shin-1さんの日記

○水不足の予感

 北陸のあちらこちらでは水害に見舞われた今年の夏ですが、西日本では連日35度を越える猛暑日が続いていて、気圧配置から考えると当分は雨の降る気配はないようです。何時もの事ながら水はあり過ぎると困るし、なくても困るし、世の中中々上手くいかないものだとしみじみ思うのです。農作物が悲鳴を上げて枯れ始めていますが、農家の方も農作物を守るために必死なようで、水を確保している近所のみかん畑では、潅水のためのスプリンクラーが涼しげに水を空中に向って飛ばしています。

 わが家でも親父が庭の隅にある井戸の水を畑や庭に潅水していますが、焼け石に水といった感じで、さほどの効果もないようで、トウモロコシがついに枯れ始めました。今年はトウモロコシが豊作で沢山食べましたので思い残すことはありませんが、それでも折角つけた実も食べれなくなって処分とは勿体ない話です。

 県内からは早くもダムの貯水率表示が新聞やテレビで報道され、松山市でも公共施設の蛇口に減水工事が施され始めました。簡易水道に頼るわが家ではまだそんな気配はないようですが、みんなで節水に心がけ、何とかこの夏を乗り切りたいものです。

 昨日、松山市の公共施設のトイレに立ち寄ったら、便器の前面壁にやたらと「節水にご協力を」という貼り紙が貼っていました。その貼り紙の下に小さなステッカーが利用者の心を促すように貼っていました。「節水とは水を使わないことではありません。水を必要以上に使わないことです」と・・・・。誰が考えたかは知りませんが、短文ながら的を得た諭しの言葉だと感心しました。私たち男性は余りしませんが、特に女性はトイレに入るとまず水洗便所のコックで水を流してから使用するそうです。用を足した後出る前にもう一回流すのですが、トイレに入って流す最初の動作は果して必要なのでしょうか。折りしも隣の女性トイレに若い女性が入って行きました。別に側耳を立てる野暮な気持ちはありませんでしたが、確かに入るなり水の流れる音が聞こえました。多分使用後は必ず流すでしょうから、この女性も2回流したようです。2回は1回の倍です。女性全てが一回だと相当な節水になるはずだし、ステッカーのメッセージどおり、必要以上に使わないという精神が生きてくるのです。

 まちづくりも様々な目的や方法がありますが、夏になると毎年「節水のまちづくり」が議論になります。しかしこれも夏の間のデモンストレーションのようなもので、やがては忘れ去られてしまうようです。結局は一人では何も出来ないけど、一人から始めないと何も出来ないことをしっかりと意識しなければ節水のまちづくりは出来ないのです。

 夏になると打ち水が恋しくなります。夕方夏の暑さに焼けた庭に打ち水をし、タライに張った水の中で行水をした子どもの頃の懐かしい思い出が蘇ってくるのです。打ち水効果といって、打ち水をすると温度が下げることは色々な実験データーで証明されていますが、肝心の水がなくっては打ち水どころか飲み水にも事欠くことになりかねないため、当分はお預けしなければなりません。

 私の町は海の町で、町の北側には飲めない水ながら海水を満々とたたえた瀬戸内海が広がっています。水が恋しい季節ゆえ、海を見ているだけでも何処となく癒されるのは、人間が海から生まれた由縁かも知れません。せめてこの海で海水浴などを楽しみたいものですが、海水浴を終って陸に上がるとこれまたシャワーで塩抜きをしなければなりません。水の少ないわが町にとっては痛し返しの苦悩の日々が当分は続きそうです。

  「節水は 水を使わぬ ことでなし 必要以上 使わぬことだ」

  「打ち水の 庭でタライの 行水を 懐かし思う 俺は古いな」

  「人よ来い 人は来たけど 水使う 痛し返しの 夏は当分」

  「俺ぐらい 思う心が 集まれば 不足不足で 間もなくピンチ」

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shin-1さんの日記

○県庁で記者会見をしました

 私が愛媛県青年団連合会長の要職にあった38年も前に、国立青年の家の誘致問題で、県庁の記者クラブで記者会見に臨んだことがありました。当時は若くて居並ぶ新聞記者の前で滅茶苦茶緊張して、質問にも答えられなかった苦い経験がありますが、今日同じ記者クラブで記者会見に立ち会いました。11月に開催予定の第26回地域づくり団体全国研修交流会愛媛大会の記者発表を行うため、実行委員長を務める私と副委員長の北村県市町振興課長さん、栗田えひめ地域政策研究センター所長さんの3人に加え、事務局の小方主任研究員と谷本研究員の5人が席に付きました。
(ポスターを貼った前に陣取り記者発表する面々)
(テレビとプレスへの同時発表)
 実行委員長の私が「この大会は、全国各地の地域づくり活動に携わる関係者が一堂に会して、情報交換をおこなうことにより、自らの活動を活発にする『地域づくりの智恵』の獲得と、より地域を元気にしたいという『地域づくりにかける情熱』を高めあう契機とするため、開催するものです。平成6年の東京での開催から始まり、各都道府県の持ち回りで開催され、今回の愛媛大会で26回目となっています」と、愛媛大会の開催趣旨を説明しました。

 続いて「お配りしている資料の愛媛大会募集要項冊子をご覧下さい。冊子の表紙に記載しておりますとおり、『きなはいや伊予の国~広げよう地域づくりの輪』を大会テーマに、11月14日と15日の2日間にわたり、南予文化会館での全体会及び県内15会場で分科会を開催します。開催地は全体会は宇和島市の南予文化会館で、分科会は南予地域を中心とする13市町の15団体で実施します」と延べ、大会参加募集などについて粗方を述べて、私の説明を終りました。

