shin-1さんの日記

○一本の角笛

 昨日出張先から帰ってみると、段ボール箱の宅配便が一個届いていました。送り主は群馬県大泉町議会事務局と書かれています。私の元へ爆弾など届くはずもないので、妻は私の帰りを待ってからと思い開けることもなく居間の隅に置かれていました。議長さんと副議長さんと3人で講演会終了後覗いたブラジル人相手のお店で購入した、見たこともないような食べ物が沢山入っていましたが、それらの土産品に混じって一本の角笛が入っていました。この角笛も私が講演で吹いたハーモニカを意識して、「若松さんハーモニカとホラを吹くのもいいが、大泉町の宣伝のためこの角笛も吹いて下さい」と村山俊明議長さんが、やはりブラジル人相手のお店で買ってくれたブラジルの民芸品なのです。

 妻が「これ何?」というように少し曲がった動物の角を加工した角笛のようです。私は水牛かなと思っていましたが、正体ははっきりしていません。私は夜10時を過ぎているというのに、ついつい嬉しくなってこの角笛を吹いてみました。議長さんから「角笛はトランペットの要領で吹くのです」と聞いていたので、唇を震わせて吹いてみましたが、まるで間の抜けた屁のようで、妻からは「ヘタだねえ」と笑われ、雑音として「明日にしたら」でけりでした。

 夜が開けるのを待って再度挑戦してみました。はい、何とか音が出るようになりました。要領はほら貝を吹くのと同じで、最初は唇全体で吹いても中々音が出ませんでしたが、口の横で吹くと簡単に音が出るようになりました。

 さてこの角笛の使い方ですが、適当な大きさではあるものの木になるカバンの中に入れて持ち運びすることは出来ないようなので、全国行脚では吹けそうにもありませんが、人間牧場でだったら活用可能ではないかと思います。人間牧場水平線の家のウッドデッキで海や大空に向かって勢いよく吹けば気持ちのいい音が山々にこだましていい気持ちになることでしょう。早速今週には人間牧場へ行けそうなのでテストしてみたいものです。村山議長さんがいうように「ハモニカもほらも吹くが角笛も吹く」というキャッチコピーが出来上がったようです。

 子どもの頃から英語や音楽を習っている日本人は何故か英会話や楽器の演奏に弱いです。私もギターやピアノが家にあるのに殆ど吹かずまるでインテリアのようです。勿体ないことです。ホラはもう何十年前から吹いていますが、数年前から始めたハーモニカは随分レパートリーも広がって、即興でリクエストに応えれる(ただし童謡やナツメロくらい)ようになりました。小さな持ち運びの出来る楽器のハーモニカですが、講演の巾を広げたような気がします。やはり日本人の心には体感音楽として昔聞いた歌の思い出が残っているのです。

 村山議長さんからいただいた角笛をせいぜい練習して大泉ラッパを全国からやって来るであろう皆さんに鳴らし続けたいと思っています。

  「ほらも吹く 角笛も吹く ハーモニカ 吹くもの増えて 汗を拭きつつ」

  「面白い パロディ分る 議長さん 角笛吹けと 宅配便にて」

  「もうコツを 全てマスター しましたよ 角笛高き 音を楽しむ」

  「大泉 群馬のどの辺 知らなんだ 今では俺の 親戚みたい」 

  


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shin-1さんの日記

○夕日が気になる

 夕日が日本一美しいと自認する双海町に住んでいながら、講演行脚を続けている私にとっては、その夕日を見ることが叶わないジレンマに悩まされています。今の時期だと日没の時間も1月1分、2月2分といわれるように毎日日没の時間が遅くなって、もう夕方7時頃でも天気のよい日は西明かりが見えるほど日が長くなってきました。多分今頃だと夕方5時半を有に過ぎる頃に夕日が沈むのです。でもその時間帯は殆どが車の中で、二日前も松山から帰り伊予市付近の車の中で真赤な太陽が海辺に沈むのを見ました。その度に「もう少し早く帰ればよかった」と残念がったり、「今頃双海町のシーサイド公園では若いカップルがこの夕日を楽しんでいるんだろうな」などと空想したりするのです。最近はデジタルカメラを車に積んでいるので旅先でもいいアングルの夕日にお目にかかるとシャッターを切るよう心がけていますが、車で移動中にはそれさえも叶わないのです。

 先日香川県高瀬町の商工会女性部に招かれて研修会に行きました。田んぼの中の立派な料理屋さんで開かれた新年会とセットの研修会には、県議会議員さんや地元三豊市議会議長さん、商工会長さんなどお歴々も集まり華やいだ雰囲気で、新年会の前の講演はまるで継ぎ足しのような感じがしましたが、それでも女性部の皆さんが沢山集まり熱心に耳を傾けてくれました。三豊市という合併によって誕生した新しい街では今春商工会も合併をするとかで、その話がもちきりのようでした。まあそんな話より私の目先は着飾りお化粧した綺麗な女性群の顔々にうっとりしながら「心豊かに生きる」と題し1時間以上も話したのです。

