shin-1さんの日記

○菜の花と夕日のコラボレーション

 昨日国立大洲青少年交流の家の仕事が終り、人と待ち合わせ肱川沿いの道を長浜まで下り、海岸国道378号に出ました。淡い期待があったのは絶好の好天なのでもしや綺麗な夕日と、菜の花のコラボレーションが見られるのではないかと思ったからです。時間は5時半を過ぎていました。はやる気持ちを押さえながら背中を押すように綺麗な夕空が広がって、真赤な夕日がバックミラーに映し出されていました。

 人間牧場の丁度真下の辺りで海岸に降り、西瀬戸に沈み行く綺麗な夕日を写真に収め、急ぎ早に国道を走って閏住の菜の花畑まで帰って来ました。やっとの思いで間に合い、妹の店であるくじらに車を止めてカメラを向けました。今まさに沈まんとする2007年2月11日の夕日がバッチリ写真に納まりました。

 ご覧下さい。真冬といいながら穏やかな瀬戸内海の水平線に沈む、紛れもなく日本一と自認する双海町の夕日なのです。

 もうあたりはすっかり薄暗くなっていましたが、残照に照らされた後の菜の花畑も、フラッシュをたいて写してみました。夕日と菜の花のコラボレーションとまではいかなかったものの、それでも早春の甘い香りを漂わせて菜の花は私に愛嬌を振りまいてくれました。

 今年はこの菜の花も閏住集落への入り口となるトンネル工事で右側が通行止めになっていて、少し物足りなさを感じていますが、それでも十分見応えのある風景です。

 昨日高知県馬路村の木下さんからメールが入り、NHKのニュース番組でこの菜の花とローカル線のマッチ箱のような列車が消火されていて懐かしかったそうです。

 今年は暖冬でもう既にあちらこちらから梅の開花や菜の花の花便りがあちこちから聞こえるようになりました。本来ならまだ2月の厳寒期なのに、やはり異常気象でしょうか気温はもう15度近くまで上がって、日中は車の中だと汗ばむほどの陽気です。まだこの陽気は長続きはしないものと思いますが、それでも私たち貧乏人にとっては温かいことはスト部の灯油も節約できて大助かりです。

 この陽気で大根に花が咲いては大変と、親父はせっせと大根の葉っぱを全部取って、殺風景な大根畑になってしまいました。今年はほうれん草が大豊作で、毎日毎日ほうれん草の料理が食卓に上っています。野菜の好きな私としては嬉しい出来事です。

 菜の花を見て菜の花泥棒のことを思い出しました。菜の花を作り始めた頃、菜の花の咲き始めた菜の花畑で菜の花の蕾が盗難に会いました。菜の花の蕾は塩で揉んで重石をすると立派な漬物に変身します。ゆえに時々心無い人が菜の花を摘んで帰るのです。ある時花いっぱいに取り組んで菜の花を大切に育てていたのに、菜の花の蕾が盗難に合いました。偶然にもその現場を見つけたおばちゃんは、「この菜の花はみんなで育てている花畑ですので取らないで下さい」と厳しくいったそうです。ところが咎められたその人は取った菜の花をその場に捨てて、車に乗る際、「くそばばあ」といって帰ったそうです。このおばさんはその興奮冷めやらぬ気持ちで私に電話をかけてきました。「くそばばあとは・・・・」と絶句しました。そして「どうしたら人に気持ちを傷つけずに菜の花を取らないようにできるか考えて欲しい」と懇願されました。

 私は早速私の汚い文字で「この菜の花ただ今消毒中につき漬物にはなりません」と書いて張り出したのです。途端に取られなくなりました。今はもうこの話はもう昔々の語り草ですが、当時は私のパロディー豊かなアイディアがかなり評判になったものです。

 夕日の持つ寂しくも全てを包み込む温かさと菜の花の春を待つ温かさは何処か共通しているようにも思います。この時期、菜の花と夕日のコラボレーションをどうぞお楽しみください。

  「菜の花を 摘んで一輪 卓上に これでも部屋に 春の息吹が」

  「残照に 照らされ咲きし 菜の花を 写真に収め ブログ配信」

  「手土産に 菜花を摘んで 上京す 都会住む人 土産三越」

  「風もなく 土手に咲く花 黄色にて 青い列車が 長閑に走る」



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shin-1さんの日記

○えひめ地域づくり研究会議20周年記念大会内子座で開催

 20年前といえば1987年、11月14日・15日の出来事をこんなにも鮮明に覚えているものだろうかと感心するくらい、内子座という芝居小屋に入った瞬間記憶が甦ってきました。何故にこんなに?と記憶を辿れば、その日11月15日はご存知坂本龍馬の誕生日であり命日なのです。私のような凡人でも志を持つ人間にとって歴史上の人物と言えども坂本龍馬の生き方には深い関心を持っています。奇しくもその日に産声を上げたのですから覚えていないはずはないのです。私はその日を期して「風おこしのちかい」なる短文を書きました。今は手元になく人間牧場に置いていますが、その発想の原点は紛れもなく大政奉還に影響を与えた坂本龍馬の船中八策に刺激されてのことだったのだろうと、その未熟さに苦笑するのです。あの日私は初代事務局長として壇上の隅で司会進行をしていましたが、祝辞を述べられた河内宏一町長さんが合併したとはいえ同じ内子町長として壇上に上がった奇遇も見逃すことは出来ないのです。

