shin-1さんの日記

○私の周りには「物」が満ち溢れています

 世の中不景気だというものの、私たちの暮らしは相変わらず豊かで、家庭内には様々な「物」が満ち溢れています。例えば筆記物ですが、鉛筆,ボールペン、マジックインク、マーカーなど机の上や居間、机の引出しなどに無数あるのです。その殆どは使われることもなく、やがてインクが固まって捨てられる運命にあるのです。昨日久しぶりに机の上のペン類を片づけました。特に多いのはボールペンで、何かの会議に貰ったものが20本以上もこの一年間殆ど使わずペン立てに入れられているのです。一本一本を取り出してメモ帳に走り書きして書けるかどうか確かめてみましたが、どれもまだ健在で、捨てるのは惜しい代物です。それでも勿体ないと思って置いておくと片付かないので、思い切って3本だけを置いて後は袋に入れて処分しました。

 私のように講演や会議、時にはコーディネーターなどをする場合に重宝するのが2色、3色のボールペンが一緒に内蔵されているボールペンです。これだと例えばコーディネートをしていても、人それぞれの話が色分けできて何かと便利なのです。ところがこの便利さゆえに色使いが偏って、よく使う黒色や赤色が早くなくなって、青色や紫色などが残ってしまうのです。インクの残量まで見て使う訳にもいかないので、先日などは壇上で書いていて突然赤いインクがなくなり書けなくなってドキリとしました。これらのボールペンはそれぞれの製造会社によって規格がバラバラのため、他のボールペンに代用が効かずもったいないと思いつつ一、色使えなくなると処分せざるを得ないのです。

 最近私たちの地域では葬式に列席した折、香典のお返しにいただくものが、お茶セットに変って祝儀・不祝儀袋と筆ペンかボールペンセットをよく頂きます。最初はこりゃあ便利だと思っていましたが、これもあり過ぎると困って、筆ペンなどは10本以上もストックされ、4~5年は買わなくても済むのです。

 私は字が下手と自認していますが、自著本を販売する際、どういう訳かサインを求められることがよくあるのです。最初はとても人様に見てもらうような字ではないとコンプレックスを感じて断っていましたが、今は自信はないもののごく素直な気持ちでサインに応じているのです。その場合は筆跡が難しい筆ペンではなく油性のマジックインキを使い、自分の名前を方所に、友人から頂いたてん刻彫りの落款を押印するのです。そうすると下手糞でもかなり重厚に見えるから不思議です。でも先日は夕日徒然草に50冊、サインをして送ってほしいとご依頼があり四苦八苦しながら書いて送りました。

 お気に入りだった万年筆もいつの間にか書棚の下の引出しにしまわれ、使われることもなく忘れ去られています。パソコンが私の武器になった4年前からは確実にペン類で書く機会は大幅に減りました。毎日書く3枚のはがきは0.5の少し太字なボールペンを敵のように使います。こうしてみるとあれほど頻繁に使っていたシャープペンシルはもうこれからも使うことはないだろうと思うのです。

 こうして私の文房具類、とりわけペン類は私の仕事とともに変化して、ボールペン主体の暮らしが今後も続くのではないかと思っています。


  「何本も あるのに使う もの二~三 後は使わず ペン立て飾る」

  「重宝は ボールペンのみ シャープなど 広報書いた 昔懐かし」

  「葬式の お返し今は 文房具 世の中変わった 不祝儀袋」

  「買わずとも 貰ったボール ペン多く そこらここらに やたらと置かれ」

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shin-1さんの日記

○「だんだんつながろう会」って面白い

 昨日、「だんだんつながろう会」という珍しい名前の団体に招かれ、西予市卯之町にある中町集会所へ行きました。中町といえば旧宇和町きっての古い町並で知られていますが、不思議なことにこれほど有名な町並なのに文化庁の重伝建、つまり重要伝統的建造物群に指定されていないのです。この指定には様々な制約があるため、それぞれの思惑が絡んでいるようですが、まるで時代をタイムスリップしたような素晴らしい白壁を含めた建物軒を連ねていて、私的には大好きな歴史的空間なのです。素人の私にはよく分かりませんが文化庁の重伝建指定を受けると、それなりの箔がついて観光的条件は整います。しかし様々な制約を受けるそうで、煩わしさや土暮らしの中へ足で踏み込まれるような不安もあります。どちらを選択するかはこれまた意見の分かれるところでしょうが、どちらにせよ先人の残した立派な文化ですので大切にしなければなりません。

