shin-1さんの日記

○レジメを送ってください

 講演の依頼があって色々な所に出かけますが、前もって「プロフィールとレジメを送って下さい」という所が意外と多いのです。私はその都度抵抗します。「レジメはありません」と答えると、「えっ、レジメもないのですか」と反論されます。また準備物はと尋ねられると「ホワイトボードで結構です」といえば、「パソコンは使わないのですか」と問い直してきます。本人がないというのですからそれでいいと思うのですが、主催する担当者はレジメもパソコンもない講演会は不安なのでしょうか、文句をいいたそうで、多分「こんな講師で大丈夫だろうか?」と不安は募るばかりなのです。

 行政が絡む講演会にレジメを出すと、皆さんは講師の話しを余り聞きません。というのも会合に出張して帰ると復命書なる報告書を提出しないと旅費の清算が出来ない仕組みになっているのです。ところがレジメを出すと、たとえその講師の話が面白くなくて居眠りしても、講師の話の概要は聞いたような顔をして復命書に「別紙のとおり」と添付すればそれでOKなのです。ですから講演に身を入れて聞こうとしないのです。レジメがないと話しを聞いてメモしないといけないため熱心に聞くという算段です。

 最近はパソコンを使いスライドショーを見せながら講演をする人が増えてきました。参加者にとっては分り易いし、講演内容が一目瞭然視覚に訴えるのですからこれくらい便利なものはないのです。しかしこれもレジメと一緒で、薄暗くしてスライドショーをやりながら話すと、冷房や暖房の効いた薄暗さは格好のお昼寝演出になるのです。スライドに集中するとついつい話が単調になって中身が薄っぺらくなることもしばしばなのです。まあどちらがいいかはその人の判断ですが、私は余程でない限りレジメもスライドも使わずに話しをしています。

 さて、私のプロフィールで一番困るのは肩書きです。まず学歴がきます。私は普通学歴を書きません。ところが最終学歴を書けというのです。学歴を書かなければいけないのであればご辞退しますと居直れば、「いえそんなことは決してありません」というのですが、学歴で人の判断は出来ないと思うのです。私はその都度学歴と学習歴は違うと訳の分らぬ言い分を吹っかけているのです。

 私の肩書きは「元教育長」や「元地域振興課長」でもないのです。それはもう過去のことで今どうなのかが問題だと思います。「人間牧場主若松進一と書いてください」といえば怪訝そうに「人間牧場って何ですか?」と、レジメ、プロフィール、学歴、役職を説明しなければ講演には呼ばれないようです。情けないったらありゃしないのです。

 さて、今晩はある街の家庭教育学級に出かけます。「レジメは?」といわれたので「ありません」と答えました。「子供たちに豊かな体験を」というタイトルで話さなければなりません。レジメめはないのですが次のことを話すと思っています。

   子どもたちは今

 ①自分の居場所が分らない子どもたち

 ②親も地域も学校も過保護の子どもたち

 ③本当の友だちがいない子どもたち

 ④夢がない子どもたち

 ⑤遊びを知らない子どもたち

 ⑥感動経験がない子どもたち

 ⑦失敗経験が少ない子どもたち

 ⑧体力・気力がない子どもたち

 ⑨ふるさと意識をもてない子どもたち

 ⑩お金持ち・物持ちの子どもたち

  「レジメ出せ パソコン使うか 聞いてくる 何にもないと 突っぱねてやる」

  「学歴は 役職何と 聞いてくる 牧場主だ 偉くもないのに」

  「学歴は そんなにないが 学習歴 書けないほどに いっぱいあるぜ」

  「さて今日は どんな話に なるのやら 行き当たりばったり 顔見て話す」


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shin-1さんの日記

○迷子の小鳥

 間もなく90歳になる親父は毎朝散歩を欠かしません。自分の体力と気力の差を少しでも埋めようとの思いでしょうが、その散歩の距離も往復5キロくらいだったのが少しずつ減って、今は往復2キロくらいになりました。余り無理をせず自分の体力に合った程度にするよう話しているのですが、ついつい昔の気力を思い出すのか少々長く歩いて、「今日は疲れた」と弱音を吐く事だってあるのです。

 昨日は、親父の洗濯物干し場の草削りをしました。かなりの草丈になっているので、「草を刈って欲しい」と頼まれていたのですが、ついつい伸び伸びになっていて、草刈機も人間牧場へ移動しているので、昨日は暑いさなかの午後3時から1時間程度草削りをやりました。親父は自分の部屋で時代劇水戸黄門から大相撲とテレビ観戦の途中でしたが、草削りの音を聞いて自分も手伝うと、私と同じように鍬で削り始めました。年中家庭菜園の雑草取りをしている親父は、驚いた事に私より作業のスピードが断然速いのです。しかも少し削るとフーフーいいながら吹き出る汗をぬぐって一休みする私を尻目にどんどん進んで行くのです。年齢さ27歳の若さの私としては負ける訳にはいかないと、馬力をかけてやるのですがさすがに疲れてダウン寸前となってしまいましたが、それでも親父に弱音を吐くこともできず、気丈に振舞いました。一段落ついたところで私は作業を止めましたが、親父はその後もトマトやキューリの下草を削りながら作業を続けていました。偉い体力です。

