shin-1さんの日記

○7、浜辺での葬式

 昨日遠い親類の葬式に出かけました。最近は家で葬式をする家が滅法減ったようですが、この家では律儀にも自宅での葬式です。冷房のある家なのでしょうがこの日は葬式ということもあって家は全て開けっ広げですし、戸外の一般の参列者は、青い農業用ビニールを日陰用として張ってはいるものの、夏の暑い日の午後1時からの葬式ですから、汗が沢山出て熱中症になるのではないかと思うほど汗をかきました。

 私が子どもの頃の漁村の葬式は家が狭かったためか砂浜に祭壇を組んで行われていたような記憶があります。祭壇といっても今のような花で飾られた白木の立派なものではなく、ごく質素なものだったようで、組内の器用な人の指導で祭壇を飾る道具類は色紙を使って一本花に至るまで全て手作りでした。葬式の仕切りは組長で、役場への届け出からお寺への連絡、竹やシキビの確保、墓地の穴掘り、お坊さんの送迎、火葬場への運搬、身内の人の食事に至るまで全てを任され、粗相のないようにするのが組長の務めでした。葬儀社などない時代でしたから、自分の組長の年に葬式が出ないよう誰もが祈っていました。

 浜での葬式のクライマックスは死んだ人の棺桶に続いて幟旗や天蓋など沢山のお供を従えて何度もその場所をお経や鳴り物に合わせて回るのです。そしてその長い列はイワシ山と呼ばれる急峻な坂道へと続き、下から見上げるとまるで天国への道のようにみんなが登ってゆきました。勿論棺桶も組内の人が交代で担いで墓地まで運ぶのです。

 やがて墓地に着くと組内の人の掘った穴に棺桶が入れられます。昔はよほどのことがない限りは土葬でしたから、身の近い順に土を被せ、最後は組内の人が埋め戻し一応の葬儀が終わるのです。

 その日から49日は喪に服すため毎晩墓地の灯篭に灯を灯さなければなりません。夕方になると家族でお墓に灯りをつけに行くのですが、土葬だったこともあってまだこの足の下に死んだ身内がいると思うと、恐ろしいというよりは悲しくも切ない気持ちの方が先に立ち涙を流したものです。

 子どもの私たちにとって漁村の葬式は、ご馳走が食べれる日でもあるので、死んだ人には悪いと思いつつ精進料理といえどもたらふく食べました。その頃の平均寿命は今よりもっと低かったので70歳くらいで死ぬのが当たり前の時代でした。死ぬのは今のように病院ではなく家でした。地元の医者が呼ばれて臨終を見届けるのですが、私は疎祖父が死にかけた時大変な失敗を演じました。多分今の死因だと老衰に当たるのでしょうが、臨終間近になって、少年ながら医者を呼びに行く役割を仰せつかりました。大人が「薮医者を呼んで来い」というのです。私は「じいちゃんが死ぬかも知れない」と心のときめ気を抑えて一目散に医者へ駆け込みました。「薮医者さん、じいちゃんが死にそうなので来てください」と言ってしまったのです。お医者さんは「このガキ大将が・・・」と一喝されました。私はお医者さんの名前がてっきり薮医者という名前だと思ったのです。だって大人の会話は子どもには理解し難いものなのです。お医者さんは私と一緒に家へ来てくれました。そしてじいちゃんは医者の「ご臨終です」という言葉で穏やかに息を引き取ってあの世に旅立ったのです。

 漁村のこうしたお葬式を子どもの頃から見ていたため、私には子ども心ながら死生観や人生とは何かというのがおぼろげながら見えていました。私もいずれああなるという臨終や、死んでからいわし山という墓地に埋められてからあの世ではどう過ごすのだろうとかいった来世にまで思いを巡らせました。と同時に田舎で暮らすしきたりも随分学びました。人間が死んだ時、生きている日ごろから組内に対して不義理をしていると、村八分のような仕打ちに合って、葬式を出せないといった場合もあるということも知りました。田舎は温かいコミュニティがあるといわれているけれどありもしない噂話や風評が支配し、いづらい社会も一方であるのです。

 浜辺での葬式の風景はまるでセピア色の写真のように今もなお私の頭から離れません。多分強烈な印象だったのでしょうが、田舎の葬式に行く度にそのことが思い出されてなりません。

  「何処来て 何処へ去るのか 人間は 浜の葬式 今もありあり」

  「薮という 名前とばかり 思ってた 医者に叱られ 初めて気付く」

  「じいちゃんに 土を被せた 土葬式 ショックの余り 夜も眠れず」

  「わしが死ぬ 時は自宅で 葬式を 親父予約の 口頭遺言」 



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shin-1さんの日記

○隠岐の島から海の幸届く

 日本海の遥か洋上に浮かぶ島根県隠岐の島から美味しい海の幸が届きました。サザエとアワビです。この海の幸を素潜りで獲って送ってくれたのは角市正人さんという私の友人です。隠岐の西ノ島町に住む彼の紹介で島へ講演に行って以来親密となり、島で開かれた牧畑農業のシンポジウムに講師として招かれてからは急接近して、お互いがいい刺激を与えつつ今日を迎えています。