 その後記者の方々から質問を受け、課長さんや所長さんが補足説明して記者発表は10分ほどで終わりました。あっけないような気もしましたが、資料に基づいてこの程度で記事を書くのですから、ジャーナリストは偉いものです。

(発表を聞き取材する記者の皆さん)

 そのご局長さんや後総務部長さんにもお会いし、知事さんと副知事さんの所へごあいさつに伺いました。役所に勤めていた頃は町長さんの随行で何度も知事さんや副知事さん、それに総務部長さんにお会いする機会がありましたが、リタイアして野に下ってからはそんな晴れがましい世界から姿を消したため久々の表舞台でした。

 それでも知事さんはしっかりと私の顔を覚えていていただき、全国大会の話題は勿論のこと、私が国土交通省の観光カリスマに選定されていることを話題にして優しくお話していただきました。そして「願わくば全国大会への出席もお願いしたい」とご依頼したところ、直ぐに11月の予定表を取り寄せ、出席する旨の快い返答をいただきました。県知事さんに何の前触れもなく大会への参加を直訴することなどあるまじきことなので、退席する時自責の念に駆られましたが、にこやかな笑顔で見送られそれが救われた思いでした。これで実行委員会のメンバーの大会への思いもさらに高まるものと思われます。

 続いて副知事室を訪問しました。就任して一度もお会いしていませんでしたが、雑談でお互い若い頃コミュニティの仕事をご一緒したことや、その折私に講演を依頼しており、ひょっとしたら県庁で私に講演を依頼した第一号ではないかなどと笑って話されました。知事にせよ副知事にせよ、私のような下野の人間をよく覚えているものだと感心しました。

 秘書課の課長をしている井上正さんも知事応接室へ面会に来ていただきました。夢工房の仲間でありながらこのところ出会いがなかっただけに嬉しい限りです。

 県庁へは今は余程のことがない限りおいとまをしています。目障りになってはいけないという思いと、自分の値打ちを考えてのことです。たまには立ち寄ってと、友人や知人からお誘いを受ければ受けるほどその敷居は高くなるようです。県庁の廊下でばったり元県議会議長の俊成さんにお会いし、声をかけていただきました。俊成さんは未だに誕生日の祝詞ハガキをいただいています。

 はてさて久しぶりの県庁は少し疲れました。明日はいよいよ合戦の舞台となる宇和島の市長さんを表敬訪問する予定です。こうして少しずつ着実に全国大会の準備は整い、近づきつつあるようです。さあ気を引き締め成功に向けて頑張りましょう。

  「マスコミに 大会概要 説明し 記者の質問 無難にこなす」

  「これ最後 多分もうない 記者の前 頭を下げる 場面じゃなくて」

  「知事さんが 観光カリスマ 引き合いに 出していきなり 驚きました」

  「偉い人 みんなそれぞれ 苦労あり 下野の私に さえも気遣い」


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shin-1さんの日記

○愛媛大学のフィールドワークで長浜町を訪ねる

 学生たちにとっては8月~9月と2ヶ月間の長い夏休みが始まりました。アルバイトに勢を出す学生にとってはかき入れ時とばかりに働く学生もいるでしょうし、久しぶりの休みをふるさとへ帰郷して久しぶりにのんびりする人もいるでしょう。また旅や遊びを友人たちと計画して楽しむ人もいるようです。まあ2ヶ月思う存分充電して欲しいものです。

 本来なら7月28日に計画していたフィールドワークの授業が、学生たちの期末試験の都合で、夏休み中にずれ込んでしまい昨日実施する事になりました。授業の組み立てから折衝まで全て自分がしなければならないため、最初は多少戸惑いましたが、6年目になるとさすがに要領を得たもので、あらかじめ大学に提出したシラバスと予定表に沿って今年は中島町、中山町、長浜町と偶然にも「な行」から始まる三つの旧町を選びました。既に中島町と中山町は終わり、昨日事前に足を運び依頼していた長浜町の役場を訪ねました。

 学生たちはもう大人なので、最初の頃のように大学入口から引率することはせず、汽車の予定時刻や到着時刻を知らせ、私は長浜駅まで車で出かけ、到着時間を待ちました。何時もの事ながら一人ぐらいは都合が悪い学生がいるもので、岡本君は家のご不幸で欠席通知が事前にありましたし、長浜へ向う途中学生から列車に乗り遅れたと携帯が入りました。次の列車で遅れても来るように指示を出し、揃ったので日差しが照るつける中を長浜町支所へ向って歩きました。意識して商店街を歩きましたが、商店街も次第に活気を失いつつある姿が印象的でした。


(支所2階の会議室での研修会)
(西岡支所長さんのレクチャー)

 長浜町支所では案内された冷房の涼しい2階の会議室に案内されました。この会場はかつて私が現役の頃、予讃線海岸回り存続のために設置された協議会の総会などで度々訪れている懐かしい会場です。今はこの建物全体が登録文化財になっていて、古い建物の威厳と重みを感じさせてくれました。10時半から始まった研修会は西岡支所長さん自らが講師になって、あらかじめ作製していただいた資料に基づいて微細なお話をしっかりとレクチャーしていただきました。長浜町は旧他市町村と違い埋め立て造成地による企業誘致を政策の柱に掲げて町政をやった町です。合併前と合併後のまちづくりもさることながら、企業誘致の思惑と現在の様子を比較する絶好のサンプルとなるお話なので、しっかりと勉強するよう学生には事前に話しをしておきました。