 昨日は親父を松山の県立中央病院へ歯科検診に連れて行きました。入れ歯の噛み具合が悪いようで、毎週の通院です。予約が午前8時30分だったため9時には処置を終わって病院を出ましたが、帰りに白内障の手術の経過を診てもらうため、伊予市の本宮アイクリニックに立ち寄りました。異常なしとの診断に親父も私も一安心しました。これまでどちらかというとほったらかしにしていた罪滅ぼしのつもりで親父の面倒を見てやりたいと思う「自称親孝行息子」なのです。

 今朝サロンパスを張りに隠居へ行きました。すると隠居の濡れ縁側に小鳥の篭が置かれていて、何やら鳥が入っているのです。私を見て驚いたのか小鳥は篭の中をバタバタ飛び跳ねました。親父に聞けば散歩の途中この鳥を見つけたそうです。親父はこれまでにもカラス、ハト、タヌキなど散歩の途中で傷ついた小動物を可哀想だからと拾ってきては世話をして、回復したら逃がしていますが、今回は自分の前をトントン歩いたり飛んだりして、結局わが家の窓の開いた施設公民館煙会所の中に飛び込んだのだそうです。少年の頃の本能が頭を持ち上げたのでしょうが、親父は素手でこの小鳥を捕まえて倉庫の鳥篭を取り出して中に入れたようなのです。

 週末にやって来る曾孫に見せてやりたいと、早速餌を与えていましたが、さて餌を食べるかどうか、また人になつくかどうか心配ですが、少し元気になったら放してやりたいといっていました。降って湧いた小鳥の世話に親父の顔も朝日に当り生き生きと輝いているように見えました。

 このところ、わが家への来訪者も多く、その都度愛飲しているオロナミンCと座布団を家の横の東屋まで運んできてくれる親父は、9月に90歳となりますが、周りにいた知人友人が逝って段々いなくなっていくのが寂しいようです。そしてわが家の畳の上で死にたいと時折弱音を吐きますし、特養施設には行きたくないとも話します。これまで手もかからず元気で過ごしてくれたのですから、そのくらいは息子の務めと覚悟して、親父の話し相手の時間を見つけようと思っています。自分の老いのためにも・・・・・。

  「少しずつ 向こう近づく 気がすると 弱音を吐くが 親父は元気」

  「俺よりも 体力あると 脱帽も 負けてたまるか ついついオーバー」

  「この家で 死にたい口癖 今朝も言う 心配するなと 勢付け話す」

  「曾孫見せ やりたいものと 鳥かごに 小鳥捕まえ せっせ餌やる」 


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○関定という人の健康と長生きの秘訣

 数日前、ご厚誼をいただいている元県庁職員の藤原茂さんから小さな一冊の本が送られてきました。僅か10ページの本には「八十五年の過去を顧みて」(昭和39年3月1日記)と、「私の人生」(昭和46年1月)という2種の文章が載っていますが、いずれも含蓄のある文章なので、特に(長生きの秘訣)というサブタイトルのついた「私の人生」について抜粋して紹介します。

 一、若い時には貴いエネルギーを惜しみなく大いに駆使し、自己の力量をテストする意気で、進んで重荷を沢山背負い、骨身押しまず体の続く限り奮闘する。これで心身の鍛錬が出来て成功の道が拓ける。

 二、夫れから年を取るに従って、体力の衰えることを考え、背負っている重荷を体力に応じて斬時軽減することが必要である。そのために若い時代の基礎造りが大切であるということになる。

 三、負担を軽くするということは色々あるけれども、一通り功がなったら、社会奉仕に余生をを捧げることである。私はこの道を選んだ。私利私欲を離れ、世のため、人のために尽くすことは、余り負担にならない。(後略)

 四、能く遊び、能く学べという名言もあるが私は青少年時代に、若い時には徹頭徹尾働け主義で能く働き、能けで行った、これには批判もあろうけれど、私は終始一貫して実践した。老境に入ってから悠々自適を勧める向きもあるが私が夫れが出来ない。宴会嫌いで、二次会は一度も味わったことがない。仕事に懸ったら他の何事も忘れ朝食と昼食は不定期で一食抜きの場合が多く家族を困らせることが多いので、夕食だけは誓って宅でということにして今日に至っている。