 私は仕事柄まちづくりをキーワードに日本全国の過疎地をまるで民俗学者の宮本常一のように歩き回り、まるでフーテンの寅さんのように木になるカバンを提げて出かけたまちやむらで、様々な出会いを繰り返しているのですが、その中でも隠岐の島や三宅島、石垣島、五島列島、奄美大島などの離島といわれる島へは何度もお邪魔し、その都度深いご縁をいただきながら日々を暮らしていますが、島ゆえの閉鎖性や封建制はあるものの、何処か懐かしい、それでいて人懐っこい島人の人情がとても気に入っているのです。その気風は海の側で生まれ育った私たち漁村人の気風と同じようで、ひょっとしたら私も彼らと同じDNAを持った遊漁海の民ではあるまいかと思ったりするのです。

 西ノ島の牧畑農業については昨年10月7日に開かれた牧畑シンポを終えて帰宅後のブログで詳しく紹介していますので省略しますが、角市正人さんの夢は世界でも珍しい今も細々続けている牧畑農業を世界遺産にすることのようですが、その道は険しく現時点では可能性の光すら見えてこないようです。私も四国八十八ヵ所遍路道を世界遺産にする運動にほんの少しだけ関わっていますが、世界遺産への道は遠いのです。でも夢を持つことはいいことであり、そのプロセスこそがまちづくりなのだと励まし続け、熱いエールを送っています。

 昭和30年代まで日本はどのまちや島も戦後復興という共通の目標に向かって歩んでいました。ところが所得倍増計画や工業化計画という名の施策が次々と打ち出され、主にまちやむらの若者たちが金の卵として地方から都会へ国策的に集められたのです。その時点でまちやむらは過疎の第一歩を踏み出し、過疎と過密という弊害を産み出したのです。社会の発展、都会の発展とは裏腹にまちやむら、それに離島では発展の時計が止り、止るどころか昔へ引き戻されるような錯覚さえ覚える後退現象今も、地方に住む人たちを悩ませているのです。

その心配に追い討ちをかけるように平成の大合併は始まり、ホットな議論と冷めた議論が交錯するなかで、有無をを言わさない強引なやり方で地方の後退現象は様々な分野に飛び火しているのです。役場が支所化し学校が統廃合されてなくなり、農協も漁協も合併し便利は不便となって暮しすら立ち行かなくなって、周りの商業施設はシャッターどころかスラム化しつつあるのです。

 何処かが可笑しく、何処かが狂っていると思いつつも、今の日本の社会をまともな方向へ戻すことはもう不可能かも知れないと、田舎に住む私たちは一種の諦めを覚え始めました。それは住民の幸せを守るはずの行政と議会が地域住民から完全に離れているからに違いないからです。今度の参議院議員選挙で大勝した民主党の第一の主張は自分たちの政権争奪で国民のことなどまるで考えていません。自民党もこれだけ惨敗しながら相変わらずその原因がいかに国民不在の政治の結果であるか、未だに知ろうともしないで、相変わらず次の選挙の必勝を祈願しているのです。

 そんな中、角市正人さんは数少ない地域を思う町会議員さんです。多分彼の「牧畑農業をオンリーワンとして守る主張は今をテーマにする行政や議会からは損得、好き嫌いで処理をされ相手にされないでしょう。でも西ノ島が生き残るには牧畑農業の持つアカデミックな価値こそ見直されるべきものなのです。そこで提案ですが世界遺産も大切ですが牧畑農業は是非日本遺産に登録してはどうでしょう。美しい国日本を掲げる総理に提案してみようかなと思っています。

 世の中便利になったもので、発泡スチロールに入れられてはるばる隠岐の島から届いた宅配便を開けてびっくりしました。西ノ島の磯の香りとともに大きなアワビがもの言うが如くうごめいているのです。妻は早速アワビの刺身とサザエの壷焼きです。久しぶりにご馳走と思う夕食に舌鼓を打ちながら遥か遠い西ノ島や知り合った人々のことを思い出しました。

  「宅配の 蓋を開ければ ニョキニョキと 磯の香りを アワビ運んで」

  「島人の 人情厚く 今もなお 心届ける 嬉し人有り」

  「牧畑を 日本遺産に するような 政治家いない 日本寂しや」

  「早いもの あれから一年 経ったとは 進化したのか それとも後退」  

 

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