shin-1さんの日記

○心に届いた言葉
 1月7日付けの読売新聞23面に私の記事が載っていました。その直ぐ下に「心に届いた言葉」として、山本有三の代表作「路傍の石」の一節が紹介されていました。そういえば私も若い頃、病気で漁師から役場へ転職する際、友人が贈ってくれたこの本の一節を何度も何度も読み返した経験があるのです。
 「たったひとりしかない自分を、たった一度しかない人生を、本当に生かさなかったら、人間、生まれてきたかいがないじゃないか」。
 「路傍の石」で山本有三は、鉄橋の枕木にぶら下がって汽車を止めてしまう騒動を起した主人公の吾一少年を、担任の次郎先生が諭した一節は、今でも私の心の中から離れないのです。
 私は25歳で転職した経験を持っています。漁師の長男に生まれ、漁師になるために宇和島水産高等学校を卒業し、予定通り漁師になりました。青年団に入り青年団長にもなり、NHK青年の主張の県代表にもなって順風なスタートが切れたと思っていた矢先、夜の遅い青年活動と朝の早い漁師の仕事は水と油のようで、病気になってしまいました。重労働は無理という医者の診断や役場への転職を熱心に誘ってくれた当時の町長さんの大恩もあって、教育長を最後に退職するまでの35年間、紆余曲折しながらも今日まで生きてこられたのは、やはりこの言葉の励ましだったように思うのです。
 私にも二度三度吾一少年のように枕木にぶら下がって列車を止めるような大きな出来事がありました。その一つは双海町の「町名変更問題」でした。町を二分し町長のリコールにまで発展したお家騒動の渦中にあって、役場を辞めることを真剣に考えたこともありました。また夕日をテーマにしたまちづくりも、過ぎてしまえば何のことはありませんが、課長以外まったく部下のいない日本一小さな「地域振興課」の課長として孤軍奮闘してシーサイド公園などを作り上げた行動は口ではいえぬ激しい抵抗にあったものです。
 でもその都度「たった一人しかない自分を、たった一度しかない人生を、本当に生かさなかったら、人間、生まれてきたかいがないじゃないか」と自分に言い聞かせ今日まで生きてきたように思うのです。
 私にとって今もこれからもこの言葉ははっきりと心の中に生きています。2年半前退職して自由人になってからも、人間牧場を作って楽しく生きているのも、こうして暇さえあればブログを毎日2本書き、ハガキを毎日3枚書きながら前向きに生きて行けるのもこの言葉の教えのような気がするのです。
  「小説の 一節俺に 悟らせる 路傍の石の 次郎先生」
  「鉄橋の 枕木ぶらり 列車止め 私も列車 止めて目玉を」
  「これからも 人間生まれし 甲斐求め 力の限り 生きてゆきたい」
  「新聞が あらため俺に 気付かせる 小さな記事の 大きな教え」

