shin-1さんの日記

○広島県社会教育研究大会に招かれて

 広島は近いようで遠く、遠いようで近い県です。お隣の県といいながらやはり海を隔てているため頻度はそれほど高い方ではありません。しかし島根や山口へ行く時は必ず中継地点となるため意外と足繁く通っているのです。そして今日の福山市神辺文化センターで行われた研修会にも、意外と多くの馴染みの方々がいる事にあらためて驚いたのです。

(立派な神辺文化センターです。横には図書館も併設されていて文化の殿堂という感じがしました)
 

 会場について講演が始まる前と講演が終わってから、講師控え室へ沢山の人が挨拶やら面会に来てくれました、そして講演中も盛んに手を振って私にエールを送ってくれるのです。そういえば広島の色々なまちへ講演に行ったなあと、過去に行ったまちや過去に出会った人々の顔を思い出しました。

(講演をする前にパチリ一枚、ブログ用にステージから撮らせてもらいました)

 

 主催者の話だと、大体100人くらいの参加者を予定していたそうですが、この日の集会には倍の200人が参加したそうです。その様子を見て私の「ネームバリューも大したものだ」と事務局や福山市教育委員会の担当者がお世辞を言ってくれましたが、何はともあれ参加の数だけから言うと大成功のようでした。

 私の話は楽しいお喋りに終始しました。どんな立派な話も聞く参加者が寝たのでは何にもならないのですから・・・・。

 講演終了後早速2件の講演予約が来ました。来年度のことなので日程は決めませんでしたが、「帰ったらメールを入れる」といって分かれました。

 講演が終わって帰る頃には雨も上がって曇り空、それでもこの寒さだし東京地方は朝から雪が降っているという情報もあって、講演が終わり次第文化センターを後に帰郷の途につきました。尾道からしまなみ海道に入り、先日因島大浜に行った折は通らなかった2つの橋を明るい内に通ったので、車の中から尾道と向島を結ぶ尾道大橋、向島と因島にかかる橋因島大橋をパチリ、デジカメに納めました。特に尾道大橋は旧道と高速道路を同じように二つの橋が並んでかかる珍しい橋なので、一瞬どちらの橋を渡ればいいのか迷うような錯覚をいつもするのです。

(二つの橋が平行してかかっている珍しい尾道大橋)
(因島大橋)
(愛媛県に入り最近の雨で見えなかった西空が久しぶりに茜色に染まりました。行く雲も早く、橋を渡る風も車を揺らすほどに吹きつけるようになり、速度を70キロという制限速度を守りながら走りました)

 

 今回の大会も県レベルの大会だけに、主催者や来賓者として広島県教育委員会、福山市教育委員会などの社会教育関係者が随分顔をそろえていて、役職的には高い身分の名刺を沢山いただきました。かつては私もそんな名刺を持ち歩いていましたが、今はその名刺もなく人を食ったような「人間牧場主」という菜もなき名刺しか持っていないのです。ふと、この人たちは今の社会教育の現状をどう見ているのだろうと、雑談のつれづれに話しを持ちかけましたが、残念ながら今の社会教育の厳しい現実を直視したり、その解決に向けて努力している妙案は語られず終いでした。多分今の忙しい仕事に悩殺されて日々を暮らしているのでしょが、大変失礼な話ながら危機感がないとも感じたりしました。

 今社会教育は危機的状況にあります。市町村合併によって公民館が自治センターなどと改称され、合理化の名の元に職員の引き上げが相次ぎ、名ばかりの住民自治という名前にすりかわっています。また、職員のやる気も失せて第一線の公民館などはかつて隆盛など見る影もないのです。社会教育に命を燃やし、社会教育を恩人と思っている私にはそう見えて仕方がないのです。