若松進一ブログ

(綺麗だったコデマリの花)
 去年この旧宇和町を中心にして県下各地で全国町並みゼミが開かれました。私も参加しましたが、手づくりのゼミは参加した皆さんから高い評価を受けたと伺っています。そのゼミ開催をきっかけに町内の12団体がネットワークしようと作られてのがつながろう会で、昨年NHK朝のテレビドラマ「だんだん」という島根県松江地方の方言が有名になっていて、実は愛媛県でもだんだんという言葉は使われているため、この名称の冠になったのではないかと勝手に思いました。

 昨日は威風堂々とした約100キロのえひめ地域政策研究センター研究員の松本さんのお供のような形に、見まがうほどの雰囲気で同行してもらい、松本さんの案内宜しきを得て、松本さんの車に乗せてもらい11時にわが家を出ました。

 中町へ着いたのは12時半過ぎでした。まだ準備が出来ていないので言われるまま先哲館横の池田屋という古い酒蔵を利用した喫茶店へ入りました。ご主人も奥さんも顔見知りで外は6月頃の陽気だというのに中は少しひんやりして気持ちのいい空間でした。お茶を飲みながらご夫婦や来店して食事をしていた京都・尾道からのお客さんを交えて楽しいおしゃべりをしながら頼んだ抹茶をいただきました。

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 細い路地を入ると集会所があって、既に30人ほどの人が集まっていました。参加者の中には顔見知りも多くいて雑談会話が弾みましたが、つながろう会の藤本明美さんから3度も資料を添えたお便りやハガキ、FAXをいただいていたので直ぐに打ち解け少し遅めの食事会が始まりました。弁当も美味しかったのですが、豚汁やヨモギ草餅、デザートに出されたゼリーも絶品でした。外国人と見まがう通称キャサリンの書いた絵をあしらった下敷き紙にも、机の上に飾られたコデマリの白い花にも、人を迎える優しさが感じられて、酒も飲まないのにすっかり酔いしれてしまいました。

 食事が終っていよいよ私の話が始まりました。少し短めの話をというご依頼でしたが少し短めの話を少し長く40分ばかり話させてもらいました。参加者の中には私の話をもう5回も聞いたという人もいて、汗顔の至りでした。

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 質疑ではハーモニカのアンコールまであって下手糞なハーモニカも披露しました。僅か2時間ほどの時間はあっという間に過ぎ、皆さんの温かい拍手に送られて、予定があるので3時に会場を出て家路に着きました。いやあ楽しい会でした。主催をした藤本明美さんご夫妻は元学校の先生で、ご主人は教育事務所で社会教育をしていたこともあって知っていますが、さすがと思わせる気配りは並のレベルではないようで、見習いたいと思いました。

 車での行き帰り、松本さんと様々な地域づくり談義をしましたが、岡崎事務局長との関係で昨年一年町並ゼミを手伝いに来た松本さんは、につながろう会の皆さんとの出会いで大きく成長していました。地域づくり人の成長はいかに自分の自由時間を削って学ぶかにかかっています。その点松本さんの成長はまさに土日や夜といった自由時間を使っての修業の成果だと思うのです。これまで2年間で予想以上の成長を遂げている松本さんにはこれから一年、より高い自分自身へハードルを設定して、成長してほしいと願っています。

 「来年もまた来てね」という嬉しい言葉が今も耳に残っています。早速昨晩お礼のハガキを書きました。

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(手づくりのヨモギ草餅も最高でした)

  「座るなり 机の上の コデマリの 花に心が 洗われました」

  「中町を 初夏の休日 歩きつつ 光と影の 交錯感じ」

  「手作りの 紙の袋に 草餅を そっと忍ばせ 優しいただく」

  「爆笑の 渦を作りて 話したる 落伍話に われを忘れて」  

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shin-1さんの日記

○今日は市議会議員の選挙です

 この一週間、市会議員立候補者の街宣カーが町中を行き交い、何となく町が騒がしく感じられていました。その選挙運動も昨日のふり絞るような「最後のお願い」で幕を閉じましたが、立候補者は開票結果が分かる今夕遅くまで、どんな気持ちで過ごすのでしょう。今回の選挙には21人の定員に対し21人が立候補し、ひょっとしたら「無投票かも」と楽観視していた向きもあって、降ってわいた少数激戦によって、少々盛り上がりの欠ける選挙戦となりました。市長選が無投票だったことも追い打ちをかけているようです。

若松進一ブログ(22人の立候補者)