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shin-1さんの日記

○新聞に出ているよ
 一昨日近所の歯科医院にパートで勤務する妻が、仕事から帰ってきて、「お父さん、患者さんが『あんたのご主人が新聞に出ている』と言われたよ」というのです。「何の新聞?」と問うと「読売新聞」でした。妻にしてみれば新聞やテレビに私が出てるという話はこれまで通常のことだったのですが、退職してそんな機会が少なくなった今日でも、新聞やテレビに再三再四出ることが不思議だと相変わらず首をひねっていました。先日は松山圏域をエリアとするCATVに砥部の楽学大学で講演した内容が殆どノーカットで1時間に渡って放送されたばかりで、知人友人から「テレビ見たよ」の話しを沢山聞いていたせいもあって、「またか」の心境だったのでしょう。
 今回の記事は昨年11月7日、私の日程に合わないため、読売新聞松山支局の記者である山村さんは、わざわざ講義で出かけていた愛媛大学まで押しかけてきました。授業が終わる午後8時に待ち合わせをして寒い屋外のベンチで約1時間取材を受けていたのです。その後何の音沙汰もなく私もその記事のことは忘れていましたが、先月12月17日になって山村さんから、写真を撮るので人を2~3人集めて欲しいと再び電話がありました。私はこの日秋田県横手市へ出張する予定だからと断るも強引に迫られ、日程の都合を少し変更して役場の大谷さんに連絡、皆さんに集まってもらいました。今回のテーマが「夕日」がテーマなので、4時という約束で集まりましたが、残念ながらまだ陽も高く、どんな写真が出来るのか不安でした。
 私の家は読売新聞をとっていませんので、その日の新聞を見ることは出来ませんでしたが、昨日今年になって初めて訪れた市役所総合支所で大谷さんが新聞のカラーコピーを渡してくれました。更に訪ねたえひめ地域政策研究センターの松本さんからも新聞紙面を見せてもらいました。私は昨日近所の読売新聞直販所へ立ち寄り当日の掲載新聞を譲り受けて帰りました。
 1月7日(月曜日)の読売新聞紙面にデカデカと載っていましたが、面白い書き出しでした。
 「こんな素晴らしい景色があったなんて」「夕暮れ演奏会 駅ホームで 潮風心地よく」「JR予讃線存続に奮闘 愛媛の若松さん」という三つもの見出しがしっくりと収まっていました。
 あかね色の夕日が差し込む駅舎。その向こうに広がる海―。7、8年前、大阪の駅で見たポスターの風景が忘れられなかった。「こんなすてきな駅のある土地で働きたい」。調べてみると、愛媛県伊予市双海町のJR予讃線下灘駅とわかった。同県への赴任を希望し、松山で勤務が実現。駅舎を訪ね、この風景を守ろうと奮闘した一人の男性のことを知った。
 合併前の旧双海町教育長の若松進一さん(63)である。昨年12月中旬、その若松さんら地元の人たちと駅舎に立った。真赤な太陽が溶けるように沈み、辺りの海一帯が黄金色染まっていく夕日を眺め、声をかけられた。「きれいでしょう」
 若松さんは地元で生まれ育ち、夕日は見慣れたものだった。だが農漁村の取材をしていたテレビ局スタッフがその美しさに気づき、改めて眺めてみた。「こんな素晴らしい景色があったなんて」と思った。約20年前のことだった。
 当時、内陸部にトンネルを掘った「短絡線
の新設計画が持ち上がり、下灘駅のある「海岸回り線」の廃止が危惧された。「こんな素晴らしい景色をPRすれば、町の活性化につながるはず」。若松さんは、地域住民に存続運動を仕掛け、夕日を生かした駅でのコンサートを提案した。
 住民は「こんな何もない町でやっても・・・・・・」と消極的。若松さんは一軒一軒を訪ね歩き、寄付集めに回った。その姿を見た若者たちが「自分たちも夢に乗ろう」とついてきた。1986年6月、初めてのコンサートを開いた。
 駅のホームを舞台に、夕日をバックにしたクラッシックの演奏が始まった。演奏が進むにつれ薄い桃色からオレンジ、赤へと変化する空の色。まるで「夕日のショー」を見ているようだと、集まった住民ら1000人から大きな拍手が起こった。(後略)
 さすが新聞記者です。見てきたような記事を上手く書くものです。でも記事を読むと20年前の出来事なのに、つい昨日のような気持ちになって思い出すのですから不思議です。私の人生にとってこれほどの意味のある出来事はなかったなあと、しみじみ新聞を読んで思いました。
  「新聞の 二十三面 記事を読む ありしあの頃 今も瞼に」
  「そういえば 何もない町 夕日など 何処にでもある それを売るとは」
  「止めとけと 誰もが言った コンサート 今に続いて いるから不思議」
  「写真には 夕日差し込む 駅風景 若者交じり 私指差し」

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