人間牧場

○せいよ再発見地域づくりグランプリ講演会・パネルディスカッション(その2)

 講演会の講師は地元学の第一人者吉本哲郎さんでした。吉本さんは熊本県水俣市役所に勤務され、在職中から国土庁地域振興アドバイザーや熊本大学非常勤講師などをされていましたが、2008年に退職してからも精力的に活動しているようです。
 私と同じような経歴を辿り、私と同じような活動をしていますが、私が地域づくり研究会議の代表運営委員をしていた頃、年次フォーラムに招いた折知り合い、その後出会いは殆んどないものの、お互いがお互いの存在や活動を認め合う数少ない心を許しあえる仲間のひとりなのです。

 地元学ネットワーク主宰という肩書きを持つ吉本さんは、水俣病とう過去の忌まわしい事実を受け入れた上で、水俣市を生まれ変わらせようと頑張った人です。この日はスライドを使い、分かりやすく参加者に語りかけるような彼独特の語り口で、講演というよりは議論のように約一時間話をされました。スライドにちりばめられた写真や言葉一つ一つに重みがあって、私も久しぶりにいい勉強をさせてもらいました。お土産に全紙大の大きな資料をいただきましたが、地域づくり応援隊の富田さんや支所の松本さんに差し上げたいと思っています。

土俵上でのパネルディスカッション

 

 講演が終わると土俵上でパネルディスカッションが始まりました。大相撲呼び出しに扮した乙亥会館の富本武夫館長さんの先導を受け木の音と共に入場し、土俵の上に設えられた力士用座布団に座っての討論です。ファシリテーターは前田審査委員にお願いしていたので、言われるまま私、門田さん、吉本さん、三好市長さんの順でそれぞれのテーマに沿って、ショートコメントのお話をさせてもらいました。
 こんな立派な土俵に上がることすら滅多にないのに、土俵の上に座って議論する粋な計らいは冥利に尽きる感じがしました。

 私は親類の従兄弟の葬儀が13時30分から伊予市ルミエールであるため、用意していただいた昼食も食べず、野村から内子まで出て、内子から伊予まで高速道路を走り、10分前にルミエールに着くという忙しい離れ業で、何とか故人や親類への面目を保つことが出来ました。「お父さんそんなことしていたら、親の死に目にも会えん」と妻を呆れさせましたが、世の中は前向きに生きていれば何とかなると、思った次第です。吉本さんが別れ際、「あんたも若くないのだから、体にはくれぐれも気をつけてね」と、握手しながらいたわりの言葉をかけてもらいました。吉本さんとは同じくらいの年齢とお見受けしましたが、私も人から見れば吉本さんのように、少し老けた(吉本さんには失礼)感じに見えるのでしょうか?。いや私は若松といわれるようにまだ若い!とも思いました。

  「久方に 出会った友と 旧交を 温めながら 若い日語る」

  「朴訥と した口調にて 淡々と 語る講演 何ともほのぼの」

  「土俵上 力士座布団 座りつつ パネル討議に 花を咲かせる」

  「鼻水が 出るほど寒い 会場で 思いを語る 熱気ムンムン」  

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人間牧場

○せいよ再発見地域づくりグランプリ(その1)

 3年前西予市より、「せいよ再発見地域づくりグランプリ」というコンテストの審査委員を、愛媛新聞の門田さん、邑都計画研究所の前田さんと私の3人で引き受けました。平成21年度は「祭り」、平成22年度は「食」、平成23年度は「地域づくり活動」とテーマを変えながら、市内の団体や個人から応募のあった事例について審査を行なってきました。
 過去2年間の実績を踏まえ、今年度は応募24団体の中から第一次審査で選ばれた11団体に集まってもらい、昨年末12月14日にそれぞれの団体の代表者からプレゼンテーションを聞き、それぞれの団体の代表者も審査に参加する新しい方法で2次審査を行ないました。その結果グランプリ1団体、準グランプリ2団体、審査員特別賞3団体の計6団体が選ばれました。

 一昨日その表彰式と記念の講演会、それにパネルディスカッションが西予市乙亥会館で行なわれました。8時30分までに会場入りしなければならないため、家を朝早い7時前に出て、双海~中山~内子~肱川~野村を通って、ほぼ予定通り乙亥会館へ到着しました、乙亥会館は昨年11月に開かれた乙亥大相撲を松本小番頭さんと二人で見学に行き、大相撲横綱白鵬や大関琴欧州などを見た馴染みの場所なので迷うこともなく一発でした。この日の野村盆地は放射冷却現象による白い霜が降り注ぐ寒い朝でした。東京の両国国技館を模して造ったという乙亥会館は、天井が高い体育館のような造りをしているし、あいにく暖房が故障というアクシデントに見舞われ、まるで冷蔵庫の中のような寒さでしたが、向う正面の座席を使った会場設営からあふれた参加者が隣の席に陣取るほど沢山集まって、まるで大相撲のような盛り上がりでした。

