは夫婦か友だちとの参加で、私たちのようにグループでの参加は少なく、約三分の一強の勢力を誇る私たちのグループは大いに気を吐きました。
 私たちがツアーに参加した5日は愛媛マラソンの日で、私たちの仲間の浜田さん、近藤さん、真鍋さんなども参加したようでしたが、マラソンのことも気にしながら自宅を6時30分に軽四トラックで出て、コナンパーキングに駐車し、松山空港までリムジンで送ってもらいました。7時30分に空港ロビーにツアーに参加する人たちと共に集合し、添乗員の水田さんから色々なインフォメーションをしてもらいました。空港で雪道を歩くための滑り止めを800円で購入しました。雪の中へ行くため皆さんは予想以上の重装備で、まるで南極に行ったり海外旅行に行くのか?と見まがうほどでした。予定通り飛行機に乗り予定通り伊丹に着き、予定通り大阪ハトバスで名神高速を走りました。フロンティアグループのメンバーの中には久しぶりに会う人もいて、バスの中では大いに世間話に花を咲かせていました。

  「久方に 世界遺産を 巡る旅 仲間懐かし 話に花を」

  「ツアーゆえ 見知らぬ顔の 人多く どこか余所行き おすまし顔で」

  「元気かい 俺も元気と お互いが 近況伝え うとうとしつつ」

  「今頃は 愛媛マラソン 走ってる だろうと友の 姿気にしつ」 

 

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○この2日間世界遺産を巡る旅に出ていました

 この2日間、私が代表を務める21世紀えひめニューフロンティアグループのシリーズ行事である、日本の世界遺産を巡る旅に出かけていて、先ほど帰って来ました。空港では少し小腹が空いていましたが、妻から夕食を用意しているとの連絡があったため我慢して、10時頃帰宅して夕食を食べると、少し疲れが出たため、今日はブログの記事を書いていないのでどうしようか迷いましたが、結局は妻の勧めもあり詳しく書くのは明日にして、風呂にゆっくり入り安みたいと思います。お休みなさい。

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○下灘駅の快挙

 思い返せば27年前ですから、もう四半世紀も前の出来事でした。いつとはなしにアマチュアカメラマンの間で「日本で一番海に近い駅」という名前が、噂話程度あった下灘駅のプラットホームを舞台にして、夕焼けプラットホームコンサートを思いつきました。フーテンの寅さんシリーズ「寅次郎と殿様」の映画ロケ地としてワンカットシーンに登場していたものの、まだ当時はそれ程知名度は高くありませんでしたが、約千人を集めたコンサートはテレビで取り上げられたこともあり、下灘駅はバックに沈む夕日と共に一気にスターダムに上ったのです。その後夕焼けプラットホームコンサートは多くの心ある人たちに受け継がれ、紆余曲折や様々な話題を提供しながら今日まで続いているのです。その間、青春18キップのキャンペーンポスターに3度も取り上げられ、今では日本全国行きたい駅の常連として名を連ね、何もない無人駅ながら多くの若者たちが訪ねてくれているのです。

 この駅に来る人たちの心を慰めようと、地元の人も清掃や生け花、掲示板、落書き帳設置などを通して惜しみない支援をしてくれ、また最近はノジ菊やコスモス等を植栽し癒される駅となっているばかりでなく、演劇やシンポジウムフォーラムなどの交流イベントを次々に企画実施し、下灘駅そのものをフィールドミュージアムにしようと運営委員会が立ち上がり頑張ってくれているのです。
 その功績が認められて、下灘駅フィールドミュージアム運営委員会がこのほど、第7回JTB交流文化賞を、また美化活動に貢献した伊予農業高校が環境大臣表彰をそれぞれダブル受賞しました。草創期にいささかなりとも下灘駅にかかわった私としてこの快挙はこの上ない喜びであり、これからの発展を期待しているところです。