 この日内子座に訪れた人は述べ250人にも上りました。20年の時を越えて続いたえひめ地域づくり研究会議に集まった人は確かに私のように20歳年齢を加えたのかもしれません。しかしこのえひめ地域づくり研究会議が私を始め多くの町や村に地域づくりの輪を広げ、多くの人たちの心を育ててきたことは紛れもない事実だと思うのです。やはり内子座は私たちまちづくり人の原点なのだと思い感慨深いものがありました。

 内子盆地の気候は梅の花が咲き始めた暖冬といえども底冷えのする一日でした。上浮穴郡久万高原町の川瀬歌舞伎という愛媛県指定の無形文化財公演という願ってもない素材にも恵まれ、前人気は上々で、内子座の升席は満員の盛況でした。運営委員で歌舞伎の太夫を演じる渡辺浩二さんの芸域の広さと長年の精進は感動もので、改めて川瀬歌舞伎の伝承を目指す一座の凄さを垣間見ました。歌舞伎を一目見ようとファンが多く訪れたのも大きな収穫だったように思います。


 会議は流暢な近藤誠さんの司会で進行しましたが、開会式では森原直子さんの詩の朗読と、亀の首という奈落から開会あいさつをする私がハーモニカで童謡を吹き競り上がる奇抜なアイディアで幕を開けました。

 その後内子町の石畳地区や小田地区、五十崎地区のそれぞれの地域づくりに関する発表があり、法政大学名誉教授の田村明先生によるまちづくりと景観の記念講演が行われました。

 先生もかなりご高齢になって、最近は2年前の肺の病気で体調を崩されていたため、さすがにかつての迫力はありませんでしたが、軽妙な語り口は少しも衰えずいい話を聞けました。田村先生とはNIDOでの出会いや私の「昇る夕日でまちづくり」という自著本にメッセージを送っていただくなど最も親しい学者先生だけに何時までもお健やかにと祈るばかりです。


 今回の記念大会の座談会は私がコーディネーターを務め、大先輩岡田さん、フンクさん、田村先生の話を聞きました。県下各地で昨年行ったリレーフォーラムの報告を間に挟んだり短い時間に欲張った計画だったため、時間が足りず舌足らずの感はありましたが、それでも時間通りに終りまちづくり締めや全員で記念撮影をして集会を終わりました。終了後は県外組みも交え近くのホテルで夕食交流会を持ちましたがここでも懐かしい顔々に出会い、積もる話をいっぱいしました。


 二次会・三次会と続いたハードな交流は午前二時まで続き、宿泊したあくる朝、ホテルの一室から綺麗な朝日を拝みました。霧にけむる内子の町が印象的でした。その後運営委員会を開き内子を後にして国立大洲青少年交流の家で開かれている四国ユースフォーラムへ出席するため車を走らせ、忙しい一泊二日を締めくくりました。帰路えひめ地域政策研究センターでインターンとして働いている兼頭さんから携帯が入り、余韻を確かめながら家路へ・・・・・・・・。

  「二十年 あの頃みんな 若かった 今も私は 歳こそとれど」

  「内子座で 川瀬歌舞伎の 見事さに 思わずジンと 心しみ入る」

  「それぞれに 人生生きた 道を経て ここに集うか またそれぞれ」

  「あれほどに 飲んだ酒さえ 飲めなくて お茶で濁して 思い出語る」


 

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shin-1さんの日記

○やっぱり男の子だねえ

娘が入院して一ヶ月以上が経ちました。母親のいない暮しにもやっと慣れたのか、孫は相変わらず元気に過ごしています。この一ヶ月わが家はまるで孫を中心に暮しが組み立てられているような雰囲気になっています。朝の目覚めは私が一番早く4時過ぎに起き、ついで妻が6時に起きます。6時半になると孫が眠い目をこすりながら起きてきます。最近は私と妻の間に入って3人で川の字になって寝るのですが、起きると「おじいちゃんは?」と探します。それからはトイレや着替え、それに食事とまるで戦争のような賑やかさです。今朝は何を思ったのか「弁当が欲しい」と泣いてぐずるのです。幼稚園は給食なのですが弁当を持ってくる子もいて、母親のいない寂しさから言うのだろうと、妻がおにぎり弁当を作ってやりました。さっきまで泣きべそをかいていた孫は弁当ですっかりご機嫌となり鼻歌交じりで車に乗り込みました。8時に我が家を出ると松山の幼稚園へは9時前に到着します。幼稚園に届けた後は束の間の休憩時間が私に与えられるのですが、私は引き返して11時前に我が家へ帰ります。夕方は専門学校に通う看護士志望の次男が学校を終えて帰る時幼稚園に迎えに立ち寄りつれて帰るのですが、時には私や長男や妻が「朋樹プロジェクト」と称して交代しながら対応します。次男はもう直ぐ看護士の国家試験があるので、昨日などは日程が空いていたため私が迎えに行きました。帰り道孫が「お母さんに会いたい」というので、入院先の県立中央病院産婦人科まで連れて行ってやりました。孫は母親の入院先の階数まで覚えていてエレベーターに乗るとさっさと行き先ボタンの3を押すのです。産科は娘の職場でもあるので、顔なじみが多く孫も車椅子で病室からやって来る母親を待合面会室で嬉しそうに出迎え、嬉しい面談となるのです。その姿を見て、「孫には母親が一番」と思うのです。