 五、家庭中心主義で、仕事を楽しむ以外娯楽趣味は皆無でゴルフ、マージャンなども無関心である。かかる私を他人は評して、損な人よ、馬鹿な奴よと笑うであろうけれど意に介せず、悔いもなく、来る日も来る日も愉快に日の経つのも忘れて働いている。

 六、私は二十歳の時ある動機で考えたことは、自分の貧しい才能で、他人に負けないためには、いかにすれば良いかということ。夫れはあらゆる力を一事に集中することだと悟った。爾来授けられた仕事を転職と心得、全知全能を捧げ、至誠をもって貫くことを堅く心に誓った。

 七、五十才までを一期として決意し夫を今尚続けていることは禁酒、禁煙は勿論、一切の道楽を排除し、ひたすらに仕事に励むことで、脇時は余暇を私塾に学び、郊外に出る場合は遠足、登山、神社仏閣詣でなど(後略)

 八、時に二十九才母の勧めで結婚と同時に独立営業を松山市で始め、爾来昭和二十二年に至る四十年間身を慎み、家業に励み、家を整えつつ事業を安定させ、後継者の養成にも意を用い強固な基礎を築き得たと確信したので、昭和二十二年(六十九才)事業を挙げて二世に譲り、その強固な基礎の上に立たせ、若人の貴いエネルギーを思う存分働かせ、重大責任を負わせて手放し、私は一切干与しないことにした(後略)

 九、七十才でお茶の道を楽しんでいた愚妻への奉仕と思ってお茶を始め、茶道精神に陶酔し、修養の糧としているが、作法の方は未だ初心そのままである。(後略)

 十、八十才にして俳句を、九十才にして絵画を始めたが、立派な達人でさえ、自然退歩する年代に始めたのであるから事の成否は問題ではなく始めてみようという元気と若さを自賛しているのである。

 送られて来た本を読みながら、ここまで徹した生き方ができるのかと明治生まれの人の気骨さに驚嘆してしまいました。人間は長生きすればいいものではありません。また楽しければいいものでもありません。さらにお金持になるだけでもないのです。信念を持って強く生き、親から子へ、子から孫へと家を持続することも大切なことなのです。先祖に感謝し自分が生きること。自分が去りし後を受け継ぐ人を育てることなどなど、教えられることがいっぱいありました。小さな一冊の本でしたが私にとっては千金に値する本だったと思い紹介しました。

  「人間は 自分という名の 人間と 対話しながら 生きるものなり」

  「おいお前 しっかりしろよと いうように 小さな本が 道を示して」

  「もう一度 叩き直して 出直しだ 生き方変えて も少し立派に」

  「尊徳の 教えもいいが 関定の 教えに学ぶ ことも多かり」

 

 

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shin-1さんの日記

○旧中山町を訪ねる

 昨日は愛媛大学法文学部総合政策学科の学生18名と一緒に、フィールドワークの現地調査で旧中山町へ出かけました。学生たちは松山から列車に乗って中山入りしましたが、私は隣の町であるので学生とは別に峠を越えマイカーで出かけました。暑い時期なので学生たちの移動に車を使わなければならないと思い、あらかじめ伊予市役所中山支所へ車を置いて、中山駅まで歩いて出迎えに行きました。早朝の中山商店街は朝日と陰の部分がはっきりしていて爽やかでした。隣町というのにこの街の商店街は知人友人も多く、谷口商店の前まで行くと、双海町出身よし子ちゃんとばったり出会い、店の中でご主人や時折訪ねてくる人たちと懐かしい談笑を交わしました。目と鼻の先の上岡文具店のご家族が目に止り、ここでも立ち話です。上岡さんのご家族も穏やかな人たちで、いつもご厚誼をいただいているのです。目と鼻の先の宮野製麺ではこれまた懐かしい奥さんにお会いできて、旧中山町時代が懐かしく思い出されました。

 8時40分に松山駅を出発した各駅停車の列車が中山駅に着くのは9時31分です。列車は予定通りホームに入ってきました。先週が休講だったので2週間ぶりの懐かしい学生の顔ですが、どういう訳か班長の前田さんの姿が見えませんでした。後で連絡を貰ったのですが、来る途中事故に会って病院へ行っていたそうです。

 市役所中山支所の2階で研修は始まりました。上田地域振興課長以下4人の地域振興課職員が対応して微細な説明をしてくれました。特に北岡さんの中山町の合併前・合併後、そしてこれからの話は、この日のために作成した資料に基づいてとても分りやすく、学生も納得して聞き入りました。合併後の地域自治についてもいい研修が出来たように思います。


 午前中は2時間余りびっしり研修をしました。学生たちも全員質問したりそれに答えてもらったりしました。

 この日はとても暑い一日でしたが、支所のご配慮でホテルのバスを利用させてもらい、遊栗館でのバイキング昼食に舌鼓を打ちました。700円食べ放題の品揃えは抱負で、地産池消、しかも野菜中心のヘルシーな味に学生たちも我を忘れて何度もお変わりするなど食い入っていました。地域振興課の職員さんも全員昼食に参加していただき学生たちと懇談をしてもらいました。