せいよ地域づくりグランプリ表彰式

 

 表彰式は審査委員長を務めた私がマイクで、審査員特別賞の「卯のほたる実行委員会」、「エコグループたんぽぽ」、「ごるぽっこ」の順に受賞団体を発表し、吊天井の下にある土俵の上で、まるで大相撲の表彰さながらに、市長さんから表彰状が手渡されました。ついで準グランプリの「筝・絹の会」「宇和わらぐろの会」が表彰され、いよいよグランプリ受賞団体の発表となり、「川津南やっちみる会」が晴れのグランプリを受賞し、賞金10万円を獲得しました。
 ついで「川津南やっちみる会」の戎さんが土俵の上に立って、日ごろの活動をスライドで紹介しながら弁舌巧みに発表しましたが、審査の時のプレゼンテーションといい今回の発表といい、とても素人とは思えないほど堂々として、皆さんの受賞納得となったようです。

 その後私も審査委員長として土俵に上がり、審査の経過や受賞団体の特徴、今後の活動への注文等を、与えられた15分ばかりの時間かいつまんでお話をさせてもらいました。「西予市は宇和町、野村町、城川町、三瓶町の5町が合併して8年前に誕生しました。海抜ゼロメートルの海岸から標高1400メートルの高知県境にまたがる、広くて高低差の大きい町となりました。それぞれの旧町の個性ある特徴はそのまま合併後の西予市に引き継がれていますが、せいよ再発見地域づくりグランプリ事業を通して見えてきた。輝きの部分は県内はもとより全国的に見ても素晴らしい誇りであり、大いに発展伸張させなければなりません。それと同時に見えてきた高齢化や少子化、限界集落等の影の部分も意識しながら、住民の自立に向けた協働と参画のまちづくりを力強く進めて欲しいと願っています。
 西予市が名乗りを上げているジオパーク構想も期待の持てる将来への構想であり、是非実現して欲しいと願いつつ、簡単ですが講評に変えたい思います。三年間お世話になり、ありがとうございました。」と締めくくりました。

  「三年間 審査のために 西予市へ バランス取れた いいまちですね」

  「合併後 着々成果 出している 首長リード お見事見事」

  「グランプリ 取った川津の 南地区 やっちみる会 自信溢れて」

  「嘆くより やるべきことを しっかりと やれば成果は ついてくるもの」   

 

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人間牧場

○飛び出す公務員(その2)

 1月28日の土曜日は、松山市内のあちこちで色々な集会が持たれていました。えひめ地域づくり研究会議恒例の年次フォーラムもその一つで、研究会議の運営委員をしている松本さんたち友人はそちらへ出席し、袂を分かつ格好となりました。私も4年前まで研究会議の代表運営委員をしていた義理もあって、そちらのフォーラムへ出席すべきでしたし、多少気になっていましたが、案内は先着順なので飛び出す公務員でのゲストコメンテーターを頼まれていたので、そちらへの出席となりました。地域づくりのこれらの集会は膨らんだ風船みたいなもので、対象となる参加者が同じよう顔ぶれのために、どちらかが膨らむとどちらかが萎む力学が働くので、研究会議の案内が多少遅かったり、強力な誘導をする人が少なかったため、飛び出す公務員のプログラムやパフォーマンスメンバーの興味もあって、明暗を分ける形となってしまいました。

野志松山市長さんと

 

 飛び出す公務員には、今話題の古川佐賀県知事さんも見えられるとあって、中村愛媛県知事さんや野志松山市長さん、井原市国中央市長さん、白石松前町長さんに加え、全国の首長さんも出席されるなど豪華な顔ぶれとなりました。別にこの人たち全てが偉い分けではありませんし、へつらうことはありませんが、日ごろは雲上人でこの人たちとお目にかかる機会が少ないので、私たち地域づくり人にとっては、絶好の名刺交換の機会となりました。
 私くらい長い間地域づくりに関わっていると、それら首長さんも親しくなっていて、無位無官なリタイアして値打ちの殆んどない私にでも気軽に声をかけてくれるのですから有難いものです。野志松山市長さんは南海放送在職中に人間牧場に来ているし、白石松前町長さんに至っては、ご自宅に招待されて美酒を味わっているのです。また中村愛媛県知事さんに至っては松山市長をしていたお父さんと親子二代に渡ってご厚誼をいただいているのです。

