○学びて時に之を習う
わが書斎の壁に、今年の春九州佐賀県で開かれた地域づくり大会に参加した折、分科会場となった多久市で買い求めた論語のカレンダーが吊るしています。あれ以来論語に興味があるのですが、残念ながらまだ論語を読み解く暇がないので、日めぐりカレンダー形式になっているので、折に触れ捲っていますが、そのカレンダーがやっと三巡しました。
1ページに帰ったので今朝はその言葉を少し大きな声で輪読してみました。隣の部屋にいた妻が「何事か?」「主人は気が変になったのかもしれない」と思ったのか、覗きに来てしまいました。
今朝はその一番目のページを読みながら書斎で過ごしています。間もなく朝6時にお客さんが来る予定なので、それまで束の間を論語について考えてみました。
今朝のお題は「学而時習之 不亦説呼乎」(学而第一)です。「学びて時に之を習う。亦説(よろこ)ばしからずや」と読みますが、論語には日ごろ使わないう而(しかして)・亦(また)・説(よろこ)・乎(かや)など、読み方さえも分からない漢字が沢山出てきます。パソコンで漢字を入力するには画数か偏やつくりなどで調べますが、私の場合そんなパソコン操作の基礎コースを学んだこともないので、たまたま触っていて見つけた感じなので最初は苦労しましたが、何とか探す方法を見つけて入力できるようになったのです。
さて入力も読み方も一応分かりましたが、意味をどう読み解くのか、凡人の私には論語の深い意味は分かるはずがありません。でも何となく分かるような気がするのも論語です。学ぶという意欲を持てば人の話も読む本も、また見るものも全て学習の対象になります。そうした学びへの心の開きが意外な発見に結びついたり、その蓄積が自分の進化につながるということは、私自身が一番感じているところです。
人間は学べば学ぶほど学びたくなるものです。その結果学ばない人と学んだ人の差はどんどん広がって行くのです。私は幸せなことに学ぼうとする意欲を持った人に囲まれて暮らしています。その人たちのレベルは高く私など足元にも及びません。山や海を含めた等高線も、気圧の高低を示す等圧線も、物が高い方から低い方へ滑り落ちたり、気圧の高低が風を吹かせるように、人間はそれとは逆に分科の低きから高きを求めて動くのです。
「論語読む 論語知らずの くせをして ただ何となく 分かったふりする」
「学ぶから 少しだけれど 進化する 忘れることも 多いけれども」
「人の道 論語いっぱい ちりばめて もう少し早く 学んでいれば」
「十有五 学志す 俺遅い やらないよりは やる方まだまし」