 今朝は親父の脛の具合を見に隠居へ行ったところ、病院の処置が良かったのか注射が効いたのか分かりませんが、歩く姿も元に戻って一安心といったところです。何せ歳をとっての足腰脛の病気は寝たきりになる危険をはらんでいるので、自分も余程うれしかったのでしょうか、昨日まで「選挙にはよう行かん」と言っていたのに、「選挙に行く」というのです。午前7時過ぎ親父を乗り降りが楽な軽四トラックに載せて投票所である町民会館へ連れて行きました。最近は事前投票が多いためか、昔のような込み具合は殆どなく、最も身近な市会議員選挙というのに投票所は散閑としていました。

 親父は91歳になりましたが、これまで選挙の投票は欠かしたことがないのです。若いころガンにかかって左目を失明しているため字を書くことができません。投票の度に代理記載をお願いしなければならないのが苦痛のようですが、それでも一市民としての権利と義務を果たしてくれ嬉しい限りです。今日も「あと4年後までは生きているかどうか分からんので、今日が最後になるかも知れん」と、老いの限界を悟ったような話を私にしました。「じいちゃん、まだまだ元気でおらにゃあいけん。次の選挙もわしが連れて行ってやるから」と励ました次第です。

 旧双海町では一人の現職議員が辞め、一人の新人が立候補したため、合計4人の立候補となりました。前回の小選挙区では少ない投票数で戦えましたが、今回から全市一区となって、田舎の議員は票の上積みと慣れない広域選挙に苦労しているようでした。行ったこともない場所へ選挙カーを走らせなければならない重圧は相当なもののようです。でもこうして合併後の選挙は進んで行くのでしょうが、できることなら善戦して地元の議員さんが全員当選してほしいと願っています。今回の選挙から定員が一人減ったため、今回は一人だけが落選の苦杯をなめなければなりません。その一人に選ばれたくはないと現職も新人もみんな必死で戦っているようでした。


  「昨日まで うるさいくらい 走ってた 街宣カーも 今日は見られず」

  「九十を 超えた父さえ 一票を 投じるのだから みんなやってよ」

  「落選の クジを引くのは 誰なのか 戦々恐々 夜も眠れず」

  「ごひいきの 人は果たして どうなのか 入れた一票 行方気になり」


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shin-1さんの日記

○美しいえひめの風土と県民のくらしをまもるために

 「新過疎法の制定実現を目指す愛媛県総決起大会」といういかにも行政といった感じの大会がひめぎんホールであり、日ごろご厚誼をいただいている愛媛県市町振興課の北村課長さんからのご依頼を受け、パネラーとして出席しました。会場には国会議員や県会議員、それに市町村長や市町村議員が集まる重厚な大会でした。

 来年3月で現行の「過疎地域自立促進特別措置法」が失効するのを受けて、法律の継続を国に働きかけるための決起であり、大会は二部に分かれていて、一部は大会決議のセレモニーでした。

若松進一ブログ(加戸愛媛県知事の開会あいさつ)
若松進一ブログ(会場の参加者は殆ど行政関係者と議員さんでした)

 私は旧双海町役場在職中に、過疎地域に指定されていたこともあり、この法律に基づいた過疎地域自立促進事業計画を、企画調整室で作成しましたが、残念ながらその計画に沿って行った様々な事業の効果もむなしく、人口減少の歯止めはかかりませんでした。でも自立促進の効果は絶大で、観光客ゼロに等しかったわが町は、年間五十五万人もの観光客が来るなどの成果を収めました。その時のテーマは「第一次産業の振興を軸とした定住と交流の町づくり」でした。

若松進一ブログ(パネラーの皆さん)

 愛媛県内では今、わがまち伊予市などで選挙戦真っただ中のため、関係者の数は少し少なかったものの、第二部のシンポジウムは明治大学農学部小田切教授の基調講演やパネルディスカッションが行われました。

 西予市山奥組の荻野さんと伊予市佐礼谷の松浦さん、西予市長の三好さん、それに私が現場からの報告をしましたが、総務省過疎対策室長の佐藤さんの話が少し長引き、議論がかみ合わないまま不完全燃焼で終わってしまいました。まあ大きな大会は壇上で議論をするため、参加者を巻き込んで話しをすることは至難なことなので、こんなものかと納得しています。

若松進一ブログ(コーディネーターの明治大学農学部小田切教授)

 時間がなかったので私の提案は議論されませんでしたが、私はコミュニティの概念を地域コミュニティとテーマコミュニティがあると話しました。過疎の話になると決まったように出てくるのは地域コミュニティの話です。でも地域コミュニティだけだと手つなぎの連帯に終わってしまいます。これからは地域コミュニティに手放しの連帯ともいえるテーマコミュニティを加え一人一人の自立と、集落の連帯を促進し、若者などの新しい血と風を入れなければ、地域は活性化しないのです。双海町のグリーンやブルーツーリズムも、また先日若者の中心になってきかう運営したオレンジデーもテーマコミュニティの成果であることを強調しておきました。既に私が人間牧場を中心にして始めている大学生を集落づくりに巻き込むことや子ども時代からふるさと教育はいずれ成果として報告できることでしょう。