 この日は、かつて公民館がご縁でわが私設公民館煙会所を訪ねたことのあるまんのう町の竹林さんや、私のことを雑誌に記事として書いてもらった椎川総務省自治財政局長さんにも、久しぶりにお目にかかりました。ゲストコメンテーターとして発言した私の話を聞いて首長さんから早速口頭で講演を頼まれたり、まあ初期の目的は大いに達することが出来ました。
 この日司会進行をした県庁の真鍋県民活動推進課長さんや、中心になって運営した県民活動推進課の河上さん、地方局地域政策課の前神さんの奮闘ぶりも見事で、飛び出す公務員として大いに気を吐いていたようです。
 公務員が飛び出しただけで地域がよくなるほど甘いものではありません。でも飛び出す勇気を持った熱い人がこんなにいるのですから、日本は少しずつ替わるはずです。私のような田舎町の公務員でもその気になってやれば、町が変わったのですから不可能ではないのです。一転突破主義で大いに頑張って欲しいと念じながら、心を熱くしして会場を後にしました。

  「飛び出して 何をするかが 問題だ やる気になれば 一つや二つ」

  「久しぶり 握手求める 首長さん 私のように 値打ちなくても」

  「なせばなる 一点突破の 気概持つ さすれば人は ほおっておかない」

  「人生は やる気になれば 面白い 公務員でも 何か残せる」

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人間牧場

○公務員が変われば日本が変わる(その1)

 総務省自治財政局長椎川忍さん(地域に飛び出す公務員ネットワーク代表)の発案で公務とは別に、一般住民として役所を飛び出して地域で様々な活動を行なう公務員のネットワークが2008年10月にスタートしました。意を同じく仲間として、そんな公務員の活動を応援しようと39人の首長が発起人となり、住民の協働や新しい公共の実現を目指して、2011年3月17日に設立されたのが「地域に飛び出す公務員を応援する首長連合」です。
 そこで、飛び出す公務員を応援する首長が、「坂之上の雲のまち四国松山」に大集合し、初の「地域に飛び出す公務員を応援する首長サミット」を開催しました。首長同士が顔を合わせ、語り合い、思いを共有し、地域に飛び出す公務員の応援策を考え、首長と職員が交流する場を設けました。また飛び出す公務員のための「地域に飛び出す公務員セミナー」もあわせて開催されました。

 そんな公務員セミナーの「首長&公務員飛び出す甲子園」という研修会に、ゲストコメンテーターとして招かれました。コメンテーターには首長代表として熊本県合志市長の荒木義行さん、公務員代表として香川県まんのう町職員の竹林昌秀さん、元祖愛媛の飛び出す公務員として人間牧場主の私の3人ががそれぞれ選ばれたようです。
 ~首長&公務員、飛び出す甲子園には、滋賀県湖南市の谷畑英吾市長さん×井上利和さん(職員)、千葉県酒々井町の小坂泰久町長さん×岡野義弘さん(職員)、佐賀県の古川康知事さん×岩永幸三さん(職員)がエントリーされ、開会と同時に「あなたは残された時間が後半年だとすると何をするか?」というお題が発表されました。即興で順番にそれぞれのチームがそれぞれの立場で1チーム10分間の持ち時間を自由に発表するのです。

 娘の治らない病気を治すためにデンマークへ行きたい、失敗の十か条を本にして出版したい。失敗から学ぶことを新任職員のためにテキストを作りたい、自分の歳の数だけ外国へ行きたい、過去にも未来にも行けないので現在いける場所を探して行きたい、全国に知名度が上がるよう発信したい、人づくりをした、飛び出す公務員10人を10倍にした、動物と共生する町をつくりたい、メタボ解消を実践して模範になりたい、歩いて日本一周をしてみたい、笑顔のまちをつくりたいなどなど、少し趣旨から逸脱した個人的なものまで、さすが飛び出す公務員と応援する首長だけあって、二人の掛け合い漫才は大いに会場を沸かせました。コメンテーターは荒木市長さん、竹林課長さんの順に話され、最後を消すとコメンテーターの私が締めくくりました。私はこれまで大いにはみ出した公務員生活の中でも飛び切りはみ出した、赤字になったら黒いボールペンで書くと議会で答弁したこと、町の知名度を上げるため合併もしないのに町名変更を行おうとして町長がリコールされたこと、毎日3時間の掃除を12年間行なったこと、電光掲示板をつけて歩いていること、裏が味噌という名刺を持って全国を歩いていることなどを話し、はみ出し方が足りないと釘を刺し、大いに気を吐いて会場の爆笑を誘い盛り上がりに一役買いました。

