shin-1さんの日記

○ワンポイント

 サッカーにお株を奪われ、最近野球の人気が急落しています。しかもその野球でさえ松井やイチローのアメリカでの活躍が話題になって、日本でいれば6球団の一人でそんなに話題にならないのに、郷土宇和島出身の岩村だって、日本にいるときよりはるかに知名度が上がっているのですから情報とは怖いものです。特に近所の話は近いのに私の耳には中々届かずに、海の向こうの遠い話が一見近い話題として伝わる珍現象にはただただ驚くばかりです。結局はいつの時代も最先端の情報源を持っている人間が勝ち組になっていくのかも知れません。そんな野球選手の中に岡島というリリーフ専門の投手がいます。大きな声ではいえませんが、アンチ巨人の人が随分多くなった社会で、巨人・大鵬・玉子焼きを自認している私なので、野球を知らない私でも岡島や桑田といったかつて巨人でプレーしたことのある選手がアメリカへ渡ったことぐらい知っています。残念ながら桑田は故障してリハビリ中ですが、レッドソックスに入団した岡島は、華やかなスポットライトを浴びる松坂に比べると影は薄いものの、リリーフ投手として存分の活躍をしており、強打者居並ぶアメリカ大リーグの選手を相手に小さな大投手が立ち向かう姿は、表現は悪いのですがまさに真珠湾攻撃や特攻隊のような感じがして声援を送らずにはいられないのです。彼の投法は思い切って投げるため投げた後打者を見ていない、まるで背を向けるような姿になっているのです。よくあんな姿で・・・と感心しています。野球のことをを余り知らない私ですが、彼のような投手のことをワンポイントリリーフというのでしょうか。

 私はワンポイントという言葉をよく使います。ワンポイント付け加えるだけで随分違った効果が出るからです。役場に勤めていた頃広報を10年間担当しましたが無味乾燥的な役所の広報を何とか身近なものとして町民に読んでいただこうとワンポイントカラー印刷を思いつきました。それまで黒一色だった紙面がまるで魔法のように明るくなり好評を博しました。また講演などのその度に金融広報アドバイザーとしての学びを生かして生活設計の大切さをワンポイントレッスンするのです。これも人生いかに生きるかという意味では大切なアドバイスなのでそれなりに受け止められているようです。

 さてこの2~3日前から始めたことがあります。それはワンポイント清掃です。身近な家庭内のちょっと気になる場所を探して掃除をするのです。掃除は妻と決めてはばからない亭主関白な私でしてこれまで家の掃除といえば一年に一度の年末大掃除くらいなものでしたが、妻が務めていることもあり自由人の私としては妻と形勢逆転になったため、少しでも妻の役に立とうと考えたのです。どうです凄い事を考えるでしょう。そんなこと当たり前なのにさすが自由人と自画自賛している自分を褒めてやりたい心境です。

 昨日は書斎の窓ガラスを拭こうと思いました。畳三畳もあるような大きな掃きだし窓のある書斎ですが窓の向こうは庭と裏山が続いて見えます。その窓を拭いたついでに、居間の窓やその周辺をを拭いて掃除をし、レールにぶら下がっているレースカーテンを外して洗濯機にかけ干したのです自分でも信じられない行動にニヤニヤしながら、妻が昼食に帰る時間を待ちました。妻の驚く反応が見たかったのでしょう。お昼になって妻は居間に入るなり驚いた様子で、してやったりの心境でした。妻曰く「まあ綺麗になって、どんな風の吹き回し、雨でも降らなければよいが」と皮肉たっぷり、でも「ありがとう。随分助かるわ」と嬉しい褒め言葉をいただきました。人間褒め言葉に弱い動物で、「褒めれば豚も木に登る」のかも知れません。

 これからも少しずつではありますが、ワンポイントにこだわって、家の清掃を少し心がけたいと思います。

  「心がけ 次第で清掃 はかどって お陰で綺麗な 窓から外を」

  「清潔に 整理整頓 掃除する 四Sですよと 誰かいってた」

  「ちょっとした ワンポイントの 掃除でも 習慣なると 週間だけでも」

  「気がつけば 心のゆとり この頃は 少しできたか 掃除するとは」


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shin-1さんの日記

○5月の夕日

 昨日は雨模様の前日から一転して爽やかな天気に恵まれました。夕方下灘の親類から魚を取りに来るよう連絡が入り妻の車に発泡スチロールの箱を積んで出かけました。親戚までは僅か8キロ、10分足らずの短い距離ですが、信号を左折してシーサイド公園辺りから綺麗な夕日が遮るものも泣く見えました。親類は漁師で度々新鮮な魚をくれるのです。今日は立派なチヌを2匹と甲イカを6パイいただきました。夕日のことが気になっていたものですから帰りに思いきって旧道を走って下灘駅へ立ち寄ってみました。最近はフイルムコミッションなどの紹介もあって下灘駅の人気はうなぎ上りで、最近ではNTTの宣伝にも登場している人気スポットなのです。この日も高校生らしき女性がキャーキャー言いながら携帯電話のカメラで写しながら騒いでいました。若者たちの邪魔をしないようにデジカメで夕日を2~3枚狙ってみました。

(これが下灘駅の駅舎です。駅の改札口からはプラットホームと海しか見えないシンプルな駅です。今は無人駅になって、備え付けの落書き帳のみです。かつては日本一海に近い駅として、フーテンの寅さんもやって来ました)

