shin-1さんの日記

○悲喜こもごもの一日

 今日はすでにリタイアして悠々自適の生活をしているであろう3人の知人・友人・旧友の所を相次いで訪問しました。最初に行ったのは病院へのお見舞いでした。数日前ある方からその人が6月頃から体調を崩して入院しているらしいという情報を耳にしたのです。その方とはかつて若いころから仲間であり先輩として酒も議論もよくした間柄なのです。知らないこととはいえ3ヶ月間も、入院しているのに知らなかったとは大失態だと思い、とるものもとりあえず急いで見舞いに行ったのです。友人からおおよその病気や体調について聞いていたので、少々不安でしたが、入院患者案内窓口で部屋を聞き、思いきって病室へ足を運びました。午前11時にエレベーターで病室のある6階まで上がり、病室の入口で入院患者名の名札を確認し中へ入りました。その人は背中を窓際に向けて横になっていたため、4人相部屋のどの人なのか分からず、失礼があってもいけないと、起きて本を読んでる人にその人のベットを尋ねたました。すると背中を向けて横になっている人が、私の気配を感じたのか仰向けになって私を見つけてくれました。見ると顔は薬の副作用らしく別人のようになっていました。肺の病気なので吐く息も荒く、そのまま横になるよう勧めましたが、気をつかったのかベットに座って私と相対し少しの時間お話をしました。昔のように患者に病名や経過を隠す時代は終わって、今は自分の病名や治療後の経過などを医者から聞いているらしく私に詳しく話してくれました。

 あれほど元気だった彼に病気がついて、病気が見つかった時はかなり病状が進んでいたらしく手術ができなかったらしいのです。薬で治療していますが、別の場所に転移していると先日告げられたそうです。弱音を吐く彼を言葉で励ましましたが、痩せた私を見て「お前も元気で頑張れよ」と逆に励まされました。お見舞いの祝儀袋をベッドの枕元において部屋を出ましたが、狼狽した私はうっかり別の方向へ進んでしまうほどショックでした。

 病院を出た私はその足で東温市の中央公民館へ向かって降り出した雨の中を車を走らせました。公民館のロビーでは、公民館に勤めていた若い時代にお世話になった藤原喜久利先生が写真の個展をしているのです。先日葉書をいただいていたので見学に行きました。運よく先生は受付で来客の対応をしている最中でしたので、芳名録に住所と名前を書いて順番に写真を見て回りました。かつては県展の審査員を務めたことのある実力者なので、花や夕日、自然など素敵な写真が所狭しと飾ってありました。先生の話によると飾っている写真は全てデジカメで撮り自分でプリントアウトしたものだそうです。

 退職後折につけカメラ片手に撮影しているのだと、写真を説明する姿はまるで少年のような目の輝きをしていました。「ああいい人生、いい余生を生きているなあ」と感じながら会場を後にしました。

 次の目的地は県の生涯学習センターです。重信川にかかる長い橋を渡りセンターのある川向こうの高台までは15分ほどで到着しました。2階に上がると先ほどの先生とは対照的な山、しかも外国スイスの写真が先生の几帳面さを表すように整然と展示されていました。展覧会の主である室家俊文先生はかつて松山工業高校の校長先生をした方で、私が同校のPTA会長をしたこともあって、リタイア後も親しくお付き合いやご厚誼をいただいているのです。先生は毎年スイスへ約1ヵ月間出かけアイガー北壁などの素敵な写真をもう10年にわたって撮影しているのです。そのことは一部の人が知っていましたが、昨日友人から先生が個展を開いているから行くよう勧められたのです。人から見れば何とも優雅な余生ですが、先生の生きざまを垣間見る思いがしました。

 私は早速アンケート調査用紙に感想文を書いて箱の中投函して部屋を出ました。

 三人三様それぞれの生き方を垣間見ながら、悲喜こもごもの一日を過ごしました。


  