 レクチャー後質問座談をしましたが、学生たちは食事の時間を割いて質問をし、支所長さんも熱心に答えていただきました。西岡支所長さんはじめ役所の方々の中には顔見知りも多く、今回のように無理をいって受け入れてもらい、お礼の言葉もないくらい感謝しています。

(長浜高校水族館の入り口)

(珍しいクマノミ)

 食事が終った午後からは現地研修です。歩いて行ける距離ということで長浜高校と赤橋の2つの地点を選んでもらいました。最初に訪れたのは長浜高校です。生徒数も減少している長浜高校ですが、ここは普通科ながら学校内に手づくりの水族館がある珍しい学校です。その中心的な役割を果たしている松本先生はあいにくクマノミの件で沖縄に出張中でしたが、角田校長先生が生徒とともに出迎えてくれました。聞けば角田先生は大洲市田処の亀本耕三さんを通じて出合ったことがあるらしく、懐かしく話しを聞きました。小さな田舎の高校でもこうしたオンリーワンの輝きがあるのですから、やる気になれば面白いと思いました。学生たちは始めて見る不自然な自然に目を見張り、生徒さんの説明を熱心に聞き入っていました。お礼のつもりで募金箱にもみんなで御芳志を入れさせてもらいました。

(赤橋)

 次の目的地は赤橋です。有形登録文化財になっている赤橋をボランティアガイドの山本会長さんに説明してもらいました。そして私たちのため車を止めて赤橋を稼動させ上げて貰いました。こんなサービスまでして貰い嬉しい限りです。

 赤橋のたもとに見落としそうな江湖の港があります。ここは脱藩の道をたどった坂本龍馬が肘皮を小船で下って入港し、山口県へ出港した港として歴史家には有名ですが、地元では忘れ去られたような存在のようで、余り関心がないようです。近くにある龍馬宿泊の旅籠跡も見学させてもらいました。

(山本さんの説明に聞き入る坂本龍馬ゆかりの江湖の港)
(坂本龍馬宿泊地)

 その後あいさつのつもりで村上薬局に立ち寄りましたが、知人の店主村上さんからよく冷えた栄養ドリンクを学生の数だけいただき、恐縮してしまいました。学生たちは4時10分長浜駅発まで約1時間を暑いがゆえに散策もままならず、苦労したと思いますが、これも修行と思い私は次の予定があるので、早々に長浜をおいとましました。

  「合併で 次第右肩 下がってる 地方の嘆き 上に届かず」

  「いいものが 沢山残る 隣り町 古き値打ちに 思わずゴクリ」

  「暑いのに ガイド引き受け 切々と 語る額に 玉汗光る」

  「有り難い 昔馴染みの よしみにて 気配りもらい 学生学ぶ」

  

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shin-1さんの日記

○三井典行さん55歳のご逝去

 最近私の身の回りで、私より早く人生を終える人が目だっています。今日は前双海町商工会長だった三井典行さんが亡くなり、その通夜が営まれるというので伊予市の葬祭場へ出かけました。最近は葬儀どころか通夜までも葬祭場でするため、私の町のように葬祭場のない地域では車で出かけなければならず、車に乗れないお年寄りは参列したくても中々参列することが出来ず、心残りな人もいるようです。

 それでも三井さんの生前の幅広いご厚誼を物語るように通夜には沢山の人が参列していて、在りし日の三井さんを偲びました。

 三井さんは私の末の弟勝彦とおない年の55歳です。若くして商工会長の副会長や会長を歴任し活躍したため、それ相応の年齢に勘違いされましたが、今朝の新聞のお悔やみ欄を見て皆一様に歳の若さに驚いたようです。今日は喪主の奥さんと典行さんのお父さんが列席していましたが、若くして夫をなくした奥さんも、自分より先に逝くお父さんも無念の涙を流し、参列者の涙を誘いました。

 三井さんはいわゆるUターンです。広島に支店のある銀行に勤めていた頃奥さん(多分広島県尾道辺りの出身では)と知り合い、船に乗ってお輿入れした瀬戸の花嫁なのです。この話題は数年前NHKのテレビで小柳ルミ子が下灘駅にやって来た折全国に紹介されました。

 彼はUターン後酒屋と旅行業を興し、様々な活躍をしました。小さな田舎の酒屋でありながら全国の名だたる銘酒を扱い、特に銘酒の誉れ高い久保田の特約店として、松山辺りからも買い求めにやって来るほど知名度の高いお酒屋さんなのです。旅行業を営むため酒店はもっぱら愛嬌のいい奥さんが切り盛りしていましたが、おしどり夫婦と呼ぶに相応しい仲でした。旅行業も小さな田舎ながら活発に展開して、何度も一緒に旅をしましたし、その都度遅くまで夢を語りながらお酒を一緒に飲みました。

 商工会は今年の春中山町と双海町が合併し双海中山商工会となりましたが、合併直前の会長であり新組織の副会長に就任していましたし、そのご縁でシーサイド公園を管理運営する第三セクター有限会社シーサイドふたみの代表取締役として活躍されました。数日前も所長さんと三人で話し合った矢先の訃報に驚いてしまいました。三井さんは銀行に務めていたため経済に明るく、それでいて新しいことにも挑戦するなど常に前向きな人でした。1年前くらいから体調を崩してただでさえ痩せた体がさらにほっそりして、周りを心配させていましたが、それでも気丈な方で弱音を吐かず最後までシーサイドの運営についても心配をしていたようです。