(改札口を出ると自慢の夕日が迎えてくれます)

(プラットホームの屋根やベンチも夕日を際立たせる立派な道具です)

(これが私の一押しの夕日が沈む風景です。このショットに憧れてこのプラットホームを使ったコンサートを思いつきました。もう20数年前の若き日の出来事です。でも忘れられない光景です。

 この日の夕日も綺麗な夕日で、一人で見るのは勿体ないと思いつつ、「そうだ、この頃だとわが家の裏山からこの夕日が見えるかも知れない」と急に思い立ち、急いで車を走らせました。夕日は天気と時間との勝負です、天気は心配ないとして時間を気にしながらわが家へ帰り裏山に走りました。「運、間に合った」と自分で納得しながら沈み行く夕日を観察しました。

 わが家から見ると夕日の沈む海はV字型の谷の向こうにあり、春から夏にかけてしか夕日が見えませんが、こんな立派な夕日がわがyの裏漢も見えるのです。ちなみにその場所からわが家を見るとまるで箱庭のように庭や長い塀が見えます。夕暮れ時なのであるいは写らないかも知れないと思いつつ撮りましたが何とか写ったようです。


(夕日に映えるわが家と前庭、柿の若葉が美しい季節となりました。煉り塀が長く延びています)

(わが家のお粗末な庭です。妻の愛車おんぼろアルトが写っています。)

 こんな位置から美しい夕日が見えるのですから幸せです。
(丁度夕日が沈んでいる辺りに長い長い鉄橋があって、ここを列車が通る姿はまたおつなもので、夕日と列車のコラボレーションはお気に入りだし、夕日が沈んだ後に通る列車の走る姿は銀河鉄道と呼んでもいいくらいロマンチックです)

 夕日の町でありながら毎日夕日が見える訳でもありませんが、天気がよい日などは時たま思い出したように夕日に出会いたい心境になります。夕日を見た後私の心には何故か温かい風が吹き、何故か元気が出てくるのです。夕日は私のパワーの源だと思うのです。夕日でまちおこしをした私にしてみれば、夕日は地域資源だしお宝なのです。合併によって最近はその色も薄れ何処かに置いていかれたような感じがしないでもありませんが、私はこれからもこの夕日をしっかりと売り歩きたいと思っています。

  「この夕日 沈む右端 3丁目 まるで映画の 題名みたい」

  「下灘の 駅に沈みし 夕日見て 同じ夕日を わが家の裏で」

  「両の手を 合せて祈る 夕日かな 明日は朝日と なりて昇りぬ」

  「風誘う 皐月の夕日 ほのぼのと 余韻残して海の彼方へ」 

 


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shin-1さんの日記

○ふるさとを訪ねる

 私のふるさとは双海町です。といっても今は双海町上灘という現在の場所に住んでいますが、生まれた場所は下灘です。当時は伊予郡下灘村大字串、通称豊田の浜といわれた下浜に生まれました。家は代々漁師でしたから家の裏は直ぐ海で、まだ波返し護岸も漁港も整備されてない砂浜でしたから、家の部屋で寝ていても波が海岸まで打ち寄せる音が枕辺にまで聞こえ、それはもう長閑なものでした。海が時化ると玄関先まで波が押し寄せてくるような錯覚を覚えたものでした。まあよくある海水浴場の「海の家」って感じの風情でしたから、砂浜や海、時には居並ぶ船蔵を遊び場として育ち、砂浜の石ころなどは格好の遊び道具でした。幼年期に数を覚えるのもこの石ころで、石ころを100個拾ってきてひ、ふう、みい、ようと数え、原始的な方法で算数の基礎を築いたのですから、今の電卓などの時代にはついて行けないのが正直な話です。

 下灘で31年間育った私が現在の場所上灘に移ったのは、青年の船でアメリカへ行った明くる年昭和52年ですから、今年で31年、私の人生の前半半分は下灘がふるさとなのです。そんな生い立ちもあって人間牧場はふるさとへの想いが捨て切れず、生まれた場所が一望できる下灘の地に建設したのです。そんなこんなで現在も下灘へは毎日のように通っています。しかし自宅から人間牧場へ一直線で通うため、狭いと思われる田舎でも随分久しぶりに歩いたような感じのする場所や、久しぶりに出会う人たちがいて懐かしさが甦ってくるのです。

 数日前の5月5日、親類の叔母の三回忌法要があって、少し早めに到着したため妻を誘って二人で漁港の突堤を灯台のある先の方まで歩いてみました。突堤といっても西日本屈指といわれる大きな漁港なので往復1キロ以上もある長い突堤で、コンクリートの分厚い塊が道を作り、今更ながら人間の英知と行動に驚きながらゆっくりと歩きました。妻が嫁いできた36年前にはまだこの港はなかったのですから、妻にとっても驚くような変貌振りで懐かしく指を差しながら、「あそこら辺りの浜辺に長男の鯉幟を立てたよね」などと思い出の地を遠望しました。外海も静で内港には黄色い漁船が整然と係留されていました。港を歩いていると知人友人によく会います。「進ちゃんか」と声を掛けてくれる人もいれば、私の方からも声を掛けます。中にはすらない人だのに大きな魚を釣り上げて見せてくれる人もいました。

(7キロもある大きなコブ鯛、通称モブシを釣り上げていました。これは美味しい魚です)

 突堤から見ると、人間牧場がよく見えます。残念ながらこの日は今にも降り出しそうな雨模様のためそんなにはっきりとは見えませんでしたが、それでも黄色い水平線の家がくっきり見えました。