 

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人間牧場

○遠来のお客さん

 数日前松山市職員の山本さんという女性から一本のメールは届きました。今週末松山で開かれる「地域に飛び出す公務員を応援する首長連合サミット」の「首長&公務員飛び出す甲子園」の事務局スタッフとして参加する佐賀県の岩永さんが、前日愛媛県に入るので、是非人間牧場へ行きたいというのです。このところ忙しくて時間が中々とれず迷いましたが、「7年前市民参画まちづくり課に在籍していた頃私の話を聞いたし、名刺も交換している」という言葉が決め手となって、スケジュールを変更調整して会うことにしました。私は一年間に約千枚の名刺を全国を歩いて配っています。ゆえにいくら私が人の名前を覚えるのが得意だからといっても、7年前に名刺交換した人全てを覚えれる訳ではないので、記憶の糸を手繰る寄せて思い出そうとしましたが、残念ながら失礼な話山本さんの顔を思い出すことは出来ませんでした。
 待ち合わせ約束の午後3時半、シーサイド公園でお二人にお会いしました。山本さんの顔は見覚えのある顔でした。聞けば山本さんは下灘の金辰旅館の娘さんだった人の息子さんと結婚していて、義理のお母さんは知っているのです。

飛び出す公務員のお二人

 早速狭い山道ゆえ私の車に乗ってもらい、人間牧場へ向かいました。昨日は朝霜柱が立つほど寒い一日でしたが、風も少しゆるくなっていて、思い切って水平線の家の窓を開けて真冬の風を入れました。その後施設の案内をしたり、飛び出したりはみ出したりしてきた元祖飛び出す公務員の私の歩みを話しましたが、聞かれて話してみれば、まあ私はとんでもない飛び出し方をしているようです。その話の一端は今日のサミットにゲスとコメンターとして登場する予定なので、この辺にしておきたいと思います。
 岩永さんは佐賀県男女参画・県民協働課の職員ながらNPO法人日本IDDMネットワーク副理事長・事務局長というもう一枚の名刺を持っていました。(1型糖尿病患者と家族を支援するNPO)だそうですが、岩永さん自身の子どもも、突然子どもが発症する糖尿病を発症し、「直らないから治る」への願いを込めて活動しているそうです。詳しい話は聞けませんでしたが、難病ゆえに心の葛藤はあつたものと思われます。

 山本さんは松山市役所産業政策課の職員で、現在野志市長さんが政権公約の目玉にしている三津浜地区の活性化に取り組んでいるようです。伊予節にも謡われている三津の朝市の賑わい創出や古い町並みをどう生かすのか、悩みは尽きないようです。お二人の話を聞きながらヒントになるかも知れないと、私の自宅の海の資料館海舟館や私設公民館煙会所、夕観所に案内しました。私の地域づくりや夕日のまちづくりの原点はここにあるのです。
 飛び出す公務員を目指す人たちにとって公歳と私の区別は、つけるべきながらつけ過ぎると中々飛び出せないものです。家族の理解を唯一のより所にしたお陰で私は大きく飛び出せました。人が急に土足で踏み込んできても平気でそれを迎え入れれるような、大きな度量を家族が持つことは容易なことではないのです。今日はその辺を話そうと思っています。事前にお二人に出会ってよかったと思いました。

  「世の中は 変わったものだ 公務員 飛び出す会に 知事まで参加」

  「元祖です 私は飛び出す 公務員 ただし私は 好夢員です」

  「名刺見りゃ おおよそ何を しているか 分かる神通 力がなければ」

  「七年も 前に出会った 言う女 女性がゆえに 見覚えありて」

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人間牧場

○インクが届く

 年末から年始にかけて、ブログに書いた記事をプリントアウトするため、沢山のプリンターインクを使いました。6色入りで5千9百円もするインクは瞬く間になくなり、私の乏しい財布がより乏しくなりましたが、それでも「それは紙ごみ」と息子に悪評を叩かれながら、何とかこれまでのブログ記事をプリントアウトし終わりました。ところがそれを見かねた息子がインターネットで安いインクを見つけ出し、注文してくれました。私はカードやインターネットでの買い物をしない、つまり極力借金をしないことをステータスにしているので、飛行機のチケット等もネット決済はしたことがなく、すべて息子のネットで決済するようにして、その代金を息子に支払っていのです。