  「顔見知り 胸に議員の バッチ付け 俺は議員だ 言わんばかりに」

  「壇上の 私に向かい 手を振って 頑張るように 支援してくれ」

  「進歩する はずのシンポが 進歩せず 議論結局 絡まず終わる」

  「過疎法は 作ったけれど 過疎止まず 道がよくなり かえって過疎に」

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shin-1さんの日記

○電話の向こうで「覚えていますか?」

 「若松さん、覚えていますか?」と唐突に携帯電話がかかってきました。流調な関西弁の相手は徳島県の内藤さんからでした。聞けば7~8年前に知人の大阪に住む桜井啓子さんたちとわが町へ研修にやって来たのだそうです。「覚えていますか」と言われてもこの歳になっては思い出せないはずですが、そこは人の顔や名前を覚えるのが仕事ゆえ、かすかな記憶を頼りに思い出したのです。

 私の携帯電話は個人情報なんて糞くらえと思ってオープンにしているため沢山の方から電話が入ります。この日も役場から「徳島のある方から、若松さんにどうしてもアポを取りたいので電話番号を教えて欲しい」と電話がかかり、担当者はわざわざ私に「教えてもよいか」打診があったのです。

 「実は今度私は昔そちらへ研修に行ったグループの会長をすることになりました。是非夏ごろ人間牧場へ研修に行きたいと思っています。ついては事前に人間牧場を見学したいのですが、今日か明日か時間は取れないでしょうか」という話でした。昔なら徳島からこちらまで有に5時間はかかっていましたが、今だと2時間半で来れるからとお互いが逆算し、「私は今日なら空いている」と言ってしまいました。「ほんならこれから行きますわ」です。

 口約束をして電話を切ったのは12時前でした。内藤さんは高速道路をひた走り、3時前には「伊予インターを降りました」といい、そのうちわが家のチャイムが鳴ったのです。さすがナトウという雑貨のお店を徳島県北島町で手広く手掛けているだけあって、足腰の軽さはさすがと感心しました。一度会ったきりですが確かに見覚えのある顔でした。あれから7~8年も経っているのにお互いの顔もそれなりに変っているのにです。

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(徳島から「今すぐ」といって3時間後にやって来た内藤さん)
 早速わが家の海の資料館「海舟館」と私設公民館「煙会所」を見学して人間牧場へ向かいました。狭い山道にすっかり驚いた様子でしたが、人間牧場からの素晴らしい眺望に感心しながら、私が初めて内藤さんと出会った折、「人間牧場を作りたい」と夢を語っていたそうで、その夢を実現していることに感動しているようでした。

 私は自分の実現可能な夢を人に堂々と話すようにしてこれまで生きてきました。多分それは自分への挑戦でもあったのです。「夕日を日本一にしたい」とか「人間牧場を作りたい」とか、人様から見ればまるで夢のような夢を語る姿を見て、ある人は「若松の大ぼら吹き」と思ったに違いないのです。でも夕日も人間牧場もそれなりに成就すると、「若松は言うことも言うがやることもやる。さすがだ」と信頼はより以上に高まるのです。勿論言ったことを実行するにはそれ相当のな準備と覚悟、家族をはじめ多くの人の協力があってこそ成就するするものですが、私はことごとく言ったことを、有難いことに実行してきたのです。

 かくして内藤さんは私と、9月2日と3日の研修を人間牧場でやるよう組み立てて元来た高速道路を走り去って行きました。内藤さんが会長を務めるであろうチャレンジ会は僅か8人のこじんまりした会ですが、桜井さんや内藤さんのように凄い経営者の集まりです。そんな凄い経営者に私が何をすればいいのか戸惑うばかりです。でも役場の地域振興課長をしていた7~8年前と同じように、「人間の生き方の基本は一緒」と肩の荷をおろしてしっかりと対応したいと思いました。あれから7~8年、私もそれなりに進化しているので、自信を持って不足のない相手に立ち向かいたいと思っています。