(山の尾根に見える黄色い家が水平線の家です)

(アップにすると水平線の家の下にロケ風呂も見えます)

 人間牧場までは谷を渡り尾根を越えてここから2キロくらい上がった場所にありますが、とっておきの近道だと10分もかからない
ほど近いのに道が狭くて、私のよな達人でないとこの道はお勧めできません。

 やがて突堤の先まできたので、嫌がる妻を無理やり写真モデルにしました。嫌がった割にはポーズなどとるあたりはやはり女性なのでしょう。


(下灘の中心地をバックにそれなりに撮れてる妻をモデルの写真です)

 港には漁船の他、かなりの遊漁船が係留していましたし、中にはヨットなども停泊していてどこか別の町へ行ったような雰囲気でした。子どもの頃には直ぐ上の線路を蒸気機関車が煙を上げて走っていたし、国道に昇格する前は離合するのもやっとという狭い道をノロノロと定期バスも走っていました。昔のうらぶれた漁村としての下灘下浜・上浜を知る人にとっては、私たちが驚くくらいですから、「ここは何処」って感じの変貌なのでしょう。

 「ふるさとの山に向かいていうことなし ふるさとの山はありがたきかな」、ふとそう思いました。私の原点がここにあるのです。漁村ゆえ決して豊かな暮しではなかったけれど、それでも幸せがいっぱいありました。親父もおふくろも一生懸命働きましたし、私たち子どももそれなりに働らきました。私は宇和島水産高校漁業科を卒業してガンで倒れた親父の後を継いで7年間もこの港を母港にして漁師をしました。青年団活動もここで思い切りやりました。またNHK青年の主張の県代表になったのもここなのです。結婚して3人までがこの地で生まれました。思い出すと少ししんみりするのがふるさとなのでしょう。私にとって下灘という地は思い出であり宝物であり恩人なのです。余生はこの地が一望できる人間牧場で恩返しをしなければなりません。それは私の宿命だと考えて進化することなのです。

  「久方に ふるさと訪ね あれこれと 思い返して 少ししんみり」

  「あの家で 式を挙げたな 指を差す 妻も六十路の 峠を越えて」

  「お父さん あそこに見えるの 牧場ね 指差す彼方 霧に煙りて」

  「コンクリの 固まり囲う ふるさとを のんびり歩く 妻と二人で」

   

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shin-1さんの日記

○病気知らずの食生活3つの原則

 「若松さんこの本を読んでみてはどう」と誘ってくれたのはえひめ地域政策研究センターの清水さんでした。私にはメル友や風呂友、飲み友など様々な友だちがいますが、勉強をしない私に本を勧める人も県庁の高岡さん、関西汽船の浜田さんなど結構いるのです。さしずめ高岡さん、浜田さん、清水さんは読み友とでもしておきましょう。その読み友を通じて様々な本を紹介受けるのですが、色々な本を読んでいる読書が趣味の彼らが勧める本は結構ためになるものが多いので、小遣い銭をはたいて買い求めては乱読しています。

 今回清水さんが勧める本は松田麻美子著「常識破りの超健康革命」(グスコー出版・1200円)と、ハーウ゛ィー・ダイアモンド著「フィット・フォー・ライフ」(グスコー出版・2100円)という2冊の本です。「フィット・フォー・ライフ」は米国の本の翻訳版、「常識破りの超健康革命」はそれを分り易くした日本語版みたいなもので相関関係にあります。

 この本を読んで思うのは、この本が本当ならば私たちの今までの健康に関する常識は一体何だったのかという疑いです。でもなるほどと納得させる部分もあって、早速食生活の改善に取り組んでいます。

 まず冒頭に出てくる「病気知らずの食生活3つの原則が次のように紹介されています。

 第1の原則 「命の水を豊富に含む食べ物」を食べること

 第2の原則 「食べるにふさわしい時間帯」に食べること

 第3の原則 「正しい組み合わせの原則に」にしたがって食べること

人間は果食動物で、生物学的に「人間の身体は果物と野菜を主食とするように作られている」という根拠は、①果物と野菜は「水」を豊富に含んでいる(身体にとって水は食べ物より重要)、②果物と野菜は「糖」(炭水化物)を豊富に与えてくれる。(糖は身体のエネルギー源)、③果物と野菜は「酵素」を豊富に含んでいる(酵素=生命力)、④果物と野菜は健康な身体づくりに必要な栄養や生活習慣病を撲滅する成分を含んでいいる、⑤果物と野菜は身体を弱アルカリ性に保つのに役立つというのです。命の水を豊富に含む食べ物とは、果物と野菜なのです。

 人間の身体のサイクルは正午~午後8時は摂取と消化(食べることと消化の時間帯)、午後8時~午前4時は吸収と利用(身体への同化の時間帯)、午前4時~正午は排泄(体内の老廃物と植物カスの排出の時間帯)、このサイクルを考えると朝食をしっかりとるという根拠が崩れることになるのです。身体のサイクルも知らず夜遅くまで食べることがどんなに健康を害しているか、改めて知りました。

 正しい組み合わせで食べることの原則とは、「バランスよく食べなければならない」という今までの栄養学が根本から間違っていると指摘をしています。その一定の条件とは、凝縮食品(米・パン・肉・魚・卵・乳製品など)を二つ以上一緒に摂らないこと。肉や魚は、野菜と一緒に摂ること。ご飯やパンも野菜と一緒に合せて食べること。この原則は一般的な食べ合わせよりも効率よく楽に消化できるという発見から生まれたもので、この組み合わせによって身体のエネルギーを合理的に活用できるのだそうです。

