shin-1さんの日記

○私のブログ記念日

 私には私だけの様々な記念日があります。例えば(1944年)昭和19年10月3日は私の誕生日ですから最も大切な記念日で、これまで63回も記念日を迎え、間もなく64回目を迎えることになるのです。これ以外にも(1986年)昭和61年6月30日は下灘駅で夕焼けコンサートをやって大成功を収めた夕日記念日であったり、(1076年)昭和51年4月21日第10回総理府派遣青年の船の班長に選ばれて建国二百年のアメリカへ行くことが正式決定した、旅立ちの記念日であったりと様々です。

 そんな中で私のブログ記念日は(2005年)平成17年9月8日と定めています。この日私は初めてパソコンでブログを書きました。パソコンで検索すると2005年9月8日22:3:37と書いた時間まで正確に記録されているから驚きです。その時は娘婿や息子に勧められるままブログの意味も分らず、書いた文字を訂正するすべさえ分らぬまま書き始めたのです。しかし少しずつなれてくると文字の色を変えたりテーマを文章の頭に書いたり、また写真を取り込んで表現したりしながら、中々奥が深いことを感じました。私がブログを書き始めた頃、私の町でブログを読んでくれる人など殆どいませんでしたが、今は「犬も歩けばブログに当る」ように普及して、特に人気のある人のブログは凄くアクセスが多いようです。私のブログはそんな人とは比較にならないほど低いレベルなので、そんなにアクセスは多くないものの、時には千人を超えてアクセスがあってその意外性に驚くのです。

 ブログを書くようになってパソコンの前に座る時間が以前よりはるかに長くなりました。妻は健康への影響を心配していますが私はいたって平気で、今は朝起きて一本、夜寝る前に一本と書くことが毎日の日課になっているのです。

 「よくそんなに書くことがありますね」と時々人に聞かれますが、私のブログのネタは日常の暮らしの中で感じたことを書いているだけなので、汲んでも汲んでも枯れることはなく、むしろもっと書きたい心境ですが、読む側と書く側の理論をしっかりと弁え、適当な作品に仕上げなければいけないのです。

 最初は一年のつもりで書いたのに次の目標であるとりあえず3年までも手に入れました。一年で月毎まとめると12冊、3年で36冊もの日記風ブログ本が出来ました。それらはまとめて人間牧場の広くて大きい書棚の一角に置かれて、来客の暇潰しに読んで貰っているのです。「石の上にも三年」という言葉がありますが、まさにブログ三年の積み重ねは、私自身の生き方を文章を通して見直す大きなきっかけになりました。また毎日文章を書くことで文章を書くスピードが少しばかり早くなったことも大きな副産物となりました。さらにブログを呼んだ方たちとメールでの双方向交流に発展しています。

 私は凡人です。凡人ゆえにやることも凡事です。しかし毎日やることが凡事でも続けると非凡になると信じています。ハガキを毎日3枚書いていることや毎日海岸清掃を12年間やったことと同じことだと思っています。

 人間は得てして見果てぬ夢を見ます。私たちが子どもの頃そうであったように、時代こそ違え、夢こそ違うものの、現代の子どもがサッカー選手やアイドルになりたいという夢はまさに見果てぬ夢でしょう。しかし夢を勝ち得るためにどれ程血の滲むような努力が必要かは余り語られることはありません。ゆえに夢に破れ夢が叶わなかったのは社会や回りの責任だと思って人生を狂わせる人は沢山いるようです。親父やお袋の家業を継ぐという平凡なことでも、誇りを持って凡事を徹底すれば、非凡な人生が歩めるのです。

 毎日人より少しだけ早起きをして人の寝ている間に一本のブログを書き、毎日人より少しだけ夜更しをして人が床についている間に一本ブログを書く、何気ないことですが続ける価値はあったと3年間を振り返るし、これから続ける意味もあるだろうと心に決め4年目のスタートを切りました。