 午後は花の森ホテルや野外ステージ、鹿牧場、フラワーハウスなど、栗の里公園の散策です。暑いさなかでしたが、学生たちは「暑い暑い」といいながらも元気に視察研修を行いました。

(鹿牧場)
(フラワーハウス)
(フラワーハウスには見たこともないような珍しい花々が咲いていました)
(お洒落な花の森ホテルのロビーにてくつろぐ学生。ホテルではアイスコーヒーまでご馳走になり、研修修了後中山駅まで送ってもらいました)

 研修を終え学生たちは15時44分発の列車に乗って中山町を後にしました。今回お世話になった上田課長さんは夢工房の仲間です。花岡さんは元社会教育で同じ鎌の飯を食べた間柄、米井さんは双海町出身、北岡さんは元社会教育、木曽さんは初めての出会いでしたが、それぞれ深いご縁を縁としてかゆい所へ手が届くような気配りの研修受け入れで、頭が下がる思いがしました。合併は必ずしもいい事ばかりではなく、むしろ他地域では不協和音も聞こえますが、上田課長さん以下地域振興課の皆さんの姿を見ていると、そんなことは微塵も感じさせず生き生きと働いていました。

  「合併後 テーマに研修 訪ねたが 人が生き生き 学生感心」

  「大盛りの ご飯を食べる 姿見て やはり若者 食べ方違う」

  「街中は ひっそり静か 灯が消えて 店に入ると 訛り懐かし」

  「旧友は あり難きかな 気配りの 数々感謝 別れを告げぬ」

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○調子の悪いわが家のFAX

 私が役場に勤めていた若い頃、文章の送付はもっぱら封書でした。故に東京や県庁などから文書の催促があると、「送ったのでもう間もなく着くと思います」などと嘘をついて、急いで文章を作り送ったものでした。公文書はタイプライターで打ち、計算はソロバンかぐるぐる回すタイガー計算機、複写はカーボンといった長閑な時代でした。ところがコピーや電卓、ワープロが導入されたり、電話回線で文字が送れるFAXが登場して、私たちの事務能力は一気に倍増し便利な世の中になったのです。そしてほんの数年前にパソコンがお目見えし、オフィスは一変したのです。当時を知る者にとっては隔世の感がしますが、最近はパソコン万能となって、FAXさえも時代遅れの感がして、FAXの利用が殆どなくなってしまったのです。

 それでもわが家には、FAXと電話併用が設置されていて、FAX愛好家に利用されているのですが、娘の勧めで一緒に購入したFAXが、新品の時から調子が今一で、送られた文章がローラーに巻きついたり、送られた文章の文字が薄く判読できにくいのです。

 昨日は外出先から帰ってみると、玄関に設置しているFAXの警告ランプがついていました。見るとFAXに紙が幾重にも巻きついて使用不能となっているのです。外蓋を開けて中に巻きついた送信文書を取り外したのですが、FAXのメッセージだと送信文書3件、〆て20枚未着と表示されていました。慌てて教師を補給しプリントアウトの状態にしましたが、出るわ出るわです。

 中でも北東総研の清水さんからの文書は原稿校正らしく、しかも校正締め切りが近づいているようなので、インターネットでメールを打ち、メールでゲラを送ってもらうよう手配しました。今日夕方外出先から帰ってメールを開き便利な世の中に感心しながら、ゲラ校正を行い送付しました。

 「FAXの調子が悪い」と妻にいえば、「まだ新しいのに」と、買い替えに乗り気でなく、私が一人で使っている道具でもあるし、またパソコンで用が足りるのではないかと言わんばかりで、相手にもしてくれない有様です。私もFAXは殆ど使わないため、どうしようか思案中なのです。多分近所の電気屋さんに修理に出せば、「買った方が修理するより安い」といわれそうで、悩みは深くなるばかりです。

 使い捨ての時代がやって来ました。わが家のテレビも間もなくアナログ終了の期限が迫ってきました。オーディオも修理不能ながらラジオ専用にして人間牧場で聞いていますが、これも間もなく電子ゴミです。パソコン専用のプリンターや息子のパソコンも倉庫で埃を被っています。あれ程高いお金を出して購入したものが、使われることもなく、ゴミ処理費用を上乗せしないと引き取ってくれないのです。勿体ない話ですがこれも世の中の定めでしょうか。

 今に人間も捨てられる時代が来るのでは?とふと子どもの頃に映画で見た楢山節孝のことを思ったりしました。どんなに時代が進んでも、例え賞味期限の切れる年齢になっても、せめて親だけは捨てることのないようにしたいものです。勿論子どもも同じです。