 今日の通夜では久しぶりに何人かの人に出会いました。親父の同級生で今は他所の町に住んでいる井上サカエさんは90歳ながら変わる様子もなく矍鑠として通夜に参列していました。「お父さんは元気」と親父のことまで気にしてもらい恐縮です。三井典行さんと親類の三徳電器社長の三井新太郎さんとも久しぶりの再会です。新太郎さんは私の直ぐ下の弟と同級ですがご活躍で、これまで様々なご支援をいただいているので懐かしい出会いです。また元商工会長で私と従兄弟の西下芳雄さんとも久しぶりに出会いました。奥さんが少し病弱で炊事をするなど苦労しているようですが、まあ元気に歳をとっていました。また関西汽船の浜田さんにも出会い、さらには懐かしい私の生まれ在所の方々の顔にも出会い旧交を温めました。これも三井典行さんのお導きと考え、冥福を祈りながら葬祭場を後にしました。

 明日は重要な仕事があって葬儀には参列することが出来ず、帰り際最後の分かれてして亡き典行さんのご尊顔を拝ませていただきました。穏やかな死に顔でした。

  「また一人 早いあの世の 旅立ちを 涙ながらに 寂しく送る」

  「穏やかな 死に顔拝み 葬祭場 フロントガラスに 消えては浮かび」

  「酒愛し 旅を愛した 男逝く これも生き方 短き命」

  「抹香を 手向けて煙 立ちのぼる 涙こぼれて ハンカチ拭う」  

 

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shin-1さんの日記

○新しいパソコンが届く

 パソコンに不具合が生じると決まったように電話をかけて何かと世話になっている娘婿に、不具合の状態を診てもらっていましたが、パソコンの中から異音が聞こえたり、アクセスが出来なかったりするようになって、いよいよ末期症状だと余命宣告されていました。「今の間にパソコンに入っているデーターを移佐内と、故障してからでは遅い」という娘婿の助言を受け入れ、ついにパソコンを買う事にしました。まあパソコンの値段は高いといってもひと頃ほどではないといいながら、リタイアのこの身では妻をないがしろにして臨時出費をする訳にもいかず、妻の財布から出してもらう事にしました。

 娘婿は私の都合を聞き、どの程度の機能を使いこなせる能力があるか、またどの程度の資金が適当かを判断し、インターネットで注文をしてくれました。2~3日前に娘を通じて電話が入りパソコンが手に入ったので夏祭りを兼ねてわが家へ来てデーターの移動をしたいということで、昨日わが家へやって来ました。娘や孫は前日から来ていたため予讃線海岸周りの鈍行列車に乗っての合流です。私はあいにく入れ替わりで3時から友人の葬儀に出席しなければならず、日頃は余りつけない客間のエアコンをつけて、その中での作業でした。葬儀から帰ってみるとその作業は仕上げにかかっていたようでしたが、私は孫の面倒を見ながらその時期を待ちました。

 やがて夏祭りの花火見学にやって来た長男家族も揃い、賑やかな食事の後、そろってシーサイド公園への花火見学です。前夜長浜の花火見学をしているため、私たち夫婦と孫朋樹にとっては花火の梯子とでも言えそうです。

 昨日の今日とでもいうべき花火の比較が出来ましたが、やはり長浜の花火の規模から比べるとふたみの夏祭り花火はかなり見劣りがしました。でも花火を見る角度やシチュエーションは劣ることなく、むしろ一枚上のような感じもしましたが、これも我田引水なのでしょうか。


 花火の寄付を集め花火の打ち上げ計画を立て、許可を得て当日の運営をするといった裏方としての20年に比べると、他岸の花火としゃれ込むのは何とも贅沢な感じがしましが、今もかつての私と同じように努力する裏方がいるのですから、花火が上がる度に人一倍大きな拍手を送りました。今年の花火もいい花火だったと見学した誰もが満足して帰りました。5歳になる孫は花火より夜店での買い物、1歳になった孫2人は花火よりも眠気と、花火が終った頃には花火の音など何処吹く風でスヤスヤ眠っていました。

(孫尚樹君とお母さんとおばあちゃん)
(孫希心君とお母さん)
(孫朋樹君)

 「お父さん、パソコンは一応使えるようになりましたので、何か不具合があったらこの箱の中の説明書を読みながら使ってください。分らない時は電話してください」といって、家族とともに帰って行きました。真新しいパソコンは私の机の上に、新旧比較という感じで並べられています。今日は大学のフィールドワークの授業があって出かけるし、明日から今週は忙しい日程が組まれているため、本格的な始動は来週からになりそうですが、さてこのパソコン、私のいうことを聞いて働いてくれるでしょうか。

 使いこなせるようになるためには、これまた私の進化が必要なのかも知れません。パソコンが2台になって何となく安心していますが、妻はこの際私のパソコンを下取りしてインターネットを始めようかと、要らぬ考えを持ち始めています。「不味い」と思っています。これまで妻の悪口を散々ブログに書いているだけに、読まれてはいけないのです。これからは想定外のことを想定に入れて書かなければならないようです。少し憂うつです。

  「新しい パソコン入荷 娘婿 半日かけて データー移す」

  「黒基調 若者向きの パソコンが 机の上に 眩く光る」

  「機能より 使いこなせる 技術力 妻の財布に 感謝をしつつ」

  「ただ唖然 見ているだけの わが身にて パソコン使う 婿の頼もし」

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shin-1さんの日記

○ホタルを愛した友人の死(福岡親一郎さんを悼む)

双海町の上灘川に生息するホタルは、ある時期絶滅したのではないかと思うほど激減していました。原因は特定できませんが地域の特産品であるみかんの最盛期は、見た目の美しさを追及する余りに何の疑いもなく農薬をかけ、耕して天に至ると形容されたみかん畑から多くの農薬が川に向って流れ込んでいました。又人々の暮しの近代化によって各家庭の台所から出る雑排水も川に流れ込みました。そうした諸々の原因が複合的に絡み合い