 果物もルールに従って食べれば幾ら食べてもかまわない。朝食は必ずしもしっかり摂らなくてもよいなど、常識では考えられない話を半信半疑で考えながらこの2冊の本を読んでいいるところです。

  「嘘ホント 何を信じて 生きるのか 知らない方が 良かったのかも」

  「そういえば 夕食門限 9時以降 何も食べるな 検査の時は」

  「健康が 気になりだした 俺の歳 今日から少し 考え生きる」

  「読み友が 勧める本に 書いてある 朝飯食わぬ 人も健康」 

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shin-1さんの日記

○重い荷物を運ぶ

 家の入口に第一駐車場、家の玄関先を屋外第二駐車場、家の横を第三駐車場と呼べばいいのでしょうか、わが家はそれらを含めて660坪もの広い敷地を有しています。都会暮らしの人たちには何とも羨ましい広さなのですが、広ければ広いでまた悩みも多いのです。まず家の周りの草刈りや、敷地内の草引き、家庭菜園の世話、庭木の手入れなど、思わぬ労働力がいって中々管理が大変なのです。今はその殆どを90歳になる親父がひとり一手に引き受けてやってくれていますが、親父の高齢化とともにそろそろ代替わりの時代がやって来ました。家の中は妻の仕事と割り切って、私はもっぱら外回りの仕事を親父と二人でしなければならないのです。

 第三駐車場を魚梁瀬杉の一枚板と大理石の石盤枚が、この半年余りわが者顔に占拠していました。どちらも一人では動かせないほどの重い荷物で、妻からは掃除が出来ないから片付けて欲しいと散々苦情を言われていました。しかし動かす場所もなくさてどうしたものか思案をしていました。魚梁瀬杉の板は馬路村からいただいた大切なものだし、大理石の石盤板も息子が知人からいただいたこれまた大切なものなのです。今朝ひょんなことから思いつき、この二つの重い荷物を、出来上がった人間牧場の倉庫へ運ぶ事を決意しました。姉の家からトラックを借りて帰り、さて一人で動かせないこの重い荷物をどのようにして車に積み込み、どのようにして車から下し倉庫に入れるか、様々な方法を考えました。そこで思いついたのがテコの原理です。まず片方を持ち上げて板の下に敷物をして片方の端を車の荷台に乗せ、乗ったら片方の敷物台を徐々に上げ、最後は板の下に敷いたコロで転がせました。多少難儀はしましたが、計算どおり3枚の重い荷物をたった一人でトラックに積み込めたのです。自分を自分が褒めるのは馬鹿な話ですが、不可能と思ったことが可能となって鼻高々でした。

 自宅から人間牧場までの道を運びましたが板と石の荷物はかなり重そうで、トラックが山道に差し掛かるとトップでは走らずセカンドギアーでそろりそろり登って行きました。積荷の時は何とかなったのですが、さて下ろすのは一苦労で、足場も悪く恐る恐る少しずつ下に座布団を敷きながら下ろし、苦労しましたが何とか事故もなく倉庫に収納することができました。それにしても妻が驚くほど、よくもまああんな重いものを一人で運べたと感心しきりでした。

 木の板と石の板を移動した第三駐車場はかなりの落ち葉が積もっていましたが、これを綺麗に掃除してやっと元通りの清潔な駐車場兼洗濯物干し場となり、妻の苦情も今日から聞かなくて済みそうでやれやれです。

 さて、問題は人間牧場に一時保管した二つの重い荷物をどのように活用するかです。まず高知県馬路村魚梁瀬から届いたかなり立派な魚梁瀬杉の一枚板はテーブルにしようと考えていますが、水平線の家のどの場所に置いてどのように使うか、未だにその効果的な利用方法を考えあぐんでいます。というのも水平線の家には既にこじんまりとした高知県奈半利町の坂本さんから贈られた魚梁瀬杉の切り株があり、新築の祝いに親戚からいただいた一枚板も置いてあり、何処をどうするか迷っているところです。一方大理石の2枚の板は倉庫を工房にして使うのであればうってつけの土間机に大変身しそうなのです。建築士の息子と良く相談して効果的に使いたいと思っています。

 このところぎっくり腰の具合も良く、あれほど思い荷物を一人で運んでも、何ら支障がないほどに回復しているようです。調子に乗って余り無理をしないようにと早速妻の厳しい忠告を受けました。はいごもっともです。知識を知恵にして良い仕事をした一日でした。