2月3日付愛媛新聞8面に紹介された記事
 こうした活動は、活動主体であるメンバーの虫の目的な元気もさることながら、鳥の目的に方向性を決めてメンバーを誘導する指導者の存在が必要です。表彰はそのプロセスを支える大きな活力ですが、指導者は次なる目標を掲げて難易度が次第に高くなるハードルを用意して、それらを越えて行かなければならならず、活動はまさにエンドレステープなのですから、クリエイティブな指導者のバトンタッチも必要不可欠なのです。
 双海町が伊予市、中山町と合併して7年が過ぎました。一方では下灘中学校が廃校になって双海中学校が誕生したり、多少の右肩下がりを寂しく言う人もいますが、今回の快挙は嘆くよりやれば出来るという大きな励みになったことは事実です。これからも地域の自立に向けてお互い頑張って行きたいと意を新たにしました。
  「何もない 無人の駅で コンサート 四半世紀前 よくもやったな」
  
  「心ある 人がバトンを 受け継いで ここまで来たか これから先も」

  「シグナルを 出す人なけりゃ 続かない 黒子に感謝 次は何する」

  「表彰を 素直に喜び おめでとう メール次々 嬉しいですね」

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○花束を貰うなんて

 昨日は節分でしたが夕方豆まきをする暇もなく、今治市菊間町から夜の集会での講演を頼まれていたので、夕闇迫る海岸国道196号線を走り菊間町を目指しました。館長さんの電話での話によると、2月3日は厄除けのお寺として知られる菊間町にある遍照院の縁日で、周辺の道路が交通渋滞をするかも知れないというので、海沿いにある海賊うどん屋付近で午後6時に待ち合わせし、裏道である農面道路を走ろうという相談が出来ていたのです。私は午後5時40分にうどん屋の前に到着しましたが、館長さんは既に田舎のオープンカーで到着して車の中で待っていました。
 聞けば昨日の寒さの影響でしょうか、多少平常よりは車の交通量が多いものの混雑するほどではないと判断し、そのまま遍照院の前を館長さんの車について走りました。遍照院付近では交通整理をするガードマンが道沿いに何人も立って交通整理をしたり、境内周辺には出店も出て裸電球の光が鈍く光っていました。

 太陽石油のコンビナートを通り過ぎ、旧大西町はもうそこという所に目的地の亀岡公民館はありました。特急しおかぜに乗って岡山や高松へ行く時、列車が対向するため時々止まる亀岡駅の直ぐ裏なので、列車の停車や発車する音が、案内された公民館の応接室の中まで時折聞こえてきました。
 教養部長さんや館長さんたちと開会までお茶を飲みながら雑談に耽りました。夕食をとっていなかったため、少し小腹が空いて出されたお茶請けの美味しいロールケーキまで食べてしまいました。やがて何人もの顔見知りの方が応接室にごあいさつに見えられ、中には市会議員で私の町の上田さんを知っている人まで来られました。
 昨日は沖縄を除いて日本中の県庁所在地は全て氷点下以下という珍しい大寒波に見舞われ、日本列島がまるで冷蔵庫の中に入っているような寒い日でしたが、会場の席は満席で、暖房に加え幾つかのストーブが用意されていたため、演台で立って話をするとまるで汗ばむほどの暖かさでした。昨日のテーマは「まちづくりと子育て」という少し難しいタイトルでしたが、持ち前の持論を熱弁で話しました。反応もよくあっという間に90分を終えました。

贈られた花束

 