  「若松さん 覚えていますか? いきなりに 電話の向こう 記憶辿りて」

  「そういえば カンピューターが 動き出す 俺の記憶も 未だ錆ずに」

  「経営者 やること早い 今すぐと 三時間後に 早くもわが家」

  「われ磨く 相手にとって 不足なし 進化の姿 見せたいものと」 

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shin-1さんの日記

○整形外科病院のロビー

 「脛が痛くて歩くことができないから病院へ連れて行ってくれ」と、昨日の朝親父がいうものですから、伊予市内の整形外科病院へ行きました。「昨晩は痛くて便所へ行くのもやっとで、眠れなかった」と、少し疲れた弱々しい声で話す親父は、病院の受付が8時30分からだというのに8時前には早々と準備をして、まるで子どものように「まだかまだか」とせがむのです。仕方がないので急いで食事を済ませ車に親父を乗せ8時に家を出ました。少し耳が遠くなったもののこの1年は風邪も引かず何とか元気に過ごしていただけに、足腰の衰えは少々気になりながらも20分ほどで病院に到着しました。

 受付10分前だというのに病院の玄関は既に開いていて、受付ロビーは人が入れないほどいっぱいなのです。人をかき分けるようにして受付一覧表に「若松進・初診・ひざ」と書き込み、親父を少し空いている椅子に座らせ、私は外で診察が始まるのを待ちました。聞けば昨日は病院の都合で午後休診だったとか、加えて昨日は金曜日で、土日休診のため毎週このように混雑するのだといわれ納得しました。

 病院の診察は9時きっかりに始まりましたが、親父の順番はこれほど早く来ても40番以降なので当分は診てもらえないと思い、患者さんが物療に入って少しロビーの椅子に空きができたので座って待ちました。意外と速く9時30分ころ診察室へ呼び込まれ院長さんの診察が始まりましたが、付き添いで診察室に入った私を見て院長さんは「若松さんお父さんは久しぶりですね」と声をかけられました。「とりあえずレントゲンを撮りましょう」とレントゲン室へ、ここでもレントゲン技師の女性から「若松さんお久しぶりです。相変わらず講演活動でお忙しいのでしょう」と愛想良い会話を交わし、レントゲン台の上で脛を中心に2枚撮影されました。

 「しばらくお待ちください」からが長く、レントゲン写真を見ながらの説明やひざ患部への注射や処置所見の説明を受けて診察が終わったのは10時ころでした。説明を受けながら薬とシップをもらい病院を出ましたが、病院のロビーは何をか語らんといった感じでした。

 病院のロビーは殆どがお年寄りでした。通院の長い人もいてみんな顔見知りの人らしく、つけているテレビの音など全く聞こえないほど大きな声で喋りまくっていました。病気の悩みから最近の時事ニュース、近所の人の悪口など、耳を澄ませばまさに人生の縮図のようです。時折通る市会議員選挙の候補者の話も、あの人は大丈夫、あの人は危ないなどと勝手気ままに批評し合っていました。その気になって聞けば結構楽しいものです。

 車に親父を乗せて帰りながら、久しぶりに色々な話をしました。行きと違って帰りは病院の先生の見立てが良かったためか、幾分晴れやかになって、重たかった口も饒舌になっていました。メル友である谷岡さんのメールにお母さんの話が書かれていて、「あなたは岡さんがいて幸せ」と書けば、「あなたはお父さんがいて幸せ」と返信されたばかりだったので、少し感傷的になって親父のこれからについて考えました。

 確かに谷岡さんが言うように、父親がいるだけ幸せなのかも知れません。しかも91歳の今日まで何とか自分のことだけでなく家のこともしっかりやってくれることは嬉しいことなのです。これからも親父を大事にしたいと改めて思いました。昨日の夕方隠居へ様子を見に行きましたが、少しは回復の兆しがあり、時ならぬ息子の優しさが嬉しかったようでした。


  「脛痛い 病院連れて 行けという 親父の姿 少し小さく」

  「病院は 爺婆の 養殖場? ボリュームいっぱい 大声話す」

  「久し振り 笑顔の院長 声をかけ 繁盛秘訣 人に優しく」

  「あの人は 落ちるか通る 評論を 案外当たって 落ちるかもなあ」 

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shin-1さんの日記

○わが家のツツジが咲き始めました

 わが家の庭と家庭菜園は約100メートルにわたって続いていて、その畦には白や紫のツツジが沢山植えられていて、このところの初夏のような暖かさに誘われて、早くも花が見ごろを迎えようとしています。元来つつじは五月といわれるように五月の花なのですが、やはり温暖化の影響でしょうか、四月も半ばだというのにもう四分咲きといった感じです。春の花は一年間待った割には意外と花持ちが悪く、チューリップなどはあっという間に花を散らしてしまいますし、今年は長持ちしたといわれる桜だってもう葉桜になってしまっているのです。