  「テコ原理 知識を知恵に 変えました お陰さまにて 荷物運べる」

  「汗を出し 知恵を出したる 荷の移動 妻もびっくり 俺もびっくり」

  「昨日まで ざわめきたった 町なのに 今日は静かな 朝を迎える」

  「俺だって まだまだ火事場 糞力 調子に乗ると ギックリ腰病む」 


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shin-1さんの日記

○過激な話

 私のような者が大学で曲がりなりにも教えるようになって、大学の学者先生との出会いが以前にも増して多くなってきました。これまで私たちのような実践肌の人間は学者先生の話を聞くと何となく世間離れしていて、かなりの抵抗がありました。逆に大学の学者先生も学歴のない私たちを見て理論体系がないような口ぶりで目に見えない言葉の反抗を示し私たちもそれを感じていました。そんな中で面白く過激な先生がいます。熊本大学の徳野貞雄先生です。先生は先生と呼ぶに相応しくない風貌をしています。何年か前広島県立大学の先生だった彼に、私の町の町づくりシンポジウムの記念講演を頼みました。広島から船で来るというので、若い職員に松山観光港まで迎えに行ってもらったのですが、船は着いたがどうしても大学の教授というそれらしき人は下りて来ないというのです。探せと指示をしましたが幾ら探しても見つからなかったそうです。たまたま公用車に「双海町」という文字を入れていて、徳野先生の方から声を掛けられ事なきを得たのです。どう見ても大学教授の風貌をしていない先生とは以来親しく付き合い、特に逆手塾の専任講師であることから昨年は人間牧場へ来られ熱弁を振るわれました。

 大学の他の教授が穏やかな建て前論の話をするのに対して徳野先生は過激な話をします。それはむしろ本音の話として私たち実践家により近い話として胸を打つ言葉が多いのです。「口角泡を飛ばす」という言葉がありますが、徳野先生の超過激と思える発言や語り口は、色々な誤解も生まれますが、私にとってはとても心地よい響きなのです。

 先日徳野先生から「農村の幸せ、都会の幸せ」という240ペーほどの小さな本が送られてきました。帯に書かれた文章を紹介します。

 「都会でサラリーマンになって、夏でも冬型の格好をさせられ、満員の電車に乗せられて、水虫になりながら夜遅くまで仕事をする。仕事帰りにはそこらの居酒屋で上司の悪口を肴に酒を飲んでいる。そうした暮しは、GNPに換算すればかなり高くなるでしょうし、確かに経済としては成り立っています。

 経済としては成立しているかもしれないけれど、一人の人間の暮らし方としてはどうでしょう。それよりも朝早くから田んぼに出て水を見回り、・・・・略・・・・クーラーはないけれども、日本の伝統的家屋には風通しがよくて涼しいポイントがありますから、そこに寝転がって昼寝をする。休日には近くの川で魚を採ったりする。こんな暮らし方が個人としては理想なのかもしれません」。

 この本の中身を読むといかにも農村の暮しが幸せそうに見えますし、都会の暮しに疲れた人々に田舎はいいよと応援歌のようにも取れますが、田舎の悪い部分も断罪しながら家族や食や暮しといった、日本社会の矛盾を鋭くついているようにも思えるのです。

 この本の中に「暮らしの生活社会指標というのがありました。都会のサラリーマンと安定兼業農家を①所得、②生活財、③家屋・部屋数、④自然・環境、⑤教育・学歴、⑥70歳時点での仕事、⑦自分の葬式の会葬者予測、⑧家族・世帯員数という一風変った8つの生活要素を基にレーダーチャート的図式 で比較しているのですが 、①所得と⑤教育・学歴は都会のサラリーマンの方が高いものの、その他の指標は全て安定兼業農家の方が高い事に驚くのです。特に②生活財、③家屋・部屋数、④自然・環境といった地域が固有に持つ空間資源や、⑥70歳時点での仕事、⑦自分の葬式の会葬者予測、⑧家族・世帯員数といった地域の人間関係資源は全て安定兼業農家に軍配が上がるのです。さらに①の所得でも所得そのものは低いものの自給や家賃、物価を考えれば都会のサラリーマンの出費も多いようです。ただ教育や学歴、子育てや受験といった部分では圧倒的に都会のサラリーマンが優位にあるようです。

 高齢化社会が急激な勢いで迫ってきました。人間としていかに生きるか、真の豊かさとは何か、老いを迎えた生き方など様々な問題を考えれば金で推し量れない空間資源や人間関係資源の持つ意味や魅力が問い直されるようです。

 田舎に住む私にとっては納得する理論ですが、ただ私と同じように田舎に住んでいる人たちがこうした田舎の価値を認識しているかどうかが問題なのです。

  「超過劇 そんな表現 したくなる おもろい先生 私友だち」

  「近頃は 理路整然と 話す人 多過ぎ不満 もっと過激に」

  「田舎住み たまに都会へ 遊び行く これが一番 リッチ生活」

  「問題は 田舎の良さが 分らずに ブツブツ言いつ 田舎住むこと」

 

 

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shin-1さんの日記

○私の今日の占い

 昨日はこどもの日、孫にとっても私たちにとっても主役になれる記念日なのです。孫はこどもの日なのに娘のお産が近いとあって遠出近出も出来ず悶々のようなのか、親類で叔母の三回忌法要の読経最中に娘から携帯電話が入りました。そっと外へ抜け出し電話に出てみると娘からでした。「朋樹がおじいちゃんの所へ泊まりに行きたい」というのだそうです。春休みの子守から解放されやれやれと思う反面、相棒のいない寂しさかついつい引き受けてしまいました。実は5月5日は私たち夫婦にとっても結婚記念日であり、私たちだけの特別な日でもあるのです。仕方がないから二人の記念日は、泉にでも出かけて食事でもと思っていた予定を変更して孫の相手をすることにしました。