 主に家での遊びも最近は「おじいちゃん、相撲をしよう」とか「怪獣ごっこうをしよう」とか、男の子らしく体を使った遊びを要求してきます。私もその都度応じるのですが、負けてやると喜ぶどころか「わざと負けた」というし、本当に勝つと「負けた」と悔しくて泣いたりします。また幼稚園で流行っているのでしょうか新聞折込のチラシを使って細長くして「剣」だといいながらチャンバラごっこをします。「北斗の剣」などという長い上の刀を作って腰に差し、格好よく振舞う姿はやはりテレビ漫画の影響なのでしょう。頭の鉢巻も紙製、刀も紙製ですから危険でもなく、腰のベルト用の穴に差して得意顔なのです。ご覧下さいこの得意そうな姿を。すっかりテレビのヒーローになりきっています。

 

 居間にカメラを置いていたものですから、カメラを持ってきて写すように要求されポーズをとりました。

 子どもは遊びを通して成長します。4歳にしてはハサミも上手に使え、新聞折り込みチラシを使った遊びは孫の最も得意な遊びなのでしょうが、そのためわが家の居間は孫が来る度に紙ごみの山になります。またその紙を張り合わせるためにセロテープはまたたく間になくなります。見かねた妻は百円均一ショップでセロテープを大量に仕込んで孫の工作に対応しているため問題はないのですが、幼稚園の担任の先生から「セロテープを使い過ぎて困る」と苦情が出るほどに使っているようです。

 孫朋樹のお助けプロジェクト事業は当分続きそうな雲行きですが、そうこう言いつつも味気ない大人の世界だったわが家に、明るい光が差してきた最大の功労者は孫なのです。でも男の子はやはり女の子と比べやることがざっくばらんですね。

  「チラシ紙 丸めて刀 作る孫 童心帰り ちゃんばらごっこ」

  「勝って泣き 負けて泣いてる 孫の顔 どちらも本心 いいねいいねと」

  「百円で 買ったテープも 孫の手で あっという間に ごみと一緒に」

  「母親と 離れて暮らす 寂しさを 紛らわしてる いじらし姿」

 

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shin-1さんの日記

○若いっていいねえ

 一昨日東京から帰って直ぐに高速道路を突っ走り、しまなみ海道の途中今治市大三島にある今治北高大三島分校へ出かけました。最近まで越智群島嶼部と言われていた愛媛県北部の島々へ行くのには船に乗らなければ行かれませんでしたが、今は橋がかかり便利な世の中になって、途中今治市内で一般国道を通らなければいけないのですが、それでも松山のインターから僅か1時間半で目的地たる大三島へ着くのですから有難いものです。しかしその有難さの代償として往復1万円という高い通行料金を払わなければならないのも事実です。まあこの料金を高いと思うか、便利だからやむを得ないと思えるかは本人の価値観なのでしょう。

 橋がかかって橋を通る度に感じるのはこの橋周辺の風光明媚さです。他島美を誇るこのルートは、物流ルートでないため交通量は少なく、特に夜になると極端に車の交通量が少ないようで、歩道兼用という他の橋にはない魅力も、開通当時の賑わいは何処へいったのか散閑としているようでした。やはり現代人は眺望を楽しむスローよりも、今回の私のようにスピードを求めているのでしょうか。

 橋の向こうはもう広島県尾道です。最近まで広島県の玄関口は瀬戸田町でしたが、合併してその名前は歴史の片隅に追いやられ尾道という知名度抜群の坂の街、映画の街の冠を被せられているのです。

 私の車は大三島インターで降り、かつて上浦町だった道の駅に着きました。上浦町へはまちづくりの仕事で随分通い、この道の駅の立ち上げにもアドバイスしたものです。開通時は面白いほど賑わい儲けたこの道の駅は多分どの道の駅よりも眺望はよいと思われたのですが、「眺望のよい条件場所は決して繁栄しない」という私の作ったジンクスが当たりそうな雰囲気でした。

 大三島という国宝の町も今はシーズンオフなのでしょうか、ここでも観光思惑の姿を垣間見る思いでした。

 私が訪ねた大三島分校はかつて大三島高校と呼ばれていましたが、ご多分に漏れず少子化と過疎化の影響をもろに受け分校という名前になってしまいました。昨年も2月7日、今年も同じ日に同じ集会を計画し、同じ私を講師に指名するのですから面白い学校です。しかも金融広報委員会の講師派遣制度をちゃっかり利用するしたたかさも持ち合わせているようです。



 さて、今時の高校生に私のような歳の差40余りのロートルがないを話せばいいのでしょうか。普通は詰め込んだ知識を切り売りすればいいのでしょうが、私は生き様とでも言うべき体験や夢を今回も昨年と同じように話しました。高校生たちは都会の高校生とは違って純朴で時折相槌の笑いを誘いながら1時間ほど話しました。礼儀正しく、そして熱心に聴いてくれた態度に共感を持ちました。生徒の中にはかつてまちづくりセンターに出向していた市役所職員藤原元久さんの娘さんもいると聞いてびっくりしたりもしましたが、「若松さん、来年も2月7日に是非来てください」と来年の予約まで聞かれてしまいました。嬉しい反応です。担当の藤岡周平先生は柳谷出身で、私の町の奥村先生が恩師だと雑談の中で聞いて、縁の不思議を感じました。