 今回アマゾンで注文したプリンターインクは、ロジステックスサービスという会社の、エプソン五感汎用インクカートリッジ6色セットで448円、5組買ったので2,240円です。えっ?ゼロが一桁間違っているのでは?と勘違いするほど安いのです。「安物買いの銭失い」とか、「安いものは安いだけの値打ち」「安物には裏がある」と疑ってかかるのは当然ですが、こう安いともう何が何だか分からないほどなのです。プリンターの説明書きの中に確か、「プリンターの故障の原因にもなるので、インクは当社の純正品をお使い下さい」と書かれていたのを思い出しましたが、はてさて確実性か経済性か正直安さの魅力があるだけに迷っています。しかしもうプリンター用インクは送料さえ相手持ちで既に買ったので、安さで勝負したいと思っています。

 最近、ブロガーを自認するようになっている私にとって、自分の書いたき記事をプリントアウトして表紙をつけ、人間牧場水平線の家の書棚に置いて公開することは、これからも続けたい作業です。もう少し早く安価な汎用インクの存在を知っていれば、私の財布の中身が空っぽにならなくてすんだのにと思いつつ今朝インクが空になった表示に対応して、安物のインクに変えました。はてさてどんな結果が出るか不安な中にもハラハラ・ドキドキの気持ちの高ぶりを感じています。
 「無知によって生じる不幸は知ることによって避けられる」、この言葉を思いつつ、息子の手助けを借りて無知を有知にしたいと思っています。

  「なぜ安い? 首をかしげつ 考える 多分中身 ぼろいからだと」

  「十分の 一に満たない 金額で 買えるのだから 何か欠点」

  「高いもの イコールいいとは 限らない 安物だって いいものあるぜ」

  「助かった 息子のお陰 感謝する 仕上げよければ 更に感謝す」   

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人間牧場

○モザンビークからの訪問

 昨日は昼間から小雪がぱらつくあいにくの寒い一日でした。薪つくり、落ち葉集め、蒟蒻畑の草引き、スモモの剪定などなど、春を向かえる人間牧場での作業が大幅に後れていることも気になっていますが、こう寒いと風邪でも引かれては大変と、妻から余り外へ出ない方がいいと注意を受ける有様です。仕方なく家の横の家庭菜園に1時間余り出て、草削りをしたりしながらこの2~3日はお茶を濁しています。
 昨日の夕方上田稔さんとグローバルネットワークえひめの竹内よし子さんに連れられたモザンビークからの訪問団が、午後4時30分にシーサイド公園へやって来ました。事前にメールで送られてきたスケージュールによると、今回の訪問団はJICAモザンビーク研修の一行で、双海町での研修目的は「夕日を観光資源とした道の駅の取り組み」のようでした。上田稔さんを通じて事前に私が送った資料はポルトガル語に翻訳されて既に配布されているため、私と上田さんのレクチャーはむしろアドリブで、その都度同行した通訳によって相手に伝えられましたが、私はハーモニカを吹いたりしながら夕日をテーマにしたまちづくりを話しました。

夕日のミュージアムで

 名簿もポルトガル語で書かれているため余りよく分かりませんでしたが、タイトル欄に書かれた肩書きには、ガザ州局長、マニッカ州局長、ザンベジア州局長、イ州中心人物、ナ州中心人物等と書かれ、この人たちがモザンビークではかなり地位の高い人のようでした。レクチャーが終っての意見交換ではかなり詳しい質問が出される等、私も上田さんも感心しながら対応しました。
 途中漁協女性部の皆さんが手づくりしたじゃこ天が振舞われました。竹内さんの発案でモザンビークという国の形を木の板をくり抜いたじゃこ天の型枠がじゃこ天の店に持ち込まれ、みんな大喜びでした。じゃこ天は異口同音に美味しいと言って食べていました。

 昨日は冬の荒れ模様の天気だったので夕日は最初から諦めていました。でも夕方になると少し雲の切れ間から夕日がのぞいてくれました。モザンビークから来た人は全員黒人で、「寒い寒い」を連発し、早々に引き上げて行きましたが、はてさて彼らに双海町の夕日や道の駅などはどのように伝わったことでしょう。シーサイド公園も最近は何かと国際的で、色々な国の人が訪ねて来ます。外国語がまったく話せない私にとって外国からのお客さんは少々厄介ですが、わが息子の嫁はアメリカへ留学した経験もあるので、英語圏の人が来る時は少し手助けしてもらおうと思っています。
 昨晩は松山で夕食交流会も企画されていて誘われましたが、あいにく午後7時から双海中学校の学校評議委員会があるため、上田さんは学校評議委員会を欠席し、そちらを優先し出席してもらいました。