 法要から帰って喪服を着替え、普段着で裏庭の遅咲きツツジの下草を削って除草をしていると早速元気者の孫が「おじいちゃん来たよ」と大きな弾んだ声で夫婦に連れられやって来ました。妻が私の書斎へ孫を連れて行き、窓越しに裏庭の私に手を振る孫も迎える私も嬉しそうでした。折から雨が降り出したのを幸いに除草作業を止めて孫のお相手です。せっかく来たのにこの雨では「おじいちゃん虫取りに行こう」と誘われても戸外へは出れず、思い切って近所の農家へイチゴ狩りに出かけました。しかし残念ながらここも午前中で営業を終わっており、頼み込んで品薄ながら二人だけでイチゴをたらふく食べました。その後シーサイド公園へ出かけましたが、雨が降り出したこともあって特産品センターはかなりの人でごった返していました。我慢強い孫なので、出かけるとき「今日は買わない」「見るだけ」と約束をさせて毎回出かけるのですが、さすがに昨日はこどもの日、小さなお気に入りの恐竜模型を見つけ480円の買い物をしました。漁協女性部のじゃこ天のお店ではこどもの日にちなんでお菓子のプレゼントがあり、孫は二重のプレゼントに大喜びでした。恐竜ごっこや読書など孫の相手は疲れました。それでも風呂に入れ9時には床に入って孫と寝たため、午前2時の今頃になって目が覚めて寝られず、ついつい書斎でパソコンに向かいました。

 何気なく目に付いた「Ameba今日の占い」「今日のshinー1さんの運勢は?」という欄をクリックすると次のような占い予想が出ていました。

 恋愛運2

 恋愛は波乱の時を迎えています。おつきあいしている恋人に複数の異性からアプローチがあります。そんな状況を偶然見てしまうshin-1さんは、気が気ではなくなってしまい、精神的に疲れ果ててしまうのです。また、相手は誘惑に弱くなっているため、あなたの方がはっきりした態度を示さないと、別の異性にさらわれてしまうことになります。恋人を手放したくないのであれば、自分の気持ちをはっきりと当てに伝えるようにしてください。そうすることで、自然とふたりのきずなはは深まり、数多くの困難も乗り越えていけるようになるでしょう。この時期は、なによりもマンネリを打破することから、幸運がもたらされるのです。

 健康運2

 shin-1さんの健康運は上昇しています。バテ気味だった人も、元気が出てくるでしょう。この時期は、ゴルフの練習場、バッティングセンター、テニス、卓球、ビーチバレーなどに出かけて、積極的に身体を動かす事をお勧めします。じっとしていると、ストレスがたまりやすいときです。できるだけバスや電車を使わずに、自分の足で早く歩くか、自転車を使いましょう。エネルギッシュに動き回って汗をかき、食欲を増進させてください。

 仕事運5

 shin-1さんは仕事に理想を求め過ぎ、職場に不満を感じて転職を考えるかも知れません。ただし、求めるような理想的な職場や仕事は、簡単に手に入れられるものではありません。性急に結論を出さず、自分の仕事をもう一度じっくり見直しましょう。金運は順調で、アルバイトなどによる臨時収入も期待できるときです。目移りするほど買いたい物があるとしても、できるだけ貯金に回したり、転職に備えて資格試験の勉強に投資したりするのが賢明です。

 占いは当たるも八卦当たらぬも八卦だそうですが、自分に当てはめて考えてみると、恋愛運は別として、健康運や金運は結構役に立つアドバイスとして受け止めれそうです。私は神社に備え付けているおみくじなど引いたことは殆どなく、いつもおみくじを引く妻に無意味だから止めろと咎めたりしていました。ですからこの「今日の占い」も参考意見として聞いておきたいものです。

 世の中自分さえ分らない運勢を人が考えられる訳がないといつも思います。でも人間はそのように先のことが分らないだけに先の事を知りたいと思うのも本能かも知れません。でもやはり自分の運勢が上向くのは他力本願ではなく自力で実行する意志の強さ以外にはないようです。

  「偶然に パソコン運勢 見てしまう 殆ど外れ 少し当たって」

  「運勢は 他力本願 成就せず 自力で努力 勝ち取るものだ」

  「この歳に なっても気になる 恋愛運 ばかばかしいと 思いつつ・でも」

  「おじいちゃん 来たと弾んだ 孫の声 来たか応える 身体に精気」 

  

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shin-1さんの日記

○バレエ公演の案内

 私の敬愛する観光カリスマ百選の一人舩木上次さんから今年も清里フィールドバレエ公演のパンフレットが届きました。封筒の中には昨年度の公演の様子を収録したCDも入っていて、17年も続いている屋外バレエの真髄を画像で見学させてもらいました。昨年度のプログラムに書かれた彼のあいさつが全てを物語っているようなので紹介します。

   ごあいさつ

「皆様に支えられて17年目を迎えられる事に感謝の気持ちでいっぱいです。私は今までの16年間を振り返り多くの宝物を手に入れた事に驚いています。この夏の夜の夢を毎回待っていてくださるファンの皆様の温かい声援、今村博明先生、川口ゆり子先生、バレエシャンプルウエストの皆さんとの絆、このイベントを続けるために一緒に心を配ってくれる友人達、そして裏方のスタッフや地元を中心とする大工さん、ボランティアの方々との友情です。満天の星空、幻想の霧、自然が見せてくれる素晴らしい演出はもちろんですが、雨や雷の日があったからこそ皆さんの暖かい心に触れ感謝という事を知りました。フィールドバレエという文化は、先人の開拓者から教えられたチャレンジ精神に、16年間のたくさんの感謝と感動が織りなしてやっと清里という地に根付きました。今年も皆さんと共にいっぱいの宝物を手に入れたいと思います。空に向かって「ありがとう」、そして皆様に心から「ありがとう」