 今春卒業予定の生徒たちはもう卒業式まで休業中で、時折こうして学校に通い社会へ飛び立つための羽根繕いをしている直なのです。「若いっていいねえ」とほのぼのした若いエネルギーを逆に注入されてしまなみ海道を帰って来ました。

  「卒業を 間近に控えた 若者に 生きる意味説く 夢ある話」

  「私にも こんな時代が あったっけ えひめ丸にて 遠洋航海」

  「熱心に 私の話に 耳を立て 嬉しじゃないか 有難うだって」

  「いい先生 ありていい子が 育つのだ そんな納得 島の分校」

 

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shin-1さんの日記

○ああ群馬県上野村・ルポ③

 上野村を今井さん、田村さんの案内で一巡してからその日の講演会に望みました。こじんまりした役場を訪ねると松元村長さんや佐藤企画財政課長さんに温かく出迎えていただきました。講演会場は役場の2階でした。夜7時からなのですが会場は100人弱の人々で満員だし、何よりも嬉しかったのは村の7時のチャイムが鳴ると時間通りに集会が始まりました。時間が守れて人が沢山集まってあいさつが出来る、何気ないことですが当たり前のことがきちんとできるこの村は素晴らしいことです。失礼ですが僅か1500人の村で、しかも夜の集会に100人は凄いことなのです。なおこの講演会の模様はうえのテレビで収録されいつか分りませんが放映されるそうです。

 私の話は私がこれまでやって来た夕日を地域資源にしたまちづくりについて約2時間熱を入れて話しました。だのに寝る人などひとりもなく笑いの中であっという間に終わった感じでした。かつて玉村町で私の話を聞いたという議員さんは一番前の席に陣取り、熱心にメモを取る姿も見られました。私の話に感動したとあくる朝、黒澤議員さんがわざわざ宿舎を訪ね名刺交換するほのぼのもありましたし、わが家へ帰ってみると既に私宛のメールも何件か入っていて、少しホッとした感じです。

 明くる日は公社職員と役場職員20人ほどを対象に「観光を目的とした地域づくりにおける行政と第三セクターの役割」について講義と座談会を午前中やりました。昨晩の講演を受けての話なので、参加した方々からは専門家らしい質問も出されましたが、私の話は概ね次のような話をしました。

  観光を目的とした地域づくりにおける行政と第三セクターの役割

      行政の役割           

 ①条件整備(施設・設備)    

 ②指導者の養成のための研修   

 ③指導助言               

 ④観光的時代の流れを読む     

 ⑤意識と行動調査(人・もの・情報) 

 ⑥情報の受信と発信          

 ⑦ネットワーク機能の構築      ?

 ⑧財政計画               

 ⑨未来予測(シュミレーション)   

 ⑩トータルバランス           

 

    第三セクターの役割

 ①運営スタッフのレベルアップ

 ②運営・経営計画の作成と実施・見直し

 ③スキル(やる気・技術)のステップアップ

 ④観光的物語をつくる

 ⑤情報戦略(インターネット活用やPR活動など)

 ⑥商品啓発と販売戦略

 ⑦情報公開と説明責任(役割感・村民への理解)

 ⑧ラインとサークルの確認(命令系統・経営系統・税系統)

 ⑨イベントの企画・計画実施・反省評価

 ⑩施設保全とリニュアール計画


 特に気になったことは次の三つです。

1、上野村には公共が多過ぎる。

 上野村の施設の殆どは対外的な観光施設が他の市町村に比べ飛び切り多いように思います。今はまだそれらの公共施設が立派なので問題はないと思われますが、やがてこれらのハードは出来たときが100でも限りなく0を目指すのです。例えばやまびこ荘の温泉施設のポンプ改修工事が7千万で検討されていると聞きました。それだけの資金調達は多分村の一般会計でまかなわなければ公社では不可能だと思われます。今後各施設が老朽化した時のことを考えておかなければなりません。

 外向きの公共施設に比べ図書館や公民館といった村民の文化や福祉施設が遅れていることも気になります。問題はこれらの施設を不の遺産としないための方策が必要だと思うのです。

 観光で得た収入と支出のバランスシートを考えなければ赤字や破産といった運命を辿ります。公社職員には臨時職員も多いようで、悪しき弊害である役場的な親方日の丸では生き残って行けないのではと感じました。経営は必要経費と人件費が大きなウエートを占めています。人件費削減は経営健全化のポイントなのです。過言かもしれませんがもうそろそろ公共から民への移管や使命を終えたものを整理して自立の道を模索した方がよいように思います。

2、公社の生き残る道

 観光にとって大切なことはいかに物語を作って人を呼び込むかというこれまでの手法と同時に、来ない人に観光資源をどのように売り込むか知恵が必要だと思うのです。これまで上野村では十石味噌などかなり沢山の商品を開発していますし、木工品などの素晴らしい商品もできています。これらの商品は村に観光に来た人にだけ売るのでは最早限界があるようです。そこでインターネットを使って注文販売することをさらに研究して進めるべきでしょう。十国味噌は今井さんたちの努力で味噌作りツアーとしてリピーターも出来るなど成長しつつあります。こうした味噌作りツアーに地元のおばちゃんたちが持っている食文化をくっつけ、村民を巻き込んでゆけば、更なる発展が期待できるようです。村民の暮しから生まれた文化をレシピや指導者として活用すれば、これまで地域づくりには疎遠だった教育委員会の機能が村づくりに生かされるのです。そして年に一度味噌祭りでグランプリを競うような巻き込みも可能になるでしょう。