  「買い換える 話しに妻は 乗って来ず 宙に浮いたか ファックス話」

  「又ひとつ ゴミになるのか FAXも 電気屋さんも 買い替え勧め」

  「読めぬ文字 諦めメール 送ってと 頼むメールに 早速返事」

  「金の要る 事が続くと 渋い顔 リタイア身には 堪える反応」

 

 

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shin-1さんの日記

○お父さん、どう

 昨日は人間牧場での一泊二日の宿泊研修を終え、埼玉のお客さんが帰ってから、妻と二人で妻の両親のお墓参りに出かけました。出かける時妻は決まって、「お父さん、どう?」と聞くのです。外出の前に二人は「何を着て行こうか」といつも悩みます。男の私でもそう思うのですから、妻は歳をとったとはいえ一応女性ですから身だしなみに気を使うのは当然ながら、質素を目論む妻にはこれといった洋服の浪費もさせず、貧乏暮らしをさせてきたため、その癖が板について、それなりの格好しかできないのです。それでも何とかより美しく見せたいと思うのはやはり女性の本能なのでしょう。

 「お父さん、どう」に私は私見を交え「いいんじゃない」といいますが、洋服、帽子、化粧などなど、コーディネートした姿を自分で鏡を見てから私に何度も聞くものですから、面倒臭くなって最後は「それでいい」とか、「よく似合う」とか、「わしがええというのだからええ」などと上の空の返事を繰り返すのです。

 しかし不思議な事に、ファッションに無頓着な私でさえ、「おいどうだ」と妻に聞き返すのです。私は身につけるものには殆ど関心を示さず、身につけるもの全てが妻の見立てで、妻が買ってきたものです。買ってくるもの全てにケチをつけ、買いに行こうと誘われる度に「面倒臭いから行かない」とダダを捏ねるのです。

 昨日は妻が格好いい服を着ました。少し若向きのデザインです。「何だ?それは。少し派手なのでは」と文句をつければ、「私はまだ若いんだしこれくらいは着てもいいのでは」と反論しました。「デザインも分らぬ俺に聞くな」とやり返すと、「あなたにしか聞けないのだから」とこれまた反論です。結局「まあまあ似合う」と持ち上げたためその洋服に決まりました。

 「お父さんも着替えてね」と、妻がタンスから出した洋服に私も着替えました。鏡に写してみましたが、人のことをいうようなものではないにしても、少し男前になったような気がして妻に、「おいどうだ」と聞きました。妻は「素敵よ」と人を小馬鹿にしたような感想です。それでも褒められると悪い気がしないのは人間で、今年の父の日に息子嫁がプレゼントしてくれた帽子を被り、「おいどうだ」と追い討ちをかけて聞きました。ハッと気がついたのですが、妻と私は外出前に夫婦で毎回、同じようなことをいい合っているのです。それでも二人は少しだけけなされ、少しだけ褒められたりしながら人生を過ごしているのですから、犬も食わない他愛のない話です。

 昨日は暑いのに墓地に行き墓地の草引きをしました。お寺の上の八幡浜湾が一望できる墓地は夏草が生えていたので、妻と二人で草を引いたのですが、汗が出てきました。せっかくいい格好をしたのに二人とも台無しです。汗を拭いながら草とは偉いものだと思いました。妻の実家の墓地はそうでもないのですが、近所の墓地は荒れるに任せて草が生い茂り、その草が墓石を傾かせているのです。人間の力でこの墓石を動かすことは出来ないのに、驚くなかれ草は石さえも動かすのです。

 実家に立ち寄り、八幡浜の魚市場で開かれている日曜市にちょいと立ち寄り、県庁の顔馴染み職員である井野さんに出会ってじゃこ天までいただき、汗を流そうと夜昼トンネルの近くの温泉に入り、束の間の時間を夫婦で楽しみました。温泉から出てきた妻は磨きもかかって、「お父さん、どう」と聞く言葉に、「おいどうだ」と私も聞き返しました。夫婦の他愛のない会話でした。

  「お父さん どうだと妻が 聞いてくる まあまあ返事 少し不満か」

  「他愛ない 夫婦の会話 犬食わぬ こうして歳を 重ねて行くか」

  「凄いなあ 草が動かす 墓地の石 俺の力じゃ 動くはずなし」

  「回数券 お得ですよと 勧められ 損をしたような 得をしたような」 

 

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shin-1さんの日記

○とも遠方より来るあり・また楽しからずや②

 埼玉県北本市に住む工藤日出夫さんは私の大事な友人です。工藤さんの名前は「日出夫」、つまり日の出にちなんでいます。私は若松進一ながら現役時代は夕やけ課長、夕やけ教育長の異名をとっていました。つまり彼が朝日で私が夕日というのも面白い顔合わせなのです。三重県に二見ヶ浦で有名な二見町があって、字こそ違え私の町も双海町なのです。これと同じで、工藤さんに初めて東京虎ノ門の事務所で出会った時、どこか運命の出会いのような感じがしていました。あれから30年以上経ってもなお、飽きもせず交友が続いているのですから面白いものです。