川に住むホタルはいつの間にか姿を消していたのです。

 しかし若者たちが中心になってホタル復活運動が起こり、その運動は地域ぐるみの大きなうねりとなって見事にホタルが復活し、環境庁ふるさと生きものの里百選に選ばれるなど、地域づくりの大きな成果を上げてきたのです。その中心になった人々の中に福岡親一郎さんがいました。彼は若い頃から地元のタクシー会社に就職しタクシーの運転手をしながら、ホタルの保存運動に取り組み、ホタルの増殖活動や普及啓発に大きな足跡を残しました。福岡さんはその後タクシー会社を辞め土木業の会社に勤めましたが、ホタル保護活動はその豊富な経験を持って絶えずリーダーとして活躍してくれていたのです。しかし昨年暮れ辺りから体調を崩して通院・入院となり、8月1日に亡くなったのです。

 病院に一度だけ見舞いに行きましたが、そのころは入院中とはいいながら未だ元気で、「元気になって早く帰り、みんなでまたホタルの活動を始めようぜ」と握手をして分かれたのでした。

 歯に衣を着せぬ口調は滑らかで、酒も好んで飲みました。私もホタルによるまちづくりに深く関わっていたため、深夜まで盃を酌み交わし議論を戦わせましたが、親ちゃんの愛称で呼ばれた彼の早過ぎる死は惜しんでも余りあるものがあるのです。

 今日は葬儀が伊予市にある葬祭場であり列席しましたが、奥さんや子どもさんのこともよく知っているだけに、何と言葉をかければいいのか迷うほどでした。和尚さんの読経や引導の儀が終了し、最後のお別れの時お顔を拝ませてもらい花を手向けましたが、180センチもあった大柄な彼のかつての姿はなく、細く痩せていたゆえに辛くて辛くて涙がこぼれました。この上は心から冥福を祈るばかりです。

 福岡さんの功績は上灘川にホタルを呼び戻したこともさることながら、近隣市町村である松前町へホタルの指導をしたことも特質されます。その橋渡しを二人でやったので、余り人に知られていませんが、伏流水の池にホタルを飛ばそうと何度も足を運びました。

 人は誰もいずれ死ぬ運命にあります。早い死、惜しまれる死など色々ですが、福岡さんの死は早い死、惜しまれる死かも知れません。6月7日に恒例のふたみホタル祭りが開かれた折、一時帰宅して車椅子でホタル祭りを見学に訪れていたいたそうですが、あいにく私は岡山県笠岡市へ出張していて顔をあわせることが出来ませんでした。出会った人の話によるとかなり痩せていて、一応に驚いたという話を聞きました。

 今年は彼のこんな姿をホタルは予期したのか、例年になく多くのホタルが乱舞しました。彼にとってこれが最後のホタルとなったようですが、彼の目にホタルはどのように映ったのでしょう。この上はホタルの光に導かれながら天国へ行って欲しいものです。ご冥福を心からお祈りします。

  「田舎にて ホタルを愛した 男死ぬ 乱舞見届け ホタルとともに」

  「プラスワン ホタルに思い 寄せながら 短い命 ついに消え去る」

  「死に顔に どこかホタルの 匂いする 花に埋まった 友に別れを」

  「また一人 仲間が死んで 消沈の 夏は盛りと セミの鳴き声」



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shin-1さんの日記

○隣町の花火

 昨夕は娘が子どもを連れてやって来ました。孫朋樹が夏休みになって週末には必ずといってよいほどやって来るので、わが家は週末になるとかなり賑やかです。特にやっと3~4歩歩き始めた孫尚樹はわがまま盛りで、言葉が言えないため、自分の考えを指先とオットセイのような声で知らせようとするのですが、これが母親以外には伝わりにくく、お茶が欲しいのに外へ連れて行ってみたりまるでチグハグナのです。でもすっかり私たち夫婦の顔も覚えてもらい、お疲れモードの娘に代わって少しの子守援助をしているのです。

 昨日は一昨日人間牧場で開いた年輪塾で夜更かしたせいもあって、昼食後1時間ほど午睡を楽しみましたが、夕方騒々しい集団の襲来でわが家のテンションは次第に高まりました。妻は孫たちのためにコロッケと餃子をたっぷり作ろうと計画してジャガイモを茹でタマネギをミンチにしたりしていよいよ仕上げのところになっての来訪だけに、大忙しの夕暮れとなりました。

 それでも娘が加勢し、わが家の家庭菜園で収穫した素材を使って作った餃子もコロッケも凄く美味しくて最高でした。このところの猛暑で家族の食欲は減退気味ですが、こうして気を配った質素ながらも美味しい料理を毎日食べれるのは有り難い事なのです。

 最近は貧乏人ほど安物に手を出して体を壊し、逆に金持ほど少々お金を出しても体にいいものを食べているそうです。昔は健康は貧乏人の代名詞でした。私たちはその最たるもので、イモや煮干し、麦ご飯などを主食として少年時代を過ごしました。質素な食事ですから体に余分なものが入らず、肥満な子どもなど私たちのみの周りの田舎には殆どいませんでした。大人も同様で今みたいに肥え気味な人は殆どいなかったように思うのです。一方都会の人は白いご飯と肉などをたらふく食べ、羨ましくも幸せそうに見えていましたが、色白の半病人的なひとが目だっていたように思うのです。

 ところが日本中が中流になったとはいいながら格差社会で、都会の裕福に比べると田舎の経済的に低いようで、安いものに手を出す機会も多いようで、都会の人の健康にいいものを高くても食べる暮しとは価値観が違っているのです。