 私の家は少し高台にあるので、畑の畦に植えられたツツジはまるで花の帯のように連なって、道行く人の目を楽しませてくれるのです。昨日も近所の人と出会いましたが、「若松さん、あなたの家のツツジは私たちのために咲くようで、これからしばらくの間目を楽しませていただきます」と言ってくれました。確かに目線の向こうに見えるツツジの帯はまさに借景に値する風景のようです。

若松進一ブログ

 このツツジは元々私が役場でまちづくりを担当していた頃、エプロン会議が5万本のツツジの挿し木をしました。しかし残念なことにそのほとんどは枯れてしまいました。その折私も余った穂木を300本ばかり、勿体ないと自宅に持ち帰り挿し木をしました。世話の甲斐あって私の挿し木は殆ど全部ついたのです。

 大きくなったので畑に植えて育ててさらに大きく育て、自宅の横の家庭菜園の畦に植えました。家庭菜園の畦には当時杉の防風林があったのですが、それを一本一本ノコで切り焼却処分をしました。その後に植えたツツジはその後畑の養分を吸って大きくなり、親父の手によって選定や消毒、施肥料を繰り返し、今では立派な庭木として私たちの目を楽しませてくれているのです。

 挿し木をしてから早くも20年以上が経ちました。「播かない種は生えない。植えない木は育たない」といいますが、こうも立派に育つとは考えませんでした。


若松進一ブログ

 親父はこのところツツジを見に来るであろう親戚の人のことを考えてツツジの根元の草削りに余念がなく、動き働き過ぎたのでしょうか、昨日あたりから脛が痛くて歩くのがつらいといい始めました。今朝は私の書斎へやってきて、病院へ連れて行ってほしいとせがまれました。所用がありますが私の分は後回しにして、午前中は伊予市の病院へ連れて行ってやりたちと思っています。

 年老いた親父は町内に住む兄弟姉妹たちに花見に来るよう誘っています。今年も皆さんが来るのでしょうが、行動範囲の狭い親父にとっては、ツツジの花の咲くこの季節が一番いい季節であるはずなのに、脛が痛いのは何とも辛いことなので、早く直してやりたいと思っています。

若松進一ブログ (ツツジの咲く横の畑には甘夏柑が鈴成りです。甘夏柑の美味しい季節となりました)

  「丹精を 込めたツツジが 今年また 立派に咲いて 親父楽しみ」

  「足腰が 少し痛いと 言う親父 今日は病院 連れて行かねば」

  「花咲いた 見に来るように 伝えとけ 兄弟姉妹 加齢気がかり」

  「挿し木した ツツジ大きく なりにけり 二十数年 手塩にかけて」

 

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shin-1さんの日記

○若松進一ブログ集CD-Rが届く

昨日郵便ポストに嬉しい封書が届きました。送り主は大分県大分市佐賀関町に住む渡邊又計さんからです。渡邊さんとは、対岸の愛媛県伊方町三崎井野浦に住む塩崎満雄さんを通じて知り合い、他の友人に比べればそんなに数は会っていないものの、今では私にとってとても大切な心許しあえる友人なのです。大分の佐賀関といえば関アジ・関サバのブランドで全国に知られた所ですが、近年過疎化が進み何年か前にお隣の大分市と合併をしました。合併前の佐賀関町を知っている者にとっては、佐賀関でさえどこか右肩下がりの閉塞感が町の中に感じられて少し寂しくなっているようです。

 渡邊さんは昨年の4月、長年勤めた役場(合併して市役所に)を定年退職し、今は佐賀関町の社会福祉協議会に勤めていますが、写真を趣味とする歌の上手いダンディな男です。特に趣味の写真はアマチュアカメラマンといいながら玄人で、これまでにも度々写真コンクールで入賞しているほどの腕前です。

 渡邊さんが在職中、渡邊さんの口利きで大分市や佐賀関町へは何度も講演に出かけていますが、その度に立派な写真が封書やメールで送られてくるのです。ここだけの話ですがもし私が死んだら、渡邊さんが撮ってくれたピント深度が深い写真を遺影に使って欲しいと思うほどの出来栄えなのです

若松進一ブログ(渡邊又計さんから送られてきたCD-R)

 昨日送られてきたのは「若松進一ブログ集」と書かれたCD=Rなのです。「えっ何で」と封書を開けて中から出てきたCDを見て一瞬驚きましたが、渡邊さんが何年か前に「若松先輩、私はあなたのブログをほとんど毎日読んでいます。そしてそれらは私流に校正して保存していますので、ブログの記録が消えたらいつでも言ってください。再生してあげますから」と言っていたことを思い出しました。