 工藤さんは北海道から上京しながら今は北本市の市会議員の末席に名を連ねているのです。政治家に必要な三バンといわれるカバンも看板も地盤もない彼が何故、市会議員になったのかは別として、彼を見ていると人間に必要なものが何か、分るような気がするのです。

 彼は人を大事にします。私がまだまだ無名だった頃、彼は当時華々しく活躍していた立教大学の岡本包治先生に銀座で会わせてくれました。田舎から上京した私を見て、「田舎の海猿」と私にあだ名をつけたのは先生でした。以来先生が監修した本にも度々執筆を依頼され、恥ずかしながら文字での情報発信をさせてもらったのです。また全国公民館連合会の朝比奈博さんとの深いご縁がきっかけで、全国大会の司会という大役を仰せつかり、奇抜なコーディネートをして参加者を感嘆させたのも、イモヅルをたどれば工藤さんの種芋に行き当たるのです。

 彼はアイディアマンでした。彼が作ったPTAの本は当時注目を集めよく売れていました。本というよりはパンフレットに近い薄っぺらい物でしたが、私はこの本を使って色々な生涯学習をやったし、まちづくりや生涯学習にとって資料は大事だと思わせたのも彼でした。以来私は活字を制するものはまちづくりを制するとばかりに、様々な文筆をやりました。町に吹く風、昇る夕日でまちづくり、今やれる青春、夕日徒然草をはじめ、まちづくりシンポジウムの資料は当時は非常に珍しい発想のパンフレットとして注目を集めました。また私のアイディアも彼の影響が多分にあるようです。

 彼は昔も今も論客です。人を説得する話術は大したもので、今にして思えば市会議員になるのは当然だったかもしれないのです。私も若いころから随分議論を学びました。第十四回NHK青年の主張県代表になったり、愛媛県青年団連合会会長などを歴任しそれなりに弁論の技術は積みましたが、生涯学習の議論は彼の足元に及ぶべきもなく、ずいぶん修行をさせてもらいました。

 彼は実践家です。これは地域に根を張って生きてきた私の方に分があるような気がしますが、それでも理論に終始する都会族の人の中ではダントツに実践家のようです。

 今朝5時に昨夜から泊まっていた人間牧場で目覚め、みんなを起こして5時20分に出た朝日を見ました。穏やかに凪いだ瀬戸の海に映えていいようのない美しさでした。昨晩の深夜に及ぶ議論の余韻が漂っていました。みんなで清々しい朝の空気をいっぱい吸いながら掃除をして下山し、わが家で妻が作ってくれた朝食に舌鼓を打ち分かれました。

 埼玉県北本市の一行は今日はしまなみ海道を目指し、金毘羅参りをして帰路に着くそうです。大野事務局長と河上さんの案内でそこここを散策し午後4時05分今治から特急に乗ったと、大野さんから報告の電話を受けました。ご苦労様でした。

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shin-1さんの日記

○友遠方より来るあり・また楽しからずや①

 埼玉県に北本市という街があります。社会教育、とりわけ公民館活動が縁でその街に住む工藤さんという人と、30年も前に静岡の朝比奈さん(全国公民館連合会理事)という人を仲立ちにして知り合いました。彼は北海道松前町出身で地元高校を出て上京し出版会社に勤めた後、自らも出版会社を興し様々な生涯学習の書籍を出版していましたが、その人脈たるや広くて深く、また生涯学習にも造形が深い人でしたから、当時日本一の公民館主事を目指して孤軍奮闘していた私の情報人として大いに気が合い今日まで、私的な厚誼をいただいているのです。

 彼との縁が社会教育に留まらず私のボランティア活動にまで踏み込んだのはこれまた工藤さんの差し金によるのです。彼が深く関わっていた北本市青少年市民会議の開いたシンポジウムに、私が講師として招かれました。当時私はは無人島キャンプなどの体験談を様々な場所で話していました。私の話を聞いた海のない街北本市の市長さんがいたく感激され、北本の子どもたちを無人島キャンプで鍛えてくれないかと、予算までつけて懇願されました。早速工藤さんたち市民会議のメンバーがが中心になって公募で選ばれた子どもたちが愛媛にやって来たのです。以来10年もの長きに渡って交流事業は継続され、私が代表を務める21世紀えひめニューフロンティアグループとともにボランティア活動に熱中し、大きな成果を上げました。