  「寒い日に モザンビークの お客様 首をすぼめて あれやこれやと」

  「通訳が 私のレクチャー 通訳し ポルトガル語で 意味を伝える」

  「くり抜いた 板の型枠 練り身入れ モザンビークを じゃこ天にする」

  「じゃこ天を 上手い上手いと 言い食べる 国は違えど 味は伝わる」

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人間牧場

○送られてきた一冊の同窓会会誌

 昨日赤岡旭先生から年賀状にしたためた便りと共に一冊の本送られてきました。
 「ご無沙汰しております。若松会長におかれましては、益々お元気でご活躍のご様子に、心より敬意を表します。さて先日昔むかしの書類を整理していたら、宇和島水産高校同窓会誌(創刊号)が出てきました。若松進一氏の寄稿文が掲載されております。すでに所蔵とは存じますが、ここにお届け致します。宜しくお計らい下さい。50年も前なのに当時の漁業科はじめ各科の生徒の名前や顔、彼らの関わりも思い出せるのは、不思議なものです。・・・・・ ~中略~ では、若松会長の益々のご健勝とご家族の皆様のご多幸を記念申し上げて、乱文ながらご挨拶といたします。ご無礼はお許し下さい。私は教壇生活51年目も聖カの予定です。赤岡旭」と書かれた年賀状の裏には、宇和島水産高校3年を皮切りに宇和高校9年、松山南高校10年、東温高校6年、松山工業高校8年、聖カタリナ女子高校13年と色分けした丸印がプリンターで印刷されていました。

同窓会会誌

 

 私が赤岡先生と出会ったのは松山工業高校でした。私は松山工業高校のPTA会長を6年間やりましたが、その折先生は各課の課長としてPTAの役員に名を連ねていました。ハガキによると先生が数学の新採教員として初めて赴任したのが宇和島水産高校だったようです。そのこともあって赤岡先生とは何かにつけて気が合いお互いが声をかけるようになっていました。送られてきた名簿を見て驚くのは後に宇和島東高校の校長となった谷口正志先生や、国語で著名だった秋田忠俊先生、歴史に詳しかった三好昌文先生などなど、私は層々たる先生たちに教えてもらっていたようです。
 さて送られてきた同窓会誌は奥書きによると発行が昭和44年6月17日と書かれています。つまり私はこの頃は漁師をしていたのです。目次をめくると同窓会会誌創刊号といっても68ページの殆んどは同窓生の名簿で、寄稿は発刊に寄せた2人の文章を除けば、僅か6人のみなのです。その6人に何故選ばれたのかは不明だし、どんな想いで書いたのかも分からず、まさに拙文で汗顔の至りなのです。

 「早いものである。母校を卒業したことがつい昨日のように思えてならない。今ではまったく不振、いや一寸先が闇といわれる沿岸漁業に取り組み日夜孤軍奮闘をしている現在の自分を見たとき、何かしらわびしさが込み上げてくる。だが今に見ていろの初一念に生涯をかけようと思う私の姿もそこにある。」で始まる「今に見ていろ」というタイトルで書かれた文章には、漁業への執念のような想いが熱く書かれているのです。私はその明くる年、青年活動と漁業の重労働が重なって体調を崩し入院、そして傷心の中で止む無く漁業を断念して転職し、役場職員となる道へと進んだのです。既にこの文章にはそうした緊迫した予感が読み取れるのですが、私の手元に残る若き日の文章は、第十四回NHK青年の主張で県代表になったものと、今回赤岡先生から送られてきたものだけで、貴重な資料となりました。
 これからもこの同窓会会誌は大切な宝物として保存して置きたいと思っています。