 私のブログを読んでくれる人は多い日で千件を超えますが、私のブログを記録として残している人は私が知る限り、高知県馬路村の木下課長さんと佐賀関町の渡邊さんくらいしかいないのです。木下課長さんはつまみ食い型で私のブログの記事を読んで感じるところをプリントアウトして綴っているようです。渡邊さんは記録保存型で全ての記事の誤字・脱字・変換ミスを修正して保存するという念の入れようです。

 「沈みゆく 夕陽に待った 夢つなぎ 輝き説いて ふるさとめぐり 若松進一ブログ集」「N0.1 平成17年9月~平成21年3月分」「平成21年4月13日製作CD-R」とCDの表面にプリントされ、私の似顔絵名刺と恋人岬のモニュメントの写真がちりばめられていました。全体の色はオレンジ色で何ともほのぼのとしたイメージです。

 このCD-Rの製作にどれほどの手間暇をかけたのだろうと思うとき、気の遠くなるような時間と手間が脳裏に浮かんでくるのです。私のためにこれほど尽くしてくれた人はないだろうと、あらためて感激するのです。

 それにしてもパソコンの技術も凄いものです。これまで3年半かけて書いたブログの記事が、僅か一枚のCDに収められるなんてとても信じられないのです。私がこれまで書いたブログ記事は、プリントアウトして月毎一冊に表紙を付けて綴り、人間牧場のオープン書棚に置いていますが、ブログとしては他に例をみないほど毎日2本のの記事は長いもので、よくもまあの量が一枚に収まったと感心するのです。

 渡邊さんありがとう。この一枚は私の宝ものとして大切に保存しておきたいと思っています。あつかましいお願いながら今後もN0.2の製作をお願いしたいものです。

  「膨大な 私のブログ 一枚の CD-Rに 収めて届く」

  「世の中に 達人と呼ぶ 人ありて 真似のできない 自分諦め」

  「いい人を 友に持ったと 思いつつ いつも甘える 自分を恥じる」

  「情報化 ここまで進む 驚きて CD一枚 書棚に入れる」

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shin-1さんの日記

○摘み草料理

 私たちが子どもの頃は戦後間もないこともあって、食べるものに事欠き自然の中にあるものを好んでというよりは、仕方なく食べていました。ギシギシはスイジンといって食べていたし、イタドリもイタンポといって塩を付けて沢山食べました。また野山には季節の食べ物(野イチゴ、アケビ、サルナシ、しいの実、ヤマモモ)などがいっぱいあって誰にも知られたくないそれらのありかを知っているだけで、何か宝物を持っているような気分になり、頭の中には暦の歳時記のようにそれらの収穫時期がインプットされていました。

 最近は不景気になったせいでしょうか、それとも田舎や健康食への回帰でしょうか、摘み草などという言葉が盛んに使われ、摘み草料理などは高級として持て囃されているようです。

 初春、山野に出て食用となる野草や山菜を採取することを摘み草といい、春の七草に代表される野草を摘んで食べる比較的シンプルな摘み草料理は昔から日本人の暮らしの中にあって今もひっそりと息づいています。セリ・ナズナ・ゴギョウ・ハコベラ・ホトケノザ、スズナ・スズシロこれぞ七草などと、母から教えてもらった言葉を今もしっかり覚えていますが、これがホトケノザ、これがナズナと現物と名前が一致しないのは、返す返すも残念です。しかし春たけなわになったこのころになると、野山は山菜の宝庫で、摘み草のような洒落た雰囲気ではありませんが、タケノコやワラビ・ゼンマイが出回り、フキやウド、タラの芽などが日曜市の店先をわがもの顔で独占しているのです。

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 私はカゴを持って家の裏庭を歩いてみました。食べれる物と思われる草をあらん限りの知識で摘んでみました。ヨモギ、セリ、オオバコ、テイレギ、ノビル、三つ葉、柿の若芽、ギシギシ、イタドリ、フキ、ツワブキ、クレソンなど、あっという間に10種類もの食べれる草を見つけました。これらは正直言って道端に生えている草で、足で踏みつけたり草刈り機で刈られたりする運命の、いわゆる人に嫌われる雑草なのです。

 でもこれらの野草が、京都の料亭では一流の調理人によって様々に料理され、お金になる食べ物に生まれ変わるのですから勿体ない話です。直ぐにお金の話になってしまいますが、せめて田舎に生きているのですから、これら自然の植物を食べて暮らすのも悪くはないと思った次第です。