   清里フィールドバレエ事務局代表 舩木上次

 彼と出会ったのは東京高輪プリンスホテルで日本観光協会が開いた観光カリスマ百選のシンポジウムでした。私を含めた6人の1人として壇上に立った彼は関東人らしい洗練された語り口で喋りまくりすっかり圧倒と魅了されてしまいました。それからはつかず離れずの付き合いが続き、愛媛での講演に彼を招いた折、人間牧場へもやって来たのです。

 想いも規模も違うフィールドバレエと夕焼けコンサートという屋外イベントを仕掛けた者どうし、苦労も共有・共感・共鳴しすっかり心を許しあう友人となったのです。

 今年彼はパンフレットを入れた封筒に添えて森永チョコレートを20箱も届けてくれました。1箱に24個の一口サイズのチョコレートが入っているのです。添え書きに「人間牧場で使ってください」と書かれていました。私は遠い異郷の地ゆえ7月27日~8月9日まで行われるフィールドバレエの公演にいか程の人が行くか不明ですが、送られて来たその日から、チョコレートを手渡し食べた人全てに舩木さんのことと、フィールドバレエのことを人間牧場で話そうと決意し、話し始めたのです。東京近辺の人に書いた手紙にもパンフとチョコレートを一枚入れて昨日発送しました。

 人のために尽くすことは容易なことではありません。でもささやかな手助けしか出来ないもどかしさを感じながらもチョコレート作戦はひとまずスタートしました。でも不思議なものでこの連休で人間牧場への来訪者も多く、手紙で送った分を含めると早100個を越えています。勿論妻にもチョコレートを2枚渡し、人の倍も舩木さんとフィールドバレエについて話してやりました。

 まちづくりの志を持った友人たちにもう少しの間チョコレートを配りながら彼の事を話す日々が続きそうです。

 それにしても世の中には色々な人がいるものです。舩木さんに出会って彼のひたむきなバイタリティと行動力に圧倒されながら、自らも見習うべく日々修行を積んでいますが、意思半ばといったところでしょうか。そう思いつつふと、「私はまだ彼の清里を訪ねていなかった」と気がつきました。長野県南牧村の中島美人村長に出会ったことも、山梨県の各地へ私が出かけたことも、ある意味では彼の紹介が多いのに、そして清里の近くまで足を運んでいるにもかかわらず、清里へは残念ながら行っていないのです。「そうだ清里へ行きたい」、これが私の当面の目標です。さて善は急げというが何時になるやら・・・・・・。

  「今年また 清里バレエの 案内が チョコ添え語る お願いします」

  「雨や風 悩みの数々 思い出す 屋外イベント 自然が相手」

  「とりあえず 二十回目を 目指してる 十七回目は 峠のひとつ」

  「バレエ聞き ボールのバレーと 勘違い 田舎の文化 バレエとバレー」  


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shin-1さんの日記

○変る葬式事情

 最近新聞のお悔やみ欄を見て気がつくことがあります。死亡した人の年齢は千差万別、いったいに70歳から90歳過ぎまで高齢者の死亡が多いものの、中には私とお同じような今風にいえば若くして死ぬ人もいます。多分ガンや脳卒中、心臓発作、交通事故などで死んだものと思われますが、この欄に記載された分以上の悲しみの舞台が県内のあちこちで繰り広げられているのです。私と同じような年齢の人だと働きズ目に働いて年金を楽しみにしていたに違いないとも邪推するのです。

 お悔やみ欄の特長でもう一つ顕著なのは葬式の舞台がこの数年の流行で、自宅から葬祭場へ移ったことです。葬儀場で葬式をするのは都会の狭い住宅事情からだと思っていました。しかしこんな田舎にもその波はどんどん押し寄せ、葬祭場を持たない田舎の葬儀屋さんは完全に大資本中心の近隣の街へ吸い込まれつつあるようです。私たち夫婦も90歳になる父親を在宅で看ていますが、今朝親父がそのことを口に出しました。というのも昨日は親父の義理の姉の13回忌と義理の兄の50回忌法要が営まれるため、親類に出かけたからです。母は6人兄弟の末っ子でしたから自分を除けると11人の義兄姉がいました。残念ながらその全てが亡くなって生き残っているのは親父だけなのです。人前をはばかるようになった親父なのですが「どうしても出席して欲しい」という従兄弟のたっての頼みで私が連れて出かけました。

 義兄は50年前不慮の交通事故で亡くなりました。10人の子どもを残しての死亡は余りにも早く、家族は深い悲しみに暮れながらも助け合い、家業である製材業でそれなりの成果を収めたようで、今も3代目がしっかりと会社を発展させています。あいさつに立った従兄弟はその辺の事情を涙の出るように切々と語りかけ、親父との思い出も語ってくれました。多分高齢を押しての出席に対する配慮からでしょうが、親父にとっては「いよいよ自分の番」と思ったようです。

(和尚さんの横にあるのがホウノ木の立派な卒塔婆、50年の法事にはこのような塔婆が使われるのだそうですが、さすが製材業です)

 帰ってから二人で隠居の居間に座って法要のことや自分の最後などを少し雑談しました。親父の願望は「この家の畳で死にたいし、死んだらこの家で通夜をしてこの家で葬式を出し、愛した海が見える場所に納骨して欲しい」のだそうです。双海町は海岸に面しているため殆どの墓地が海の見える小高い所にあります。わが家の墓地も家とともに移転しましたが、そのお墓からはシーサイド付近の海がよく見えます。昨日法要で訪れた親類の墓地も負けず劣らず海の見えるすこぶる眺望の良い高台にありました。

