○どこで習ったのでしょうか孫の言葉
昨日泊りに来ていた孫を松山に送って行きました。少々風があって外は寒いものの車内は暖房が効いて温かでした。私がカーラジオをひねってNHKのラジオビタミンを聞いていると、チャイルドシートから解放されて前の座席に座った孫朋樹は、盛んにCDやカーナビをを触るのです。去年孫の操作でカーナビが故障したこともあって、触らせないようにしようとするのですが、手元のリモコンで画面を操作し松山城などをしっかり呼び出しているのです。そういえば最近はテレビゲームもできるようになって、私よりはるかに進化した姿に時折驚いたりするのです。昨日は松山地方気象台から桜の満開宣言が出されたようで、どこを通っても桜は満開に近いような姿を見せていました。
途中100円ショップのダイソーに立ち寄りました。まだ早い10時だというのにもう店内には家族連れのお客さんが多く来店していて、思い思いの場所で品定めをしていました。私は迷うことなく文房具の売り場で紙の表紙ホルダーを5セット買い求めました。これは毎日書いているブログ記事をプリントアウトして一ヵ月をまとめて一冊の綴りにして保存するために使うのです。早いものでもう三年半が経ったため、綴りは40冊を超えました。表紙を付けると暦年に月を加えて2008・4と記して人間牧場のオープン書棚に陳列するのです。
私は3枚組5冊を5百円+消費税で買いましたが、孫朋樹は色折り紙とセロテープを2百円+消費税で買ってくれとせがみました。わたしが「そんなもの家にあるでしょうが」ととがめると、「おじいちゃん、このくらい安いものよ」とまるで大人のような口利きの言葉が返ってきました。いつの間にこんなこましゃくれた言葉を話すようになったのか、驚いたり呆れたりで開いた口がふさがりませんでした。
そういえば最近孫朋樹の言葉が妙に気になっています。何かの言葉い頻繁に「チョー楽しいとかチョーやばい」などと「チョー」という言葉をつけるのです。私たちの子どもの頃には聞いたこともないような言葉がどんどん出てくる姿を見て、「これは幼稚園で知らず知らずのうちに身についたものだと直感しました。確かに今の若者世代は若者言葉といわれるような言葉を使っており、それが家庭でも話され子どもたちは知らない間に耳から入って幼稚園で広まるという循環なのです。
日本人は日本語という共通の言語を話します。外との交流が殆どなかった昔は「えっこれ日本語」と思われるような理解に苦しむ方言が幾つもあって、分からない言葉が沢山ありました。しかし今は大学も地域間の交流も広域的になって、東北弁も鹿児島弁も殆ど姿を消してしまいました。しかし困ったことに「これでも日本語?」といわれるような短めの単語が流行り、瞬く間に日本全国に広がっているのです。
ある日本語学者に言わせればこれは日本語ではなく、今は日本語という文化の危機だとさえ言っているようです。「チョー」くらいなら私にも分かりますが、時折変な日本語を話す孫の言葉を聞いて、私も古くなったものだとしみじみ思うのです。
子どもの向こうには必ず親や家族、仲間や職場、地域や団体などが存在し多かれ少なかれそれらの影響を受けて育ちます。せめて子どもに対して正しい日本語を教えてやるような賢い親になってほしいと思いながら「このくらい安いものよ」という言葉を聞きました。
「このくらい 安いものよと いう孫に どこで習った 思わずハッと」
「日本語が 乱れていると つい思う まず親たちが 直さなければ」
「チョー嬉し 孫に習って 言ってみた 妻に止めてと 注意をされて」
「方言jを 言ったら孫に それは何? 孫と俺とは どちらが正し」