 私は今回ウッディー上野村で斧折という木で作った箸を買い求めました。その箸には「風光明媚な深山に育つ木は数々あれどこの木の堅さは日本一、斧が折れるほど堅いことから斧折れ・・・・の名の由来となっています。心身の健康はあなたの食卓から」と袋に書かれていました。もう一つ買い求めたのは箸箱です。2点セットなのですが私はこのマイ箸をカバンに入れて全国行脚をすることを決めました。そして割り箸が森林資源を失わせている環境問題を上野発の運動として起こしたいと考えています。森林組合長さんが私の木になるカバンを見て、作ってみようといわれたのも、上野村だからこそ出来ることなのかも知れません。要は実践でしょう。

3、御巣鷹山のイメージ

 上野村と聞けば御巣鷹山の日航ジャンボ機の墜落事故といわれるほどに日本中の皆さんは上野村のことを知っています。しかしそのことが強烈なイメージとなり過ぎて、それ以外の上野村は殆ど知らされていないように思われます。麓に出来ている慰霊碑も素晴らしいし、この悲しい物語を村民の温かい心で守り伝えていることも伝えたいものです。またダムの村や温泉の村など見所訪ね所、食べ所満載のイメージをもっともっと売り出さなければなりません。悲しくも亡くなった坂本九ちゃんの「上を向いて歩こう」なんて歌も上野村にはピッタリだし、道の駅は「ああ上野駅」で売り出すこともできるかも知れません。


  「斧折れの 堅い木削り 作り箸 今日から俺は マイ箸運動」

  「上野言や 井沢八郎 思い出す そんな時代を 生きてきた俺」

  「九ちゃんが 眠る上野の 慰霊碑に 両手合わせて しみじみ思う」

  「春来れば 上野の桜 咲いてるだろか 思い出させる 村を訪ねて」


           

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shin-1さんの日記

○ああ群馬県上野村・ルポ②

 上野村の村内を見て回ると雑木林の多さに改めて驚かされます。日本の山村が何処へ行っても戦後行われた杉と桧の人工林植栽なのにこの村は明らかに違っています。それが人為的なものであるとした素晴らしいことなのですが、漏れ聞けば急峻な地形ゆえに過ぎや桧の美林が育たない痩せた土地だったようです。結果的には植林が遅れたことが一周遅れのトップランナーになったのですから世の中は分らないものです。私はこの落葉樹の多い上野村の素晴らしさを肌で実感しました。今は寒い農閑期なのでしょうか、あちこちの谷あいで家族や夫婦で落ち葉集めをしている人に出会いました。多分集めた落ち葉は腐葉土にして農業に生かすのでしょうが、これぞ環境に優しい自然サイクル農業だと直感しました。またこの落ち葉は自然のろ過装置となって美味しい水を供給していることも間違いありません。腐葉土が育む農作物や水を付加価値にしたらこれこそ都会の人があこがれる特産品となることでしょう。

 そこで提案したのが「もうひとつ上の(野)村を目指して」というキャッチフレーズです。講演中インスピレーションでとっさに出た私のアイデアですが、これはいけると思います。特産品を売ることも大事ですが、村を売ることが出来る村なのです。そのためには村をデザインすることをはじめなければなりません。村のデザインは村という響きや落葉樹生い茂るこの村なら可能なのです。

デザインをする人を見つけ、デザインをする人を村に住まわせ、そのデザインが村をまるごと情報発信装置になる考えるのです。

これまでの20世紀は私たち田舎者が都会に憧れる時代でした。そしてみんなが向都離村の教育をやった結果村は過疎になりました。しかし今は違います。21世紀はヒズミとねじれに満ちた都会の人が田舎に憧れる時代になりつつあります。そんな憧れの条件が上野村にはあると確信しました。

 

 そのためには、沢山作っている公共施設をもう一度見直し、点を線で結び線を面にする作業が必要です。上野村の視線はどうも虫の目になっていて、鳥の目にはなっていないように思います。経営や職員配置やプログラム全てがチグハグなような気がします。このままでは誰が指示を出し、誰が説明責任を取るのか明確でないような気がするのです。これからはそれぞれの施設と村全体がラインとサークルで結ばれるようにしなければ、それぞれも村も自立という最終目標は達成できないばかりか、負の遺産として村民に大きなツケが回って来るのです。

 途中立ち寄った場所で面白いものを見つけました。遊びの工房ともいうべき施設に入ってみるとそこはもうまるで宝の山のように、どんぐりや松ぼっくり、しいの実、とちの実など、自然の恵みが集められており、都会人の心をくすぐるような遊びの空間がありました。多分ここでは職員さんの感性で様々な遊びのプログラムが用意されているのでしょう。一見山里では何処にでも落ちているガラクタなのでしょうがあるものを生かすという点では都会にはないものですからお宝だと思うのです。職員さんは人が来なくても春にはお客さんが来てくれることを信じてせっせと充電しているのです。この発想は大事にしたいものです。