 私は田舎に暮らしていますが、肉などは体調を崩してからは殆ど食べなくなりました。塩分・糖分・脂肪分の少ない、しかも家庭菜園で作る野菜を中心にしているし、玄米食を心がけているので、すこぶる体の調子がよく、腹もよく減るし間食を殆どしない食生活に感謝しているのです。


 昨晩は腹減らしに隣町大洲市長浜町の花火を見に出かけました。8時に家を出て8時20分に到着し、知人のお医者さん宅の駐車場に車を止め、商店街を花火の会場となる赤橋まで歩きました。途中顔見知りの人に声をかけたりかけられたりしながら、ライトアップした赤橋のたもとにある河川敷広場に行きました。孫を伴って私たち夫婦3人の花火見物です。広場には屋台が並んでいてかなりの人が川沿いにゴザを敷いて、8時30分からの花火を待っていました。やがて電気が消され、花火のスタートです。川面に浮かべられた2隻の台船からは仕掛け花火が、通行止めになった赤橋からは打ち上げ花火がそれぞれ見事に打ち上げられました。

 長浜は私たちの町に比べると合併したとはいえ大きな町です。花火も数や質ともにスケールが大きく、久しぶりにいい花火を堪能しました。孫朋樹は夜店で発光体で光ものを買ってもらい、そのことが気になって花火などはそっちのけでした。花火は30分余りで終了し、帰途に付きましたが交通混雑もなく家路を急ぎましたが、孫朋樹は車の中で眠ってしまいました。

 現職の頃は忙しくて他の町の花火など見る時間的余裕や心の余裕もなく働いていました。妻は他の人のように夫婦で花火を見るのが夢だったそうで、今はその夢が叶って嬉しそうでした。

  「手づくりの 餃子コロッケ 食べられる これを至福と いうのでしょうか」

  「安ければ 良かった時代 過ぎ去って 今は体に いいもの食べる」

  「二人して 花火見学 夢だった 妻夢叶い 孫と三人」

  「金の量 これで決まりの 花火かな 俺の町など 質素なものよ」 


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shin-1さんの日記

○社会教育主事講習

 もう30年近くも前の夏、私は社会教育主事の講習を受けるため香川大学に一ヶ月間通いました。通ったといっても当時は高速道路などない時代だったので、愛媛県内から出かけた人たちと安いホテルに一ヶ月間滞在し、そこから毎朝大学に通いました。高校しか出ていない私にとって大学での受講は始めてで、少し緊張気味で受講したことを覚えています。その年は全国的に異常渇水で、特にこれといった川のない香川県では生活水がそこをつき、高松砂漠と悪評を叩かれるほどでした。渇水で干上がった満濃池で死体が上がり、満濃池殺人事件などとまるで火曜サスペンスのような話も話題になりました。

 しかし私にとってこの一ヶ月間は家庭を離れふるさとを離れ、職場をも離れる寂しさはあっても自由を謳歌できる喜びでとてもいい経験をしたものです。あの時一緒に受講した県内の友人たちの殆どは既にリタイアし、時の流れの早さをしみじみと感じるのです。

 社会教育主事講習は四国4県の大学が持ち回りで行いまるでオリンピックのように4年に一度愛媛県に担当が回ってくるのです。今年も今週から愛媛大学で講習会が約1ヶ月に渡って始まりました。二ヶ月前に大学から講義依頼がありました。私の担当は生涯学習概論の社会教育主事の役割です。私に与えられた時間は4時間ですが、実際には休憩を挟むので実労時間は少し減るようですが、それでも4時間弱は話す方も聞く方もかなりハードな講義です。

 私はレジメが嫌いなたちで、普通はレジ目を用意しないのです。それでも大学から再三のレジメ提出要請に負けてレジメを提出しました。しかしそのことをすっかり忘れ、また自分が手持ちしている資料をすっかり忘れて行き多少慌てましたが、少し早めに大学へ到着していたので車内でメモを用意して望みました。

 会場は教育学部の教棟で冷房のよく効いた部屋が用意されていました。送られていた資料を忘れたため右往左往していると県の生涯学習課長さんとばったり出会い、わざわざ控え室まで連れて行っていただきました。大学の先生たちとも面談しいよいよ講義が始まりましたが、会場には知り人が沢山いて、面映い感じもしましたがすんなりと話を始めました。

 前段を私の人生を変えた社会教育を巡る出来事、中断を社会教育を巡る時代を読む、後段を社会教育主事の役割くらいな感じで話しました。特に前段は少し力を入れて話しましたが中身は概ね以下の通りでした。

 ①青年団8年間の活動(仲間・主張・ふるさと・感動という四つの道具)(インリーダーとアウトリーダー)

 ②公民館・社会教育13年(日本一の公民館主事を目指す・県公連主事部会長として)

 ③私設公民館設置34年(青年の溜まり場・21世紀えひめニューフロンティアグループの活動・フロンティア塾)

 ④町の広報10年間で240号発行(書く・記録を残す)

 ⑤結婚披露宴司会537組の偉業(司会術・アイディア・プロデュース術・暮らしを守る生活改善運動)

 ⑥人づくり10年計画(日本一体験国内研修事業―後の人づくり10年計画を産む)

 ⑦町名変更問題(地方自治とは何か)

 ⑧青年の船(地図の真ん中に日本がない世界地図)

 ⑨夕日によるまちづくり

 ⑩人間牧場構想の実現

 まあ車の中で僅か10分で考えたストーリーにせよ、自分らしい話だったと納得しながら話しを終りました。結局用意し、大学がコピー配布してくれたレジメは最後まで使うこともなく、また用意したスライドショーをする間もなく終ったことを終った今多少後悔しているのです。