 講演と質疑が終って講師席に戻ると、立派な花束を贈られました。今年になって始めてのサプライズに多少照れましたが、講演をしてくれた人に花束を贈ろうなんて、粋なことを考えて花束を用意した人は、一体どなたのでしょう。そのことを考えるともう舞い上がってしまいました。
 寒い夜道を1時間半かけて走り、午後10時30分自宅に帰りましたが、玄関先へ迎えに出た妻は花束を持って帰った私を見て驚き、「明日の朝ご好意を玄関先に飾ろうね」と言ってくれました。長年講演等で各地の集会を訪ねると、懐かしい人に再会したり、その後お手紙をいただいてお付き合いしたり、また縁もゆかりもないのに、特産品を送っていただいたりすることがあります。花束をいただくこともたまにありますが、やはり嬉しいものです。
 私のささやかな話でも聞きに来てくれる人がいるし、熱心にメモを取る人だっているのです。その人たちのためにも更なる研鑽を積んで、いいお話が出来るようにしなければと、進化の誓いを新たにした夜でした。

  「花束を 美女から贈られ 舞い上がる 年甲斐もなく 顔を赤らめ」

  「誰だろう? 粋な計らい する人は 思い巡らせ ほのぼの帰る」

  「節分に 厄除け飾り 飾ったが 早速縁起 舞い込み福が」

  「厄除けの 寺前通る 車中にて こころで祈る 家族安全」  

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○今日は節分

 節分といえば立春の前の日と思われがちですが、立春、立夏、立秋、立冬という季節の変わり目の前日に当たる日ですから年に4回あって、そのことを知っている人は意外と少ないようです。私が子どものころはおやつ等殆んどなかった貧しい時代でしたから、節分の日にホーロクという素焼きの大きな鍋の中に大豆を入れ、豆まき用の豆をパリパリ柴で混ぜて煎り豆を作ってもらうのがとても楽しみでした。母親が煎ってくれた豆は一升升に入れて神棚に供えられ、夕方外が暗くなると、「鬼は外、福は内」など大声を出して辺り構わず撒き散らしました。鬼も福も架空のものなので、その存在に子ども心の疑問を持ったりしましたが、自分の歳の数+一つなどと決められていたため、少し余分にごまかして食べたりもしました。自分の家で炒った豆は少々硬かったようですが、一生懸命食べていました。大人たちは豆のことをまめに生きるようにとか、豆は魔を滅するとか色々な理由をつけて私たち子どもに説明していたようです。

オニグイの節分飾り

 節分といえば私たちの地方ではオニグイという刺のあるタラの木を10cm程度に切り、四つ割りにして、割った木片の上に切り込みを入れ、そこにパリパリ柴を挟み込んだものを厄除けのために玄関口や神棚、仏壇、かまど、トイレ等に置いて無病息災を祈る風習があるのですが、今ではその風習もわが家のように年寄りのいる家庭では残っているものの、殆んど廃れてしまっているのです。
 幸い私は賞味期限の切れかかった古いタイプの人間なので、今年も裏山に生えているオニグイの木を取りに行って節分飾りを作ることにしました。最近はオニグイもタラの芽と称する山菜で人気が高く、辺り構わず取られるため、おいそれとは見つからないのです。幸い私は人の気が付かない場所にあることを知っていて、日ごろの散歩の途中で目をつけていたのです。

 今朝は散歩に鎌を持って出かけました。そして山の斜面に降りて頃合なオニグイを1本ゲットして持ち帰り、庭先で鋸で小切りして、鎌で四等分に割って切れ目を入れ、パリパリ柴を挟んで仕上げました。そして親父の隠居と私の本宅のあちらこちらに供えて回りました。
 今朝新聞の折込に、明日シーサイド公園で節分祭りというイベントをする予告チラシが入っていたので、じゃこ天のお店と特産品のお店に飾るものも余分に作り持って行ってあげました。ついでにこのところの寒波で値上がりしていると聞いていた大根等も、家庭菜園から引き抜いておすそ分けしてあげました。御礼にといつもながらじゃこ天のお店ですり身を沢山いただきました。今夜は鍋物と天ぷらにでもして楽しもうと思っています。お陰様で今日は思わぬすり身の福が舞い込んできました。