 無人島キャンプは最初の目標どおり20年で終わりましたが、事業が終わった後も私的な数人の仲間との交流は絶えることなく今も続いているのです。

 昨年は「無人島へもう一度行きたい」という彼らの希望を受け入れ、6月29日から3日間愛媛県入りし、念願の無人とへ渡って島内を散策し懐かしい思い出にふけりました。今回も無人島へという話もありましたが、原油高のあおりを受けて渡船のチャーター代が高くて断念し、人間牧場での交流と相成ったのです。

 昨日は彼ら3名は飛行機で松山入りしました。仕事の都合で大野事務局長が迎えに行き、人間牧場入り予定の17時まで、日本一細長い佐田岬半島へ小旅行しました。

 私は午前中と午後に予定が入っていて、その合間を縫って人間牧場へ出かけ、掃除をしたり草刈りをしたり、風呂の燃料を給油したりしながら彼なの到着を待ちました。今回の埼玉県北本の一行は工藤さん、松本さん、峯尾さんの3人で、柳町さんは残念ながら日程の都合で来ることが出来ませんでした。私たちフロンティアグループは大野さん、豊田さん、河野さん、藤本さんに高知県四万十市の和田さんと私を加えた6人、合計9人です。

 夕方5時30分から始めた雑談会は延々12時まで5時間半にも及びました。最初の話題は人間牧場の直ぐ目の前眼下に浮かぶ無人島でのキャンプの話でした。北本から送り込んだリーダーたちのその後の消息、参加した子どもたちの安否、その当時市長だった新井さんの話や、引率して来た教育委員会の人たちの話など、まるで昨日のことのように思い出されました。しかし人の記憶とはいい加減なもので、既に記憶の彼方に消えているものも数多く、昨日は河野さんが大切にしていた当時の新聞を持参していて、それを見ながら話題を広げていたようです。

(佐田岬小旅行の案内で疲れた様子の大野事務局長)

 順番にロケ風呂に入り、壁にかけている時計が12時を回ったので、「もう寝よう」と相談がまとまり、松本さんと大野さんは2階のロフトに、豊田さんと河野さんは外のウッドデッキに、私を始め残りの人間は水平線の家の板間にそれぞれ寝場所を確保し、電気を少な目にして夢の世界へと旅立ちました。私の横へは四万十市の和田さんが寄ってきましたが、お酒を飲んでいるからでしょうが、みんないびきがひどく、特に和田さんは私の腹の上に何度も足を乗せてきて、眠れない一夜を過ごしました。でも一宿一飯、こうして仲間が雑魚寝ごろ寝ができるのも、嬉しいことなのです。

  「沖合いに 浮かぶ由利島 二十年 よくぞ続いた 青春時代」

  「北本の 仲間訪ねし 牧場で 旧交温め 五時間半も」

  「スカートを はいた先生 無人島 蚊の大群に 内股刺され(ウフッ)」

  「もうこんな 時間か寝るか 雑魚寝する 友の太足 いびきも太く」

   

 

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○携帯電話でメール

 先日えひめ地域政策研究センターの清水さんから、「携帯電話でメールをすると便利だ」と勧められ、始めることにしました。センターの谷本さんに私のメールアドレスを入力してもらい始めたのですが、最初は文字の入力の仕方や送信の仕方が分らず苦労しました。でも今は何とか連絡が取れるようにはなりました。しかしパソコンだけでも持て余し気味なのにこれ以上となると大変なので、携帯メールは必要最低の使用に留めているのです。

 ところが清水さんは私のメールの上達を目論んでか、朝な夕なメールをくれました。時には心許せる友人からもメールが入り、旅先へ行く列車の中で、あるいは旅先のホテルで、届いたメールに何度か返信を試みました。お陰様で最低ラインのハードルだけは越えたようです。

 最近は乗り物に乗ると特に若い人たちは、辺りかまわずメールをしているのをよく見かけます。別に周りの人に迷惑がかかる訳でもないのでそれはそれとしていいのでしょうが、私のような古い人間はついつい何か変だと思ってしまうのです。だってせっかく電車に乗っているのに車窓に広がる景色も見ずに、また隣に座った人と話もせず、ただ黙々と携帯電話とにらめっこするのは余りにも勿体ないと思うからです。

 昨日ソフトバンクモバイルは米アップルの第三世代携帯電話アイフォーンの販売を始めました。東京の直販店で午前7時から先行販売したのに続いて正午からは全国一斉に販売されました。この携帯電話を求めて午前7時には1500人もの人が長い行列をつくったそうです。

 私などの携帯電話はまだカメラもついていない旧式のものだというのに、今回発売の携帯電話は音楽プレーヤーを内蔵し、全面的にタッチパネル画面を採用していて、操作性にもこだわっているそうで、インターネットも使えるらしく、ますます格差が大きくなっていくようです。