  「租借して 生かして欲しい 願いつつ 生き様語り お茶を濁して」

  「若き頃 どんな気持ちで 聞いたのか 攻守逆転 今は講師で」

  「資料なく 慌てたものの 4時間も アドリブ話す 良いか悪いか」

  「昨夕は 交流会が あったよう でも眠らずに 瞳輝き」 


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shin-1さんの日記

○宮本常一生誕101年の集い・年輪塾

 人間牧場が開設されて3年が経ちました。その間名前の奇抜さや好奇心もあって多くの人が人間牧場に訪ねて来ていますが、愛媛新聞に人間牧場が紹介されて間もなく一人の男が人間牧場への入塾申請書を持参して人間牧場へやって来ました。彼は旅客船会社のに務めていて、その仕事柄双海の夕日の写真をパンフレットに使いたいので借用したいと、申し出があって以来、営業の途中で立ち寄ってくれたりしながら、自分のルーツが双海町と深いつながりがある事を打ち明けたりして旧交を温めていました。そんな細くも長い付き合いもあったので、いずれは考えたいと思ってはいたものの、塾を開く時間的余裕もなく3年が過ぎました。しかし何人かの入塾希望者がいて、余り自信もないまま年輪塾の看板を揚げる事になったのです。故事来歴まではいかなくてもそんな経過があるものですから、塾開講の折には彼を塾生第1号にしようと決めていました。やがて日々の仕事が忙しく準備も整わぬまま、昨日はとりあえず私を含めた10人で第1回の年輪塾を始めました。


 というのも、昨日は8月1日です。年輪塾が目指す志の中に民俗学者宮本常一の生き方があるので、急遽宮本常一生誕の日である、しかも生誕101年目のこの日を選んで開塾となったのです。普通開塾は塾長や塾長がその想いを塾訓や塾是として詳しく述べるのでしょうが、そんな用意も未だ出来てなく、第一回の講師を事もあろうか外部講師でなく、塾生第1号の浜田久男さんにお願いしました。浜田さんはご存知の人は少なかろうと思いますが、宮本常一の研究家です。宮本常一の本を何冊も読んで、既に宮本常一の足跡を訪ねる旅にも出かけ、関係者と旧交を温めながらかなり詳しい資料を収集し、また宮本常一につながる人たちをかなり多く知っているのです。

 塾頭の清水さんや塾生の松本さんと相談をしながら開講の準備をしました。と同時に浜田さんに持ち時間は1時間という約束で講義の準備をお願いしました。彼にとっては宮本常一を人前で講義するのは初めてのようでしたが、僅か10日余りの間に身辺にある宮本常一の関係蔵書を人数分コピーしたり資料を作成したりと、忙しい仕事の合間を縫って準備をしていました。その様子は私に入るメールで気負いと負い目として読み取ることが出来ました。

 昨日は社会教育主事養成講習の講義を頼まれて、午前中愛媛大学に行っていたので、伯父の病院見舞い予定もあって、県立中央病院のロビーで待ち合わせる事にしました。用件が早く済んだので午後1時に病院へ入りましたが、彼は既に何やら重い荷物を持ってロビーの椅子に座って私を待っていました。見舞いを終らせるからと断りを入れてエレベーターを使わず5階西病棟に駆け上がり、病室での見舞いとなりました。伯父は片目にガーゼを張られ、少し弱々しく感じられましたが予想以上に元気で、少し話しておいとまをしました。

 ロビーにいる浜田さんに、「荷物が多いようなので車を駐車場から出しますので、玄関先へ移動して下さい」と促し、注射料金150円を支払って玄関先に車を止め、トランクを開けて荷物を積み込みました。「浜田さん海外旅行にでも行くような凄いお荷物ですね」と皮肉るほどの沢山の荷物はどうやら本らしく、その重さが伝わってきました。世間話をしつつとりあえず我が家へ案内しました。滅多にかけない客間の冷房をかけ、二人で雑談しながら昼下がりの時間を過ごしましたが、やがて浜田さんはやわら本と資料を取り出し、塾長である私への事前講義が始まろうとしていました。私はその様子を察して丁重にお断りをし、夜の飲み会用として、畑へトウモロコシを取りに行き、皮を剥いで茹で始めました。そのうち妻が仕事先から帰り、寸暇を惜しんで肉や野菜の準備をしてくれました。やがて4時になったので二人で人間牧場へ出かけました。到着した牧場の暑さは相当ながら、二人で掃除機をかけたり周辺の草引きをしたり、汗をかきながら労働をしました。浜田さんはランニング姿になって塾生らしくかいがいしく働きましたが、これまで酒を飲んだ勢いで草刈りをすると言った仲間は誰一人働いていませんが、草を引いてくれたのは、少年少女おもしろ教室のスタッフ以外は浜田さん以外にはなく感謝の気持ちでいっぱいです。

 午後6時の待ち合わせに間に合ったのは浜田さんの同級生池内さんと松本さん、米湊さん、高知県四万十市から参加の和田さんでした。清水さんとセンターの武智さん、それに大河内さんは三十分以上遅れての到着、兼頭にいたっては2度も来ている場所なのに40分間も山中で迷ってのたどり着きとなりました。とりあえず夕日が絶妙なタイミングで美しく見えたため、夕やけ鑑賞会をして、約1時間弱遅れの開講となりました。