 カーナビで料理屋さんの場所を探し夕方6時からの会合だったので、冬のことゆえ少し早く到着して料理屋さんの駐車場あたりをうろうろしていると、庭の向こうに綺麗な夕日が落ちるのが見えました。このあたりの海も燧灘というのでしょうが、三豊市高瀬平野のその向こうに沈む夕日はやはり海に沈む双海町の夕日には適いませんが、それでも思わずパチリと写しました。

 少し高台の冬枯れの木立がその美しさを一層引き立たせているようでした。

 一方先日友人岡田さんの紹介で大阪の東尾メックという会社にお邪魔して講演をしました。岡田さんとはそんなに数は会っていないのに深いご縁をいただき、偶然大阪梅田駅近くの食堂でばったり会い、その折東尾メックへの講演依頼を受けたのです。岡田さんは東尾メックという会社のアドバイザーをしておられますが、この日は私のためにわざわざ同行してホテルまで迎えに来ていただいたり、近所の有名なお不動さんにお参りに連れて行ってもらったり、随分気配りの出来る方です。その旅の帰り、淡路島を走るバスの中から一宮辺りで綺麗な夕日を見ました。東尾メックの東尾社長や岡田さんとの出会いの余韻を感じながら見る夕日も味のある夕景でした。

 この夕日が沈む町はかつて交遊した所で、今は亡き島津三郎先生や、役場に勤める一貫田達也さんと議論したことも頭をよぎりました。夕日は時として悲しく過ぎし日や逝きし人、懐かしい人を思い出させることもあります。それでも私は燃え尽きて海の彼方に沈む夕日に明日への期待を込めて見送るのです。

  「訪れし 高瀬の町の 料理屋で 夕日眺めつ ふるさと思う」

  「この夕日 地球上では 俺一人 見てるだけかも 心ときめき」

  「淡路路を 走る車窓に 夕日落ち 亡き人思い 家路急ぎぬ」

  「また今日も 潜在夕日 コマが増え 人に聞かせる 話あれこれ」  

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○2007年四柱推命学の十二支

 暦の上では早くも12分の1が終り、いよいよ寒さも佳境の2月になりました。正月ならいざ知らず2月になって自分の今年の運勢は?なんて人は余りいないと思うのですが、一昨日飛行機の中で翼の王国という本を何気なく読んでいて今年の運勢を占う記事を見つけました。多分1月号最後の日なので「ご自由にお持ち帰りください」と表紙に抱えていることもあってスチュワーデスに了解を得て持ち帰りました。この雑誌にはかつて私の町の夕日や花が照会されたこともあったので親近感をもって見ています。

 さて今年の私の運勢は33ページ申の中身だしに山火噴(さんかひ)から始まっています。山火噴のひは口偏のない漢字ですが探すのが面倒でこの字を使っています。暦用語は中々難しく読めないものが沢山あることを書かれた方もご承知なのでしょう、あちらこちらにルビが打ってあって助かるのですが、パソコンでは中々出て来ないのが難点です。

 山頂に烽火をともせば、四方が煌々と輝く。徳を積み、善を行えば、衆人我に従う。名誉に関することはすべてよい。見栄を張らず、うまいもうけ話には十分注意をすること。芸術にたずさわっている人は、脚光を浴びる運。チャンスの到来と見てよい。1~2月、一度喜びがあれば、それは大財につながる。3~4月、昇進または、昇給の運がある。もしくは海外に出向くこととなる。挑むべし。5~6月、運が大きく開ける。南の方向が吉。家内に慶事がある。7~8月、家族への思いやりで運気が上がる。言動には気をつけて、9から10月、魚が大海を泳ぐがごとく、意気揚々としている。名を成し、實を得る。11月~12月、今は多くを望まないこと、平穏に暮らして吉。

 私は神社仏閣にお参りをしても、家の神棚や仏壇に向かっても、余りお祈りをすることはありません。「家族が今日も健康でありますように」程度なのです。他の人のように「宝くじに当たりますように」とか、「良縁に恵まれますように」とか、「合格しますように」とかお祈りをしなくても、何とか曲がりなりにも自分の力でやれてきました。成果は自分の努力なしでは成就しないと思った結果だし、その姿を神仏も応援してくれたのだと思うのです。

 私に比べ妻は神仏へのスタンスが違っていて、毎朝お茶やご飯、お光と線香を灯して神仏に祈るのが日課だし、神社仏閣では敬虔な祈りを捧げてお札を買い、おみくじを引きます。妻のこうした祈りのご加護が私を守ってくれたのだと思えば納得もいく話です。

