shin-1さんの日記

○町内の学校を訪ねました

 今日午前中、銀行や郵便局に立ち寄りました。特に郵便局はお世話になった方に、畑から収穫したばかりの甘夏柑を段ボールに詰めて送る作業をしたため、郵便局長さんが「まあお入り下さい」と局長室へ案内して美味しいお茶を入れてくれました。局長さんもそろそろ定年が近いようで、定年後の生き方を模索しているらしく、自分のこと、家族のこと、地域のことなどについてアドバイスを求められました。私はリタイアしてこの4年間それなりに充実した生き方をしてきたと思っているし、これからもそう行きたいと思っているので、随分と色々なことについて30分もお話をしました。

 ついでに教育委員会の双海事務所に立ち寄りました。今年から双海事務所も公民館長が常勤専任になって、宮栄さんが館長席に座っていました。郵便局に勤めていた宮栄さんにとってデスクワークは10年ぶりと聞きました。「そりゃあ大変でしょう」と相槌を打ちながらお話をしましたが、机の上のパソコンはまだ使いこなすところまでは行っていないと嘆いていました。

 事務所で下灘中学校の二宮校長先生にばったり会いました。「しまった」と思いました。下灘中学校は今年で長い歴史に幕を閉じ上灘中学校と統合し新生双海中学が誕生するのです。閉校するにあたって記念事業が実行委員会で計画され、私にも原稿依頼と寄付依頼が来ていたのです。原稿締め切りも寄付締め切りもまだ先のことですが、原稿も寄付も早くてもいいのです。二宮校長先生は「まだ締め切りも来ていないので」と言われましたが、私は自宅に帰り昼食後早速30分余りをかけて千字余りの原稿を書きあげ、下灘中学校へ持っていこうと軽四トラックを走らせました。人間牧場へお客さんを案内する時横の道を通るくらいで下灘中学校へはこの一年余り立ち寄っていないため、どこか懐かしく、どこかセンチメンタルな気持ちで学校に入り、職員室へ行きましたが、あいにく校長先生は外出中で、顔見知りの武智先生と雑談をしながら、学校の封筒をいただき原稿を入れ、寄付金も少額ながら納めさせていただきました。これにて一件落着です。

 せっかく下灘へ来たのだからと下灘小学校へ行き元気を回復したイチョウの木に巡り合い、辻校長先生と面談して雑談をしました。特に昨年JRCの大会の講演集では随分お世話になっているので、お礼を言いました。下灘小学校には上がりかまちのような畳の部屋が出来ていて、今度はこの畳の上で落伍をやりたいと約束めいた話をして帰りました。

 帰り道陽気に誘われて由並小学校に立ち寄りました。二宮金次郎さんの銅像に深々と頭を下げました。この金次郎さんの読んでいる本の件では随分私の講演の中でお話しさせてもらっていることへの感謝の気持ちなのです。吉田校長先生とはこの学校の評価委員をしていたこともあって何かと話す機会も多く、教育もんだについても話しました。

 縁もゆかりもない私が学校を訪問することは、まるで不審者のようで心が痛みます。でも元教育委員会に勤めていたのだからまあいいかと、独りよがりしながら学校を訪問しているのです。田舎が故に穏やかな学校運営が行われているし、それぞれの学校の先生方がしっかりと学校運営に携わっているので、安心しています。これからもいい学校運営を頼みます。


  「突然に 学校訪問 不審者に 間違えられず 温か迎え」

  「原稿と 寄付を届けに 母校行く 今年一年 寂しい限り」

  「帰り道 小学校に 立ち寄りて 校長さんと お喋り弾む」

  「入学の 慌ただしさも 終わったか 学校静まり ホッと一息」

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shin-1さんの日記

○昭和は遠くなりにけり

 昨日は「昭和の日」でした。昔といっても昭和天皇が存命中の21年前までは天皇誕生日だったはずですが、その後みどりの日となり、3年前から現在の名前に改称されました。サンデー毎日の私にとってこの改称は議論の蚊帳の外にいたため「いつの間にか」という感じが強いのです。

 それにしてもいつの間にか「昭和」が「平成」に代わってからもう21年も経っているのです。つまり平成生まれの人が20歳を超えた訳ですから、昭和も随分遠くなりにけりです。昭和19年生まれの私にとって、60年余り続いた昭和という時代の中の前期19年は生まれてないので当然ながら戦争に明け暮れた悲しい時代は記憶にありません、生まれて間もなく終戦でした。日本の歴史の中でもそこから始まった戦後の復興と高度成長への20年という階段はまさに私の少年から青年に代わる大事な時期でした。その後平成までの20年は転職や公務員生活でこれまた楽しい時期でした。こうして昭和を総括しながら、大正生まれの親父がそうであったように、昭和生まれの私もまた平成という情報化社会に翻弄されながら老後を生きて行くのかと思うと、昭和の日は何か背中に重い荷物を背負っているような感じがするのです。

 居間の若者たちにとって昭和の日などという日はただ単なる祝日という感覚で、勿論私でさえブログに記事でも書いていなかったら、こうして昭和という時代を振り返ることもなかったのですから、いい加減なものです。でも町内を歩くと心ある家庭は軒先に国旗を掲げ国民の祝日をしっかりと祝っているのです。

 わが家でも私が若い頃は国旗を玄関先に揚げていました。いつのころかも定かでありませんが、多分私の忙しさにかまけてすっかり国旗のことを忘れてしまっていたのです。

 国旗で思い出すのはにっぽん丸という青年の船で太平洋を渡り、建国200年のアメリカとメキシコ、ハワイを巡った時の思い出です。私たちの船がメキシコのアカプルコに入港した際、熱烈な歓迎ぶりに船のデッキから手持ちの小さな国旗を団員が出迎えた人に投げました。悪気があってのことではなかったのですが、そのことが大きな議論となりました。国の象徴と言われる日の丸国旗に対する認識不足を痛感する出来事でした。


 帰国後私は国旗を買い求め、国民の祝日には必ず子どもたちと一緒に玄関先に国旗を掲揚していました。多分幼い息子たちもそのことは記憶に残っていると思うのですが、その後国旗掲揚をしなくなった私のいい加減さを今日改めて感じたのです。

 明日から5月です。憲法記念日、みどりの日、子どもの日と国民の祝日が目白押しで続きます。ゴールデンウィークなどと浮かれることなく、もう一度国民の祝日の意味を考え、何処へ収納したかさえも記憶にない国旗を探して明日から始まる来月は何としても国旗を玄関先に掲げたいと思った次第です。

 日の丸国旗に対しては戦争という惨事を経験した日本では賛否両論がありますが、一私人の私としては国旗や国家を大切にするという一心からこれからもそのような考えで臨みたいと思っています。


  「平成に なって生まれた 人多く 昭和生まれは 肩身が狭い」

  「昭和とは せめて祝日 その日には 国旗を立てて 記憶辿ろう」

  「戦争と 平和の落差 後世に 伝える義務を われら持たねば」

  「軟弱な われの心を 恥にけり 国旗掲揚 せずに祝日」

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