 無住と聞いた天台宗のお寺の境内にも見事な群馬県指定の天然記念物「しだれ桜」がありました。村のあちこちには枝ぶり豊かなしだれ桜が何本も目に付きました。やはり春を待つ気持ちで見ると千金に値する桜です。この桜を見るツアーを観光商品として売り出したいものです。

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shin-1さんの日記

○ああ群馬県上野村・ルポ①

 日本観光協会から依頼を受けて群馬県上野村へ出かけました。飛行機と列車を乗り継いで経由地の高崎駅まで行きました。最近は玉村町、大泉町と相次いで群馬県の町や村をを訪れているため、車窓に移り行く景色も何処となく懐かしく、そこここで知り合った方々の名前や顔を思い出しながらの講演旅行です。何年か前に訪れたことのある高崎の街は活気ある街に変身しているように感じつつ、駅まで公用車で出迎えてくれた上野村の職員さんとさらに先にある山間の村を目指して、ひたすら走り続けました。

 上野村といえば日航ジャンボ機が墜落し520人もの方々が亡くなって一躍その名を知らしめた村です。故にその名前はもう20数年も前の出来事なのに、その日が来る度に新聞紙上に鎮魂の祈りがニュースとして流れるため、日本中の人が知っている有名な村なのです。更にこの村を有名にしたのは10期40年も村長としてこの村をリードし続け、全国町村会会長を務めた名物村長黒澤丈夫さんの存在でした。何度かテレビで拝見しましたが今は引退し悠々自適の生活をされていてやに伺いました。

 今回私に与えられた仕事は村の「観光の活性化」なのですが、二人の案内で村内を一巡しながら、あらためて村長さんの偉大な功績とでもいうべき公共施設の多さに目を見張りました。二つの国民宿舎をはじめロッジ風の宿泊施設から、長い長い吊橋まで、十指に余る公共施設が村のいたるところに作られているのです。聞けばそれらの運営は村直営と公営企業とでもいうべき第三セクターの公社が行っているようでしたが、残念なことに経営は苦しく四苦八苦の状態のようでした。

 長野県南牧村と同じ名前なのですがなんぽくむらと読む南牧村を過ぎ、3.3キロという長い湯の沢トンネルを抜けると、暖冬のこの頃といえども早朝は氷点下5度まで下がるような急峻な地形の上野村へ着きます。まだ厳冬期のため道端の日陰には残雪が凍り付いていましたし、遠望はクヌギやナラなどの落葉樹が葉を落して素晴らしい冬景色を演出していました。

 

 軍目県で最初に作られたという道の駅の前にある村営の食堂で十石そばを食べましたが。村自慢の木地食器で出てきた郷土料理のそばと舞茸などのキノコはてんこ盛りで美味しく、遅い昼飯の空腹を十分に満たしてくれました。特に食事後に出たそば湯は今まで飲んだどのそば湯よりも濃厚で、存分に堪能しました。道の駅も側にあるクラフトの店も季節柄来客まばらといった感じがしましたが、道の駅の要所には小奇麗な看板が立っていて、店の家内は砂糖と塩で味付けされた村おこしのための特産品の数々が地酒とともに所狭しと並べられていました。特にここの特産品といわれる十石みそに関する商品も数多く目に付きました。

 この二人が私を案内してくれた今井さんと田村さんです。今井さんはこれまで5年間企画財政課で観光を担当し、最近教育委員会へ出向して生涯学習を担当し、田村さんはUターンして帰郷し今井さんの後を引き継ぐべく勉強している若者です。いずれも好青年で思いが伝わってきましたが、観光という荷の思い仕事を発展させるためには今井さんの力も必要だし、田村さんの学びも必要であると痛感し、送迎に要した往復3時間余りの道すがら個人レッスンのような形で観光のノウハウを語ってあげました。

 幸いなことに彼ら二人は観光にとって何よりも優先するやる気や、田村君のように最近まで村を離れて村を外から見ている視点や、転職を気に東南アジアを約1ヶ月間見て回っている学びは、上野村の観光にとって多いに役立ちそうです。

 

 

 この村には洋風と和風の国民宿舎が2軒ありますが、洋風の洒落た国民宿舎には薪ストーブ風暖炉もあったりして川べりのお洒落な雰囲気は都会派の若い人に人気がありそうだし、山間の私が泊まったやまびこ荘は家族連れにぴったりの落ち着いた雰囲気でした。支配人は村外から来られて経営に当たっているようでしたが、掃除も行き届きお客への気配りは満点のようでした。

 急峻な坂を登ると10棟のロッジや管理棟がありました。数日前に降った雪でしょうか、まだ道端に溶けずに残っていましたが、夏休みには賑わうことでしょうが、その向こうに年間3万人が通行する長い吊橋や群馬位一を誇る鍾乳洞があって、それぞれ管理の人がシーズンオフって感じでのんびりと作業をしていました。やはり観光にとって冬場の対策は集客のため相当の知恵が必要だと痛感しました。