 一私人として人間牧場で生涯学習をやろうと決意したのもそんな世相を肌で感じたからかも知れません。

  「ふるさとが 段々遠く なりにけり 合併するも 心寒々」

  「隣県 だのに知り人 多くいて 懐かし笑顔 心癒され」

  「帰り道 西空茜 今頃は ふるさとの空 同じ茜に」

  「一泊の 講演旅行 終えホッと 妻の笑顔に 心癒され」

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shin-1さんの日記

○葛原しげるのふるさとを訪ねる

 広島県福山市で開かれた広島県社会教育研究大会に招かれたので、事務局の言うがまま昨日から福山市に入り、事務局の手配したウエルサンピア福山という厚生年金健康福祉センターへ泊まりました。数日前に尾道市因島大浜公民館へ出かけたばかりでのしまなみ海道なので、知ったかぶりで走りましたが、二日目の寒波で広島県側の山並みには白い雪が積もり、うって変わった景色に多少驚きながら夕方6時ごろ到着し、あいにくの雨なので散歩することも出来ず、ホテルのレストランで簡単な夕食を取り、やってきた事務局の方と明くる日の簡単な打ち合わせを終え、久しぶりに何するでもなくホテルでのんびりさせてもらいました。ホテルの部屋の照明は何となく薄暗く、本を一冊持参していたのですが、目が疲れて早々に止め、テレビを見る事にしました。どこのチャンネルを回して見ても肌に合わないバラエティ番組ばかりで、よくもまあ毎日こんな番組だけで国民は飽きないなあと思いつつ、ニュース番組に切り替えました。しかしここでも世界中で起こっている株安、国会の自民党と民主党のガソリン税の揉め事ばかりで、ヘキヘキしながらまた本を読むことになったのです。

(宿泊したウエルサンピア福山)

 事務局から送られてきた資料を見ていると、ふと福山の平井悦夫さんのことを思い出しました。彼は私に広島向島に住む半田さんが喋った講演集「ハガキは嬉しい活力素」という本をくれた方で、私が何年も毎日三枚のハガキを書く事を日課にして過ごすきっかけを作ってくれた張本人なのです。喜び堂のときめ木タイムスというハガキ文を毎月贈ってくれる方なのです。事務局の方の話だと平井さんに「若松さんが来る」ということをはなしたそうなのですが、あいにく仕事の都合がつかないとのことでした。

 そういえば平井さんに連れられてもう二十年も前、「夕日」の作詞で有名な葛原しげるのふるさとへ連れて行ってもらったことも思い出しました。「そうだ明日は講演会は午後なので午前中葛原しげるの生家を訪ねよう」と思いました。

 朝は5時過ぎに目が覚めましたが何をするでもなく本を読んで7時まで過ごし、7時半からレストランで食事をしました。何人かのお客さんは若い人は洋食、私のような年配は和食と食べるものがはっきり分かれているようで、面白いなあと思いました。ここの白いご飯は最近食べたご飯の中ではぴか一で、美味しいと思って食べました。私だけではなくあちらこちらで「ご飯のお代わり」が何人もありました。

 9時過ぎにチェックインを済ませ直ぐ横にあるバラ公園の見学に出かけました。厳冬の今の時期はバラの花も休眠状態で見る影もなくさびしく雨に打たれていましたが、それでもその素晴らしい開花の時期を思いながら雨に濡れた公園をのんびり散策しました。

(福山のバラ公園)

 その後車に戻り神辺文化センターをカーナビに入力しいよいよ出発です。センターまでは30分ほどで間違うことなく性格に到着しました。事務所に行って職員の方に道順を聞きましたが、差し出されたマップでは中々込み入って分らず、書き込んでもらった福山通運の倉庫を頼りに見当をつけて走りました。私の感は大体あっていてそれなりの道を進みそれなりに間違うこともなく生家へたどり着くことが出来ました。生家の前で車を止めそこら辺を散策したり、ボタンを押すと「ぎんぎんぎらぎら」の童謡が放送されびっくりしました。

(葛原しげるの生家)
(生家前に建つ夕日の歌碑)
(ボタンを押すと夕日の歌が聞こえます)

 私は車に入ってハーモニカを取り出し葛原しげるの歌碑の前でこともあろうにハーモニカを吹いたのです。「夕日」と「赤トンボ」と「夕やけこやけ」の3曲を吹きました。人がいたらこんなこと恥かしくて出来なかったのでしょうが、あいにく雨が降って人影もなく幸いだと思っていたら、なんとそこへタクシーが一台来たではありませんか。時既に遅しでした。タクシーから降りてきた方は見ず知らずながら私のハーモニカの音色に拍手を送ってくれました。嬉しいやら恥かしいやらで弱りました。

(歌碑の前でハーモニカを吹く私)

 それでも夕日によるまちづくりを二十年にわたってやってきた私の、葛原しげるへのせめてもの供養だと思ってやったことで、少し肩の荷が降りたような気持ちになりました。というのも、私が手掛けたシーサイド公園の一角に童謡の小路というの造っていますが、7基あるひとつが葛原しげるの「夕日」なのです。既に他界している葛原しげるに何の相談もなく造ったことへの謝罪の意味も込めてのハーモニカ演奏だったのです。

  「葛原の 生家の前で 一人吹く ハーモニカの音 無住家響く」

  「句碑建てた 詫びのつもりが 客一人 タクシー降りて 拍手送りて」

  「住む人も なくひっそりと 時刻む 屋根のしかかる 青竹一本」

  「葛原は 夕日を思い 歌作る 同じ夕日で 私は観光」

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