(下灘の港や海が一望できる墓地)

 昨日は天気も親父の体調も良く、親類の家の裏山にある墓地まで何と親父は誰の手も借らず驚くような速さで墓地まで登って親類の人はその健脚ぶりに驚いているようでした。多分義理とはいえ兄弟とお墓ながら会いたいという思いが身体を動かせたのだと思います。


 

 私が若かった頃若かった従兄弟たちも段々歳をとって白髪が目立ち、足や腰や身体に不調を訴える人が多く、座ったり立ったりさえ困難な人のために椅子が用意されていました。その従兄弟たちともすっかり縁も遠のいて、お目出度やお悔やみ以外会わなくなってきました。親父にとっては懐かしい顔々なのですが、顔と名前が中々一致しないようで、私が通訳を務めました。

 身近に進む自分を含めた老いは死さえも話題になる、そんな法要でした。

  「あれは誰? 親父が出会う 人毎に 通訳務め うんとうなずく」

  「五十年 過ぎて息子が 法要を 私の五十年 はて誰法要」

  「海見える 墓地に埋めてと 父言うが 死んで分るか 不思議でならぬ」

  「それぞれに それぞれ人生 生きている それぞれ進む 人生仕上げ」

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shin-1さんの日記

○人間牧場第4番目の施設完成

 着工以来10日ほどを費やしましたが、ついに人間牧場に水平線の家、ロケ風呂、ツリーハウスに続いて、第4番目の施設が完成しました。施設といってもそんなに大袈裟なものではなく単なる倉庫なのです。人間牧場も着工して一年半、完成して1年が経つと色々な道具類が増え続け、所狭しと置いていて美観を損なうため思い切って小さな倉庫のような小屋を建てることを決意しました。自分でやれば良いのですが残念ながら暇がなく結局はこれまでお世話になった大工さんに頼むことにしました。総工費42万円の資金調達に頭を悩ませていた折りしも、関奉仕財団からはからずも表彰を受けることとなり3月27日に栄えある授賞式に望みました。その折副将をいただいたので人間牧場の整備に当てようと決意した次第です。ところが出来上がって見ると僅か畳三畳ながらこれが中々こじんまりして倉庫に使うのは勿体なく、屋外の活動拠点にすることになり、急遽小さな小屋の側に小さなおだれ小屋を作る設計変更と相成ったのです。このおだれ小屋は今年90歳になる手先の器用な親父を棟梁にまつりあげ、親父の言うがままの安い材料を構えて、親父が家で作事し準備を進めていました。その準備資材をトラックで運びこの二日間で仕上げ他のです。

 左側半分が大工さんの作った注文小屋、その右側おだれ半分が親父と私の労作による倉庫となる小屋なのです。最初は楽勝と思われた手づくり小屋ですが、敷地造成を地元の土木業者にコンクリートを打設してもらったところ地上げのコンクリートが予想以上に多くなり2万の見積もりが5万円もかかってしまいました。また仕上がって入れる予定の耕運機の巾を計ったところ広さを確保できず柱を切って移動させなければならなくなるなどハプニングの連続でした。その都度親父の機敏な判断で乗り切り仕上げてきました。材料も出来るだけお金を使わない安上がりをモットーにしたためツギハギのような感じです。でも出来上がりは一体感があって中々のものです。

 昨日は親父の作った入口の扉の据付と中に棚を作る工事をしました。トントン、カンカン、釘を打つ快い音が山々にこだまし、午前中に取り付けを完了しました。これでロケ風呂下の倉庫や水平線の家に置いていた道具類は全て収納することができるのです。ただし息子が工事現場から貰ってきた薪にする端材はどうやら処分しなければならない運命になったようです。でもロケ風呂も灯油ボイラーを取り付けているのでどういうことはないのです。いっそのこと小さな倉庫の横にまきを収納する場所でも作ろうかと、早くも次の作戦に向けて構想中です。でも資金も底をついてしまいましたので、やるとしても自分で手づくり以外方法はなさそうです。

 この工事では、設計を担当した長男、ペンキを塗った次男と三男、資金を多少捻出した妻と親父を含め、全ての家族が人間牧場の建設に深くかかわったことになりました。おっと忘れるところでしたが長男の嫁も昨年の今頃、防虫ネットを夜なべをしてミシンをかけカヤに縫ってくれました。関わった家族の思いや、ツリーハウスを建設してくれた私が代表を務める21世紀えひめニューフロンティアグループの皆さんに感謝します。また囲炉裏の灰を砥部焼きの窯から調達してくれた稲葉さんにも感謝感謝です。

 人間牧場は建設途中なのでまだ落成式らしきことは何もしていません。多分まだ先のことでしょうが、さあ準備は次第に整いました。間もなくこれまた私が代表を務めている双海少年少女おもしろ教室では今年もサツマイモの作付けを予定しています。今年こそはイノシシの知恵に勝ちたいと意気込んでいるところです。

  「板戸付け 小さな小屋が 完成す 親父棟梁 腕は確かだ」

  「次々と 施設充実 目を丸く しながら見てる 地元人々」

  「金かけず ツギハギ板で 完成す 少し手づくり 俺も胸張る」

  「ハプニング ある度知恵が 片付ける 手仕事親父 経験違う」


 

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