  「五十年 ぶりに手にした わが文章 赤面しつつ 恐る恐ると」

  「元漁師 していた頃の 文章に 赤裸々綴る 漁業の実態」

  「この文章 書いた明くる年 転職を するとは努々 思わざるなり」

  「PTA 辞めても未だ 連綿と 続く出会いに 感謝をしつつ」

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人間牧場

〇今昔

 今朝は北西の季節風が吹き、西国四国愛媛県といえど小雪が舞う寒い朝を迎えています。こんな日はストーブを焚いた暖かい部屋で、コタツに入って丸くなって過ごすのが一番ですが、こんな寒い日だからこそ外に出て体を動かした方がいいと、朝食が終って孫希心を保育園まで送って行って帰ると直ぐに、一人で裏山へ散歩に出かけました。毎朝の日課として約5千歩、杉や桧の林の中を少し意識的に早足で歩くと、厚着をしているためか汗が滲んで適当な運動になるのです。
 帰宅後親父の隠居に行ってコタツの中に入り、久しぶりに93歳の親父と二人で積もる話をしました。同じ敷地内に住んでいながらこのところの忙しさで、親父の隠居に顔を出すことも殆んどなく過ごしていましたが、そんな反省の心もあって少し耳が遠く、歩くこともおぼつかなくなった親父の話を聞いてやりました。親父のもっぱらの不安は、家族(私と妻、息子と嫁と孫二人)とは毎日顔を合わせ言葉を交わすものの、娘二人と息子、つまり私の兄弟がたまに訪ねて来る以外は殆んど人と出会わないことの寂しさのようでした。特に私は忙しく日々を過ごしているため、親父と話をする機会はそんなに多くはないのです。ましてやこの寒さゆえ親父も外に出て野良仕事をすることも殆んどないため、人と出会わないのです。それでも昨日はあの寒空の中7キロ先の診療所まで自転車で行ったのですから、驚く他はないのです。

 今朝はお餅を焼いてもらい3個も食べました。正月についたお餅を寒の冷水につけて保存しているため、正月からは毎朝のようにパンに替わってわが家では、お餅が主食となっています。今年の餅は少し小さめの丸餅です。そのため2個では少な過ぎる感じがするので、3個焼いてもらいました。焼き上がった餅を醤油につけ黄な粉を塗して食べるのですが、これが意外と美味しく只今のところはまっているのです。
 昔は漁村だったため力仕事をする若者たちが、大きな丸餅を30個近くも食べ、それをさも自慢のように話していました。私もさすがに30個までは食べたことはありませんが、漁師をしていたころは10個くらいは食べたような記憶があるのです。芳我というお菓子屋さんの作った羊羹やタルトを賭け喰いで三本も食べたり、石井で売っていたたいこまん(大判焼き)を20個も平気で食べたりすることが、青年団の話題になるほどで、今考えればテレビもパソコンもなく話題の乏しい時代だったようです。

 昔は雪が積もったり、氷柱ができるなど今以上に寒かったように思います。それもそのはず暖を取るのは主に炭と火鉢で、着る物も洗い古しでお下がりのものを重ね着していましたし、蒲団も煎餅蒲団を何枚も重ねて、湯たんぽやコタツを入れて寝ていました。ダウンのコートや羽毛布団の軽さは未だに不思議な感じがするのです。母が裸電球を入れて繕ってくれた靴下や、つぎの当たったズボン等、今では3丁目の夕日に出てくるようなセピア色した懐かしい記憶ですが、それでも子どもたちは青鼻を垂らして、子どもは風の子とばかりに元気に外で遊んでいました。「寒かったら体を動かせ」とはけだし名言で、今朝も寒い戸外へ思い切って出て坂道を歩くと体がポカポカして、そのうちじんわり汗が滲んできました。
 寒かったり腹が減ったり、貧しかったりした当時の記憶は思い出せば時として、何かほのぼのとするものです。はてさて今の暮らしを10年後20年後そのように、懐かしく思うことが出来るかどうか、不景気だとかいいながら食べれないほど貧しい訳でもないし、寒さもその気になれば暖かい小春日和のような部屋で過ごすことができるため、記憶には残らないような気もするのです。

  「久方に 親父とさしで 話する 親父安心 したよな仕草」

  「寒かった ひもじかったと 思い出す 子どものころの 懐かしことを」

  「パチパチと まるで怒かった 人のように 炭火が跳ねて 温もり伝え」

  「つぎはぎの 靴下ズボン 履いたっけ それでも元気 風の子なりて」 

 

 

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〇讃岐幸治先生の愛媛県教育文化賞受賞祝賀会

 私は仕事柄、若い頃から大学の先生たちとの交流がありました。子どものころは学校で勉強が余り好きでなかったし、高校しか出ず学歴のない私からすれば大学の先生は雲上人で、縁もゆかりもないはずなのに生涯学習の悪戯でしょうか、その後の人生においては大学の先生と深い関係になるのですから世の中は分からないものです。それでも私が影響を受け深く付き合ってきた先生の数はそんなに多くはありません。
 愛媛大学教育学部 讃岐幸治先生
 愛媛大学農学部 泉英二先生
 愛媛大学法文学部 藤目節夫先生
 愛媛大学法文学部 岡本直之先生 
 立教大学 岡本包治先生(故人)
 法政大学 岡崎昌之先生
 法政大学 田村明先生(故人)