  「病院の ベットで早くも 三ヶ月 治る当てなし 寂しかりけり」

  「亡き母が カメラ道楽 認めよと 遺言残す だから堂々」

  「十年に わたってスイス 一ヵ月 羨ましいが 俺には出来ぬ」

  「一日で 悲喜こもごもの 人生を 垣間見歩く 複雑気持ち」

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shin-1さんの日記

○40年ぶりの再会

 平成になって既に20年が経ち、平成生まれの若者が活躍するような時代になると、「昭和は遠くなりにけり」の感じが否めないこの頃です。しかも昭和19年生まれの私のような人間はどこか古ぼけて見られはしないかと、日頃から言動に気をつけているつもりですが、なかなか時代のギャップは埋まりそうもなく、次々と飛び出す新語や流行にアタフタしているのです。

 私の主張にとって忘れられない日が二つあります。ひとつは今から20年前の43歳の時、平成元年1月14日の出来事です。海外派遣30周年記念論文募集に応募した論文が総務庁長官賞という大臣賞をいただいたのです。東京の赤坂プリンスホテルで開かれた授賞式には皇太子殿下もご列席される予定でしたが、昭和天皇の急なご崩御によって叶いませんでしたが、青年の船で建国200年のアメリカへ行った体験を綴った「地球サイズの時代」という論文は、新聞にも掲載されて大きな反響を呼びました。

 二つ目は今から40年前の23歳の時、昭和42年11月26日の出来事です。第14回NHK青年の主張の愛媛県大会があり、原稿審査にパスした11人がNHK松山放送局で主張をしたのです。当時私は漁師をしていて、仕事に誇りを持とうと「私の訴えたいこと」と題した私の主張が県代表に選ばれたのです。当時はまだその模様はラジオ番組しかなく、次年度からテレビ放送となりました。四国大会へは私ともう一人今治の村上幸一さんが選ばれました。四国大会はテープ審査でしたが、村上幸一さんが選ばれ全国大会へ出場したのです。

 以来村上幸一さんとは年賀状程度の交流が続きましたが、そのうち私の視界から彼は言えて行きました。でも今治を訪ねる度に彼の消息が気になっていましたが、忙しさの余りに調べることもせず時は流れたのです。

 昨晩のことです。私は今治市中央公民館の山田館長さんに頼まれて、「まちづくり・けやき塾」へ講演に出かけました。講演が終わって山田館長さんが「今日は若松さんにとって珍しい人がこの会場に来られています。若松さん覚えていらっしゃいますか、村上幸一さんです」と紹介され、参加者の中の一人が起立しました。「はい覚えています。NHK青年の主張の県代表だった人です」と答えました。みんなが二人の再開に大きな拍手を送ってくれました。



(40年ぶりに再会した村上幸一さん)
(今治けやき塾)

 それにしても驚きました。40年間も会わなかった意中の人に突然に会えたのですから、嬉しさが込みあげてきました。ロビーに出て名刺を交換しました。本当はもっともっと話したかったのですが、時間も夜9時になっていて、帰りの時間が気になるし、加えて彼は受講生なので説明会もあるようなので早々にお暇をしました。

 人にはそれぞれ思い出の出来事や思い出の人がいます。あっという間に駆け抜けた自分の人生の中で、NHK青年の主張くらい私を人生の表舞台に立たせてくれる出発となった出来事はないと思うのです。当時漁業者が主張をするなんてことは滅多になかったので、私のテレビ番組が2本、ラジオ番組が5本も出来ました。その模様はダビング技術のなかった時代ですので闇に消えて残っていませんが、オープンリールのテープだけはNHKからいただき倉庫のどこかに眠っているものと記憶しています。しかしオープンリールのテープレコーダーさえもうなくなった時代なので、果たして再生が可能かどうかも疑問です。当時は私の主張を地元の成人式で記念講演的に発表したり、ちょっとだけヒーロー気分を味わいました。

 それにしても村上幸一さんに昔の面影を重ねながら車を走らせましたが、40年で人の風貌は変わるものだと思いつつ、村上幸一さんもまた、私の風貌の変化に驚いていることだると思いました。

  「覚えてる? 言われて立った 男性に 昔重ねて 記憶を辿る」

  「四十年 どこでどうして 生きてたか 姿変わりて 過ぎし日思う」

  「掲額に 僅かに残る 痕跡が つわものどもの 夢のかけらか」

  「あの頃は いう歳なった 六十路越え 下りの坂を 転ばぬように」 


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