 ちなみに妻は酉歳、申の下に並んで今年の運勢が記されていました。「西方に行けば吉がある。謹んで暮らせば吉などの記述は妻を喜ばせそうな運勢ですが、これも雷澤帰妹(らいたくきまい)という難しい言葉でくくっていました。

 運は自らの力で勝ち取るもの。そう思って無事に終わった1月に感謝し、あと11ヶ月を心して生きてゆきたいものです。

  「めぐり来る 出来事心 一つにて 成しえることを 肝に銘じて」

  「神仏を 俺は信じぬ いいながら 大吉引いて 悪い気もせず」

  「あれ程に 家族の安寧 祈る妻 せめて神仏 助けてあげて」

  「腰調子 大分よくなり 春を待つ 心ウキウキ 畑仕事に」 

  

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○一体何が起こったの?

 今日は朝から自治会長として広報を町内の組長さんに配ったり、来客も多く忙しい一日でした。近づきつつある県外へ出るための切符の手配やその対応もしなければならず、時間を割いて松山まで出かけました。旅行会社で切符を受け取り、愛媛大学に立ち寄って先生や事務局の方と談笑しての帰り道、ズボンの中にしまっている携帯電話の振動音が体に伝わってきました。普通は車を路側帯に止めて電話に出るのですが、2車線の車の流れの中にいて左側に寄ることができず、電話を取ったのです。友人の玉井さんからでした。何でも小学生の作文募集をある町がするからその審査員になってくれないかという用件でした。運転中なので後で電話・・・・・・・・」といった瞬間、「前の8158の車は左側に寄って止まって下さい」というのです。一瞬何が起こったのか分りませんでしたが、バックミラーで後ろを見ると何とパトカーではありませんか。驚いたのなんのって、私はてっきりスピード違反だと思ってメーターを見ましたが50キロ程度なのです。言われるまま道の左側に寄り停車しました。二人の警察官が降りてきて、パトカーの後部座席に乗るよう指示されました。警察官「運転しながら携帯電話をしてましたね」。私「はい、すみません」。警察官「どの程度通話していましたか」。私「はい余り長くは・・・」。警察官「そうですか。電話をしながら運転することは危ないですから道路交通法で禁止されていることをご存知ですか」。私「はい知っております」。警察官「運転しながら携帯をすると点数1点、罰金は6千円です」。私「そうですか」。警察官「ここに署名し右手の人差し指で押印してください。なの罰金は2月8日までに納付してください。危ないですから今後携帯は路側帯に止めてしてください。気をつけてお帰り下さい」。一件落着です。

 私は公務員を35年やっていましたが、警察官の「ご職業は」という質問に戸惑ってしまいました。経歴など聞かれもしないのに「昔は公務員をやっていましたが今は退職して・・・・・」などと、明らかに心の動揺が言葉になって出てきました。警察官「じゃあ無職ですね」。私「はいそうです」で終わりましたが、「ああ俺は現在無職なんだ」とも実感しました。現職だった頃にはこんな不始末をしたら自己申告していたでしょうに、とっさに警察官をしている息子と妻の顔が浮かびました。息子には常々「気をつけて運転するように」と厳しく言われていますし、妻もまた「お父さん運転はくれぐれも気をつけて下さい」と言われているのです。家計のやりくりをしている妻に6千円の反則切符を見せたらどういう反応を示すだろうとも思いました。

 少し重い気持ちになって帰宅しました。妻は仕事から帰っていませんでしたがそのうち帰宅、私「今日なあ、携帯電話していてパトカーに捕まった」。妻「えっ、まあそれぐらいで済んでよかった」。私はてっきりスピード違反か事故だと思って」。私「・・・・・・・」

 この小さな事件を私はブログに書くことをためらいました。しかし犯した過ちは素直に認めながらも二度とこんなことを起さないようにするため、自戒の念を込めて思い切って公表することにしたのです。自らに頭を下げることは辛いことですが、時あたかも暖冬一変、大陸から南下した寒波が日本中を冷蔵庫にしようとしているこの寒波もまた自分への戒めと感じずにはいられませんでした。ああ情けなや情けなや・・・・・・でした。明日は罰金6千円を郵便局へ行って支払うつもりでいます。

  「携帯を 運転しながら 掛けた馬鹿 お天道様は ちゃんと見ていた」

  「事故でなく よかった妻の 一言に おのが行い 反省しきり」

  「寒波風 余計冷たく 感じる日 反省だけなら 猿でも出来る」

  「未熟者 風がそういい 吹き抜ける 職質無職 答える私」


 

 