  「オニグイを 山より切り出し 節分の 飾りを作る 古き風習」

  「オニグイの 飾りのお陰 福の神 すり身を貰い 夕食楽しみ」

  「今晩は 六十八個 豆食べる 挑戦したいが 残念ながら」

  「遍照院 厄除けの寺 偶然か 今夜その町 講演予定」

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○いっぷく亭にて

 伊予市の中心市街地灘町に、「いっぷく亭」という立ち寄り集会所があります。軒を並べた集会所界隈の商店街はかつて多くの買い物客で賑わったそうですが、色々な活性化の試みはするもののご多分にもれず、今は少し閑散として寂しい感じの否めない商店街なのです。
 この商店街を守っている商業協同組合の徳本理事長さんは造り酒屋の社長さんで、合併前の旧伊予市、旧双海町の時代ひょんなことから知り合いとなり、お互い何かにつけて付かず離れずの関係を保っていますが、徳本さんの周りには本屋、肉屋、写真館などの比較的若い大将が集まり、色々と知恵を絞って活動しているようです。その際たるものは県下のトップを切って行なわれる土曜夜市や五色姫復活祭、ひな祭り、住吉祭りなどですが、伊予駅前に道の駅的な交流拠点「町家」を造り運営も手掛けているのです。

 徳本さんは研究熱心な博学な方で、本来市役所がやらねばならない限界集落問題や、移住促進等にも目を向けて勉強会を立ち上げ、全国の先進地へ視察に行くなどしていますし、空き店舗を利用した「いっぷく亭」という立ち寄り集会所を造り、谷岡さんたちとワイワイガヤガヤやっています。私も何度か徳本さんに誘われて「いっぷく亭」でお話したことがありますが、昨日はその「いっぷく亭」でまちづくり講演会をして欲しいと頼まれ出かけました。昨日は朝から北西の季節風が吹き荒れ、時折みぞれ交じりのしぐれも降るあいにくの天候でしたが、狭いながらも用意したパイプ椅子が満席になるほど、沢山の方に集まっていただき、午後1時30分から一時間半に渡って私の四方山話を聞いてもらいました。
 私も色々な所へお話に行きますが、昨日のような額と膝をつき合わせるおばちゃん相手の講演会は大好きで反応も上々、時間を短く感じるほど大いに盛り上がりました。玄関先の窓越しからは行き交う通行人が見え、その通行人も講演会場内の楽しそうな雰囲気を珍しそうに覗き見しながら通り過ぎていました。

いっぷく亭での講演会

 

 講演終了後は谷岡さんの指図で意見交換が行なわれ、前回話した私の話に触発されて「ハガキを書くようになった」とか、「今日の話で自分にも何か出来そうな予感がした」などの意見が寄せられました。合併し新生伊予市が誕生してから早くも7年が終ろうとしています。集まった人に手を挙げてもらったところ、約半数もの人が私の顔を知っているのですから驚きです。徳本さんから昨日の講演会の手応えがいいようなので、来年度は春・夏・秋・冬と都合4回講演して欲しいと、昨晩お礼の電話と共にオファーがかかりました。私のような何ら値打ちのない人間にも、声をかけてくれるのですから、有難いと思い快く承諾しました。
 「合併はひとつもいいことはない」という言葉を巷のあちこちで耳にします。しかしもう後戻りできないのですから、一人ひとりの市民が合併したまちをいかにいいものにして行くか考え、行動しなければならないのです。私は合併したお陰で、伊予市の徳本さんや門田さんなどと一緒の市民になり得をしたと思っています。これからもたくさんの市民と知り合いになり、いい市民になるよう努力したいと思っています。