 思いつくまま書いてみましたが、愛媛大学農学部長だった泉先生は私を農学部客員教授に推挙してくれた先生だし、岡本包治先生は生涯学習シリーズの本にかなり長文の執筆依頼があったりわが町へも講演で呼んだ経験があるのです。岡崎昌之先生はご存知地域づくり団体全国協議会の会長として、色々な場所でご一緒に壇上に立たせてもらいました。藤目先生は私が法文学部の非常勤講師をしていた頃盛んに出会い、当時平成の市町村合併を指導されました。田村明先生は横浜みなと未来計画の推進者で、先生の書かれた「まちづくりの実践」という本には私のことがかなり詳しく書かれているのです。岡本直之先生は私の娘婿であるがゆえに何かと指導をしてくれていて、特に私のブログの後ろ盾的存在で今も何かと指導を受けているのです。さて私にとって最も大きな影響を与え、最も古い付き合いをしてもらっているのは、やはり愛媛大学の讃岐幸治先生です。先生と初めて知り会ったのは昭和46年のことです。当時私は双海町教育委員会で公民館に勤め始めていました。その後社会教育を13年間やりましたが、先生とは大いに語り大いに酒を飲みました。先生は鹿児島県出身で、当時「生まれは薩摩、名前は讃岐、住んでる所は伊予の国」なんて駄洒落を言って人を笑わせていました。私の町の若者塾を双海塾=創快塾と名前をつけたのも先生だし、県公連の岡島会長たちとやった公民館運動等先生の思い出は数多くあり思い出は尽きないのです。

 この度讃岐先生が愛媛県教育文化賞を受賞されました。何人かが発起人となってお祝いを計画し昨日の夜道後のにぎたつ会館でその祝賀会が開かれました。参加者は社会教育の分野で先生と交流のある75人ばかりが集まっていました。どういう訳か私が発起人を代表して開会の挨拶をする羽目になってしまっていました。仕方なく壇上に立ち先生の思い出話をさせてもらいましたが、見渡した75人の人たちはいわば社会教育の活動家であり、私より先輩や偉い人が沢山いました。まあ私は乗れという船にはこれまでにも臆することなく乗ってきたので、すっかり悪乗りをしてしまいました。
 「坂の上の雲」という小説を書いた司馬遼太郎が、適塾の緒方洪庵のことを書いています。緒方洪庵の塾生への戒めの言葉を借りれば、「おおよそ学者たるものは名誉や地位を欲しがったり金儲けのために働らいてはならない」そうで、その点讃岐先生は緒方洪庵の塾頭として活躍した福沢諭吉や大村益次郎のように、様々な場所で大いに活躍をしながらも名誉や金銭のために働かなかった庶民派な先生なのです。

 

篠原茂議員さんと

 

 昨日は久しぶりにかつて一緒に活動した、懐かしい人たちに出会いました。時の流れの悪戯で私が歳を重ねているように、集まった人たちもそれなりに歳を重ねていました。気がかりは讃岐先生の健康状態だと口々に言っていましたが、先生の健康もさることながら、私を含めてそれぞれの人たちも、健康に十分気をつけるよう、先生から逆に心配されてしまいました。
 ほんの3時間ほどの短い時間でしたが、あちこちに立ち話の輪が広がり、色々なことを話し合いました。酒を飲めない私はむしろ素面であるがゆえ話に積極的に加わりました。私のブログを毎日読んでいるという新居浜市議会議員篠原茂さんとも、ツーショットの写真を撮ってもらいました。また年輪塾メンバーで三崎中学校教師の浅野長武さんとはパトロン議論に花を咲かせました。
 讃岐先生の教育文化賞の受賞などすっかり忘れたような、賑やかなパーティを井門さんが閉めてくれました。閉会後私は同郷の松本宏さんを誘い途中で妻を乗せ、二次会に行くこともなく帰りました。

  「指を折り 数え大学 先生の 顔思い出す あれやこれやと」

  「大学を 出てない私 何故だろう 大学人に 教えてもらう」

  「祝賀会 何故に私が あいさつを? 気がつきゃ歳を 重ねてしもた」

  「楽しみに 毎日ブログ 読んでます 言われ恥ずかし 顔を赤らめ」  

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