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○群馬県大泉町を訪ねて

 私たち四国に住んでいる人間にとって東京以北や以東は縁の遠い地域です。ゆえに群馬県や栃木県の地名を言われてもその地域の位置関係が中々つかめないのが実態です。ましてや平成の大合併で古い名前が消され、新しい市町村名が次々登場する昨今では、もうお手上げのような状態で行く先々をパソコンで検索して地図をプリントアウトしたり、鉄道の旅程表を検索しなければとんでもないハプニングを招くことになるのです。しかし「関東や北陸、東北は遠い地域」というイメージは新幹線の延伸によって完全に打ち破られていることも事実なのです。

 昨日まで私は群馬県大泉町の議会に招かれ講演に行って来ました。群馬県の大泉町議会事務局からメールが入っ時は、昨年群馬県玉村町へお邪魔していたため、その距離感や位置関係は直ぐに飲み込めましたが、「はて大泉町は?」と頭をひねりました。その後議会事務局の石井さんから資料の送付やメールによって一応の予備知識を得て出発しましたが、飛行機で羽田へ着きそこからモノレールや国電を乗り継いで東京駅まで行き、新幹線で熊谷次郎直実で有名な熊谷まで40分余り、その近さに驚きました。駅まで迎えにきていただき埼玉と群馬を分ける利根川を渡る少し走るともう大泉町なのです。

 大泉町は三洋電気と富士重工の二大産業をかかえ地方交付税不交付団体という、財政難に悩む市町村から見ると何とも羨ましい人口4万人余りの町でした。第一印象では条里正しい区画整理が行われきれいな町の印象を持ちましたが、町の中を見渡すと横文字の看板がやたらと目に付き、国際的な色のある町だという直感しました。

 道すがら石井さんの話によると、大川村と小泉町が昭和32年に合併して誕生したそうですが、かつては米軍キャンプがあり、返還とともに大手企業の誘致が決まり、昭和44年には大利根工業団地造成(凸版印刷、味の素)、昭和56年には飛行場跡地に富士重工業大泉工場の建設が始まり、工業の町としてゆるぎないいいを確立、バブル期の好景気時には県下第2位の工業製品出荷額を誇ったそうです。

 その一方で就労者の確保のため南米を中心とした外国人の流入が増加し、今日では全人口の16%、約7千人弱にまでなっているようです。そうした町内事情を反映して町のまつりにもサンバが登場し、新聞やテレビを賑わした時代もあったそうです。反面言葉・文化・習慣・環境の違いから多少の苦悩も見え隠れしているようでした。商店街では空き店舗がブラジル系になるなど、ポルトガル語併用の店もあるようです。

 合併問題では議会、行政、住民を含めて大きく揺れ動き、太田市を中心とした1市6丁の0万人都市か隣接3町(大泉町、巴楽町、千代田町)での8万2千人の都市か選択に迫られ、結局太田市は22万都市、大泉町は単独の道を選択したそうです。そして大泉町は今年町制施行50周年を迎え、観光協会の設立や各種記念イベントが予定されていて、いつになくまちづくりの機運が盛り上がっているようです。

 研修会は玉村町で開かれた議員研修で私の話を聞いた議会の主導で進められ、議員、係長以上の職員、区長、商工会などが会場いっぱいに集まっていて、私のつたない話にも熱心に耳を傾けてくれました。卒啄というのでしょうか、阿吽の呼吸というのでしょうか、私の話も聞き上手の参加者によって何時になく熱を帯びて最後はハーモニカまで吹いてしまいました。このハーモニカの音色を聞いた議長さんと副議長さんは会の終了後ブラジル人相手のショッピングセンターへ私を連れて行き、ブラジル産の角笛まで買っていただくおまけまで付きました。これぞ「ハーモニカも吹くがホラも吹くし、大泉の角笛も吹く」なんてコメントを他の町で吹聴したいと思っています(笑い)。それにしても町長さんも機を見て敏なりとでも申せましょうか、私のブログを事前に読んであいさつにその話を取り込んだりしてお話をされました。

 大泉町とはささやかなご縁です。でもささやかなご縁を大切にしながら支援者としてグラスの共磨きをしなければならないと思いました。道沿いには長さ4キロにわたって細長い樹木茂る公園が目に留まりました。また役場のある場所は日の出という地名なのも夕日にこだわる私としては不思議なご縁を感じました。大田のホテルに泊まって町長さん、議長さん、議会事務局長さんの顔を思い浮かべながら例によってハガキを3枚書き綴り、失礼とは思いましたが送っていただいた石井さんに託しました。

  「利根川に かかりし橋を 越え来れば 地球の裏から 目指す町あり」

  「小泉が 今では立派な 大泉 夢と知恵にて 更なる飛躍」

  「芋焼酎 下戸の俺には 猫小判 売り方次第 千両箱なる」

  「ブラジルに 乗っ取られそな 商店街 ここで奮起だ やるしかないぞ」 

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