 その知恵の一つが鍾乳洞の入り口にひっそりと咲いていたロウバイの花です。

 こんな寒い山中に黄色い花をいっぱいつけて見事に咲いていました。また側にはミツマタの木も間もなくの大きな蕾をつけていました。近くには桜の木を植樹したかなり広い場所がありましたが、今井さんの話だと桜の木は高冷地のため中々根付かず、また鹿の食害にも会うそうです。桜は日本の国花といわれるように日本中いたるところに植えられ桜前線とともに北上して一斉に咲きます。それはそれとして咲いた時は枯れ木に花が咲くようで美しいのですが、逆にありふれて目立たないのです。上野村に咲くという野生の福寿草と組み合わせてロウバイやミツマタで季節の話題を作れば冬必ず人がやって来ますし、石楠花もあちこちに見られるようなので、花暦をしっかりと作れば秋の紅葉や冬の木立など話題には事欠かないと思いました。

  「トンネルの 長さ三. 三キロを 燦々呼ぶか それとも散々」

  「村中に 村長息を 吹きかけて 十指に余る よくぞ作った」

  「冬は来ぬ みんなあきらめ 冬眠す これでは観光 春に間に合わん」

  「休むのか 充電するのか 大違い 相手の目を見りゃ お休みモード」


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shin-1さんの日記

○群馬県大泉町長さんから2枚のハガキが届く

 「この人、ただ者ではないな」と直感したのは招かれた集会の席上、私のブログを見た感想をあいさつに微妙に折り込みながらあいさつされたことでした。私も色々な町や村にお邪魔して首長と称する人の話しを聞いてきましたが、普通は通り一遍等の話で終わるものです。それは無理からぬことで、毎日川の流れの如き集会をこなしてゆくためにはそうしないと、身が持たないのです。ゆえに事務局の書いたあいさつ文や資料を元にあいさつするのです。勿論私も役場に35年も勤めているとそのくらいなことは常識として分っているつもりですが、いざそんな一流の話をあいさつでされると、これはもう感激なのです。

 かつて近畿地方のある市の集会に招かれて出かけたことがあります。出席した市長さんは月並みなあいさつをされて私のはなしになると会場を出てゆかれました。やがて私の話しが終わる5分前に会場へ帰ってきて閉会のあいさつで「今日の若松さんの話には感激しました」というのです。聞いてもいないのによく言うよと思いましたが、何となく後味の悪い気持ちで帰ったことを簿得ています。

 そこへ行くと大泉町の町長さんは別格で最後まで私の話を聞き、夜の集会にも参加してもらいました。わたしはそんな町長さんや議長さんのいる町なので、宿舎に帰って顔を思い出しながらハガキをしたため送ってもらった議会事務局の方にハガキを手渡ししていただくよう依頼し、群馬県を後にしました。帰ってからも職員からメールが届くやら宅配便が届くやらで、もう何十年も交流がある町だと思うほどの深まりなのです。

 そして嬉しいことに大泉町長とは書かず、「長谷川洋」とだけ書かれた大泉町の絵葉書が何と2通も立て続けに届きました。何という身の軽さでしょうか。私は敬服しました。

 表書きと内容は公表できませんが、みんなに見せたい心境なのです。

 今日本中には合併によって1802の市町村があるといわれています。その市町村全てに首長さんや議会議員さんがいるわけですが、とりわけ首長さんの資質はその町の方向性を示す道しるべ人であり、水先案内人として重要な役割を担っています。公約の立派なのを掲げるのも、上との太いパイプを持つことも大いに結構なのですが、行政、つまり政治を行う、つまり日々の行政に全力投球することは意外とおろそかになりがちです。いい行政をして町民を幸せにしてもらいたいものです。「拝啓長谷川洋様、あなたに100点を送ります」。

 何のご縁か分りませんが、明日は同じ群馬県上野村へ出かけます。

  「あいさつを 聞いただけでも 首長の 資質分るよ ハガキなおさら」

  「白黒の 版画ハガキを 見るにつけ いい町ですね 大泉というまち」

  「送られし 角笛吹いて 音を出す 完璧なほど ラッパ吹けます」

  「遠い町 近くに感じる 人の恩 恩を返えさば 義理が立たぬわ」


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shin-1さんの日記

○間抜けな宛名のないハガキ投函

 「お父さん、あなたの出したハガキに宛名の書いてないのがあるそうよ。郵便局が預かっているそうよ」と、旅先へ妻からあきれた声の電話がかかってきました。「えっ、そんなハガキ出したかな?」と自分でも不思議がりましたが、昨日は郵便局も休みなのでどうしようかと思案して郵便局の前を通り過ぎようとすると、運良く休日出勤の顔見知りの局長さんに出会い、恥ずかしながらそのハガキを戻してもらいました。毎日3枚のハガキを書いては投函する私ですが、どうも3日前に書いた中に裏書をし終わった所にあいにくの来客で、表書きをしないまま他の2枚に紛れ込んで出したようなのです。受け取った行く当てのないハガキは「私は何処へ行けばいいのでしょうか?」といわんばかりに、郵便局で寂しく3日間も保管されていたようです。

 実はこのハガキ、息子に教えてもらって初めて官製ハガキに人間牧場のロケ風呂に次男と孫が一緒に入る風景をプリントしたものなのです。仲間から手づくりの印刷ハガキが来る度に羨ましくも、そんなハガキを作ってみたいと思っていた矢先だったので、練習のつもりで使わなかった50円のかもメール官製ハガキにプリントアウトしたものでした。結果的には寒中見舞いに暑中見舞い用のハガキを使うことになったのですが、年中年賀状の当選しなかったハガキをくれる変わった友人もいることだし、まあブラックジョークのつもりでと書いたのでした。

?