 今晩は早速これらのいくつかを料理してとりあえず春の摘み草料理を妻に頼み、試食してみたいものです。今年は人間牧場のおもしろ教室でも子どもたちに、野草を食べさせてみたいと密かに思っています。何年か前わが子どもにヨモギの天ぷらを食べさせたところ、「お父さんこれ草と違うん」とけなされた経験があるだけに、しっかりと説明できるように勉強しておきたいと思います。


  「家周り ぐるっとすれば 足元に 食べれる草が いっぱいあって」

  「今晩は ヨモギの天ぷら 食べようか そうだクローバー かき揚げにして」

  「苦味食べ 苦味ばしった いい男 なりたいものだ ヨモギを食べて」

  「ノビル掘り 水で洗って 味噌をつけ これはいけると 確信したり」

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shin-1さんの日記

○名医によってパソコンのガンが完治しました

 昨日の朝は憂鬱な幕開けでした。この2~3日パソコンの調子が悪かったのですが、何とかブログを書いて登録した途端、パソコンが固まったようにまったく動かなくなってしまったのです。頼まれた原稿のことも締め切りが近付いていて気になるし、途方に暮れたというのが偽らざる心境でした。半年前にもこんな状態になって、息子や娘婿を巻き込んで大騒動をした悪夢が頭をよぎりました。その時は娘婿の診立てで新しいパソコンに買い替えなければならないという故障寿命の決断が下されたのです。

 私のようなリタイアした人間にとって10万円以上の買い物は正直言って骨身に堪えます。そのことを妻に話すと、「仕方がないね。仕事にいるのだったら」と、体型と同じ「太っ腹」に感謝したものです。かくして娘婿に頼んでインターネットでパソコンを購入することになりました。私のような古い人間は、「パソコンは壊れないもの」「パソコンは高いもの」「パソコンは備品」という観念が強く、少し勇気がいりましたが、私の使いこなせる能力を見定めて13万円を妻の財布から出してもらい、東芝のノートパソコンDYNABOOKという、テレビでもよく宣伝している最新のパソコンを購入したのです。

 それまで使っていたのはWindowsXPでしたが、今度購入したのはWindowsVistaというソフト内蔵です。最初はソフトの変化に面食らっていましたが、使うほどに慣れ親しみ、今では何の違和感もなく使っているのです。私にとってパソコンは日々の暮らしにすっかり溶け込んでいて、昔のようなパソコンアレルギーも解消され、空気を吸う、食事をする、寝るといったことと同じように、起きれば書斎のパソコンに向かう、寝る前にはパソコンに向かうといった日常になっていました。したがってパソコンはスイッチを入れれば私の胃の向くままに動くものだと勘違いをしていました。

 パソコンが動かなくなると、まるで体の一部が壊れたような不安が体中を駆け巡りました。妻にその話をすると「えっ、また壊れたの?。息子か娘婿に診てもらったら」と、13万円出した半年前のことを思い出すように渋い顔をしました。私は妻に内緒の小遣い帳代わりに使っている貯金通帳の残高を見ながら、10万円余りの出費のことを考えていました。

 朝打ち合わせした午後1時半に娘婿が務めている大学の研究室を訪ねました。パソコンを丸ごと移動したのです。早速電源が入れられ診立てです。娘婿はパソコンをまるで魔術師のように動かし、動かなくなった原因がウイルスバスターであることを突き止めました。私のパソコンは娘婿がウイルスバスター処理をしているのですが、メールにくっついて別のウイルスバスターが侵入したらしく、その喧嘩が原因だというのです。色色いじくり0分ほどで元の状態に回復しました。私にとってはガン患者が名医によって治ったのと同じ感覚で、その手さばきをあっけにとられて見ていました。「これで大丈夫だと思いますが、また故障したらいつでも」と温かい言葉を貰って帰宅の途に着きました。

 ここだけの話ですが、貯金通帳を降ろさなくても済んだのでホッとしています。人間牧場へ釜戸小屋を作る計画のために必要な資金繰りが悪化すると懸念していただけにパソコンの復旧は私にとって大きなプラスとなりました。昨日帰ってからはパソコンを少し休ませようと、回線復旧の確認をしただけで電源を切って寝かせました。今朝はブログを書き始めると再起動の表示が出て、せっかく書き始めた文章が流れてしまいましたが、まあこのくらいは許せる範囲です。これからもこのパソコンを大切に使って行きたいと思っています。


  「動かない イライラ募る パソコンを いとも簡単 直すは名医」

  「ああ又か 通帳残を 見ながらも 出費覚悟す パソコン故障」

  「これからは 大事扱う 心決め その口の下 パソコン酷使」

  「今日だけは ゆっくり休め 電源を 切ってパソコン 机上置く」

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