 それにしてもデジタルの世界はどんどん進化していて、時代に遅れまいと必死になって頑張ってみたところで、所詮ついて行くことは出来ず、もうギブアップの感じさえするのです。こうした便利なものを開発するのだから人間は凄いと思う反面、生き残りをかけた熾烈な競争を見るにつけ、ここまでしなくてもいいのにと思う事だっていっぱいあるのです。

 今日の新聞に木に話しかける植木屋さんの話が載っていました。植木に向って話しかけるのだから凄いと感心してよく見ると携帯電話で話していたそうです。なるほどありうる話だと思いました。

  「アイフォーンに 千五百人の 列できる 俺の携帯 カメラもないのに」

  「やっとメール 思った矢先 アイフォーン 百周遅れて ノラリクラリと」

  「パソコンも 携帯も嫌と 強がるが 本当は使え ないだけのこと」

  「英語駄目 携帯も駄目 パソコンも ダメダメダメ・・・・・と 幾つも駄目が」 

 


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shin-1さんの日記

○ファイナンシャル・プラン

 人は誰でも「こんな人生を送りたい」という夢や希望を持っていますが、それを実現できるかを資金面から考えてみるのがファイナンシャル・プランです。しかし残念なことにこのことは、個人の秘密に属する部分が多く、みんなで学習会をしようといっても、中々具体的な部分に踏み込めず、私のように長らく金融広報アドバイザーをやっていても、これといった成果が見えぬまま今日を迎えています。 「年金がどれだけ入ってくるのか」「とりあえず貯蓄はしているが低金利で目減りするような不安がある」「私や家族の家系はこのままで大丈夫か」ならまだ良いのですが、「葬式代は一体幾ら入るのだろう」とか、「死んだ後お金はどうなるのだろう」などと先々のことを考えると不安で夜も眠れないという人もかなりいるに違いありません。こうしたお金に対する不安を解消したり、夢をかなえるためにはファイナンシャル・プランの作成はどうしても避けて通れないのです。ファイナンシャル・プラントは、それぞれの家庭の夢や希望をまとめた計画表(ライフイベント表に基づいて未来の収支状況や貯蓄残高などをシュミレーションし、資金計画を立てるもの、簡単に言えば人生の設計図なのです。

 最近は価値観もライフスタイルも多様になって、シングルで一生を終える人や二人だけの幸せな時間を出来るだけ長くとるといったDINKS(共稼ぎで子どもがいない家庭のこと)など様々です。実際にライフイベント表に海外旅行、マイホーム、車の購入買い替えなどの夢や希望を書き込み、実際に未来の家計をシュミレーションしてみたら、20年後の家計は赤字続きだった・・・・なんてケースもありうるのです。しかし将来の家計の赤信号を予測し、そのための対策を早めに立てておけることこそ、ファイナンシャル・プランを作る最大のメリットなのです。

 わが家(夫婦・子ども二人)という家族設定でライフイベント表を作る場合、家族のイベント予算が出てきます。子どもの幼稚園入園・七五三・小学校入学・中学校入学・高校入学・大学入学・成人式・入社などいくつものハード路が待ち構えています。それらの出来事には必ず臨時出費伴います。また家族のやりたいことには車の購入買い替え・マイホームの建築・国内海外旅行・家電の買い替え・家のリフォームなど、書き込めばキリがないほど夢が広がるのですが、これも資金あっての物だねなのです。

 人生の三大資金・費用とは子ども教育・住宅購入・老後の暮らしだといわれていますが、教育にしろマイホームにしろまとまった資金が必要で、借入金で対応する場合には返済というマイナス要因が絡んで家計を圧迫するのです。さらに大事なことは、定年退職という人生において最大の難関が待ち構えていることです。収入の道を断たれた後の暮しは、年金問題などの将来不安定要素もあって想像以上にプレッシャーがかかるものです。

 ファイナンシャル・プランを下支えするのは何といっても健康です。心と体の健康なしのファイナンシャル・プランはあり得ないのです。私は退職して3年間が過ぎましたが、体力・知力・気力はまだまだ衰えていないつもりですが、外から見れば初老の域に近づきつつあり、世代間のコミュニケーションが難しくなったような気がしています。

 若い頃、生活設計図というのを作りました。ここでいうライフイベントのことですが、私の人生はこの生活設計図で大きな価値を生み出しました。そのことを多くの人に伝えて人生を豊かなものにして欲しいと願い、金融広報アドバイザーを物好きにも三十年もやっていますが、もう少し人々のお役に立てればと頑張っているこの頃です。

  「ファイナンシャル こんな横文字 知らなんだ それでも私 設計どおり」

  「もう少し みんなに俺の 生き方を 伝え死にたい 縁起でもない」

  「ゆとりある 老後の暮らし 夢見てた これぞゆとりと 今日も楽しく」

  「ああ今日も 貯めたお金が 消えてゆく この日のために 貯めたのだから」

 

 

  

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