 しかし、いくらなんでもこの寒中に入浴シートはと思いましたが、まあいいかと妥協してこの写真をプリントアウトした寒中見舞いとなってしまいました。

 さて迷えるこのハガキのお相手は誰でしょう。はい、先日八幡浜ソロプチミストの卓話でお邪魔した時に参加した方からのお便りへの返礼なのです。ご主人が県PTAの会長さんをされているとかで、ご主人に私の住所を聞いてハガキを書いてくれました。そんな心温まるハガキなのに、失礼なことをしたものだと既に消印を押されている上に50円の切手を貼って今日投函することにしています。迷えるハガキが明日には届くと思いますがブログの画面を借りてお詫びいたします。

 ハガキの効用をいい続けて二十年になろうとしています。100人に話しても1人くらいしかハガキは来ないものですから、1パーセント理論を説いている私としては余りあてにも期待もしていません。でもそんな中でも私にちゃんとハガキを書いてくれる人もいるのですから1パーセントの人をこれからも大事にしたいものです。

 それにしても田舎の郵便局はいいですね。宛名のない迷えるハガキには私の名前など何処にも書いていません。でも担当者はちゃんと私のハガキだと気がついて、わざわ親切にも取っておいてくれました。普通だと送り先も送り主も分らないハガキはごみとして処分されるでしょうし、そうされても仕方がないことなのです。地元郵便局の皆さんに感謝しています。

  「あて先を 書かず戻りし はがき見て 間抜けな人よ 何だ私だ」

  「寒中に 暑中見舞い用 ハガキ出す 貰った人は 寒さ倍増」

  「結局は 高いハガキに なりました それでもやはり 切手貼り出す」

  「このハガキ 貰った人の 顔浮かべ 大きなポスト ポトンと音して」 

 

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shin-1さんの日記

○地域づくり人養成講座

 えひめ地域政策研究センターでは、次代を担う地域づくりリーダーを養成するため講座を開いていますが、昨日その成果発表会と終了式が行われ、助言と総括の講演に出かけました。名前こそ違え毎年行われている講座ですが、今年の参加者は特徴のある人が多く、発表も中々味があって面白いものでした。そもそもこんな講座を開く場合の大前提は、主催する側の担当者がどんなイマジン(人間性)とスキル(やる気や技術)を持ち合わせているかです。今回の講座を担当した清水研究員はJAからの出向職員なのですが、彼の思い入れそのままにまちづくりと経済の融合をちらつかせる発表も結構ありましたし、まちづくり理論を既に実践に結びつけている人もいて頼もしい限りでした。普通まちづくりはまるで絵に書いたような理想論に走り、経済や実践へのアプローチが出来ないことが多いのですが、清水研究員の個々に対するアフターケアーが行き届いていていい雰囲気で終わりました。

 そんな中で事前に送ってもらったレポートを読んで、強いてあげれば私は次の数人の話に関心を寄せていました。

 一人は四国中央市から参加した深川正延さんです。彼は農業を生業としていますが、人間力のしっかりした人物で、食に対する造詣も深い実践家ですが、地域のスキルアップにジレンマを感じているようでした。

 保内町から参加の佐々木勝久さん(77歳)は残念ながらご病気で清水さんがレポートを代読されましたが、自分の年表を書かれ、旧家の保存活用に頭を痛めているようでした。

 大洲市肱川から参加の冨永清光さんは、ダム水没地域の地域活性化と神楽の保存について過疎と高齢化、少子化が同時に進行する山間地の活性化についてこれまた頭を悩ませているようでした。

 我孫子尚正さんはNPOまちづくりプロダクションの設立という新しいテーマの夢を具体的に提案しまちづくりと経済の融合を目指しているようでした。

 越智保緒さんは建築家で建築の創られ方について、自分の設計した建物を示しながらまちづくりと街づくりの在り方を研究しているようでした。

 自分の思いを文章に書くことはパソコンが幾ら普及しても書くと打つの違いだけで難しいものです。ましてや与えられた10分という時間内にそれを人前で発表することはもっと難しく、更に書いたことを発表し喋り、実践に移すことはもっともっと難しいものです。ましてやそのことが人々の感動を得るようになるには、それ相当の年月も必要でしょう。

 私はセンターの丹羽部長さんと二人でこれらの文章や発表に対してショートコメントを送りました。適切なコメントであったかどうかは分りませんが、文章を読み、発表を聞いたそれぞれの人に、これからも求められればアドバイスをしながらともに地域づくりを広げてゆきたいと思っています。

 イマジン(人間力)を縦軸↑にするなら、スキル(やる気・技術力)は横軸→、縦軸↑と横軸→の真ん中に結ばれる点に遠心力を加えて大きな力にして広げて欲しいと願っています。なおそれぞれの上記赤字の悩みについては、順次ブログで解き明かしてみたいと思っています。

  「十分(じっぷん)に 人それぞれの 想い込め 発表冷や汗 忘れないでね」

  「ああ俺も あんな時代が あったっけ 初しさ残る 若き人見て」

  「倖田いう 女性タレント 追っかける 近くの部屋で 地域語りぬ」

  「人は何 何処を目指して 生きるのか 人間模様の 数は果てなく」 




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