 浜田さんは用意した資料を私が落伍高座に使っている魚梁瀬杉の切り株の上に並べ講話をし始めました。この日の講義内容は宮本常一の愛媛県の足跡をたどることと宮本常一の生い立ちに焦点が当てられました。少し汗をかいていた口調も次第に滑らかになって、極めて順調な、失礼ながら予想以上の話で、第一回目の重責を見事に果してくれました。さすが宮本常一の追っかけだけのことはあります。

 気が付けば私は朝が早かったため朝は牛乳一本でした。昼は浜田さんとの出会いで昼飯を食いっぱくれていました。腹が減るはずです。交流会はホッとプレートでの焼肉となり、大河内さんがいなり寿司を沢山用意して持参していたので、しっかり5個も食べてしまいました。いやあ美味かったです。私は焼肉は余り得意ではないので、もっぱら野菜を食べました、飲むほどに酔うほどに話は盛り上がり、私と浜田さんと高知の和田さんが人間牧場水平線の家で泊まりました。午前1時ころまで飲みながら話し込みましが、私は少し疲れていてついウトウトし、4時に起床、朝焼けの海を見ながら物思いにふけり、起きてきた浜田さんと起した和田さんと3人で昨日の余韻を片付け、人間牧場を後にしました。今日は仕事という浜田さんを伊予市まで送り、年輪塾は一応終りました。

 追伸

   止む無く欠席した馬路村の木下さんからスーパーごっくんとポン酢が届き、おすそ分けして持ち帰りました。

  「常一を 語る準備で 揃え本 凄い研究 一目瞭然」

  「人前で 思いを語る 難しさ 汗をかきつつ 必死になって」

  「人は皆 経験積んで 強くなる 失敗だって する方がいい」

  「夜を徹し 酒を飲みつつ 夢語る 見上げた空に 天の川あり」

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shin-1さんの日記

○これからの生き方を探る

 昨日は西予市にある愛媛県歴史文化博物館へ出かけました。県が威信をかけて造ったものだけに、施設は立派で金余り時代の遺物のようにも見えました。私も何度か企画展示と常設展示を見に出かけましたが、その度に施設や展示の素晴らしさに驚いたものです。しかし県の財政が逼迫し始めると博物館や美術館といったある意味での贅沢施設は矢面に立たされ、その管理運営の在り方が問われているのです。折から起こった指定管理者制度によって、この施設も見直しが迫られ、間もなく管理運営に手を挙げた会社が決まるのだそうです。

 日本の文化の、いや愛媛県の文化の薄っぺらさを露呈するような今回の見直しには、いささか疑問が残ります。というのも文化や教育施設、それに福祉施設などは損益や効果効率という物差しには馴染まないのです。世の中は今というテーマで考えると損か得か、好きか嫌いかで判断します。しかし長い目で見ると善か悪課の判断になって、この施設の果たす役割が見えてくるのです。確かに民間に管理委託をさせた方がいい場合もあります。行政のぬるま湯的発想では限界が来ているのかもしれません。でも博物館の命である展示による県民への文化的メッセージは、県の使命でもあるのですから、学芸員の数を減らして学術研究や展示を縮小することは何としても避けねばならないのです。

 科学博物館や歴史博物館を地方に分散設置したことは悪いことではありません。でも県都松山市に設置した美術館があれ程の善戦をしていることを思うと、やはり人の数をある程度計算できる場所に設置しないと経営が成り立たないことも分りました。歴史博物館を目の当たりにして、これほど素晴らしい施設ですから、必ず生き返らせ守っていって欲しいと思いました。

 さて昨日は歴史博物館が開いている南予コミュニティカレッジの特別コース、暮しの安心・安全講座に講師として招かれました。参加者は平均年齢65歳という私とほぼ同じ世代の20人程度でしたが、「これからの生き方を探る」というテーマで2時間ばかり話しをさせてもらいました。

 人間は過去と今と未来という大まかに分けると三つの時代を生き、これからも生きようとしています。自分が過去にどんな生き方をしてきたのかという過去認識、自分は今どんな状態に置かれているのかという現状認識、そしてこれからどんな目標を持ってどう生きようとしているのかという未来認識についてまず話しました。この認識作業が実は大切で、自分という分っていそうで分らない人間を見つけなければ生き方を探ることはできないのです。そのため生活設計という手法で自分を横軸で考えてもらいました。そしてその横軸を覆う社会の変化や家族の変化などを織り交ぜながら考えてもらいました。

 結局自分が何がしたいのか、何が出来るのかということに答える自分を発見しなければ、これからの生き方を探ることは出来ないのです。つまりこれからな生き方は自分探しなのです。

 幸せなkとに私は人間牧場という手法を通して自分の自分探しだけでなく自分以外の人の自分探しのお手伝いをしながら、他人から受ける感化によってさらなる自分探しをしているのです。お陰様で人間牧場が完成してから三年間で随分その成果が出て、幸福度がアップし少しでずつですが進化しているように思うのです。幸福度と進化度は人間にとって大切な生きがいの根源なのです。

 話が終って帰り際、短い時間の立ち話ながら何人かの参加者と感想も含めた対話をしました。一様にそれなりの自分探しをして、良くも悪くも自分を見つめて生きている人たちなので、意見も前向きで積極的でした。やはりその根源はこの暑い中を学ぼうとする意欲を持って参加したエネルギーにあるようです。人間は学ばなければ退化します。少しでも進化するよう私も頑張りたいと思いました。

  「博物館 人の気配も 落ち気味か 管理者制度 どこか気になる」

  「これからの 人生強く 生きるため 学ぶ人あり 自分を探す」

  「いい話 聞いたといって 去る女 握手求めた 温もり今も」

  「人様に 話するよな ことじゃない だけども俺は しっかり生きる」


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