  「いっぷく亭 外は大荒れ 風吹くが 中は和やか 楽し雰囲気」

  「嬉しいね 寒いながらも 集まって くれる人あり まくりて話す」

  「話し聞き ハガキ始めた 言う主婦や 元気貰った 声が寄せられ」

  「面白き こともなき世と 言うけれど 考え一つ 面白くなる」  

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○学校が間もなく廃校に

 数日前大洲市立櫛生小学校の教頭先生から、「今年の三月末で学校が廃校になります。ついては最後のPTA講演会に来て講演してほしい」と電話がありました。この学校の森田校長先生は私の町の出身だし、教頭先生も前任校はわが町の下灘小学校だし、断わる理由もないので喜んでお引き受けすることにしました。
 講演会は午後2時40分からなので、昼食を終えてしばらくしてから家を出て、久しぶりに海岸国道378号、通称夕やけこやけラインをのんびり走りました。昨日は伊予路に春を呼ぶといわれる椿さんの縁日最終日で本来なら寒風吹きすさぶころでしょうが、気温は寒かったものの春近しを予感させるような穏やかな日和で、伊予灘の海も凪いで、長浜を過ぎると遠くに伊方原子力発電所の姿が見え、今更ながら原発の身近に住んでいることを実感しました。
 須沢を過ぎて櫛生の集落に入り、かつて講演で訪れたことのある公民館の前を通り過ぎ、川に沿って少し奥に入ると学校の建物が見えてきました。長浜の町に入った所で教頭先生から携帯電話が入り、「学校では縄跳び大会をしているので、校長室で待っていてください」と連絡があったので、校門近くに駐車して学校本館に入りました。

今年度で廃校が決まっている櫛生小学校

 

 校長室は内鍵がかかって中へ入ることが出来ませんでしたが、間もなく校務員さんが帰って来て内鍵を開けて校長室の中へ案内してくれました。お茶をいただきながら、校務員さんとお話をしました。私の話を聞いたことがあるとのこと、その時も木になるカバンを持っていたとのことなどを話していると、教頭先生が帰られ、そのうち校長先生も帰られて懐かしい話をしながら、それとはなしに子どもの数が10人、保護者家庭は8人、学校はこの3月で閉校などの話を聞くことができました。教職員も5人と小さな学校でしたが、学校が消えてなくなるとは思えない実に明るい雰囲気で、多少安心して講演会場へ入りました。
 会場には15人ばかりが集まり、和気あいあいでした。私に与えられた時間は約一時間でしたが、「子育ての失敗談」という面白い演題に沿うように面白い話をさせてもらいました。
 来年度から子どもたちは長浜の統合小学校にスクールバスで通うそうですが、学校がなくなると地域が寂れるという心配の声が多く寄せられているそうです。でも殆んどの人はこれも時代の流れと受け止め、他地域のように統合や廃校に抵抗することもなく今日を迎えているようでした。

 私たちの身の回りには少子化と高齢化、過疎化の影響で縮む社会の荒波が押し寄せてきています。それはこれまでの成長が止まり、下り坂を一気に転げ落ちるような大きな不安なのです。しかし縮む社会は田舎嘆きの十ヶ条のように工夫や努力をすれば解決できる問題ではないのですから、不安を通り越して諦めにも似た心境です。
 人間も地域も希望を失うと閉塞感が漂い、容易なことで立ち直ることは出来ません。学校が閉校になろうとしているのに学校の跡地利用についても、何ら明確な方針も示さない行政のやり方は、やはり大きな疑問が残るのです。地域の自立や自発を声高に述べてみたところで、このままほおっておくと、地域は完全に希望を失い廃墟と化すのです。これが近代化したと世界に誇る日本の姿でしょうか。「小学校は歩いて行ける距離」として明治以来地域の拠点となった学校が今消えようとしています。校庭に学校の歴史を見続けてきた学校のシンボルと思える楠の木が、印象的に立っていました。「学校とは木が交わって学ぶ」、「家は木の癖組み」など、誰かに教えてもらった言葉を思い出しながら最後の学校を後にしました。

  「来年は この学校も 消えるのか 落胆しつつ 楠の木見上げ」

  「学校は なくなるけれど 人は住む へこたれないで エールを送る」

  「学校は 木が交わって 学ぶそう コンクリートの 校舎空しく」

  「終わりなら 始まりだとも 思えよと ポジティブ生きる 方法学べ」 

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