  「三年も 書きも書いたり パソコンで ブログ足跡 しみじみ思う」

  「さて俺の やること凡事 だとばかり 思っていたが 気がつきゃ非凡」

  「千人を 超えるアクセス どう見るか 期待されてる 独りよがりだ」

  「ペーパーに しないと不安 過ぎります 賞味期限の 過ぎたアナログ」 

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shin-1さんの日記

○中学校の運動会

 地元中学校の学校評議員をしているため、運動会の案内状が届きました。日曜日ということもあるし、歩いて5分の近場に学校があるため、孫を伴って見学に出かけて行きました。私が中学生頃の通学校とは随分様変わりしていて、迫力という点で少し拍子抜けする感じは否めませんでした。少子化の影響で生徒の数が極端に少なくなっているのです。運動会といえば自分の少ない出番を前日の夜プログラムに丸をつけ、必ず見るよう父母に頼んだ記憶がありますが、今はまるで全員が全種目出場のようで、演技が始まると生徒の控えに用意されたテントの中は、病気で出場できない生徒が残っているだけで人影が殆ど見えないのです。

 それでも小学校と違った少し子どもながら、少し大人の片鱗を見せて一生懸命演技をしていました。何年か前高知県西土佐へ行った折、酒を飲みながらある友人が「俺はこれまでかけっこが得意で、3番以下になったことがない」と腕をまくって強がりました。「へえーあんたは早かったんだねえ」と感心すれば、「過疎の村、過疎の学校なので3人以上で走ったことがない。だから三番以下にはならなかった」と大笑いしたことがありますが、上中も4人と3人以上のかけっこはないのですから、当時人ごとと笑っていましたが、いつの間にかわが町わが中学校でも人ごとではなくなっているのです。

 先生たちから話を聞けば二言目には必ずといってよいほど、小規模校の嘆き節が出てきます。競争意識や積極性に欠けるというのです。少し大きな学校に先日お邪魔しましたが、生徒の名前も顔も覚えられないようなかんな大きな学校は学校ではなく、目が届かないのが実情だといっていました。確かに小規模校には小規模校の、大規模校には大規模校の悩みがあることは事実ですが、小規模校にも大規模校にも見方を変えればいい点が沢山あるのです。やらないことをやれないといって言い訳をしているようにも感じるのです。やれないとやらないは違うのです。

(縄跳びは小規模校ならではの団結心をいかんなく発揮していました)
(校長先生と並んで最前列で運動会を観戦する孫朋樹)

 校長先生の勧めるままに、私と孫朋樹はこともあろうに校長先生と並んで最前列の席で見学させてもらいました。孫と私は大きな声を出し、大きな拍手をして心からなる声援を送りました。中でも孫が喜んで大きな声を出したのは、縄跳びでした。後の席にいた方が「僕数がかぞれれるの偉いねえ」と褒められたものですから、「ひい、ふう、みい・・・・・」ととんだ数を数え、失敗するとずっこけて悔しがりました。

 孫は後の席で観戦していた翠小学校和田校長先生、由並小学校吉田校長先生にもちょっかいを出して、楽しいお喋りをしていました。「吉田と和田でダブル田ー」とおどけて見せるお二人に興味を示したのは言うまでもありません。どうやら孫も私に似て中年の女性が好きな癖があるようです(笑い・笑い・大笑い)

 午後の予定もあって早々に引き上げましたが、夜来の雨でぬかるんだ運動場の水をスポンジで取りながら行った運動会は、孫にとっても忘れられない思い出になったらしく、帰って母親に「校長先生が日曜日に運動会があるので来なさいといわれ、約束したので行くよ」と屈託なくいっていました。はてさて来週の日曜日、私の予定はどうだったか、気になるところです。

  「子も孫も 通わないのに 学校の 運動会へ 孫と二人で」

  「日曜日 うちにもおいで 校長が 言うものだから 孫はその気に」

  「女好き 俺に似たのか 校長に ちょっかい出して 私赤面」

  「三位以下 なるはずはない 三人で 走った結果 それでも三位」



 

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