○舞たうん100号記念号届く
私は得意というほどではありませんが、機関紙や雑誌にエッセーなどを依頼されると浅学を顧みず好んで書くことにしています。このため最近はエッセーストと見まがうほど様々な分野に登場して、自分の文字での主張を述べています。大体人間は喋れる人は書けないとか、書く人は喋りが苦手の人が多いのですが、私は書けて喋れて、実践する三位一体の人間になることを理想としているため、訓練のつもりで書いているのです。お陰で書くスピードが昔に比べればダントツに早くなったし、話題へのアプローチも幾分飲み込めてきました。
2~3日前、えひめ地域政策研修センターから舞たうん100号が送られてきました。この記念号を担当した清水研究員は既に出向元へ帰っていますが、彼が満身の力を込めて作り上げた力作だけに、手に取った重さはページ数はいつもの機関紙と変わりはないのに、随分重く感じました。
私と舞たうんとの出会いは創刊1号からですからもう23年も前になります。以来今回の100号まで、時には執筆者として、時には読者として様々な深くも浅い付き合いをしてきました。当時はインターネットなどなかった活字が唯一の情報手段でしたから、随分舞たうんから全国の先進事例や人間の生き方・考え方を学ばせてもらいました。いわば舞たうんはまちづくりを志した私にとって恩人ともいえる貴重なものなのです。
私ははからずも今回の100号記念号で巻頭言ともいえるプロローグに、「舞たうん百号とともに生きた日々」と題して、えひめ地域づくり研究会議代表運営委員の肩書で寄稿しました。先月のえひめ地域づくり研究会議運営委員会で長年務めた代表運営委員を辞しましたので、私にとってはこれが辞任の挨拶文のようになってしまいました。でも書いた温故や知新の数々は紙面校正の都合で次々にカットして舌足らずになったことは否めませんが、それでもいい記念になりました。表紙を入らけると翠小学校の校舎をバックに少しすまし顔の私の写真が、「大役を降りてホッとしたよ」と言いたげに載っているのです。
今回の100号記念誌の企画が担当の清水さんから持ち込まれたとき、愛媛県内で活躍する達人たちに登場してもらうと人選に耳を貸しました。また私たちが憧れて止まない宮本常一研究の第一人者である作家佐野眞一さんに特別寄稿をお願いする夢も聞きました。紆余曲折の苦労を経て佐野眞一さんから寄稿のOKを貰ったと、嬉し第一報を遥か沖合いに浮かぶ周防大島に出かけていた清水さんから届いた時は、わがことのように喜んだものです。佐野眞一さんの原稿はゲラの段階で読ませていただいていましたが、改めて読み返してみると作家の視点の鋭さに驚き、かけがいのない100号になったと喜んでいます。
「旅する巨人」で大宅荘一ノンフィクション賞を受賞している佐野眞一さんとは、一度だけ周防大島で講演を聞いただけのご縁ですが、この特別寄稿がご縁で、今年の11月には人間牧場で開いている年輪塾の公開セミナーに招きたいと今から気の早い話に花を咲かせているのです。
佐野眞一さんは「宮本常一から学ぶもの」という寄稿の中で宮本常一という人間を通して私たちに熱いメッセージを送っています。
「樹をみろ、いかに大きな幹であっても、枝葉がそれを支えている。その枝葉を忘れて、幹を論じてはいけない。その枝葉に大切なものがる。学問や研究はあくまでも民衆や庶民の生活を土台に築きあげるものだ」
昨日その言葉をかみしめながら人間牧場に置かれた樹齢150年の高知県馬路村産魚梁瀬杉の切り株の上に座りました。既に枝葉も根も切り落とされていますが、自分が目には見えない枝葉や根にならねばならないと、決意を新たにしたのです。
編集に携わった清水さんが編集後記に「散る桜 残る桜も散る桜 答えは常に風の中にある」と書き残しています。枝葉を揺らす風の存在、根から吸い上げる水や養分の大地の恵み、さらには燦々と降り注ぐ太陽などなど五輪の書に表すべき自然とのネットワークも大切だと痛感しました。いい100号を届けて下さってありがとう。
「百号は 終わりではない 始まりと 思えば意味の 深さ更増し」
「いい記事を 読みほぐしたる 度量なば 何の意味あろ 百号いえども」
「短か文 長い文章 ちりばめて 想い心に ビンビン響く」
「カーラジオ 風に吹かれて ボブディラン 形ないもの 大事と歌う」